第一〇〇話 「励み方、始め」
昭和15年12月13日。
寒さも身を刺す柱島泊地の第二艦隊では、目前に迫った艦隊訓練に備えて新たに配備されてきた艦艇と戦隊運動に必要な打ち合わせをしたり、今年度の艦隊訓練その物で重要視されている訓練内容の協議など、艦艇は揃えども未だ準備という観点でのお仕事を主にしてその乗組員達は汗を流していた。それは第二艦隊の長である古賀長官から最も下の立場であるついこの間乗組んだ水兵さんにあっても同じであり、新たな年度の目標を各々が見据えながらのお仕事は海軍も民間企業も問わず、まずこれまでとの変化点をしっかりと把握する事から始まる物である。そしてそれは各々の乗組員達と一蓮托生の身である、第二艦隊の艦魂達にあっても同じ事であった。
昨日の雪模様も嘘かと思えるほどに晴れ渡った快晴の空の下、冬特有のツンとした寒さと乾燥した空気がもたらす見晴らしの良い柱島泊地。まるで鏡が縫いこまれたように陽の光を不規則に反射する波間には大小様々な艦艇がその身を浮べているが、その中でも一番目立つのはつい数日前に第二艦隊へと合流したばかりの加賀艦である。
そも前進部隊とも呼称される第二艦隊は軽快に前線を走り回るが故に機動性に優れた巡洋艦を主戦力として編成されており、山の様に高い艦橋を備えた戦艦などは一隻もいない。空母は一昨年より加わった蒼龍艦を始めとする二航戦の面々がいるが、そこにいる蒼龍艦と飛龍艦は満載でも排水量が2万トンを超える程度の大きさしか無い艦艇であり、公試状態ですら4万トンを悠に超える加賀艦は昨年まで第二艦隊中最大の艦であった飛龍艦のまさに倍以上の大きさである。艦しての幅と全長も一回りは大きく、今からちょうど5年前の近代化改装によって手に入れた加賀艦の全通飛行甲板は、なんとなんと海面から約21メートルもの高さに敷かれている。真横から見ると物凄く大きい羊羹の箱が浮かんでいるようで、存在感は抜群。人類史上初の栄誉を独占した空母に違わぬ、堂々とした立派な艦体であった。
するとそんな加賀艦の上空を、柱島泊地近辺の島々で暮らすカモメ達の一団が通過して行く。寒空の中の哨戒飛行は彼等にとっても重労働なのか、カモメ達はつい最近この柱島泊地の波間に現れた加賀艦のマストや空中線を絶好の休憩場所としていたのだが、本日は上空より一瞥するだけで加賀艦へと降りて行く気配は無い。なぜならそこには、カモメ達にとっては騒がしくて何をしているのかも怪しい存在である人間達が、ただっ広い長方形の飛行甲板上にて一枚の銀翼を中心に数多く密集しているからであった。
『へぇええ〜、これが新型かぁ。』
『おい、見てみろよ、この翼の中の機銃。これ親指ぐらいの弾が出るみたいだぞ。』
『おお、やっと密閉風防が装備になったか。これで艦爆隊や艦攻隊の連中にも同情されずに済むねぇ。』
『うあ、すげー! OPLだ! いやあ、見たのは練習飛行隊以来だ。手荒くナイスだなぁ。』
飛行服や事業服、軍装などと多様な服装にて身を包む男達は、襟や肘に見られる階級章を見る限り士官と兵下士官が一緒になっているようで、中には40代を超えるようないわゆるオジサンと呼ばれてしまう者もいるのだが、その全員が年甲斐も無く少年のように瞳を輝かせて眼前にある僅かに飴色を帯びた銀の肌を持つ飛行機を眺めている。単発機で一人乗りのその飛行機は既存の空母搭載機と比べても別にそれほど大きな機体でも無いが、その場に群がる男どもにとっては新しく手に入れたおもちゃにも等しい期待感と新鮮さが満ち満ちている。
それもその筈で、彼らの瞳に輝いて映るこの飛行機。実はようやく先月に工場から出荷されたばかりの帝国海軍最新鋭機にして、その初回製造ロット分である16機中の1機なのであった。
