表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
101/171

第一〇一話 「男だったら意地を通せ/其の一」

 明石(あかし)とその仲間達がいよいよ新たな年のお仕事へと臨み始めた頃、呉よりも師走の寒さが一際増す横須賀では、彼女の相方もまた自身の励み方に「始め」の号令をかけていた。


 何もそれは勉学の場である水雷学校の校舎の中だけで過ごす時間だけではなく、(ただし)は下宿先とする家具屋の大きな家の二階に間借りした部屋へと戻っても気を緩める事は無い。先月の辺りに井上(いのうえ)と名乗った海軍中将と会話してからという物、彼の中にはしばらくの間静まり返っていた想いが揮発油を浴びせられたかの如く燃え盛り、まさに昼夜を問わずに行うそのお勉強は水雷学校での成績にも大きく寄与してくれている。おかげ様で水雷学校では優等の判定を教官より貰う程に勉学が捗っており、今日も今日とて帝国海軍の学校では割と多い試験を前にしても、忠は紙面の上の問題を解くのに際して頭を捻ったのは僅かに1回のみであった。まして砲術学校では得意とする銃剣道の腕を発揮できた事もあって3位の好成績を残している忠であるから、水雷学校の教官達から彼は優等生としてすこぶる高評を得ている。

 すると当事者たる忠も心に余裕が出来て気が楽になるという物で、ここ最近は猛勉強こそ絶えないが別に自分の不出来に焦って追い込むような感情を抱くような事が無い。ほぼ無意識の内に参考書に手を伸ばして、時間が経つのも気に留めずに勉強へと打ち込む事の出来る日々が続いている状態で、下から数えた方が早かった成績順で過ごした兵学校の頃とは違う、とても充実した毎日を送っているのだった。




『ふう・・・。よっ、とぉ。』


 昔懐かしい、というより明治の匂いも漂う、忠の下宿の部屋。壁際に丸く寄せられた布団は順序良く畳まれているもちょっと色褪せ、忠と背丈が同じくらいの小さな箪笥は窓から来る木漏れ日を浴びすぎて真ん中ぐらいから斜めに色が段差を設けている。他に目に付くのは卓上スタンドと数冊の本が乗ったちゃぶ台にも近い小さな机で、その傍らには継接ぎも目に付く座布団が一枚。4畳半も無い部屋にこれだけの家具があるだけで、下の畳を見れる面積は僅かな物だ。唯一良い点は部屋に一つだけある南向きの窓で、ちょっと連なった周辺の家々の屋根の向こうには遥かに続く横須賀の水平線を景色に望む事が出来る。窓の真下に位置する庭から生えた柳の木も一緒に揃って、天気の良い日はまるで花札の絵柄にでもなりそうな、こじんまりとした絶景を映してくれるのだ。

 そんな部屋で寝起きをする現在の忠。艦艇乗組みや兵学校等の寮での生活は規則正しく息抜く暇も中々無い物だが、足元が揺れずに海の青よりも植物の緑の方が多く目に付く環境でのんびりと出来る今の生活を、彼は結構気に入っている。『煙草盆出せ。』の号令を気にする必要も無く好きな時に思うがままの姿勢で煙草も吸えるし、横須賀の街で買って来たお菓子なんかをヒョイっと頬張りながら寝転がっても文句を言われる事も無い。先輩や上司といった立場の者もいないから、日がな一日中気を使わずに済むのも大きい。とかく忠は生来が大人しい方の性格であるから余り言葉には出したくないと思いながらも、他人に余計な気を働かせないで済むという環境はなんとも居心地が良かった。

 窓の向こうを通り過ぎる北風の音が木霊するそんな部屋の中、忠は上着を脱ぎながら窓のカーテンを閉めると、今度は脱いだ上着のポッケから煙草とマッチを取り出して早速一服としけこむ。最近はちょっと喫煙の量が増えたのか、忠はふと灰皿が吸殻によって占拠されている事に気付く。


