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第一〇三話 「男だったら意地を通せ/其の三」

 横須賀の冷たい波間に映る月と星々の光が瞬きを一層煌びやかにする。師走の乾燥した空気による光の透過には遮りが少なく、岸壁にゆっくりとぶつかって飛沫と供に四散していく間際にあっても波間越しのその輝きは失せない。まるで雪の様に粉状になった青白い光が岸壁の辺りにほのかな明るさを与え、闇夜の中に映る景色に悲しげながらもどこか幻想的な雰囲気を有無を言わさず纏わせていく。


 ただ、それは岸壁の一角の上にてお互いのつま先の前に軍帽を一つ置いた状態で細めた瞳を向け合っている(ただし)小林(こばやし)においては例外だった。




『・・・。』

『・・・。』


『ど、どうしたんですか、トシさん・・・?』


 月光と星空とそれを反射する波間が照らすのは、酒の場とは言え喧嘩沙汰での一悶着を起した相手である。そこには悲しいとか幻想的といった雰囲気は無く、半ば当然のように険悪な空気が立ち込め、小林の背にてその空気に驚く芸者の女性が困ったような声を上げる。

 恐らく先刻までは小林と供にお座敷にて楽しくお酒を飲み、軍艦の中では蓄音機でも無ければ絶対に聞く事の出来ない女性特有の流麗で甲高い声に、普段の鬱憤と息抜きを笑顔で行っていたのであろう。帝国海軍の士官は兵下士官のようなその辺の遊郭に出入りする真似は公然の禁忌とされ、横須賀や佐世保等といった海軍の街によく在る「海軍ご用達として一流のお店」と誰もが認めるお店でないと入る事はできない。逆に芸者さんやお座敷を抱える所はそうやって帝国海軍によって日々の糧を稼ぎ、女性に飢えがちな帝国海軍軍人を常連客とする「海軍芸者」という者達も存在する。

 故に小林の後ろで視線を泳がせている女性はそんな「海軍芸者」の一人にして、多数の海軍軍人と日常的に接する機会があるにも関わらず小林の事を名前で呼んだ事から、きっと小林とは深い付き合いをしている女性なのだろうと忠は察した。


 もっともそんな事で忠は小林のこれまで続いていた楽しい時間を戻すべく、そそくさと軍帽を拾って逃げるようにこの場を退散する気なぞはちっとも起きなかった。目の前にいる20代前半の顔立ちが同じなら兵学校も同じ66期という小林だが、忠にとって彼は大事な大事な相方を「悪い女」と蔑んだ憎悪の対象。酒の場で口が軽くなった事もあるし、小林とて忠を元気づけようとそんな言葉を掛けてくれたのは忠にも解っていたが、実際にそう言い切った彼を「知らないから」という理由で許すつもりは、この時に至っても忠には露ほども無かった。


『・・・はん。』


 そしてどうやらそれは小林にあっても同じらしい。楽しい芸者さん達、同期達との酒の場でいきなり殴りかかられたのが彼の認識であるのだから無理も無く、僅かに拳を作りつつ身構えて小林は忠を睨みつける。キラキラと美しい波間が反射する星空にも小林は細めた瞳を微動だにせず、一瞬の隙も見せない気迫を漲らせながら、眼前の忠との間に先程から流れていた沈黙の時間を破った。


『・・・なんや、ワレ。軍帽なんか投げつけて、ろくに女も作れんのにイジけて海軍辞めるんか?』

『なにい・・・!』


 小林にあっても女性関係の話をした故に忠に殴られた事を解っていたのか、声を掛ける前の忠が取っていた行動にこじつけてその真相を挑発気味な声で問い掛けてくる。今の忠にしたら当たらずも遠からずといった所で、会ったばかりの同期にも関わらず早くもその胸には怒りが込み上げてくる。兵学校卒業者同士で使う「貴様と俺」という常套句も、この小林に限っては忠も用いようとは思わなかった。