もっともこの新型飛行機を珍しげに眺めているのは、何も大きな少年達ばかりとは限らない。残念ながら彼等乗組員達にその姿を見る事ができない艦魂達であっても同じで、一機の飛行機を円陣の様に取り囲む乗組員達から少し距離を置いた甲板の一角では、艦の主である加賀の説明を受けながら興味津々の視線を投げる若い艦魂2名の姿が在った。
『九七艦攻の一号と同じ引き込み脚。面倒な洋上航法を単座でこなさなくても良い、無線帰投方位測定器付き。こら、すごいや。』
『あの機銃なんか、私達の艦体に装備されてる機銃と同じくらい大きい。これなら小型艦艇みたいな軟目標への制圧なんかにも対応できそうね。』
この機体の説明を粗方してくれた加賀の横でそんな絶賛を送るのは、いよいよ加賀の下で空母の艦魂としてのお勉強に精を出す事になった飛龍と蒼龍。明石よりもまだ背の低い二人は170センチ半ばもある大柄の背丈を持つ加賀とは随分と対比が目立ち、傍から見るとその様子はまさに先生と生徒の構図。基本的に口数と感情表現が並以下の人柄である加賀にあっても教えを授ける為には声を発する必要があるので、今日はこの間とは違ってその重低音が聞いた声を率先して放ち、周囲で乗組員達が上げるわいわいと楽しそうな声も授業の雰囲気を明るくするのに一役買ってくれる。おかげで加賀先生の指導による飛龍達の修行の第一日目は、まさに彼女達の分身が進水した際の如く、順調な滑り出しを迎えたのであった。
『・・・宇佐辺りの航空隊で使うらしい。・・・新型機はまず教練体勢を整える為に使う物だ。・・・でも遠くない内に私達にも配備されると思う。・・・この機体も基本教練用に貸与された物らしくて、艦隊訓練で瀬戸内西部に行ったら陸上基地に引き渡すんだそうだ。』
潮風に靡かせる後頭部で縛られた長い黒髪を押さえつつ、長く空母として励んできた加賀は新型の飛行機の予想される動向を教え子達に教えてやる。対して生まれてこの方、自分の分身に搭載している機体を新型へと更新した経験が無い飛龍と蒼龍は、初めて耳にする帝国海軍航空機事情の一端へとその理解を深めていく。
別に艦魂である彼女達は飛行機に乗って戦う事は無いのだが、飛龍と蒼龍はそんな疑問をただの一瞬も脳裏に過ぎらせる事無く加賀が放つ言葉に真剣に耳を傾け、さらには与えられるその知識を手持ちのノートに書き込んでいく程であった。
これは海軍艦艇としての自分がどのような役目を持っているかをしっかり解っているが故の行動で、加賀も含めた彼女達の分身は「飛行機を飛ばす船」では無く、「飛行機を用いて戦う船」だという事にその理由がある。空母に搭載される多くの航空機はただ格納庫の容積を食う物資の類等ではなく、まさにその艦にとっての盾であり矛。戦艦が大砲と重装甲を主にし、駆逐艦が軽快さと雷装を主にするのと全く同じであり、いわば飛龍や蒼龍にとってはその手に持つ事ができる唯一の太刀。そしてそんな自分の太刀を駆使して戦う事を想定した際、その重さによってどんな振り方があるか、一体剣先までの距離はどのくらいの長さか、どんな構えをして敵と対峙するのが適切なのか、等を普段から知っておく事は何も艦魂だけにとって重要なお話では無い。
対峙した敵の得物より僅かに長い木刀を作って戦いに挑み、額に巻いた鉢巻が切り落とされるという寸前の危機を犯しつつも見事に敵の脳天に唐竹割りの一撃を打ち込んで倒してみせた、剣豪で名高い宮本武蔵の逸話はその最たる例である。 まして彼女達が戦う相手とは軍事知識に無知な民間船ではなく、同じ様に一国の海軍艦艇としてその誇りと知識を十分に蓄えた船ばかりなのであるから、僅かの差で勝負の境目が出現するのは否応も無く想像できる当然の事態。故に帝国海軍のみならず、戦う船として自身が持つ各種の性能に精通する事は、世界の海軍艦艇の命達にとっては大変重要な意義を持っているのであった。