 あれ? こないだ捨てたのに。


 そんな言葉を脳裏で放ちつつ忠はくず入れへと灰皿を傾け、綺麗になった灰皿を畳みの上に無造作に置きながら寝転がる。複雑難解な水雷のお勉強は例に漏れず数字との格闘で、やる気はあっても頭脳が中々追いつかない代物であるのは忠も同じ。学校から帰るとこうしてゴロンと横になるのが日課になるほどに疲労も溜まり、下宿へと戻ってやっと一日の息抜きができるという毎日である。

 しかし煙草を吸い終える10分間程の時間で忠の息抜きは早くも終了であり、軍装の胸元のホックを外して2、3回首を捻ると、すぐさま本日の授業で学んだ学科に関する参考書を机に求める有様である。何しろその漲る勉強意欲は忠の食欲までも(むしば)む程で、赤鉛筆での印も目立つ参考書をパラパラとめくりながら伸ばした彼の片手には、本日の夕飯である食パンが2枚。男にしては胴回りが痩せ型であるその体型の通り、彼は余り食事の量が多い方ではないのだが、さしもに夕飯がパン2枚とは清貧生活も極まれりと言った所。


 確かに明石艦を降りて以来、忠には航海手当てや危険作業手当てといった上乗せ賃金が与えられていない。そもそもが帝国海軍の士官という立場の者は、例え艦艇乗組みであろうとも兵下士官とは違って服も食事も給料から差っ引いて調達するのが規則であり、余程の事が無い限りは官給されない軍刀や拳銃といった類の物は全部自腹での購入が必要となる。日本男児の体面と帝国海軍軍人の誇りを注ぐ一振りは忠だって本当なら欲しい所だが、士官としては最下級の立場である少尉の彼には残念ながらそんな買い物を支えるお給料がそもそも与えられていない。その上で上司や同僚との交流と称して偶には料亭での食事にも付き合わねばならないし、日々のお洗濯や日用品なんかのちょっとした調達は一般人と同じ様にする事情も考えると、新米士官というのは中々寂しい懐事情での生活を強いられる苦しいお仕事でもあるのだ。


 もっとも別に忠は食費を切り詰めねばならない程にお財布が空っぽな訳ではなく、ただ摂食という行為に何某かの願望を抱かないだけである。学校よりの帰り道に道端にある適当な店屋で夕飯を買うのに際し、偶然にも今日はパンが一番最初に目についただけの話で、別に腹に入るのなら果物でもおにぎりでも何でも良かった。

 その証拠に忠はジャムも白砂糖も付けない素っ気無い味のパンを齧り始めても至って表情を変える事は無く、もぐもぐと口を動かしながら視線を参考書に走らせる。熱し過ぎず冷め過ぎない程よい集中力。優等生の印象を持たれる今の忠の最大の武器だ。




『あの、森さん。』

『ん・・・? あ、はーい。』


 時折師走の風が窓を叩く音がカタカタと木霊する忠の部屋に、下宿先である家具屋の奥さんが放つ高い声が木霊してくる。しがない新米士官である忠にいつも朗らかに接してくれるその人柄に随分お世話になっている故、忠は疲れと勉強の意欲を少しだけ弱めて戸越しに応じてみせた。年季の入った木造家屋の廊下は体格が小さい奥さんであってもその存在をギシギシという音を奏でて教えてくれ、戸を空けた先にある階段の登りきる辺りで腰掛けながら奥さんが声を返してくる。


『お客様ですよ、海軍さんの。』

『お?』


 『海軍の街といえばここ。』とも言われる程に古くから帝国海軍との所縁も豊かなこの横須賀であるが、知り合いの海軍軍人といえば兵学校の同期か、同じ普通科教育過程の道を歩んでいる新米士官仲間が関の山である忠。今は宿泊を別にする砲術学校での友人、藤平(とうへい)だろうかと思い、忠は上着のホックを再び掛けなおしつつ奥さんの声に従って部屋を出ていった。