 忠もまた顎を僅かに引いて身構え、剥き出しの闘争心を視線に変えて眼前の相手に突き刺す。

 対して小林もまた忠に気負いする事無く睨み返し、まさにいつ取っ組み合いの喧嘩が起こってもおかしくない空気が辺りに充満して行く。足元から木霊する横須賀の波音も、粉となって散っていく海面からの月光の反射も、忠と小林の視界と意識には何一つ影響を与えず、幸か不幸かそれを傍から見守るだけしかできない小林の連れる芸者は困惑の極みに達してしまう。


『と、トシさん、ど、どうしてそんなに・・・。』

『だあっとれや、(すみ)! こんがしんたれ、ワイは見とるだけでけった糞悪いんや!』


 大声で怒鳴る小林だがその間際も鋭い視線は忠のそれと交差したままで、右手に作った拳もお互いに解く事は無い。独特の濃い関西訛りのしゃべり方は口に出す度に語気を更に強め、関西の言葉に知識が無い忠にも声に込められる小林の立腹加減がよく伝わってくる。怯む様な気持ちは起こらなかったが兵学校の頃より陽気で口数が多く人気者であった小林は、忠が色んな感情を沸々と湧く怒りに変えながら黙って睨みつける間に早くも次の言葉を放つ。


『・・・ワレ、どうせフラれた女に会う意気地ものうて、軍帽に八つ当たりでもかましてたんちゃうんかい? せやったらさっさと海軍辞めて青森に戻れや! 女一人でビビり上がっとる男なんやろが!?』


 小林は以前に忠と殴り合いをした際の記憶を引き合いに出し、確証も無く忠が胸にしまっている想いを攻め立ててくる。厳密には小林の思うような恋焦がれる人間の女性が忠に居る訳ではないのだが、意気地が無いと断じて来るその言葉は妙に忠には自分の核心を突かれているように感じた。桟橋までぶらぶらと歩いて辿り着く前、渡辺(わたなべ)という教官との酒の席で出た婚姻のお話に対し、明確に否と言えなかった事がまるで小林によって糾弾されているようだった。

 ただ、小林をはっきりと憎む感情がまだある忠はそんな事を認めまいと意識の中で叫び、勝って気ままに己をこき下ろす小林に荒げた声を返す。


『てめえこそエス連れて一丁前の海軍士官気取りかよ! 寄港先でエスプレーしてるのと何が違うってんだ!』


 負けじと怒鳴るようにして放ったのは、小林が当たり前の様にその場に芸者姿の女性を連れてきた事。些か親しい関係である事は芸者が終始、小林の事を苗字ではなく名前で呼んでいた事で察しがついているが、それ故に忠はこうして今自分の女性に対するしがらみを指摘してくる小林に憤りが募る。

 忠も含めた海軍士官が隠語で示す芸者は、横須賀のような海軍によって財力を賄っている都市には規模の大小こそあれその存在は多く、長い海上生活で飢えに飢えた男心を相手にして糧を得るという者達。貧乏から抜け出す為、その身一つで親すらも当てにせずに世を生きる為、とにかく金が欲しい為、と理由は様々だが、比較的若い身でその世界へと身を進めて長く働く女性は昔からそこそこに多い。お座敷で披露する三味線や歌、踊りといった芸のお勉強に励み、大らかな心持で気の合わない男とも席を供にし、お天道様もまだ空に居る頃から寄り添って交際相手を務める事もあれば、時にはそのまま夜に布団の中まで供にする事もある。

 そうやって一日三食のご飯を食べている女性達の内の一人を従え、しかも互いに名前を呼び合って親密な仲を曝け出すという小林の姿が、忠にはなんだかあてつけがましく感じるのだった。


 しかし小林が応じる形で帰してきた怒号は、忠の小林と彼が連れた芸者へのそんな安い姿を否定する。


『は! アホが! 前に言うとった別れた女いうんは、こん澄や! 芸者連れてこんな事言うん思うてんか!? ワレと一緒にすなや!』

『・・・!』


 小林に言い包められるつもりは微塵も無い忠であったが、思わずその言葉を受けて口を(つぐ)んでしまう。まさに小林と派手な殴り合いをしたあの時、直前まで同期の仲間達が盛り上がっていた女の話において、この小林は誇るような言い方で自分がかつてとある女性に別れを告げた事を話していた。その際は小林のそんな話に男として何を誇れるものかと感情的に抗い、酒の勢いと相方への悪評も混ざって大喧嘩となってしまったが、今になってよりを戻している小林の姿を目にすると自分だけがあの時から、相方への気持ちに散々に殴られて目を向けたあの時から、何も変わっていないように忠には思えた。

 明石(あかし)艦に背を向けて横須賀へと割ったあの時から、結局自分は逃げ回って来ただけではないのか?