『・・・この新型、とにかく航続距離が従来の艦戦よりもやたらと改善されてるらしい。・・・上空直衛には有効だ。・・・9月には支那で戦闘に参加したって聞いてるが、おかげで奥地への陸攻隊の護衛もできたらしい。・・・良い飛行機だ。』
『あ・・・、あの、加賀さん。こ、この新型の飛行機、発動機も新規なのですか?』
大柄で無口にして、感情表現が些か欠落している上に切れ味鋭い輪郭の目を持つ加賀は、その場の明るい雰囲気に馴染みきらないおっかなさを常に漂わせている。寒い飛行甲板が授業の場という事で加賀が身に付けた黒い外套はバサバサと潮風に靡き、さらに加賀の頭部では後頭部できつく縛った長い長い黒髪がうねりの具合を一段と増してさながら軍艦旗のように翻る。ほぼ黒一色のこの色合いに風を切る音を伴わせ、微動だにしない口元や目元を表情を浮かべて立っている加賀の姿は、何か時代劇に登場する凶暴にして冷徹な殺し屋のようだ。
そのおかげ飛龍の発したさらなる叡智を請う言葉も動揺とほのかな恐怖を隠せない声色であったが、こんな風貌は加賀にとっては元来の姿。別に加賀は不機嫌な訳でも何でもない。その証拠に加賀は飛龍へとその鷲の如き瞳を流すや、飛行機の外観のみならず中身にもちゃんと勉学の食指を伸ばそうとしている若者の姿勢を褒めてくれた。
『・・・発動機は最近出た九七艦攻の三号と同じ〝栄〟という名の発動機だけど、おそらくこの新型機と艦攻では発動機調整の仕方が少し違うと思う。』
『あ〜、九七艦攻の3号ですかぁ。まだちょっと不具合が多い奴ですよね?』
『・・・ああ。・・・だからたぶん、整備担当の乗組員にも新しい整備技術の教育か、どこか陸上の施設に出向しての研修が組まれるだろう。・・・艦隊訓練の合間を縫ってやる事になるだろうから、二人ともよく覚えておくと良い。』
飛龍とは違って加賀に声を掛ける事に物怖じしない蒼龍の声にも応じながら、加賀は眼前の新型機の発動機における自分達への影響を見事に教えてくれる。さすがに空母の艦魂としてはベテランに相応しい知識を持つ加賀は、この後もピカピカに輝く銀翼の事について二人の教え子の質問に懇切丁寧に答えてくれ、飛龍と蒼龍は早速昭和16年度の海にてその教養を深める事に成功するのであった。
そして加賀の分身が輸送の為に偶然積んでいたこの新たな翼は、彼女が口にした通りにこの年の末にかけて蒼龍や飛龍の分身にも配備されて行くのだが、乗組員達がベタ褒めする多くの機能に裏打ちされたその性能は、一時とは言え対峙する事になった多くの敵性戦闘機にとって雷と同等の鬼門とまで認識される事になる。精悍なフォルムに描かれた日の丸が頭上の晴天に連なったその時、この新型機はまさに太平洋の空に王者として君臨する機体であり、後年に至るも大日本帝国海軍の名と供に永く伝えられる名機中の名機と呼ばれていく存在でもあった。
『は、早く装備されると良いですね、この飛行機。』
『名前も格好良いですしねぇ。』
『・・・ふ。』
どうやら蒼龍の放った何気ない一言に、加賀は同感の意を得たのか特徴的な短い笑い声を放つ。こうして加賀達はその翼との出会いを終始明るく迎え、普通は無しを意味する番号を用いているというその正式名称を深く脳裏に刻むのであった。
『・・・零式艦上戦闘機。・・・零式というところがナイスだ。』
こうして加賀による後輩の教育が始まっている一方、他の第二艦隊所属の艦魂達にあっても同じ様に新たな年度の最初の勉学が行われいる。刻々と変わる海軍情勢に対応する為なのは人間も艦魂も変わらない訳だが、艦魂達による勉学という物を第二艦隊の中で見た時、この部隊ほどその激しさと内容が濃い色合いで現れる場所は二つと無い。竹刀片手にげんこつと怒号が日常茶飯事なのだから言わずもがな。もちろんそれは帝国海軍の全海上部隊中最精鋭を自負する、神通率いる第二水雷戦隊であった。
