第一〇二話 「男だったら意地を通せ/其の二」
全く企図していなかった申し出に驚く忠。
ついさっき喉に宿った日本酒の辛い風味に顔を歪めるのも忘れ、否定を希望した言葉に実現の目処があると告げる渡辺の赤い顔をまじまじと見つめる。
帝国海軍という極めて国家的にして巨大な組織において、その人事に思惑を見出すという事がどれ程に凄い事か。
すっかりほろ酔いになっている為もあるのか、どうも渡辺にあってはそれが大それた事だと思ってはいないらしい。忠の真相を求める声を褒めて『さすがだ。』等と笑いながら呟く有様で、水雷学校卒業後の針路に切なる願いを抱いてる忠にとってはますます上司の言葉に現実性が感じれなくなってくる。
しかしそんな忠の疑いの視線にそれとなく気付いた渡辺は、ここに至ってようやく先程の言葉の裏に算を披露する事にした。
『はっはっは。いや、実はな。確かに人事局にも一人いるんだが、他に舞鶴の利根艦の水雷長もオレの兵学校の同期でよ。オレは海軍大学校出だからこの歳でまだ教官やってるんだが、そいつは兵学校を出てから殆ど艦船乗組みで去年からは利根艦に乗ってるんだ。ほら、先々月の観艦式。あの時に同期で集まった時にそいつと会ってよ。そしたら、どうやら腕の良い砲術士がいないってんだ。なんか、砲術学校の高等科に行っちまったらしくてな。一応代わりは着任してるらしいんだが、もう少し腕の良い奴が欲しいみたいなんだよ。』
胸に秘めていたからくりを話す渡辺はそこまで言うと、忠と自身を挟むように形で横に置かれた卓の上の大きな皿から焼き鳥の串を一本手にとって頬張り、鼻の下に生やしたお髭をフリフリと左右に振ってその美味に頬を緩める。ついでに渡辺は呆ける忠に右手をかざして皿の料理を食べるように促し、酒酔いの赤面にあっても失われないちょっとしたその気遣いに、忠もとりあえず感謝の意を示して皿へと手を伸ばした。
『ほら、さあ、食え。』
『あ・・・、あ、はい。・・・どうも。』
『肉食えって言っただろう。はっはっは!』
料亭に向かう際も同じ事を言った渡辺は、随分と忠の痩せ型の体型を気にかけているらしい。忠本人には別に細めの自分の身体が不健康だ等といった自覚は微塵も無く、もう24年も付き合ってきた自分という人間の特徴の一つなのだが、やはり日本男児たる者、背丈も胸周りも堂々とした体格が好まれるのが世間一般という物なのか。高笑いしながら渡辺は焼き鳥の盛り合わせが乗った皿を忠の方へと寄せてくれ、1本で終えずもっともっと食すように勧めてくれる。同時に彼は自分で口にした『フェアではない。』という一言を一回りも年齢が下である忠が相手であっても律儀に守ろうとすべく、利根艦配属を勧めるさらなる真相を声へと変えてくれた。
だがしかし次の瞬間語られた渡辺の言葉を受けて忠は仰天してしまい、二人のいる座敷からは戸で隔てれれた廊下では、偶然その場を通りかかった料亭の従業員が突如として戸の向こうより上がった青年の絶叫を耳にして、思わず手にしていた食膳を落としてしまうのだった。
『ええええええー!! こ、こ、婚約ぅ!?』
全くもってこれまでの人生の中で出てきた事のない「婚約」の二文字は、雑念を払ってひたすら想いを巡らせる存在に向かって頑張っている今の忠にはまさに雷鳴の如しである。同じ年代で誰それが結婚したと話題を盛り上げた同期達との宴会も記憶に新しい彼であるが、それが自分の身に及ぶ等とは露ほども思ってなかった。大体が海軍軍人として道を歩き出してから忠はまだまだ日が浅いし、長男として実家への心配を抱いたとしても彼は家庭の意味で安泰を願った事は余り無い。
なぜなら家の大黒柱として長男が居座るという構図を兵学校に入るまでの十数年間、忠は自身の家族によって実際に目にして来たからだ。忠の実父も10人兄弟の長男だったし、祖父もまた長男であったし、しかもまた地主同士、豪農同士でしか付き合いが無いという地方のそこそこ裕福な農家による家柄事情は、実家どころか忠の母方の家系にあっても家長たる者は全て男兄弟の一番上と相場が決まっていた。加えて幼き頃より『兄たる者は─。』という帝王学にも似た溺愛を両親に限らず親戚筋からも一身に受けてきた忠には、そこに当たり前に在る筈の家庭という感覚で自身の家を見る機会が世間一般の人よりも些か少ないのであった。