 喧嘩したまま最後まで顔を合わせようとしなかったあの時から、結局自分は今でも顔を合わせる事に怖気づいているだけではないのか?


 そう意識の中で問い掛けると同時に、『女一人にビビり上がってる。』と揶揄した小林の言葉と、ついさっきまで続いていた渡辺からの婚姻話に否の返事を出来なかった自分が、忠の中ではさほど障害も無く結びついていく。

 自分を護る為にもっともな理由を見つけて意志を隠し、さも平気な顔で嘘をつき、酒の力に背を押してもらってヤケを起し、誤魔化すという行為に少しも後ろめたさを感じない自分。

 有明湾で舷窓の向こうに見た明石艦に涙した際、あれほど嫌った自分の姿が眼前の小林との対比によって鮮明になっていく忠だが、いつの間にか小林から視線を逸らして自分の姿に疑問を抱いていた彼の思考は、突如として頬から伝わってくる重い衝撃とその刹那に伴われた小林の怒号によって一時麻痺する。


『こら、こないだのお返しや! このアホが!!』

『がっ・・・!』


 奥歯がグラグラと揺れ、顎の感覚が鈍痛によって覆われていく間際、振りぬかれた小林の右の拳に僅かに遅れるようにして忠の顔が流れ、鍛え抜かれた身体を持つ海軍士官による至近距離の一撃に忠の身体は大きく後ろに仰け反る。グラリと揺れて真横に流れる視界は青白く輝く波間や星々に帯を引き、忠はそのまま片方の頬を地面に擦りつける様にして倒れた。


『うぐっ・・・!』

『図星やろうが、ワレ! ろくに女に会わす顔も無いボケが、偉そうに帝国海軍軍人ヅラしてんやないど! おらあっ!』

『ぐはっ!』


 一瞬の隙を見せた忠を殴り飛ばすや、小林は倒れてすぐ上半身を起し始めた忠の腹部を勢い良く蹴り上げる。ほんの少しだけ浮き上がる忠の身体はその蹴りの衝撃を物語り、苦痛に喘ぐ声を放つ忠の顔は激しく歪んでいた。

 だがさすがに二人の海軍軍人が目の前で喧嘩しているのを見かねたのか、それまで小林の後ろで困った顔で右往左往していた澄という名の芸者が忠と小林の間に割って入り、まるで天敵に味方でもする様なその行動に小林が声を荒げる。


『や、やめてください、トシさん! おんなじ海軍さんじゃないですか・・・!?』

『何が同じ海軍や!! こないな腰抜けと同じにされとうないわい! どけや、澄!!』


 鞘に納まる気配すらも感じさせない小林の怒りが怒号となって芸者に浴びせられ、腰の辺りに正面から抱き付いて来るその顔に手を当てて彼は振り解こうとする。お互いに名前で呼び合う程の親しい間柄も今の小林の思考からは完全に欠落し、しだいに彼女を足蹴にするようにして地に伏せさせるのが苦痛に歪んだ忠の視界にも入った。


『じゃかあしいわ! こんだあほ!』

『きゃあ・・・!!』


 一際力の篭った唸り声と同時に小林の片足が大きく流れ、澄という名の芸者はもんどりうって薙ぎ倒される。自分の感情を押し殺す性格の忠とは対称的な、怒りの感情をあらわにして親密な異性にもその道を遮らせない小林の姿。忠はこんな行動をかつて相方に取ろうとも思わなかったし、今にして思えば取れなかった自分がいたのかとも思えた。

