第29話:灰色の月の朝
大蛇が地下の底へと押し戻され、灰満月の夜が明けてから、数日が過ぎた。
朝の澄んだ日差しが差し込む『灰色の月』のリビングには、乾いた金槌の音が響いていた。
「アルス様! この窓枠、まだ少しだけ軋みますわ!」
エプロンをつけたラピスが、窓を何度か開け閉めしながら声を上げてくる。
「分かってる。木が湿気を吸って歪んでるだけだ。金具を外して削り直すから、そこを少し押さえてろ」
俺は手に持ったドライバーで錆びたネジを緩めた。頭が潰れかけて回らないネジの一本だけ、《終焉の理》で溝の錆を弾き飛ばして抜き取る。
大掛かりな力など使わなくても、手先の工夫と道具があれば、大抵のガタつきはどうにでも直る。
廊下の向こうでは、ルビーが雑巾を両手に持って床を磨いていた。
「店長! シメオンのおじいちゃんのお見舞い、何を持っていけばいい? わたし、市場の角で売ってた分厚い豚の燻製肉がいいと思う!」
「病人に脂っこい肉塊を押し付けるな。胃がもたれて余計に寝込むぞ」
「あら、精をつけるにはお肉が一番ですわよ!」
「駄目だ。昨日買った干しキノコと野菜を包んでおいたから、スープの出汁にしろって渡してこい」
地下から連れ帰ったシメオンは、東区の白樺堂の奥にある自室で療養中だった。
数千年に及ぶ一族の重荷から解放された老人は、今では以前の刺々しさも薄れ、ラピスたちが届ける食事を黙って平らげているという。
「……ごはん、できたよ」
台所の引き戸が開き、湯気の立つ木盆を抱えたルナが歩み出てきた。
テーブルの上に並べられたのは、こんがりと焼き色のついたライ麦パンと、湯気を立てる厚切りのベーコンエッグ、そして野菜のスープ。
「よし。手を洗って席に着くぞ」
四人で丸テーブルを囲む。
ルナが木のスプーンを取り、スープをすくって口元へ運んだ。
ゆっくりと喉を鳴らして飲み込み、白銀の瞳を細めてふわりと笑う。
「……うん。ちゃんと、おいしい」
味が薄れることも、指先から冷えていくこともない。ただ温かなスープの味だけが口の中に広がっていた。
「ふふん、昨夜からコトコト煮込みましたからね! 美味しくないはずがありませんわ!」
「ルナちゃん、このパンに目玉焼きの黄身を乗せるともっと美味しいよ!」
賑やかな声が響く中、ルナはパンをちぎりながら、ふと思い出したように俺へ視線を向けた。
「あのね、アルス」
「ん?」
「……わたし、自分の本当の名前、思い出したの。『ルナリア』って言うんだって」
俺はフォークを動かす手を止め、彼女の顔を見た。
「そうか。……前の名前に戻したいか?」
ルナは少しだけ小首を傾げ、それから嬉しそうに、はっきりと首を横に振った。
「ううん。ルナがいいな」
「どうしてだ」
「ルナは、アルスがわたしを見つけてくれた時につけてくれた、大切な名前だから。……わたし、もう大昔の守護者でも、誰かのための生贄でもないの。ここにいたいから、ここにいるんだよ」
その言葉に、ラピスが目を細めてフォークを掲げた。
「当然ですわ! わたくしも『ルナ』の方が呼びやすくて馴染みがありますもの!」
「うん、わたしもルナちゃんがいい!」
ルビーも尻尾を振って大きく頷く。
誰かに決められた役目ではなく、自分で選んでここにいる。
俺は珈琲を一口啜り、騒がしく皿を突き合う三人を眺めて、小さく息を吐いた。
数日前。大陸北方、帝国ガラクシアの帝都宮殿。
無駄な装飾を削ぎ落とした冷たい執務室の机で、皇帝ジークハルトは、単身で戻ってきたヴィクトールからの報告書に目を通していた。
「……ウロボロス教団に資金と触媒を流していた軍閥の不穏分子どもは、これで一掃されたか」
「はっ。首謀者の将校らは、すでに憲兵隊が拘束しております」
右目の黒革の眼帯を整えたヴィクトールが、直立不動の姿勢で答える。
「それで……リンドヴルムの大蛇はどうなった」
「再び、都市本来の機構によって眠りにつきました。……あの路地裏の便利屋の手によって」
ジークハルトは書類を机に置き、短く息を漏らした。
「大蛇まで『修理』したか。……やはり、面白い男だ」
皇帝は引き出しを開け、帝室の封蝋が施された豪奢な封筒を一通取り出すと、ヴィクトールへと差し出した。
「これを、あの便利屋へ届けてまいれ」
「……依頼状、でございますか」
「当然だ。便利屋には、仕事を依頼するのが礼儀というものだろう?」
ジークハルトの口元に、冷徹で知的な笑みが浮かんだ。
『灰色の月』のリビング。
朝食を平らげ、俺が空になったカップを置いた、まさにその時だった。
トントン。
玄関の扉が、静かに二度叩かれた。
「あら? 朝からお客様ですの?」
ラピスが首を傾げる。
俺が立ち上がって扉を開けると、そこには銀色のマントを羽織った男が一人、静かに立っていた。
「……朝食中か、イレギュラー」
「見れば分かるだろ。何しに来た」
「陛下からだ」
ヴィクトールは懐から銀色の重厚な封筒を取り出し、無造作に差し出してきた。
背後から覗き込んできたラピスが、露骨に嫌そうな顔をする。ルビーがクンクンと鼻を鳴らし、ルナがひょこっと顔を出した。
「ヴィクトールさんも、朝ごはん食べる?」
「断る」
「安心しろ。食わせる気もない」
俺が封筒を受け取ると、ヴィクトールは踵を返し、肩越しに低く告げた。
「返事は急がんそうだ。……もっとも、陛下は断られるとは思っておられんがな」
男はそれだけ言い残し、足音もなく路地の向こうへと去っていった。
扉を閉めて席に戻ると、ルビーとルナが興味深そうに手元を覗き込んできた。
「店長、新しい依頼?」
「今度は、どんなお仕事かな」
俺は封蝋を指先で割り、中に入っていた便箋を広げた。そこに並ぶ整然とした文字を一瞥した瞬間、深い溜息が喉から漏れ出した。
「……まったく。面倒くせえな」
俺は手紙をテーブルの上へ放り投げた。
「おい、看板娘ども。仕事の話を聞く前に、まずは朝飯の皿を片付けろ」
「はーい!」
窓の外、朝の青空には、薄い白い月がまだ残っていた。
灰色ではないその月を横目に、俺は食卓の皿を一枚ずつ重ねていった。