そのおかげで彼は人生の伴侶を得る等という考えをこれまでの生涯でちっとも考えた事が無いし、これまた自身の両親や祖父母らがそうであるように、嫁という存在は名のある豪農同士の付き合いの中で二つの家柄の友好を結ぶ際、本人の心持と関係無しに得るのだという認識が当たり前となっている。
戦国時代によく見られた政略結婚とは少し違うが、忠を含めた人間達が生きた戦前とはそういう時代であった。
しかし巡り巡ってこんな場所でこんな時に婚礼の話が出てくるとは、忠にあっては予想外も良い所である。その眼前では渡辺が赤面の笑みを絶やしておらず、まるで後輩の驚いた表情を嘲り笑うかの如くケラケラと笑い声を放っている。しかもまたその合間に漏らす無邪気な言葉は、相応に老いも出てきた中年が放つ言葉とはとても思えない。
『わはは! どうだ、驚いたか!? どうだ!?』
忠はそんな渡辺の声を受けても半開きにした口をそのままにして、自分が伴侶を得るかもしれないという事態を騒がしい思考の中で整頓しようとするが、彼なりの嫁という存在の認識と一緒に、そこには遥か波間の向こうに待っている筈の相方の事も紛れ込んでくるのだから具合が悪い。まさに晴天の霹靂であり、そも忠がここ最近頑張れているのは、そんな人生の伴侶とは両立できない相方の存在が胸の中に在るからこそだった。
『あ・・・、あう、あ・・・。』
『なんだ、あんまり急過ぎたか? はっはっは。』
なんとか目と鼻の先に居る上司へと応じようと放つ声もたどたどしい忠に対し、渡辺は大きく顎を仰け反らせて手にしたお猪口の中のお酒を一思いに飲み干すや、ようやく教え子の様子を気遣うような声を掛けてくれる。確かに驚かそうと企図してこれまで一言も婚礼の話題を出さなかったのが渡辺にとっては正直な所ではあるのだが、彼は別段忠の驚愕ぶりを笑って自ら出したこのお話を終わりとするつもりは毛頭無い。それどころか本日こうして学業成績が優秀でその将来性も大いに期待できる若者をわざわざ酒宴の席に連れ出したのは、本当はこの婚礼のお話を進める為でもあるのだった。
その証拠に忠への婚礼のお話と、先程の利根型巡洋艦を忠へと勧めたお話は実はちゃんと接点も結ばれていて、渡辺は自分で口にした「フェア」の精神に則ってその真相をお披露目し始める。奇しくもその理由は忠と同じ様な渡辺のちょっとした家庭の事情と、彼の出身地が舞鶴鎮守府を抱える京都だった事に在るのだった。
『オレの実家は四条河原の近くで先祖代々続く呉服屋でな。ま、このご時世だ。大して儲かる商売じゃないし、オレは三男坊だったからとりあえず学費のかからねえ兵学校に入って、そのまま海軍でメシを食ってく事にしたんだがな。それでも昔から手広くあの辺で商売できたおかげで、オレの実家は今でもお得意先に結構な資産家が多いんだ。で、その縁でオレの実家から祖母さんの世代で嫁を貰ってる金持ちの家があるんだけどよ。その親戚と令嬢がこれまた、是非にも海軍さんを婿に欲しいって探してるんだよ。』
渡辺の親戚からのご要望という言葉は白羽の矢を立てられた忠にあって、今している婚礼のお話に確かな現実感を持たせていく。不自由無い生活を送れるだけの資財が有って、下手をしたら戦場で命を落とすかもしれない海軍士官をその資財の跡取と迎えるのは合理性の面からは多少外れた話なのかもしれないが、迎える側の家にとってはそれ以上に魅力が有る存在が帝国海軍の士官という存在であり、その端くれである忠もまたそこに纏わる感覚的な真相はなんとなくだが理解はしている。