ただ、今日の第二水雷戦隊における鬼教官による授業は、普段の様に神通艦の甲板上では繰り広げられてはいない。それは本日の私立神通学校の教材が神通艦には無い為で、怖い怖い教官を含めた二水戦の全員は自隊所属である多くの駆逐艦の一隻、雪風艦の狭い甲板にて青空教室を開いていた。
『これが九三式魚雷。私も含めて朝潮達にもまだ装備されてはいないが、今まで陽炎や不知火辺りの艦体に在る物を見た奴も多いだろう。外見の寸法はほとんど同じだが、その性能はこれまでの魚雷よりも格段に上がってる。』
今日も張り詰めた糸のような高めの声を上げ、片手にした竹刀の剣先をすぐ傍に立てかけた小さめの黒板へと向ける神通。その隣には実の妹にして第二艦隊隷下であるもう一つの水雷戦隊、すなわち四水戦の戦隊長である那珂が、姉とは甲乙の差が激しい朗らかな笑みを輝かせている。
一応、顔は似ているこの姉妹。髪型も肩の辺りで切ったくらいの短い代物であるが、首の付け根辺りで綺麗に毛先を切り揃えた那珂に対し、神通は首の後ろ辺りで毛先も不揃いな後ろ髪を短く束ねているのが特徴だ。
もっともおかげさまで見てくれから滲み出る上品さは妹の那珂が格段に上で、神通はまるで野武士の風格を漂わせるちょっと粗暴な感じが見る者にとっては強く印象付けられ、当の神通とて己のそういう雰囲気を実は大事にしている。神通と那珂の眼前にて低い背丈と水兵さんの軍装で勢揃いした両水雷戦隊の艦魂達の中、そんな神通の容姿に対する企図を知っているのは彼女の従兵である霰のみだが、霰にとってはだからこそ、ただ単に上司が怖さという物を身に纏おうとしている訳ではない事は百も承知であった。
意外にも憧れに対して近づこうとする心が強い神通と、些か粗野な感じも含むこの髪型。実は彼女が尊崇する織田信長公のトレードマークとも言える髷、いわゆる「茶筅髷」を意識した物なのである。帝国海軍艦魂社会随一の「歴女」っぷりを誇る神通は15年以上に及ぶ生涯の中で、民間船の艦魂にちょくちょく声を掛けては信長公に関連する書籍を収集するのがほぼ唯一の趣味。本好きで有名な常盤という大先輩にも時には頼んで多くの戦国時代関連の本を読み漁っており、信長公の肖像画も紙面越しに見た事があるというお熱の入れ様である。そして霰だけが知っているそんな神通の側面には意外や意外、若干の妄想癖という物まであったりする。何を隠そう自室にて静かに信長公の書籍を読んでいる彼女の鋭い刃の如き瞳の裏では、肖像画とは似ても似つかない鷲の様な目と精悍な顔立ちを持ち、髭の類は一切無い若さ溢れる信長公のお顔が描かれている、というのだからその方面では割と〝重傷〟なお人である。
ところがそんな理想を追い求める自分の一端をお仕事には一切ださないというのが、怖いと思いつつも霰が信頼して仕える上司。雪風艦中央やや艦尾寄りにある二番発射管の周りに集まった部下達を前に、神通は黒板に記した文字と発射管を交互に示しながら新たな魚雷の知識を述べていく。ついさっき彼女自身が口にした通り二水戦旗艦である神通の分身にすらもまだこの魚雷は装備されていないのだが、まるで使い慣れた得物の如く次から次へと説明してみせるその姿はやはり凄い。
『霰、もう良いぞ。今日は上がれ。』
従兵としての霰のお仕事を終わらせようとそんな言葉を放つ際、上司はいつも既に消灯時間も迫った頃合にも関わらず机に向かっており、霰が一日最後の挨拶をして部屋を去る間際も一向に就寝する気配を見せない。きっとお勉強しているのだろうと霰はなんとなく解っていたが、その不断の努力は今まさに霰を含めた部下達が眼差しを向ける上司の言動に良く現れていた。
