5.帰り道
靄が立ち込める朝。
今日が非番だからという理由で、昨夜飲み明かした俺は人通りの少ない道を歩いていた。
いつもは騒がしいぐらいに人が多い城下は驚くほど静かで、基本的に鳥のさえずりと、自身の靴音しか聞こえない。
時折、新聞を抱えた配達人とすれ違う。
早朝からご苦労な事だと片手を上げれば、配達人はペコリとお辞儀をして、小走りに仕事へと戻って行く。そんな生真面目な配達人を見送り、俺はふとマスターの言っていた事を思い出した。
『お前みたいな根が真面目な奴が昇進しないなんて信じられん! 俺が部隊長になれるよう、口添えしてやろう!』
『止めてくれ、マスター。俺が真面目だなんて目は大丈夫なのか?』
酔っ払いだが、記憶を飛ばすほどじゃないマスターが言い出した言葉には正直焦った。
俺を気にかけてくれているのは有り難いが、その申し出は贔屓が入っているとしか思えない。
現在、アスタシアは何処の国とも戦ってはいない。
隣国のノーティスとは友好関係が続いているし、他の隣接している国とも揉めてはいない。
ましてや、遥か南の島国が攻めてくるなんて事もなく、今は平和そのもの。
そんな中、俺が部隊長なんぞになってどうする?
俺は程々腕に自信はあるが、ただそれだけ。
今の時代、隊長に必要なのは人をまとめる力。
外敵がいる時には案外まとまりやすい心は、その対象を失うと途端にバラけてくるからだ。
大体、プライドだけは山のように高い貴族どもが、半端者の俺の言う事を聞くとは思えない。
一昔前なら力でねじ伏せてしまえばいいが、悲しいかな。今はそれだけじゃあ足りない事を俺は知っている。
(結局、品という壁が、俺の足を引っ張るってわけだ)
それが無いなら、無いなりに。
現状に満足している訳ではないが、がむしゃらに努力をしようとも思わない。なぜなら、本当に欲しいモノにはもう二度と手が届かないと知っているからだ。
そんな冷めた俺には、下っ端がお似合いだという事を誰よりも俺がよく知っている。
――――離して!!
突然響いた声に辺りを見回す。
流れる靄。切迫した空気。そして、僅かに聞こえる足音。
ただ辺りの視界は悪く、人影は確認できない。
(今の声……女、だったよな?)
こんな朝っぱらから出歩いているという事は、夜の蝶だろうか?
しかし、そういった女達は上手くあしらう技を持っていると聞くし、そもそも一人で出歩いたりはしないだろう。ならば。
(……世間知らずの令嬢か!)
少し前、家族が構ってくれないからと屋敷を抜けだした令嬢を保護した事がある。
その内容に呆れて叱れば、大泣きされ、酷い目にあったのは記憶に新しい。
いくら城下が比較的安全だと言っても、ゴロツキや酔っ払いはいる。
そんな奴らを庇う気はないが、目の前にお宝が転がっていたら、拾いたくもなるだろう。
俺は自分の耳だけを頼りに、声の聞こえた方へと走る。
微かに聞こえるのは複数人の男の声。言葉は聞き取れないが、声を荒げている様子はない。やはり酔っ払い同士の喧嘩ではなさそうだ。
女が連れ去られたら、やっかいだ。
そう思った俺は途中から気配を消し、慎重にその場へと急ぐ。
靄を自分の身で裂き、目を凝らして視線の先を窺う。
すると、路地の奥で男に囲まれた女の姿が見えた。
「エレイン……?」
蜂蜜色の髪と、男共を見上げるアメジスト色の瞳。
それは間違いなく、あの生意気な薬師、エレイン=アーサーズだ。
(どうして、こんなところに?)
次々に疑問は浮かんでくるが、ある意味自業自得だと鼻で笑う。
ただ、いけすかない女だが身捨てるわけにはいかない。
そう思って「お前ら、何やってるんだ」とドスの利いた声をかけると、男共は声を荒げながら振り返った。
しかし威勢がいいのは初めだけで、俺の顔を見た途端、青ざめた顔をし、慌しく逃げて行った。
(はっ! 人の顔を見て逃げるぐらいなら、初めっから手ぇ出すなっての)
悪評が初めて役に立った瞬間だが、そんな事よりも、どうしてエレインがこんな時間に出歩いているのかが気になった。
俺は改めてエレインの方へ近づく。
さすがにこの状態で俺を罵りはしないだろうと思いつつ、礼の一つでも言わせる事ができればしめたもんだと、意地悪く笑う。
(『ありがとうございます、ディーン様』とでも言わせてやろうか)
そんな事を思いながらニヤニヤする俺は相当性格が悪い。
だがしかしエレインは、俺をこういう風に考えさせてしまう程、イライラさせるのだ。
「エレイン」
さあ、助けたのが俺だと分かって驚け。そして嫌々、礼でも言うんだな!