そもそも帝国海軍とは遥かな海の向こうで励む事が究極な言い方をすればお仕事であり、それは当然の様に世間一般の国民にとっては距離を置いた神秘的なイメージを抱かせる。祖国日本を示す国旗の下、天皇陛下の股肱の臣として励む彼等。その中でも特に士官の身分を頂く者は世界に通用する紳士像を仕込まれて品行方正にして、その上で遠く海の向こうで他国との親善もこなす機会が多い一流の社交人でもある。登竜門である海軍兵学校の入試科目の時点で既に英語の科目が「和訳」、「作文」と2つも設けられている程であるから二ヶ国語を操るのは当たり前で、近代技術の結晶たる軍艦を操る為の豊かな教養は常に時代の最先端学識によって構築され、しかもまた街中では中々お目にかかる機会が少ない希少さもその価値を高める。おまけに基本的な戦力の数が兵員の数となる陸軍に比し、海軍は基本的にお船の数が戦力であるから人員数の規模にあってもこれまた陸軍の士官よりは断然に少ない。
そしてこの神秘さと希少性、日清戦争より続く日本を護りし矛と盾である栄誉は、男性と同じく良き伴侶を求める世の女性にあっては花の如き美しさとして瞳に映るのである。山の様に大きな艦影を持つ鉄の城より颯爽と波止場へ現れ、淀みの無い清廉潔白な第二種軍装に黒と黄金の輝きを垣間見せる短刀を佩き、ブーツではなく短靴によって描かれる足の運びはまさに海原を貫く船の航跡。実際はその足取りで行きつけの料亭等で芸者と遊んだりもしているのだが、時折目に触れるこの海軍士官の姿は大多数の日本人女性が胸を鳴らす男性の理想像の様な物で、お婿さんに迎えたい職業のトップ3に入る花形職業。
若い海軍士官はとにかくモテたのだ。
そんな帝国海軍士官の好感度を勘定すれば、資産家のご令嬢との婚姻話を持ち掛ける渡辺の申し出は世間的にもそれほど変ではない縁結びの一幕。現実にこの渡辺に限らず、自身と同じ海軍士官としての道程に励む若者の中から気に入った者をみつけ、誰もが頷く良い縁談をお世話してあげるベテランという構図は、帝国海軍では結構よく有るお話である。優秀な者ほどそれに釣り合う家柄の娘を貰い受ける傾向が強く、明治の頃にそうした道を歩んだ者らは現代において次の世代へとまたその馴れ初めのきっかけを与えていく。渡辺による忠への申し出も些か急ではあったが、そんな帝国海軍の士官界隈にある婚礼話という側面から見れば決して枠から外れている代物ではないのだ。
これまで忠も仲間内より耳にする世間話や組織としての雰囲気で解ってはいた事にして、それでもどこか自分に適用するには現実感が伴わなかった事。まさかこんな横須賀の一角で、それも恋慕の情を募らせる存在へと向かうべく頑張っている最中に耳にする等とは夢にも思っていなかった。当然その驚きは大きな物で彼は瞬きも忘れて見開いた瞳を向けたままだが、その最中にも渡辺は構わず酒の匂いが増した息を声へと変えて話題に上っている婚礼話のメリットを上げていく。
『さっきも言った通りその資産家の家はオレの実家のお得意様で、屋敷は京都の街中の一等地に有るんだ。てこたぁ、舞鎮籍の船乗ればちょっとした上陸でもハウには帰れるし、まだまだ先の事だが予備役になった頃でも安泰で過ごせるってモンだ。いやあ、偶然とは言え具合が良かった。』
『いや、あの、わ、渡辺教官。まだ私には、嫁なんて早い・・・、ですよぉ・・・。』
咄嗟に忠は渡辺の言葉が終わるやそれまで凍り付いていた口を懸命に動かし、渡辺が持ち出した婚姻話をやんわりと断ろうとする。確かに渡辺が言うように海軍軍人としてはその将来も含めて悪い話ではないし、先月の同期の仲間内でも実際に忠の年代で嫁を貰った者の話題が有った事は記憶にも新しい。だが忠が砲術学校とそれに続く水雷学校の日々で懸命に頑張った末に優等の成績を修めた理由は、良い男になりたいという目論見自体はあったものの別に嫁が欲しかった訳ではないし、偉くなりたい為でも良い船に乗りたいが為でもない。もちろん彼独自の艦魂が見えるという特異な体験が基として在るのだから例え気の良い渡辺であっても忠はその事を口に出さなかったが、それ故に忠は渡辺から迫られる婚礼話を断るだけの言い分が無かった。