 明石に手を上げた事も無ければ眉を吊り上げて怒った事もないし、別れの間際になっても自分の喜怒哀楽を隠そうとしたし、渡辺教官より貰った婚姻話で彼女と離れる事態に身が陥ろうとも一向に否と明確に返せなかった、惨めな自分。

 その間逆がこの小林の姿なのかと眼前の光景に考えを巡らしていた忠だったが、ふとこの時、そんな小林が未だ手を伸ばしてくる芸者に怒号と荒い手つきで応じる姿に対し、一向に憧れや嫉妬のような心を沸かせない自身の心持に彼は気付く。刹那に脳裏に蘇らせた相も変わらず顔の浮かんでこない相方との思い出もその原因なのか、惨めで情けなくて憎いとすら思った自分の好対照として小林を認める気は、不思議と微塵も浮かんでこないのだ。


『なんや、森!! ワレ今すぐその目潰したる! くそ! ええ加減離さんかい、澄!!』

『やめて、トシさん・・・! 同じ海軍さんでしょう・・・!?』


 さすがに横須賀で芸者として生活している澄という名の女性は、忠や小林と年頃は変わらない若い顔つきであっても鍛え抜かれた身体と心を持つ海軍軍人に臆する事無く、身を挺するようにして同僚への暴行を止めさせようとする。小林を嫌う忠からすれば、なんとも彼にはもったないくらいに優しい心の持ち主なのだろうと察するも、そんな彼女の忠を庇うような行動がまた小林の怒りをさらに一層激しく燃やす。


 自分の気持ちと感情を渦巻かせ、男女という性差の中で相方と認めた者へとそれを曝け出す事が、忠の中で出来なかった明石への在り方だが、眼前にて繰り広げられる小林と澄の姿に彼はそれを微塵も見出す事が出来ない。忠が描くこの横須賀の日々の果てに描く明石との再会と、それに次ぐかつてのような艦魂と人間という間柄で起きる珍妙奇天烈な海軍生活。そしてその中で今度は互いに遠慮せず笑い合う、そのままの姿の自分と相方。それらは決して、今の彼の眼前にて押し問答を犯すような者達の光景には当て嵌まらない。忠の目に映るのは、ただ単に男たる者が持ち前の特徴を生かして感情を押し付けるだけの代物でしかなかったからだ。


『ワイとこんなアホんだら一緒にすな言うとるやろが! 邪魔や!!』

『きゃ・・・! と、トシさんがマズイ事になりますよ・・・!』

『・・・。』


 青くアザになった頬の痛みもだいぶ和らぎ、まだちょっと苦しさが残る腹を擦りながら、忠はゆっくりと立ち上がる中で二人の姿を黙ってみつめる。24年も生きてきた中でこれまで自分に出来なかった男としての姿勢と、その姿勢をもって応えるべき女性を従えている小林。そんな彼を殴られた辺りには自分が最後までなれずじまいであった男なのだろうかと疑問を抱いていたのに、今の忠には不思議とこの男がとても哀れに見えてくる。あの日、明石と別れて以来、忠自身が意識の中でいつも描いてきた、否、願ってきた『こうで在りたい。』という相方との在り方が、小林と澄の様子と比べて酷く下等な在り方の様に見えたからだった。


 こんな程度が、小林の望む「二人」という奴なのか・・・?


 小林が心底嫌うであろう忠が眼前に居る事もあるだろうが、邪魔だと大声で怒鳴りつけ、遮る手を腕力をもって退け、自分の身を心配してくれる言葉に黙れの一言を返す、眼前の小林。同時に忠の思考の中には、いつぞや殴り合いに発展する直前、忠を含めた4人の仲間内で最も色恋沙汰の修羅場を潜り抜けてきたかのような物言いをし、加えて兵学校時代の時まで遡っても尚、恋愛上手な一面を手柄話の様にしてよく仲間に語っていた彼の姿が蘇ってくる。220人の66期生の中にあっても一番の女泣かせと仲間内で格付けされていた彼が、その果てに実際に今、自分へと見せている女性との在り方がこんな程度なのかと思えた刹那、いつの間にか両端が吊り上がっていた忠の唇からは静かな笑い声が漏れ始めた。