『これまでと違うのは、この魚雷は第二空気と呼ばれる特殊な気体を用いる事にある。だからこれまでの魚雷とは別にして、装備する艦にはこの第二空気を取り扱う艦内設備、それから取り扱いの為の専門教育を受けた水雷科の人間が必要となる。この魚雷が制式化されたのは名前の通り今から7年も前だが、その間に建造された朝潮達の駆逐艦、それから私や那珂のような従来の巡洋艦なんかにもまだ装備されていないのは、その艦内設備を揃えるのにそこそこの規模での改装が必要であるからなんだ。まあ、今年の春頃からはその改装がようやく始まるらしい。もちろん装備するのは私達、第二艦隊の水雷戦隊だ。』
神通が言い終えると二水戦のみならず、那珂が率いる四水戦の駆逐艦の艦魂達にあっても静かに感心の吐息を折り重ね、今日という日まで知る事が無かった新式魚雷への理解を一様に深めていく。毎日夜遅くまで頑張る神通の独学とそれに伴う言葉は、一本の魚雷のみに留まらない艦全体を見据えた上での事情。「何がどうなってどういう代物になっているか」という基本的な部分から始まるその語りは、霰以外は誰も知らないものの、とても理想のみで信長公のお顔を勝手に妄想する夢見る輩のお言葉とは思えない。
『詳しいなぁ、神通ぅ・・・。』
発射管を隣にして神通と那珂を半円状に囲んだ二人に従う駆逐艦の艦魂達の中、感心を通り越してどこか気が抜けたような声をあげたのは明石。水雷戦隊の一員ではない明石がこの場にいるのは少し不自然であるが、これも明石艦の艦魂である自分に必要な知識の一つと思っている彼女は、身に纏った軍装が自分だけが士官で周りはみんな水兵さんという違いを気にする様子も無く、自前のノートに早速鉛筆を走らせていく。
その理由はそんな明石の分身が、眼前の新式魚雷よりもさらに最新鋭である工作艦であったからだ。
厳密に言えばそれは明石艦の持つ多様な工作設備の一部に兵器工場という名の区画が設置されているからで、この区画ではその名の如く実際に敵に対して使う武装関連の取り扱いを行うのである。もっとも原材料を加工して魚雷や弾丸を一から作るという訳ではなく、例えば艦砲の尾栓付近に存在する多くの小部品の整備補修、常日頃からの調整と動作管理が必要な魚雷の整備等がその主目的。製造といったこの世に〝生み出す〟為の観点ではなく、飽くまでも整備補修といった〝維持管理〟の観点が強いのである。
さしもに明石もそんな自分の分身の事は良く解っていたのだが、如何せん戦闘艦艇ではない明石には大砲や魚雷などの知識が決定的に欠けている。かつては艦砲を扱う砲術科の士官として励んでいた相方に教えてもらう機会もあったのだが、周知の通りで明石の分身の中には今はそんな人間はいない。そこで親友でもある神通がそんな戦闘艦艇の艦魂としては大変に優秀であった事をこれ幸いと考え、明石は本日の第二艦隊内の水雷戦隊共催である新式魚雷のお勉強会に自ら申し出て参加したのである。
そしてその先に見た親友の姿には、やはり自分とは違って戦う船の命としての叡智が豊富に身に付けられていた。
『はい。質問よろしいですか?』
するとその時、前列で座っていた少女達の中、真っ黒の外套よりも少し色が褪せた肌の手を上げつつ一緒に声も上げたのは、最近ようやく右足首の捻挫も治って元気印の笑顔も戻った霞。自分の分身にある砲塔の上からバク宙をかませる程に右足は完治しており、渾名に違わぬ身軽さを既に仲間達にも見せ付けた彼女。
だが残念ながら、先月の柔道大会でちょっと進捗したかに見えた天敵との仲までも元通りになってしまった。
『キャッキャとうるせーなぁ。黙ってろよ。』
『アンタに言ってないわよ! ウンコみたいな髪しやがって!』
『テメーに言われたかねーよ! このババ色猿が!』
『なにを、この野郎!!』