よって出てきた断りの文句はなんとも弱い自分の若さのアピール程度であり、もちろん当の渡辺にあってはそれで了承して話を引っ込める気は起きない。既に冷や汗も首筋に浮べた忠が卓の上に身を乗り出すようにして言ってみても、渡辺は特徴的な一言をまた口にして眼前の若者の考えを直そうとする。
『ばかこのぉ、貴様の様な事を言っておったら一生ワイフなんか持てんぞ。格好付けて主砲の一斉射だけが男じゃないだろう。目の前に標的がおるんなら貴様、迷わず舳先から体当たりするのが一番良いってモンだ。はっはっは!』
いかにも海の男らしい中々に豪快な物言いは忠も嫌いではないが、こうして自分の身の上に障害となって現れると厄介な物だ。しかもまた酒の勢いが多分に混じってしまっているが為に渡辺の声には押しの強さがあって、忠は困るばかりで抗うという行動に至る事が出来ない。どもったような言葉遣いでしどろもどろの返答が続くだけである。
一方、渡辺は即座に明快な返答を返せない忠の様子を酔いの中でもちゃんと見ており、さしもに若い身では急すぎるかと思って婚約の形をやや崩して伝えてみせた。だがしかしそんな渡辺の気遣いはさらに一層忠が巡らせる論法の逃げ場を奪ってしまい、彼はついに返す言葉を失ってしまうのだった。
『はっはっは。よし解ったぞ、森。いきなり見合いをせいとは言わん。とりあえず紹介するまでにしよう。それでも親戚連中にはオレの顔は十分立つからな。でもその前に、さっき言ったちゃんとした軍艦乗組みっていう体裁は整えておきてえな。でな、近い内に配転先希望の用紙を配って受付するから、貴様それに利根艦って書け。後はオレがなんとかしてやるからよ!』
その後、結局最後まで『はい。』とは口にしなかったものの明確に『いいえ。』とも言えずじまいのままで忠は渡辺との酒宴を続け、一時間ほどもした頃には泥酔状態での夜半の帰宅によって奥さんに怒られる事を危惧し始めた渡辺の一声でお開きとなった。もっとも渡辺の住いは横須賀の市内で帰る道程にさほどの時間も掛からないので、『良い頃合まで良い酒が飲めた。』と彼は帰る為に料亭内の廊下を歩く間際でもすこぶるご機嫌。その勢いのまま景気良く酒宴の費用の全額を自分の財布から出してくれ、忠が礼を言いながら頭を下げると、濃紺の軍帽の下に覗く赤い顔に白い歯を垣間見せて満面の笑みを向けてくる。
『良いんだよ、若いんだから。それに貴様が偉くなった頃には、オレは引退の老いぼれになってるからな。そん時にはたんまり一升瓶でも買って貰うからよ。はっはっは!』
終始こんな状態のままの上司とお酒を飲めた事は、忠のような若い人間にあっては一安心を与えてくれる。特にお叱りお説教を頂戴する事も無く、容赦の無い指摘を受ける訳でも無く一時の酒の場を過ごし、ふらつく千鳥足に忠が心配の声をかけても渡辺は『大丈夫だ!』と豪快に笑い飛ばしてくれる。料亭の玄関を出て寒い横須賀の夜空の下に身を移してもそのご機嫌は変わる事は無く、何度もお礼を述べてペコペコと頭を下げる忠を背後に片手を頭の上で振って別れの挨拶とした。
『おう、じゃ、明日な。』
『あ、はい。今日はご馳走さまでした。』
そう言って去り行く渡辺は振り返る事も無く、深い青色の闇夜の中に白い息を巻上げなら片手をひらひらと宙にかざす。豪放磊落なその人柄はどこか気持ちの良いくらいに痛快な感じが有り、夕飯をオゴってくれたその気遣いも手伝って忠には率直に感謝の念が絶えない。ありきたりな言葉であるがこの上も無く「良い人」であった。
だがそんな渡辺の人柄が有難いからこそ、忠はついに彼からあった婚姻話の申し出に明確な否の解答を下せなかった。そしてその事がずっと酒宴の間も胸にわだかまっていた手前、彼は凍えるような寒さの中を動揺の激しい足取りで帰っていく渡辺の後姿に、しばらくの間じっと眼差しを向けていた。