『ふ・・・、は、はは・・・。ははは・・・。』


 そもそもこの小林と殴り合いを演じた際のきっかけとして、忠の記憶に残る小林の言葉に『男を磨け。』という一言がある。当時はその一言を嘲りの感情を混ぜて放たれ、直後のヤクザ風の男達との喧嘩で雨の街角に倒れた時には、なんて姑息でいい加減で駄目な男なんだろうと自分を呪った忠。

 だが今は小林の姿を瞳に入れても、自分を蔑むような感情は微塵も湧いてこなかった。逆に忠はこの時、それまでの人生の中で初めて明確な軽蔑の意識を他人に対して持つ。一瞬とは言え、小林の姿は自分に足りない物の総合体なのかと思ったついさっきとはまるで正反対で、その落差の激しい事が忠にはなんとも可笑しかった。


 もっともこんな忠の思考なぞ、完全に頭に血が昇った小林には知った事ではない。文字通り怒髪天を衝く状態の小林は、忠が向けてくる嘲笑とその視線を受けてついに澄の手を強引に振りきり、まだまだ鈍痛で身を屈める状態であった忠の顔目掛けて再び拳を打ち込んだ。


『何がおかしいんや、おらぁあ!! ろくに喧嘩もできんしくさって!!』


 踏み込んだ小林が放った怒号と一緒に、忠のアザができた頬にはまたしても凄絶な一発が鈍い音を放って突き刺さる。澄という名の女性は地べたに座り込んだまま、好意を寄せている小林による再度の暴力に悲鳴とも化した声を上げる。


 しかし先程と同じ光景であったのはまさにこの瞬間まであった。

 なぜなら小林の拳が忠の頬に衝突して耳障りの悪い衝撃音を奏でた直後、小林と澄という名の女性の瞳には、遥か横須賀の水平線にも近くなった月の光を不気味に反射して輝く忠の目と、痩せ型で大人しそうな外見の忠からは想像も出来ない勢いの拳が反撃として返って来たからである。


『どらぁあ!!』

『ぐあっ・・・!』


 背も普通で体格も普通、優男で感情の波高にそれ程大きな差が無い忠を同期として知る小林もこの一撃には面食らい、その前の忠を殴った際に怒りに任せて大きく踏み込んでいた事もあって、彼は忠の正拳をまともに顎へと食らってしまう。顔面の当たり所としてはかなり悪い所で、揺さぶられた奥歯とその根元から染み出る赤い筋を唇から流しながら、小林は後ろに仰け反って大きく尻餅を着く格好で倒れた。

 そして小林と澄という付き添いの女性が驚いている間際、忠はこれまでに無いくらいに激しい怒りを伴わせた表情で叫ぶ。


『・・・まったくめでてー奴だな、テメエはよ!! 何が別れた女だ!! 芸者連れて歩くぐれーなら幇間(ほうかん)だってできらぁ!』


 この場においては火に油を注ぐ一言を放つ忠。彼が予想済みの通り小林は今の一言によって驚きを忘れて憤りの色を表情の前面に押し出し、それでも尚言動を改めない忠に小林は大きな咆哮を上げて立ち上がるや飛び掛った。


『なんやとぉ・・・? ワレ、もっぺん言うてみいやあ・・・!』

『何遍でも言ってやる!! そんなに芸者の女連れるのが好きなんだったらな、オメーこそ海軍辞めて幇間にでもなれ!』

『上等や、ワレェ!!』


 怒りが殺気にも等しい雰囲気へと変わった小林の顔を見ても忠は一歩も引かぬ態度で軽蔑の声を浴びせ、もとよりその形相とそれに続く鉄拳に慄くつもりもまたちっとも無かった。澄という名の女性が必死に止めようとした心遣いももはや忠の眼中には無く、3発目の拳を振りかぶってきた小林と彼は取っ組み合って岸壁の上を転がるようにしながら派手な殴り合いを始める。