 動きも(つまづ)きが多い戸を後にして、日本家屋によくある角度が急にして肩幅くらいしかない階段を降り、手摺も付いていない圧迫感のある階段を抜けるとそこはもう玄関。家具屋の主人の趣味だという小さな山水画を乗せた下駄箱が傍らに控え、裸電球の肌色の灯りがポツンと天井で光を放つ下に、濃紺というよりは完全な漆黒とも化している第一種軍装を身に纏った男が一人立っている。皮製で腿の中程まで覆うくらいのポンチョの様なコートを身に付け、白髪も僅かに混じった短い髪と鼻の下に髭を生やした中年の海軍軍人だ。


『おう。』


 階段を下りてきた忠に、男は軽く右手を上げて気兼ねの無い挨拶をしてみせる。帝国海軍軍人たる者は紳士であるという不文律から見れば些か礼儀を欠いた態度であるが、そんなこの男を忠は知っていた為にすぐさまお辞儀をして声を返す。

 同期くらいしか知人のいない横須賀において、こうしてわざわざお仕事の時間でない時に忠を訪ねて来たこの男。実は優等生の評価と供にお褒めの言葉も掛けてくれたという、水雷学校の教官の内の一人であった。


『あ。これは、渡辺(わたなべ)教官。』






 それからしばらくすると、忠と渡辺は日中より寒さも増した夜の横須賀へと繰り出していた。覚えもめでたい教え子を随分と気に掛けてくれているらしい渡辺は、自分もまた若い頃に経験した清貧な生活を送る現代の忠に『夕飯のオゴり』というまことに有難いお言葉を伴ってお出かけを誘ってくれ、忠もまたいつもの味気ないパンに変わって味も暖かさも格別なお料理にありつけると考えて快諾。それに静かな水面と似ている穏やかな人柄の忠には、お世話になっている教官からのご好意を無下にする事もできない。挨拶も交えて5分としない内に渡辺の後に続く形で下宿を出て、よく教官の仲間内でも行く事のあるという小さな料亭へと向かう事になった。


『パンばっかり食ってたら力はつかんぞ、(もり)。ただでさえ貴様は痩せてるんだ。もっと肉を食え、肉を。』

『あはは。はい、今日は食わせてもらいます。』


 海軍の街たる横須賀は師走の夜を迎えてもすぐには眠りにはつかず、酒が飲めるお店が列を構えている通りの辺りは店先の提灯が放つ朱色の灯火が夕闇をほのかに圧している。支那事変の始まった昭和12年以来のご時世とは言え、海軍軍人、次いで横須賀にて海軍とのお仕事によって生計を立てる人々にあっては、仕事終わりや時期の節目に際して酒を飲む余裕もまだあるらしい。渡辺と忠が歩く飲み屋街は相応の人通りと酒の勢いに乗って放たれる明るい声がそこかしこにあり、海の向こうで未だ支那との戦闘が続いている事への現実感をみるみる内に喪失させていく。それは忠と渡辺にあっても例に漏れず、二人は顔を合わせる度に笑みでの会話をする。


『それになあ、寝床に帰ったら勉強はしないで寝ろよ。今日も勉強しようとしてただろ? 頑張るのは良いが、そのおかげで病気にでもなったら船には乗れんぞぉ。』

『あはは、はい。』


 鼻の下の髭を少し傾けてそう言った渡辺。屈託の無い笑みではあるもその声には少し呆れたような感じも含まれるが、別に彼は忠を蔑んだりするつもりは一切無いし、当の忠もまた渡辺の物言いの半分が冗談混じりである事を良く解っている。こういう気さくな所が忠も慕う渡辺の人柄で、恐怖と戦慄しかない砲術学校とはうって変わった水雷学校の授業も教育者の一人である彼の陽気さと親しみ易さにより、忠は大変に楽な気持ちで励む事ができている。

 だから忠はさらに続けようとしていたお勉強の時間が今日はこうして中断されてしまっても、この渡辺を嫌うような気持ちなぞは微塵も湧いてこない。既に容姿の段階で年齢は自分の倍以上もあろうという中にあっても、まだまだ海軍軍人として知り合いも少ない彼は渡辺というこの教官に人一倍の親しみを抱き、料亭までの道程にて何気ない会話を続けていくのだった。