渡辺とて別に教え子を困らせようとしている訳であんな事を言った訳ではないのは、忠としても百も承知である。ただただ後輩に向けた好感が成したのが今日の夕飯であり、その中で上がった主な話題も例に漏れない。それが十分に解っていた上に、生来が他人の好意を無下にできない性分であった忠であるから、彼は渡辺の申し出に明確な自分の意思を表明するのは悪いと思ってしまったのだ。
『はあぁ・・・。』
なんとも困った事になってしまったと改めて認識するや、忠の細い身体からは白く大きな溜め息が漏れる。せっかく最近は頑張れてると当の忠ですらも意識出来るほどに充実していた日々。時に砲術学校の窓から覗いた夜空に想いを巡らせ、時に憤りの酒に任せて喧嘩の末に涙を流したりもしたが、挫けそうになったその障害の果てに描いていたのは、もうかれこれ一年近く前になるぶっ飛んだ明石艦での生活。それなのに有難い上官のご好意が、今またそれを遮ろうとしてきたのだ。
なんだってんだよ、もう・・・。
既に夜陰に包まれた道の奥へと消え去った背を持つ渡辺を決して責めるつもりは無かったが、忠の脳裏にはいつぞや同期の仲間達と喧嘩した時にも覚えた行き先の無い苛立ちが募り始める。加えてまたしてもこの苛立ちを覚えたのは酒の場である。
『くっそぉ・・・。』
星の瞬きも綺麗な師走の空だが、身を刺す寒さに肩を少し震わせる忠。背後に位置する料亭の玄関より漏れてくる暖かい灯りを背にしつつ両手に息を吹き掛けながら、僅かに下を向いたその表情はやはり苛立ちを隠せていない。悪態をつくかのような声が思わず口から漏れたのも同じ理由であった。
次いで募る苛立ちは忠の手についつい煙草をポッケから探させ、海軍士官たる体面では歩き煙草は嫌われるという事も忘れて一旒の煙を昇らせる。そのまま一度大きく煙を舞上がらせると同時に軍帽を深く被りなおし、やがて彼は下宿ではなく横須賀の海岸の方へと物思いにふけながら歩いていった。
なんでオレの思い通りにいかないんだ・・・。
そんな言葉を何度も何度も脳裏で呟きながら歩く忠。あても無く横須賀の街をブラつくのはこれまでも何度かあったものだが、今夜もまたその際と同じく目的地も決めずに気の向くままに歩みを進める。ふと気付くと忠は横須賀にはよくある海原を望んだ岸壁を歩いており、月明かりと無数の星の輝きを逆さに映す波間とそこに浮かぶ幾ばくかの海軍艦艇のシルエットを無言で眺めた。
新年度の前期艦隊訓練も始まった帝国海軍連合艦隊の事情は忠も一応は耳にしており、横須賀の波間で錨を下ろしている艦艇は数える程でしか認められない。働く者達が出て行った物寂しい一件の家のような感覚すらあり、港の一角でもはや御役御免となって繋留されている富士艦、春日艦の古めかしい艦影が忠の目に留まるのにさほどの時間はかからない。さながら一丁前になった子供達が出勤した後に家に残っている年寄りと言った所か。加えてその内の1艦である富士艦の命とも面識のある忠は、とても清楚で綺麗だった老婆の風体を持つ富士の事をちょっと記憶から検索した事もあって、そんな船達の家という場面を夜の横須賀軍港に重ねる。
もっとも軍港内でも一番目立つのは富士艦の2回り以上も大きい航空母艦の艦影で、しかもまたその大きな艦影はなんとなんと2つも在る。水雷学校での仲間内の話で聞いた所によると、片方は整備補修の名目で少しの間艦隊から外れている赤城艦で、もう片方は来年の夏頃に正式に就役する予定の新型空母らしく、その名を翔鶴艦というらしい。
実際に目にした富士艦の老いた命を思い起こす忠は、ふと現在は鋭意艤装中の翔鶴艦の生まれたばかりであろう若い命の姿を全くの想像で脳裏に描き、老いも若きも、背丈の高低も、各々の性格もまた千差万別であろう帝国海軍の船達の事情を意識し始めていく。現実に明石艦乗組みだった頃に見た者達は神通の様な気難しい奴もいれば、霞と雪風の様に四六時中喧嘩ばかりの奴もいて、霰や那珂といった女性としての好感も持てる奴らもいる。まるでその在り方は人間の世界と何の違いも無いというのに、師走の星空を瞳に宿す忠が最も会いたいと願った者はそんな艦魂と呼ばれる者達の一人。船の甲板から足を離せず、へこんだりする鋼鉄の構造材がそのまま傷となって身体に現れ、日の丸以外の国旗を掲げる同じ船を殺す為にこの世に生み出されたという存在。
