~序の段三~
おかしいな、と思っていた。
物心ついた頃から、おかしいな、と感じていた。
どこかに線が引かれている。
望むものは大抵手に入った。望まないものでも与えられた。
出会う人は誰も、笑顔を浮かべていた。しかし、目は笑っていなかった。どこへ行くのも自由だったが、常に誰かの目が光り、真の意味では行動を制限されていた。
それに気づいた時、胸に火が灯った。誰にも見せないが激しい怒りが胸に宿る。
誰にも見せないが怒りと共に生きる毎日。それは年に似合わぬ自我の発達を促した。自分は何のために生きるのか、何故このような虜囚のような扱いを受けているのか。
きっかけは何だったろうか?
些細なことだったと思う。覚えていないくらいだから、本当に些細なことだったのだろう。
しかし、起こった事態は重大な事件となった。
「わたし、奔放になろうと思うの。わたしは与えられる物ではなくて、自分の力で手に入る物が欲しいの。それが、どんなにつまらない物でもね。だから、まずはお父様に反抗するわ」
聡明で、美しく、大人しく従順な少女の渾身の血盟。瞳に灯った力はけして覆ることはないだろうと知れる。
「お嬢様、如何なされたのですか。何不自由無く、なんでも与えられる素晴らしい生活ではありませんか」
「そうかしら? 不自由を感じる自由すら奪われていたわ。欲しくも無い物はいくらでも貰えたけれど、欲しい物は何一つ貰っていなかったことに気づいたの。わたしが欲しい物は簡単なものよ。どれほどちっぽけでも自分の力で手に入れた物、それだけ」
これには父である領主も、困り果ててしまった。娘を呼び出して問いただすより他にない。
「最近は一体どうしたのかね? あれほど聞き分けの良かったお前がまるで別人のようだ。何一つ不満を抱かないよう、細心の注意を払い蝶よ、花よ、と育てたつもりだが……」
娘の表情は、微かな笑みを湛えている。いつもの通り、他人に好感を抱かせる柔和な笑みだ。それが即座に別の物となった。
笑みはそのままに、氷のような、剃刀のような触れなば切れん危険な表情だ。
同じ表情にもかかわらず、載せる感情でこうまで印象を変える事が出来るのか。
実の娘の、それも表情だけに気おされて領主はつかえながらも娘に問いただす。
「わたしは生贄なのだそうですね」
凍り付くような声音で一言そう告げた。
「だ、誰がそんなことを……」
「さあ、誰だったかしら? みんなが言っているので誰が言っていたかなんて覚えていませんわ」
最低値まで下がっていた、と思っていた娘の機嫌はまだ下がるようだ。室温がさらに低くなったように感じる。
「何故、最初から『お前は生贄だ』と仰っていただけなかったの? これでも、領主に連なる身。民のためなら命など捨てる覚悟くらいありますのに。上に立つ者の覚悟として、そう教育なさったのはお父様じゃありませんこと?」
何か言わねば、と口を開くが声にならない。誰か、水差しをくれ。喉が張り付いて声が出ない。
「ただ一言、『民のために死ね』そう仰って頂ければ良かったのに。物で釣って、ご機嫌を取って。今までよくも高貴な虜囚として扱ってくださいましたね」
娘の瞳は危険な色に染まり、冷気はいや増す。
「民のために、誇りと覚悟を持って命を捧げるのならば、それも良かったでしょう。けれど、何も知らぬ哀れな奴隷として覚悟も無しに殺されるのは断じてお断りです」
「で、では民を見殺しに」
全てを言わせず娘は言葉を繋いだ。
「そんな事はしませんわ。わたしは、わたしを生贄に望む存在を打ち倒して自由をもぎ取ります。わたしは、わたしの望むものを自分の力で手に入れます」
「そんな都合よく事が進むものか」
「ええ、でも道理を捻じ曲げてでもやるわ」
無理だ。娘を望むのは竜。
生かすのか、殺すのか、何をするのかは知らない。だが、竜の意に反する事だけはできない。一軍を圧倒する力を持った竜。個人の決意でどうにかなる様な存在ではない。
領主は声を振り絞った。
「誰か! 誰かある! 娘が乱心した! 捉えよ! 約束の期日まで拘束するのだ!」
これが、娘が手枷と足に鉄球をつけられた顛末であった。