 そんな明るいやりとりをしつつ着いた先は、横須賀でもよく見かける一軒家に看板を掲げたような小さな料亭。木造の壁は肌色の照明でその柔らかな感じを一層引き立て、お店の玄関に入ってすぐに出迎えた和服姿の女性達が忠と渡辺の疲れた心を癒してくれる。中へと案内される間際、料亭内の庭が良く見えるガラス張りの廊下には他の客の物であろう笑い声も木霊し、部屋へと着いた頃にはすっかりお酒を飲む気に満ち満ちた二人。『最初の一口は。』とお互いに確認し合って注文したビールが来るや、まだ料亭の人が小料理の小鉢や箸などを卓の上に並べている最中にも関わらず、互いのコップへと手にしたビールの瓶を傾けていく。

 もちろん最初にお酒を注いだのは、渡辺より立場の面でも年齢の面でも格下である忠だ。


『どれどれっと。』

『あ、渡辺教官。私が。』

『お。はは、悪いな。』


 目上の人への気配りを欠かさない礼儀正しい忠にお酒を注がれて渡辺は早くもご機嫌となり、軍帽を取った事であらわになった坊主頭を掻きながらコップを握る。次いでなみなみと黄色いビールの水面が一杯に注がれたコップを卓の上に一度置き、今度は忠のコップへと自ら瓶を傾けてビールを注ぎ始めた。


『あ。いやあ、恐縮です。』

『はいよ。まぁ、一献。』

『あはは。有難う御座います。』


 酒の場でよく用いられる言葉をちょっとわざとらしく言うのも渡辺の陽気な人柄の延長で、僅かに残っていた彼への遠慮の気持ちを忠はようやく払拭される。相当に気に入って貰えたようだと声には出さずに確認し、その上でこうして気さくに酒の場で接してくれる渡辺は、その壮年の容姿も手伝って忠にはどこか意識的に親父の印象を与えてくれた。

 その内に『お疲れ様。』とお互いに掛け合っての乾杯に続き、喉を鳴らしてコップの半分ほども飲んだ忠と渡辺は爽快感に溢れる溜め息を汽笛の様に上げる。まさに何物にも変えがたい仕事終わりの一杯という奴だ。


『っつあ~。・・・よ、どうだ。水雷学校にはもう慣れたか?』

『は~っ。・・・いやあ、まだ全然ですよ。』


 最初の一杯に浸った後の二人のやりとりは、帝国海軍のみならずどこの会社でも聞かれるような、とある上司と部下の会話。お互いの仕事の近況はもちろん水雷学校の日々となり、既に2ヶ月目くらいになった忠の様子を渡辺はそれとなく尋ねていく。もっともその明るい声に現れているように、渡辺は眼前の教え子に対して緊迫した心配の念を抱いてなぞいない。砲術学校に続いて、水雷学校でも上から数えて3番以内に入る優等生が忠であり、気性が穏やかでとても誠実に勉学に励む彼の様子は教えを与える側の渡辺にしたら実に接し易い人物だった。おまけに満足できる成績を納めているのだから、むしろ逆に渡辺には忠ほど安心して教育を施せる若者はいない。決して煽てて木の上に登らせるつもりはないが、渡辺は忠の返す声にニコニコと笑って頷き、最小限に留めようと意図しながら放つお褒めの言葉をかけてやる。

 忠もまた5年以上前に兵学校へと進んでこの方、懸命に頑張ってきた海軍生活中で上司から褒められた事はそれ程多かった訳ではないから、ようやくお料理が卓へと運ばれてきた頃になってもまだまだ続く渡辺の嘘偽りを感じさせない物言いは、彼の胸の中に静かながらもハッキリと明確な嬉しさという物を募らせていった。


『あ〜、じゃあ爆雷を使った対潜攻撃方法って、まだそんなに構築されてはいないんですか?』

『う〜ん、まあ、正直に言うとそうだな。何より目視出来ないからな、潜航中の潜水艦ってのは。貴様は砲術士だったから、射撃計画に必要な多くの要素の重要性はよく解るだろ? どのくらいの速度でどの方角にどのくらいの大きさの目標が存在するかってのが、水中では肉眼で思うように認める事が出来ない。聴音器や探信儀越しになるし、誤差も大きいからなぁ。』