忠はそんな相方を含めた帝国海軍の命達の在り方をとても不便で不条理に感じる反面、一端の人間である自分と変わりが無い点が多く、その上でこうして想いを寄せる存在がそんな艦魂と呼ばれる人外の者達に生まれてしまった事を、この時酷く憎いと思った。
なんでオレは艦魂なんていう奴らが見えるんだ・・・。
なんでそんな奴らの一人にこうやって苦しまねばならないんだ・・・。
なんでそれでも頑張ろうとするオレを、何もかもが邪魔してくるんだ・・・。
忠には自負があった。ここ最近の砲術学校、それに続く水雷学校での成績も、ほぼ毎日質素な夕飯で済ましながらさらに自習に励んでいるのも、全ては相方の下へと戻る為。きっと最新鋭工作艦の命として、艦魂社会の軍医の立場として成長しているであろう明石と、釣り合いの取れた立派で良い男になる為。その考えを7割くらいは達成できていると忠は自分でも思って励んでいたのだが、またも世間一般という物事が忠のそんな理想に影を落とす。
『・・・。』
力の篭めて噛み締めた唇の奥に、声に昇華しきれない渦の様な憤りを巡らせる忠。その足元では星影と青白い月の光を映す小波が、静かな喧騒として岸壁へとぶつかる音を木霊させる。だがまるでその波音は行き詰まりにも似た感情を抱く忠の耳には、どこか人間の物ではない嘲笑の如く響き、あたかもそれはまるで月夜の海の果てにて励んでいるであろう相方を含めた知人達による嘲りにも思えた。
海も笑い、僅かに岸壁に近い陸地に残った林も笑い、空に輝く月や星、そしてふと流し目で認めた横須賀の街の灯りが指を向けてくる。挙句の果てにはこの季節の関東特有の冷たい北風が悪戯でも働くかのように忠の身を瞬間的に殴って行き、思わず外套を抑えて寒さに耐えている彼の頭からハラリと軍帽を落としてみせた。
『くっ・・・。』
ただ寒さを堪えようと思っただけの自分を、またしても小馬鹿にするような自分以外の何か。寒さを我慢する為に噛み締めた唇の間より漏れた声は、何かにつけて自分を邪魔していく全てに対しての憎しみが篭っている。帝国海軍士官の大事な軍装の一角が乱れた事に反応し、忠は無意識の内に足元へと転がった軍帽へと手を伸ばすが、軍帽に指先が触れると同時に青白い月明かりを金色に混ぜて輝く軍帽前章がなんだかやけ目を引いた。帝国海軍を示す金色の桜と錨は、忠の瞳にはなんだかちっとも上手く物事が運ばない海軍という居場所の権化の様に写る。相方を含めた海軍艦艇の艦魂達がいて、結束を叫びながらも喧嘩したりもした仲間達が励んでいて、しがない自分にすらも目を掛けてくれる渡辺のような上司がいて、全ての国民からも一目置かれる素晴らしい職場という体裁もあって、栄えある天皇陛下の覚えもめでたい国家的組織である、大日本帝国海軍。今の忠にはそれらが全て、恨み、妬み、重圧、理不尽といった暗い色合いの物ばかりに思え、同時にそんな考えは帝国海軍に対しての矛先が定まらない憎しみへと変わっていく。
刹那、忠はようやく手にして持ち上げたばかりの軍帽を、漠然としたその憎悪と怒りに任せておもいっきり地面へと投げつけた。
『・・・馬鹿野郎っ!!』
月明かりが横須賀の波間の音によって木霊する桟橋の上。渾身の力を込めて腕を振り下ろした忠が僅かに息を切らせるその足元に、青白い月光を金色と混ぜて転がる彼の軍帽が在る。自分の思い通りに行かない事への憤怒によって射出され、まるでそんな持ち主に見切りをつけて去って行くと言わんばかりでコロコロと転がる軍帽だったが、転がる事に適した形ではない軍帽は勢いをすぐに失うや均衡を崩し、忠の足元から波間とは逆側の方に1メートル程もいった所で忠の頭を覆っていたついさっきまでと同じ形で地に座った。