久々な様で二水戦では日常茶飯事なこのやりとり。ふと明石もその怒号に気付いて二人を見るや、これまたどうした理屈なのか二人が座る位置は例によって隣同士。もう1年くらいこうして短い口論の末に大喧嘩する仲なのに、どうした事かこの二人はいつも同じ場に存在してしまうという奇妙なコンビである。元気になった霞に思いっきり自慢の茶髪を引っ張られるも、お返しとばかりに麻色の肌を引っ掻いて応じてみせる雪風、という在り方も相変わらずらしい。次いですぐに付近にいた霰を始めとする二水戦の仲間達がそれを止めようとするが、憎き天敵をやっつける事で思考が支配されている霞と雪風を問答無用で黙らせる方法もまた相変わらずであった。
『この馬鹿がああ!!』
『ぎゃ!』
『ぐへ!』
お互いに2、3発小突いた辺りでそれぞれの脳天へと急降下した爆撃は神通のげんこつ。毎度毎度怒られる時と同じく霞と雪風は鈍痛とタンコブと涙でもって天敵対峙を一時休戦とし、しかも今日はまた自分達を含めた二水戦だけではなく、上司の妹が率いる四水戦もその場にいたのだから具合が悪い。二人は大いにお叱りを受けて終いにもう一発げんこつを頂き、早速四水戦の者達によって二水戦は大笑いされてしまう。もっとも普段から見ても珍しい四水戦との合同の授業を大事に考えている神通はこのげんこつ2発によってお仕置きの時間を終え、余りにも相変わらず過ぎるその光景に明石も心配などせずに一緒になってクスクスと笑ってしまう始末だった。
やがてそんな笑い声が木霊する中で二人の部下の所から、その真正面である那珂の控える黒板の傍へと戻って踵を返した神通。ただでさえ鋭い瞳がその切れ味をさらに一層増しているのは完全なご立腹の胸の内を如実に示しているが、そんな顔で放つ語気を緩めた神通の声は早くも言う事を聞かない配下の者を成敗するのではなく、教えを授ける者としての言動へと変わっている。
『で、なんだ、猿? 質問があったんだろう? さっさと言え。』
まだ少しご機嫌が斜めな神通の物言いはやはりと言うべきか当然と言うべきか、ぶっきらぼうの一言。なまじ美人ながらも顔が物凄くおっかない上司の凄みは相当な物で、霞は直接指名されて質問の続きを問い掛ける権利を与えられたものの、まだ脳天より響いてくる鈍痛と恐怖によってすぐには言葉が出てこない。ただそんな神通が声を掛けてくれた後、沈黙が続いてしまうとさらにその恐怖と申し訳ない気持ちが膨らんでしまう為、霞は思い切ってまだちょっと痛みに歪む声を返してみた。
『あ、あの、あいてて・・・。この魚雷が凄いのは解りましたけど、や、やっぱりその分だけ高価だったり、す、するんですか・・・?』
『あん、値段か? ・・・なんでそんな物を気にする、猿?』
基本的に通貨という物の概念が余り用いられない艦魂社会にあって霞の質問は神通の言う通り些か場違いな内容であり、転じてこの霞という少女が何故に今の様な質問を放ったのかが雪風や霰を含む二水戦の者達には理解が出来ない。それは一様に10代後半の容姿を持つ二水戦どころか、20代の容姿を持つ者もそこそこに多い四水戦の面々も同じであり、直属の上司である神通ですらもその質問の真意を見抜けずにいたくらいである。だが次いで霞が口にした言葉は、長く駆逐艦の艦魂達を教えてきた経歴を持つ神通をして、「指揮官としての才能では自分をも上回る」と言わしめる霞の特徴が良く滲み出ていた。
『だ、だって、そんなに凄い性能の魚雷なら、その分中身の構造や部品も、い、今までより良い物を使ってるって事ですよね? が、額面上の性能は良いとしても、高価なら高価なほど調達が難しい筈ですから、例えば撃った後の補充とか、さっき戦隊長も言ってた改装による装備なんかでも手間取ったりするんじゃないんですか? もし雷装の違いが生じたら発射計画も複雑になりますし、隊として戦隊長の指示一つで雷撃するのも難しくなるじゃないですかぁ。あいて・・・。』