 些か物騒な水雷のアレコレのお話を繰り広げるのも、忠と渡辺にとっては大事な大事なお仕事のお話だ。酒の勢いという物は時には普段は中々口には出しづらい本音を立場や礼式を乗り越えて話題に出してくれる不思議な力があり、忠も自身の青二才ぶりを理由とはせずに率直にお仕事の上での不平や不満を口にして行く。そしてこんな若輩者の愚痴や言いたい事をこのような酒宴の場で聞いてあげるのは、忠よりも年上で階級も上である渡辺の役目でもある。ただ、愚痴ばっかりの物言い一辺倒には決してならない忠が相手であるし、何よりも忠は不平不満の責を目上の渡辺に求めるような気持ちは無い。酒による軽い気持ちが漏らしてくれる彼の声は、本当に希にしか接する事のできない忠なりの本音なのだ。


『それに被害の確認も難しいですよね? 損傷を与えても標的はそのまんま沈むだけですからねえ。』

『うむ、そうだ。呉の潜水学校の教官に同期がおるんだがな、そいつも同じ事を言っとった。浮上するだけの余力があれば海面に浮上する事もあるが、まあ大体は沈むだけだそうだ。潜水艦っちゅうモンはな。浮かんでくるのは甲板の板か重油くらいのモンらしい。まったく、叩いたっていう手応えがせんなぁ。』

『あはは。おまけに見えもしないんですからねえ。勘弁して欲しいですよ。』


 上機嫌な渡辺はいつの間にやら3杯目となるビールを忠に注いで貰い、手に持ったコップが泡と黄色い水面で一杯になると今度は手近にあったビール瓶を手にして忠のコップへと傾けてくる。さすがに海軍軍人を長くやってきた渡辺の飲酒ペースは忠よりも全然早く、未だ3分の1くらいの量が残っている教え子のコップを見て僅かに声を荒げる。


『おい、森。貴様、飲みが足りんぞ。若いんだからグッと行けよ、グッと。』

『あはは。恐れ入ります。』


 鼻と唇の間にある髭にビールの泡を付けてそういった渡辺の顔は、若輩者への喝にも等しいその言葉に一層の可笑しさを与えるには十分だ。見れば渡辺の顔は首も含めてほのかに赤くなっており、教え子に酒を進めつつも自身は酒の回りが速い体質である事を忠に無言で教えてくれる。だがそんな意外性もまた酒の場では楽しい一時に貢献してくれるという物で、冗談混じりで放った忠の言葉に渡辺は些か大袈裟に首を左右に振って声を返した。


『渡辺教官、大丈夫ですか? お顔が真っ赤ですよ。』

『ばかこのぉ、こんなんで酔うと思ってんのかぁ? はっはっは、赤くなるだけでオレは簡単には酔わねぇんだよ。他人の心配せんで良いから、ほら、まあ飲め。』

『ははは。はい、頂きます。』


 あくまでも忠の心配を否定して笑ってみせる渡辺だが、大体こう言う物言いで心配を拭う人間は宴会中盤にもなるといつの間にやら〝出来上がった〟状態になってしまっている物である。だがしかし年寄りの酒酔いという状態に説教やダメ出しが割と多かったりする世間一般にあって、渡辺はほろ酔い加減に陥り始めていても一向にその様にはならない。酒を勧めつつ忠がまたぞろお仕事上での話題を口にすると一緒になって頭を捻ってくれたりするし、大人しい忠が酒の勢いを借りて放つ言葉を遮るようにして口を挟む事も無く、変わらぬ笑みを酔いによる赤面に浮べて時折頷いたりしながら教え子の話を最後まで聞こうとしてくれている。なんとも有難い上官であり、本人の機嫌の良さは忠に返される言葉にも可笑しさと優しさ、そしてほのかな暖かさを滲ませていた。