『あ、あの・・・。』
『ああ、ええよ。同じ海軍やからワイが。どうかされたんですか?』
その時、眉間にしわを寄せて細くなっていた忠の視界の端で、転げ終わって若干の砂埃にも塗れた軍帽の傍に足が現れるや声が放たれてくる。一人葛藤していた忠はようやくここで付近の月光のみが照らす師走の横須賀の光景に意識を戻し、彼が投げ捨てた軍帽を手にとって近寄ってくる者達の影を認めた。
空は快晴なのだがさすがに夜も更けた物寂しい岸壁は、到底月と星の明りだけでは人影以上の判別を許さない。忠の目は艦魂が見えても別段視力が優れている訳でも無ければ、凡人よりも特に夜目が冴える等という能力は有しておらず、ちょうど一旒の雲が靡いた事によって希薄になった月光に近寄ってくる者の顔を見るまでには至らなかった。
もっとも明らかに先程耳にした声は、おそらく年代だけなら自分とそれ程変わらないであろう男と女の物であった事を忠も即座に把握できていた。加えて男が発したであろう言葉にも示されているように、近寄ってくる二人連れの片方の人物の影は、頭部に見慣れた角張った被り物が召されている事から同じ帝国海軍の士官である事が忠にはすぐに解った。
変な奴だと思われてるだろうか・・・?
ついつい他人に見られていた事を察する忠は、ついさっきまでの怒りに任せた自分の行動がなんとも恥ずかしくなってくる。寒いながらも見晴らしの良い海原が望める岸壁で、独り何事かを叫んで軍帽に八つ当たりをかましているのでは無理も無い事だ。だがそんな恥によって忠は一時の間だけ自己葛藤の沼から足を引き抜く事ができ、軍帽を拾って声を掛けてくれる同じ帝国海軍の者にとりあえず応じてみせる。
『あ、あはは・・・。こ、これはお恥ずかしい所を・・・。』
軍装の上から外套を重ね着しても肌寒い中、焦りからくる冷や汗を首筋に浮べて苦笑しながら、忠はまだ輪郭しか判然としない眼前の男より軍帽を受け取るべく手を差し伸べる。あれだけ衝動に駆られて強く投げつけた軍帽も、別になにかそれ自体に罪がある訳ではない事は彼も解っている。それ故に『もうそんな物いらない。』とは微塵も口に出そうとはせず、ただただ他人からの目を気にする忠の手の動きはどこかそわそわしい。
何でもないと言い張って挨拶を終え、さっさとこの場を退散しよう。
脳裏で放つその考えを今は実行すべしと一心に考える忠。ようやくそんな彼の指先が眼前の男の手に握られる軍帽へと触れたと同時に、寒いながらも絶好の月夜を邪魔していた一旒の雲が北風によってお月様より拭われていく。するとそれまで遮られていた青白い月の灯りが日の出の如く辺りを照らし始め、影と輪郭のみであった忠の視界により詳細な実像を認識させていく。もちろんそれは忠のみならず彼に軍帽を渡そうとしていた海軍軍人と思われる男にあっても同じで、闇が払われてしだいに目や鼻、口といった顔の特徴が露わになっていく視界の向こうに、やがてお互いの顔をハッキリと認める。
だがその刹那、二人は今まさに手渡そうとしていた軍帽を驚きの余り、どちらも手にする事が出来ずに宙に落としてしまう。彼等はお互いに目に映した同じ第一種軍装を身の纏う相手に、それぞれが帝国海軍という大きな組織の中でも顔見知りの者である事を瞬時に察し、そして驚く。
なぜなら忠にとってもその眼前の若い帝国海軍の男にあっても、目に映した顔は海軍兵学校という試練の場において同じ釜の飯を食った同期の顔にして、先々月の辺りに衝撃的な事件を起こした相手であったからだった。
『わ、ワレぇ・・・、森・・・!』
『小林ぃ・・・!』
『あら、なに? この海軍さん、お知り合いの方・・・?』
忠が思わず眉間にしわを寄せて細めた瞳に写るのは、着物姿の芸者らしき女性を背に控える兵学校66期の仲間、小林。忠とは観艦式も記憶に新しい頃、横須賀の一角に設けた酒の場で派手な殴り合いを演じた男だった。