頭に出来た大きなタンコブを擦りながら、涙目のままでそう言ってみせた霞。だがその言葉は一つの集団での行動をちゃんと意識する内容で、高性能とだけ説明した神通の言葉を受けて霞なりに独自に発展させた新式魚雷への素直な考察。その一端を確認する為に敢えて彼女は自分を含めた艦魂社会では余り用いられないコストという物に着目したのであり、運動だけでなくおつむの出来も中々である事を上司である神通や那珂へと示してみせたのだった。
残念ながら霞と同じ水兵さんの格好をする艦魂達にはそこまで霞への理解を及ばせる者は皆無であったが、神通だけは持ち前の連帯感を意識したそんな部下の思考を即座に理解する。
陽に焼けた様な麻色の肌に元気と熱血な心を秘めた霞は、雪風という天敵と我を忘れて大喧嘩したりする未熟さはまだまだあるものの、二水戦の多くの駆逐艦の艦魂達の中でも最も利口で、何事も皆で何かを成すという枠からその思考が逸脱する事はない少女なのである。供にそのやんちゃな性格に反してお勉強の成績は良いにしても、この辺りが良きライバルである雪風との大きな違いであった。
そしてそれは自分にもまた無い霞なりの長所であると神通はしみじみ感じつつ、胸の下で腕を組むと早速そんな部下の質問に答えてやる事にする。
『ふぅむ。そうさなぁ・・・。』
『・・・。』
ここに至ってようやくご機嫌が元通りとなった神通は少し呆けた表情で空の一角に視線を投げ、自身が蓄えてきた知識の中から部下への回答となる物を検索し始める。
その様子を周りの者に混じって明石もじっと瞳に映し、実際に自分の分身の中で修理や調整を行う事になるであろう魚雷とはそもおいくらなのか、という疑問に答えを欲していた。明石の場合はかつての相方が酒保にて大量のお菓子を調達してくれたり、寄港先にてご当地名物の食べ物を買ってきてくれた記憶が有る為、通貨の価値がいまいちピンとこない霞達よりも幾分は金銭感覚が備わっているのだが、やがて神通がさらりと放った金額にはそんな明石ですらもビックリ仰天してしまう。
『う~ん。諸々の設備に、人員の分の手当てや俸給も勘定すればもっと高いんだがな。ま、とりあえずこの犬の発射管に詰まってる魚雷4本で、ざっと20万円といったところか。』
『ええええー・・・!』
神通と那珂の周りを埋める30名近い人数の艦魂達の中、唯一人だけ驚きの絶叫を上げた明石。その右手からは握られていた鉛筆がポロリと落ちて行き、見開いた両目と大きく開いた口をそのままにただただ驚くばかりである。
一方、明石のような驚愕の表情に至れない霞達は明石の反応とその真相が良く解らず、おもむろに隣にいる仲間等とひそひそと声を交えて事態を飲み込もうと試みるが、生憎と金銭感覚に疎い駆逐艦の艦魂達には一向に理解が出来ない状態であった。
『お、おい、猿・・・。に、20万円て高いのか・・・? そ、それとも安いのか・・・?』
『あ、アレはアンタの魚雷でしょ、雪風。・・・だ、大体なんで自分で解ってないのよ。・・・な、なあ、霰。』
『う〜ん・・・。ウチの酒保は、郵便ハガキが1銭5厘、歯磨き粉が2銭、洗濯の石鹸が10銭やからぁ・・・。う〜ん・・・。』
どうやら神通が教えてあげた魚雷4本のお値段が持つ価値は、駆逐艦の艦魂達にはちーとも伝わらなかったらしい。殆どの者はお互いに顔を見合わせたまま首を捻り、霞や雪風のような意地っ張りは理解できなかった自分を悟られぬように振る舞い、トロい思考回路の持ち主である霰などは両手の指を総動員してもはや円という単位にすらもならない金額を一生懸命勘定する、という有様である。まだまだ若い故にお金という物の価値の有無は別としてその度合いがよく解っていない上に、そも艦魂社会ではそうそう目にする事の無い額のお値段は霞達にとっては難解な方程式のような物で、さすがの神通もそんな上手く理解に至れない部下達の様子を目にするや、大きく溜め息を漏らして項垂れてしまう。
ダメだ、こりゃ・・・。