 おかげで忠は上司とのマンツーマンの飲み会という状況にあってもそれはそれは楽な気分で酒を飲み、次第に上半身と腕の捻り具合が大袈裟になってきた渡辺の様子を面白がって、酒の匂いも立ち込める自分の息を声へと変えていく。渡辺は決してベロンベロンの泥酔にはなっていないようで、たまに料亭の人を呼んではお酒とお料理のおかわりを何食わぬ顔で注文するなど、まだまだ理性は残っているご様子。しかしその勢いにさらに拍車を掛けるつもりなのか、いよいよ日本酒を所望し出した言動に忠も十分彼が酔いに足を取られてきた事を認めた。

 渡辺曰く、『ビールは最初だけだな。オレぁ日本酒が一番好きだ。』、だそうである。

 どっちかと言えば忠は日本酒はちょっと苦手なのだが、さしもにそんな本音を酒の勢いに乗せて口にしたならせっかくの上司の上機嫌をぶち壊しにしてしまう事は必定であるから、仕方なしと割り切って渡辺に続く形で日本酒をかっ食らう事に決めた。


『けぇえ〜・・・。日本酒はやっぱりキツイですねぇ。』


 どうしても独特の喉越しと胃に染み渡るような感覚に耐え切れずに漏らした、日本酒への感想。片目をつぶった苦笑いにも等しい表情で声を放つ忠に対し、渡辺は大きな笑い声を上げて再び冗談混じりの楽しいお言葉を返してくれた。


『はっはっは。これが解らんてこたぁな、なんぼ優等生って言ってもまだまだ若いんだよ、貴様はぁ。もっともっと頑張ってこれが美味いと思えるようになったら、そん時は貴様、一人前の海軍士官になったってこった。はっはっは!』

『あはは。恐れ入りますぅ。・・・くぅえ・・・。』


 旬の魚の刺身を頬張りながら言った渡辺の声に笑いつつ、忠はまだ喉に残る日本酒の風味に渋い声をあげる。どうやら渡辺教官にしたら自分はまだまだ未熟であるらしい。日本酒に対する味覚をその基準とするというのはなんとも理屈が欠けるが、長年励んできた海軍軍人の先輩の仰る事は肝に命じようと考え、忠は了解と肯定の意を必死に表してみせる。

 すると忠のその謙虚な姿勢故か、それとも酔いがようやく思考回路を侵し始めてきたのか、渡辺は胡坐を崩して手酌の形でもう何杯目になるかも解らない日本酒をお猪口にを注ぎつつ、ふわふわと浮かび上がるような声色で忠を褒める言葉を述べ始める。

 だが忠はそんな渡辺の言葉に僅かに眉をピクリと動かして渡辺へと僅かに見開いた目を向けた。なぜなら渡辺が口にしたのは、忠が心に既に決めている水雷学校卒業後の身の振り方に言及する内容であったからだった。


『いや、いやあ。しっかしなぁ。・・・なんだ、砲術学校も3番、水雷学校もこの分だと最低でも3番は確実だな、貴様は。よく居るんだよな、貴様みたいに兵学校では目立たなくても、一端の海軍士官として働き始めてから芽を出す奴ってのはよ。こういうの見抜けないで特務艦乗組みにしちまうんだから、人事局もちっとは考えモンだよなぁ。』

『え・・?』

『いやな、煽てるつもりは無いんだが、貴様は考課表の上でも人事局の目から見ても、次は立派な軍艦が適任だと思うぞ。』


 突然の渡辺の言葉に忠は酔いが瞬時に引き、驚きとも放心ともとれるぼんやりとした表情で渡辺の顔に眼差しを向け続ける。だがその間にも渡辺は赤い顔でにんまりとしながら、水雷学校教官としての自分が考える教え子の今後をゆっくりと声に変えていく。ちょっと困った様に忠が謙遜という形で自身の言葉を否定しても、渡辺は全く聞く耳を貸さずに忠の今後に本人が望まぬ鮮やかさを与えようとした。