 傍らで彼女の悲鳴が叫ばれても、お互いに一張羅とする第一種軍装が破けても、片目が潰れるほどに頬が腫れあがっても、やがてその喧騒を聞きつけて真夜中にも関わらず多くの人々がその場に集まって来ようとも、そしてその人々の大半を占める同じ海軍軍人の者達に力づくで引き離される間際になっても、忠と小林は相手を殺そうとする勢いで放つ拳と憤怒の刃を納める事は無かった。

 既に消灯した民家や海軍艦艇も多い横須賀軍港のとある岸壁の上。青白い月光と星達の輝きが包む中、荒い息遣いでの肩を上下させた呼吸をしながらも、二人が投げ合う怒号は他の海軍軍人達によって各々が連れ去られていく最後の瞬間まで、岸壁と波間が奏でる小波の音を切り裂いていたのだった。


『な、何がロクに女に会わす顔も無えだ! ハア、ハア・・・!! そのひん曲がった鼻でエスに笑われてお山の大将でもやってろ!!』

『ハア、ハア・・・! 言うたな、ワレェ!! 左目も潰して二度と女に会えへんおたふくヅラにしたるわい・・・! かかってこんかい、オラア!』







 それから数日経った、ある日。

 横須賀市街の中心部にも近い田浦地区の海岸にある、海軍水雷学校庁舎。ひんやりとした潮風も肌寒い師走とは言え、お日様が雲の隙間から顔を覗かせる事もある今日の天気のおかげで今日はやや暖かい一日で、水雷学校の学生や教官達は庁舎からも近い桟橋や広場といったお外にて集まり、白い吐息を各々が放ちながらも輪投げやデッキビリヤード等の屋外での遊びを行って午食の後の昼休みを楽しんでいる。

 音にも聞こえし砲術学校に比べて水雷学校は厳しさの点では少々緩い風紀であり、教室以外で行動する際は号令を用いろ等というなんともおカタい雰囲気は学生にあっても教官にあってもそれ程濃密に纏われてはいない。その証拠に庁舎の真裏にある日光も清々しい広場では、教官と学生がチームに分かれてデッキビリヤードの団体対抗戦を行っており、選手の一挙手一投足に一喜一憂する朗らかな歓声が上がっているくらいだ。

 だがそんな笑顔ばかりの彼等がいる広場とは違い、デンと大きく構える水雷学校の庁舎のとある一室では、一人の学生が海軍軍人としての将来を、同じく一人の教官へと神妙な面持ちで伝える一幕が繰り広げられていた。無論、それは忠と渡辺教官の事である。





『ばかこのぉ! 貴様、どういうつもりだ!?』

『ぐっ・・・。』


 絆創膏や包帯を派手に巻いた顔の忠は、先日に夕飯もご馳走してもらった渡辺という教官の待機する部屋に入出するや、一喝の下に鉄拳制裁を受ける。これまでの人生の中で最も派手な喧嘩を同期と繰り広げた忠の顔は、まだ片方の目が腫れた頬によって圧迫されている有様で、力も上手く入らない顎と併せて渡辺の拳に耐え切れるだけの抗甚性は無い。思いっきり殴られるや忠の頭から軍帽が落ち、彼自身の身体も背にしていたドアに勢い良く打ち付けられる。

 もっとも忠はこの鉄拳に驚く事も無ければ、鼻の下に生やした髭による迫力有る渡辺の怒った顔にも動じる気配は無い。なぜならこの小さな部屋に入る前、もとい授業の終わりに渡辺から一人で来るようにと促されたその時から、忠はこうなると予想済みであったからだ。

 そして何故に入室して挨拶もせぬ内からこうして自分は殴られねばならないのか、その理由についても忠は良く解っている。それは数日前に渡辺より申し出て示し合わせていたとある行動を、あろう事か忠が反故にしたからである。

 その上で忠は悪びれる様子も許しを請う様子も全く見せず、足元の辺りに落ちた軍帽を拾って埃を払い落とすや、新調した第二種軍装の輝きも美しい自身の身体に沿わせて傷だらけの頭部を深々と下げた。