そんな言葉を思わず脳裏で呟く神通であったが、それまで神通の隣でクスクスと眼前の光景を笑っていた那珂がここで解り易い対比を声に変えてくれ、女性ながら低くハスキーな声色で語られるその内容にようやく霞達は明石と同じ表情になり始める。
『ふふふ。そうねえ・・・、例えば、5千円も有れば人間達が住む立派な家が1軒建つわよ。』
『ご、5千円で・・・!? ま、待てよ・・・、てぇことは1万円で家が2軒・・・。その20倍だと、い、家40軒分・・・!?』
『あははは。ついでに私や神通姉さんが積んでる水上偵察機は、発動機や搭載する無線機、計器、機銃、爆弾なんかも合わせて、・・・全部で10万円くらいかな。』
『『『 えええええ! 』』』
『こ、この発射管に詰まってる4本だけで・・・、ひ、飛行機が2機買えるの・・・!?』
ようやくその場にいる者達の全員が同じ金銭感覚へと到達した事は喜ぶべき事でも在るのだが、おかげさまで神通と那珂以外の艦魂達は今まで当たり前のようにその分身に積んでいた自慢の槍のお値段に目玉が飛び出る程の驚きを覚えてしまう。特にまさに神通が示した発射管の持ち主である雪風は大きく開いた口は勿論、寒さの為に鼻からツーと垂れてくる鼻水もそのままに声を失い、周囲の騒々しさから隔離された真っ白な脳裏の中で、自身が備える予備も含めた16本の魚雷が如何に高価である代物なのかを思い知る。
高性能を売りにして上司が紹介してくれた、この九三式魚雷。べらぼうに値の張る兵器であった。
一概に物の価値という物を金額で表す事は難しいが、このように世間一般的な中で重要な指針である事は人間でも艦魂でも同じである。特に本日の駆逐艦の艦魂達にとっては普段から余り意識した事の無い自分の価値という物に対して、まず誕生した時より今しがた学んだばかりの魚雷を始めする高額な財力が投入されている事を身を持って思い知り、現代兵器の代表格である飛行機すらも凌ぐという額が与えたその衝撃は生半可な物ではない。だがこんな一幕をも自分の身の程を知る事に繋げる器用さを上手く用いるのも艦魂の特徴で、神通と那珂は水雷戦隊所属の艦魂にとっては当たり前の存在である魚雷の価値の重さを改めて認識させ、各々が得たその強い衝撃をよく心得て今年は訓練に励むようにと本日の教育を纏めてみせる。
翌日より二水戦、及び四水戦の駆逐艦の艦魂達が誰と言う訳でもなく、毎朝の魚雷磨きを己の日課として組み込んだのは言わずもがなであった。
こうして第二艦隊の艦魂達は各々が頂く師匠に導かれ、昭和16年度の最初の一歩を踏み出したのであった。
◆作中捕捉◆
読者皆様、いつも明石艦物語をご拝読くださり有難う御座います。
さて、作中にて乗組員達の台詞の中に「OPL」という言葉が出て参りましたが、恐らくご存知の方も多いと思われますがこれは光像式照準機の当時の俗称で御座います。これが現代ではヘッドマウントディスプレイへと繋がり、情報量も偏差や見越しの目安程度だった物が、現代では自機敵機の相対情報はおろか、火器官制にアラート機能までも付いているのだと考えると中々に面白いですね。
ご存じ無い読者の方もいるかと思いますので、実物の映像をご参考にどうぞ。
【http://www.nicovideo.jp/watch/sm5412885】
それと作中で加賀艦に輸送品として零戦の初回生産ロット分の一機が搭載されておりましたが、これは作者の創作で御座います事をここに明記させて頂きますが、いわゆる日本海軍機=零戦のイメージが強い現代ですがその登場は実は正に開戦の年であり、70年以上の生涯であった帝国海軍にあっても割りと最近であった事を意識して頂ければ作者としては幸いで御座います。また台詞の中だけにしておきましたが、その心臓たる栄エンジンもまた、この頃はまだ後の誉エンジンと似た様に加熱関連での不具合に悩まされていた事は史実で御座います。