 もちろん渡辺はそんな教え子たる忠が砲術学校と水雷学校でひたすら頑張ってきた根本に、今しがた自ら口に出した特務艦の存在が在る等という事は知る由も無かった。


『いやあ、渡辺教官。私はただ普通科教育課程を終えた程度ですし、そんな大した男では・・・。』

『ばかこのぉ、んなこたぁ無い。水雷と砲術ってのは結構勝手が違うモンだが、そんな中で貴様みたいにどっちも優等で通る奴はそんなにいるモンじゃないぞ。そうだな、砲術と水雷のどっちでも花形にして食っていける船ったら・・・、新型の巡洋艦か。・・・うん、どうだ貴様、舞鶴(まいづる)所属の花の利根(とね)型巡洋艦なんか行ってみないか? ん?』


 ひょんな所で出てきた利根型巡洋艦の名前は、渡辺の突如の申し出を声として受けた直後より抱いてきた一抹の憂いへと意図せず結ばれてしまう。この水雷学校をあと4ヶ月で終えた後に必ず帰ると誓った、元の職場にして大事な大事な相方の待つ場所、明石(あかし)艦。当時まだ忠がそこに居た頃、相方と供に頑張っていた波間に、今しがた渡辺が口にした利根型巡洋艦もいた。相方の分身たる明石艦と全く同年代に建造され、供に第二艦隊の構成艦として配属されたのも同じ昭和14年11月15日の艦隊編成時である。

 艦の命である相方はその事からかつて一緒に頑張っていた日々の中で、忠にそんな利根型の2隻は自分の同期に当たる間柄だと語った事があり、忠はぼんやりとした絵で脳裏にその時の記憶を思い出す。




『利根と筑摩(ちくま)はね、歳も同じで艦の大きさも同じ。竣工も大体同じで、ホントの意味で同期なんだよ。』

『へぇ〜。艦魂にもそういうのあるんだぁ。明石とは階級も同じなのかい?』

『うん。でも私は軍医少尉で、利根と筑摩はそのまんま兵科の少尉さんだよ。でも新型でも単独の戦隊を組むって言ってたから、戦隊旗艦をやるどっちかは中尉に格上げされるって言ってたっけ。』


『ははは、若いのに中尉なら神通(じんつう)辺りは怒りそうだな。』

『あはは。もう怒っちゃってるよ。神通はただでさえ目がこ~んなんなってるんだもん、こないだ利根なんか会議中に目が合っちゃったみたいで泣きだしちゃったよぉ。』

『ははははは。』




 忠の脳裏に浮かんでくるのは相方とのそんなやりとりと、ハッキリと顔が浮かんでこないのに神通の鋭い目つきを真似ようとして目尻に指を添えて吊り上げてた相方の言動のみ。戦艦や空母の様に大きく無いあの明石艦の中、どの場所で何時頃の時間帯に会話したかさえも思い出せず、お互いに笑い合ったのに相方の声の音色すらも記憶から検索できなかった。

 だがそれでも帰ると心に誓い、未だその誓いに対して諦めの気持ちなぞ毛頭抱いていない忠。その雲を掴もうとするかの様な決意こそ、彼が砲術学校と水雷学校で優等を貫き通せた源である。

 それ故に忠はなんとか渡辺の提案を否定したいと無意識の内に思考を巡らせ、そも人事局という別な組織の管轄である忠の身の上に、水雷学校の教官の一人でしかない渡辺が何故か意見できるかの様な物言いをしている事に、その攻め口を見つける。加えてよくよく考えれば、配転先の希望も激しい新型の巡洋艦に鶴の一声で配属できるなど、どうにも話が上手過ぎると今更ながらに忠は思った。


『利根型は搭載機も多いし雷装もしっかりしてるし、砲撃力も今までの重巡辺りとはほぼドッコイだ。これからの帝国海軍の一線部隊では必ず主役として立ち振る舞う艦だぞぉ、森ぃ。』

『あの、渡辺教官・・・。な、なんか話が上手過ぎませんか? 私は唯でさえハンモックナンバーは低い方ですし、同期の連中は先月の11月15日付けで中尉に進級した奴だっています。考課表だけでそこまで行けるモンなんですかぁ・・・?』