『むう・・・、(もり)ぃ・・・。』


 忠の敬礼を受けて渡辺の表情が曇る。せっかく示し合わせていた約束を破られてしまったのだからご立腹となったのは確かであるが、同時に渡辺は優等生として可愛がっている忠をあたら憎く思って殴りつけるつもりは毛頭無かった。そも海軍軍人の部下として目をかけたからこそ、渡辺は忠に対して鉄拳のきっかけである申し出を出したのである。 やがて渡辺は鼻の下の髭を左右に振って吐息を整えると、忠が部屋へと訪ねて来るまで腰を下ろしていた椅子を手繰り寄せて座る。椅子は部屋備え付けの小さい机とセットになっていて、同じ木目が描かれる机の上には渡辺が使う教材や水雷関連の書籍が所狭しと積まれている状態だ。


 だがしかし、そんな鬱蒼とした渡辺の机の上に、一枚の真新しい紙が鎮座している。

 参考書やノートですらも物資困窮する現在の日本では代用資材で作られた物が多く、支那事変が始まる前の頃と比べると随分と質が悪くなった物が目立つこの御時世なのだが、その紙切れ一枚だけは発色の良い白を輝かせて渡辺だけではなく忠の目をも向けさせていた。

 すると渡辺はその紙を片手で払うようにしながら手に取り、何やら字の羅列が書かれている面に視界を移しながら忠に対して声を放った。


『・・・貴様、頭だけじゃなく根性も良いな。こんな希望を回答で返した奴は貴様が初めてだぞ。』

『・・・はい。』


 先程よりも語気を緩めて漏らす愚痴にも似た感じの渡辺の物言い。それに対して忠はまだ痛む頬に少し遮られながらも返事を放ってみせ、渡辺はその声を耳にするや肩を落として大きな溜め息をする。落胆と疲労が混じった吐息は忠としてもちょっと耳に入れるのが酷であったが、その反面、彼はきっと続けて放たれるであろう渡辺の声に、明確に否の答えを返そうとこの時既に脳裏で決めていた。

 渡辺は溜め息の後、しばらく紙面を眺めながら沈黙を守っていたが、不意に放った彼の声は忠の予想通りであり、次いでそれに対する試みを早くも実行に移させてしまう。


『・・・砲術学校でも優等。水雷学校でも優等。・・・あのな、森。オレの親戚への話は別としてもな。そんな貴様はこんな特務艦じゃなく、もっと大きな艦に行ってその腕を生かすべきだ。最新鋭巡洋艦への配属なんて、なりたくたってなれない奴の方が多いんだぞ? 提出は明日だ。今からでも書き直さんか?』

『・・・お断りします。私の配転先希望はその用紙の通りです。』

『むう・・・。』


 お辞儀しっぱなしで頭を下げたまま、忠はその傷だらけの顔とはうって変わった精悍な声でにべもなく渡辺の申し出を断る。先日の夕飯を一緒にした際には一瞬たりとて目にしなかった忠のそんな態度は、例え申し出を断られた方であろうとも渡辺の目にはとても立派で力強い姿として映る。渡辺自身が兵学校をやっと終えてこれから海軍士官として頑張っていこうと一念発起していた頃、若さに任せた期待感溢れる夢の果てに描いていた帝国海軍の士官たる者の理想像が、眼前の忠のお辞儀する姿に不思議と重なっていた。 すると渡辺の髭に隠れ気味な唇はフっと吊り上がり、完全に怒りの色合いが消えた声が部屋の中に静かに木霊する。


『・・・いいか、貴様。海軍軍人の人事ってモンはな、建前上は海軍大臣の所管になる。脅すつもりは無えがな、オレが持ってる人事局のツテを当てにしないなら、考課表辺りの書類に一筆書いてやるくらいしかできんぞ?』