屈辱的に歪むエレインの顔を思い浮かべて、意地悪く口角が上がる。
目もスッと細くなり、顎をしゃくる様に上げた。
まるで見下した姿のお手本のような姿勢で、俺はエレインが顔を上げるのを今か今かと待ち続け――……
「……は?」
漏れ出たのは、間の抜けた声だった。
エレインは顔を上げてはいない。しかし代わりに、俺の袖口をギュっと握ったのだ。
よく見れば髪は乱れていて、いつも付けている髪飾りがなくなっている。
恐らく連れ込まれた時に……そう思って、足元を見ればやはり花の飾りが落ちていた。
俺はその場にしゃがみ込み、掴まれている袖口とは逆の手を伸ばす。
ただ髪飾りは伸ばした手とは反対側に落ちているので、なかなか届かない。
(ああクソ! 届かねえ!!)
内心悪態付きながらも懸命に手を伸ばし、やっとの思いで髪飾りを掴む。
伸ばした身体を戻そうと石畳の上に膝をつき、そこでレンガ色の石がぽつぽつと濡れている事に気がついた。
雨でも降り始めたのか?
そう思い、上を向いて――――動揺した。
エレインが、泣いていた。
アメジスト色の瞳からぽろぽろと零れる大粒の涙。
口は声を漏らさぬよう、ギュっと引き結ばれたままで。
雷に打たれたような衝撃が身を駆け抜けた。
全身が震え、頭の中が真っ白になる。体を動かす事はおろか、息をするのも忘れ、ただ、瞳から零れ落ちる涙に見入った。
初めて見るエレインの涙は、酷く胸を締め付けた。
(俺は……)
こんな風に泣いているエレインに気付かず、あんな意地の悪い事を考えていたなんて。
もっと言うなら、どうしてすぐに助けてやらなかったのだろう? もっと早く、一秒でも早く声を出して助けてやるべきだった。
「エ、エレイン……」
すまない。
そう言いかけて俺は――――呼吸が詰まった。
鈍い痛みが走り、思わず腹を抱える。
「最っ低!! あんたの顔なんてもう二度と見たくない!!」
エレインはそう言い放つとそのまま路地から飛び出して行く。
すべては一瞬の出来事で。
俺は何がどうなったのか分からない。
しかし、言われた言葉はしっかりと拾っていて。
「最低って……、どういう事だよ」
言われの無い暴言に髪飾りを握りしめ、その場に座り込んでいた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
俺は最高潮に苛立っていた。
蹴られた腹は痛むし、手に握った髪飾りは捨てられないし。
早朝と靄が幸いして、俺の怒りの形相は誰に見られる事もなく、無事屋敷に到着した。
怒気を放つ俺に執事も兄弟達すらも声をかけては来ず、そのまま自室へ入る。そうしてから、握りしめたいた髪飾りをソファーへと投げつけ、その正面に腰を降ろした。
『最っ低!! あんたの顔なんてもう二度と見たくない!!』
罵られてすぐは意味が分からなかったが、今ならハッキリわかる。
「最低なのはお前の方だろ……!」
助けてやったのに、礼すら言われる事なく、逆に蹴飛ばされる。
あまつさえは顔も見たくないなんて暴言を吐かれながら。
(俺だって、好きでお前の顔を見てるわけじゃない!!)
今朝だって偶然、声が聞こえて。
エレインが男共に囲まれていたから助けてやったというのに。
なんであんな風に言われねばならない? どう考えてもおかしいだろう?
俺はソファーに転がった髪飾りを睨みつける。
(折角、拾ってやったのに……)
本来なら助けた礼と一緒に感謝されるべき事だ。
なのに。
「……あーあ。助けるんじゃなかった」
馬鹿らしい。
やっぱりざまあねえなって思ったまま、捨て置けばよか……
……と、そこまで考えて、ドクリと心臓が鳴った。
まさかエレインは助けに入るのが、少し遅かった事に気がついている?
『ざまあねえな』
一瞬そう考え、自業自得だと鼻で笑った自分。
それは助けに入る時間を確実に遅らせた。この部分を指して『最低』と言われたなら……。
……かといって、俺が謝りに行くのか?
それはおかしい。
助けるのは少し遅かったかもしれないが、結果的にエレインは無事だったじゃないか。
俺が謝る必要なんてない。
そう考えた脳裏にエレインの姿が映る。
乱れた髪。
引き結ばれた唇。
零れ落ちるのは大粒の涙――……
ヒヤリと背筋が冷えた。
(……まさか)
無事、じゃなかった?
だから、あんなに泣いていて……?
そう思ったら腹立たしい気持ちがスッと冷えて、自分のしでかした事にうろたえた。
酷い事をされ、泣いているエレインをすぐ助けず、礼でも言わせようとそんな浅ましい事を考えた自分。
(最低じゃないか……)
いくら仲が悪くても。
いくらエレインが俺の事を嫌っていても。
そう気が付いたらもうする事は決まっていて。
俺は髪飾りを握りしめ、すぐさま屋敷を後にした。
お読みいただきましてありがとうございます!(*^_^*)