『おほ。さすがに鋭いなぁ、貴様。はっはっは!』


 独り言のような格好で利根型巡洋艦の長所を述べていた渡辺を遮るが如く、忠はあくまでも自分が利根型に行くに当たって適当な要素があるかどうかを疑う形で声を放ってみる。決して好きな女性、しかも人外の存在が待ってます等とは言わなかったが、別に忠が並べた疑いの点は間違っている物ではない。


 忠を含めて220人もいた兵学校66期は、全国津々浦々から「男の中の男」を自負し、世間一般の未婚女性が羨望の眼差しを向ける海軍士官としてその身を立てようと、並々ならぬ決意で一念発起した少年達の集団。そも海軍兵学校は陸軍士官学校の様に朝鮮や台湾といった生粋の日本人以外の者には一切門戸を開いておらず、まさに日本男児の模範たる存在を標榜して育てる格式有る学び舎であり、忠達66期の220人は我こそはと勇んでそこに集った者達である。忠は田舎の中学では学年一位を取れるだけの秀才であったが、そんな輩を4千人近くも集めてふるいに掛けた生き残りが忠を含めた220人で、当然学力を始めとする平均的なその他一切の学業成績は飛び抜けて高い。おかげで忠も彼なりに必死に頑張ってみたものの、その言葉通り彼の卒業成績は決して高い方ではなく、むしろ下から数えた方が早いという有様であった。

 同時に帝国海軍の士官の実情はこの兵学校における卒業成績、いわゆるハンモックナンバーが非常に有力視される傾向にあり、言わずもがなその差は昇進に対して顕著に響いてくる物である。「貴様と俺」という常套句はそんな同期にも関わらず年月によって如実に開いていく階級差という現実の裏返しでもあり、司令長官や海軍大臣にまで上り詰める者がいる後ろでは、一介のお船の艦長さん程度で現役を終える海軍軍人というのも現実に存在する。そしてその後者に当たる者達に共通する海軍軍人としての要素として、ハンモックナンバーが下位であったという事が非常に多いのが栄えある大日本帝国海軍という組織の実情であった。


 それ程までに重視されるハンモックナンバーの重さを下位とは言え実際に付与されている忠が知らぬ筈も無く、それ故に忠は同じく普通科教育課程を供にしている仲間達を差し置いて憧れの的である新型巡洋艦に配置される事が有るのか甚だ疑問に思えたのであった。それくらい兵学校の卒業成績とは士官にとって重い意味合いも持っているのだ。


 ところがそんな忠の否定を滲ませた心配の言葉を耳にしても、渡辺は手酌で注ぐ日本酒に喉を鳴らすばかり。『くぅ〜っ! んまい!』等と些か忠の声を無視しているかのような態度まで見て取れるが、渡辺は決して教え子の心配を間違いだとは思っておらず、『うん、そうだな。』とあっさりとその言葉を認めてしまう。これにはさしもに忠も拍子抜けして思わず胡坐の上に聳えた上半身がガクンと傾いてしまうが、その上で渡辺は自身の申し出が絵に描いた餅ではない事を忠へと伝え始める。


『そ、そうだなって・・・。』

『わっはっは! まあ、間違っちゃおらんよ、貴様の言いたい事はな。・・・でもな、ちゃんと算もあるんだが、まあ、ここまで話すんなら最後まで話さないとフェアじゃないなぁ。』

『は・・・? ふぇ、ふぇあ・・・?』

『んん・・・。ぃや、実はな・・・。』



 その言葉に続く忠の今後のお話は大いに彼を迷わせる事になるのだが、世の中というのはまったくもって面白い。まさにこの渡辺教官との会話が、忠の一年近くも胸に秘めた、顔も声も思い出せない相方への恋慕の想いを決死の決意へと変えていく事になる。

 同時に忠が持つ幾分薄い一介の男としての自我が、ようやく花咲き始めて行く事になる。

 もちろんその花の色と形は、「良い男」としての彼その物であった。


 もっともそんな自分の事なぞ露と知らず、忠は渡辺の赤くなった笑みに動揺する心でもって眼差しを向け、また耳を傾けるのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