 約束を反故にされた腹いせでは無かったが、渡辺は手にした紙に記された忠の願う今後について協力できないという姿勢を明確に告げる。良い教官、良い先輩、良い人と慕った心は嘘ではない忠にあってもそんな渡辺の言葉はちょっと辛かったが、それでも尚、忠は自分の願いを引っ込める気はついに起きなかった。転じて忠は若輩ながらも一人の海軍軍人として、男としての覚悟をその刹那に昂ぶらせ、胸の中から込み上げてくる勢いに乗じて大きな声でその覚悟を示してみせる。


『それで結構です。願います!』

『ふぅ・・・。うん、そうか・・・。良し、戻って良い・・・。』


 もう何度目になるかも解らない小さめの溜め息を放ちながら渡辺がそう言うと、忠はようやく頭を上げるや再び深々とお辞儀をし、兵学校で教えられるそのままの厳格な礼式でもって渡辺の部屋を後にする。ドアの向こうから響いてくる靴音もまた凛々しく、まさに自分の行動に尋常ならぬ信念を込めた行動なのだろうと渡辺は思いつつ、手にした用紙の文面を再び読んで思わず苦笑いしてしまう。


『・・・面白い若造なんだがな。ふっ、弱ったなぁ・・・。』


 そう呟きながら渡辺が視界に映す用紙。縦書きで統率された何やら難しげでいかつい文字列の一番右には、大きく「配転先希望」の文字。次いでその左にある枠で囲まれた3つの項目には、折れと撥ねも一際分別がついた忠の文字が綴られている。そしてそんな忠の筆跡によって綴られた内容は、長く水雷学校教官、否、長く帝国海軍に勤めて来た渡辺にとってはまさに前代未聞の代物。だがこうもまた徹底的、そして熱意溢れる文面はなんと爽やかであろうと渡辺は率直に思い、苦笑いの表情を一層歪ませて頭の後ろを荒く掻く。

 奇しくもその文面に込められた忠の姿勢は、数日前に忠に夕飯をオゴった際に渡辺が教えた「格好つけない男の姿勢」その物。身を包む多くの大砲に頼らず、舳先のラムを頼りに身体一つでぶつかって行くが如き内容であった。




配転先希望


海軍少尉 森忠

兵学校66期卒




第一希望 明石艦熱望


第二希望 明石艦熱望


第三希望 明石艦熱望




 加藤隼戦闘隊のDVDゲト!!


 戦時中作られた映画にして、陸軍省全面協力という事で楽しく鑑賞できますたヽ(´ー`)ノ


 てか藤田進わけーーーww

 そしてなんと言っても本作品の凄い所は空戦シーン。なんたって本物の隼や鹵獲したP-40を使ってるもんで、その迫力がハンパじゃない。横隊からブレークしていく際の隼のカッコ良さは白眉ですね。

 それと個人的には悪天候、夜間の飛行の描写や、不時着して行方が掴めない隊員の安否のお話などが興味を引きました。兵器の性能覚えてるだけで、さもオレは知識があるといった感じで戦記書く輩ではまず無理な表現だと思います。どういう時間、環境の中、どういう人間が飛行機に乗って戦いながら生きていたか。こんな当たり前の事を忘れた戦記作品にはクソ程も興味も無ければ価値も見出せない小生の根本ですが、多くの手記と同じ様にそれをあの戦時中に表現されていた事はなんとも言えない嬉しい発見でした。


 あと物凄く驚いたのが陸軍省全面協力にも関わらず、ガソリンとか普通に横文字を使ってたのに始まり、


「隊長、チャンスって言ってたでしょ? 敵性語ですよwww」

「(ノ∀`)アチャー」


 というやりとりがあった所ですね。公開が確か昭和19年なのでかなり余裕の無く、「個人主義の鬼畜米英」等と新聞にも大々的に載ってた時期にも関わらず、一般国民にも大人気だったこの映画にこんな部分があったのはとっても意外でした。女性のふとももが写ってるという理由で雑誌を発禁処分にしてる検閲があった反面、割と英語は使ってたんでしょうかね?

 「エンジンの音~」って歌い始めに、当時の缶詰や企業広告も鑑みると、当時の日本の社会には結構現代ばりに英語の存在はあったんじゃないだろうかと考えてみたり。


 まだまだ謎も多い、大日本帝国です。

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