僕を見ないで
月に一度、満月の日、この街には天女が現れる。
ほら話でも、噂話の類でもない。本当に、彼女は現れるのだ。
その証拠に、今日もその姿を瞳に焼き付けようと、多くの人が河川に集まっていた。
肌寒い、中秋の日のことだった。
「天女の舞、見られるかな」
遠くの空を眺めて、小さく呟く。今日は月が綺麗だから、一層彼女も美しく見えるだろうと思った。
天女は、決まって前触れもなく天から舞い降りる。だから、僕は瞬きすら忘れて、その瞬間を首を長くして待っていた。
やがて暗闇が辺りを覆い尽くして、ガヤの声もおさまってきたその時。
天空に、一筋の光が差した。それを合図に、時が止まったかのような錯覚に陥る。
次の瞬間、宵に火の粉が舞い上がった。純白の脚が水面に波打った。
鮮やかな着物が闇を彩り、揺れる羽衣に目を奪われる。頭の奥で、チリチリと焼けるような感覚がした。
天女は降り立った。その身を人の前に曝け出し、揺るがぬ存在を誇示した。
僕は魅了される。その脚元に、その瞳に。小さな頃から見てきた彼女に、どこか恋焦がれるような感情を抱いて、やっぱり僕は何度目かの言葉を声を漏らした。
「すごい、綺麗だ……」
もはや、言葉にすることすら憚られる情景。それに心を奪われて、熱を帯びた感覚に酔う。
天女は舞う。流れる川の水を巻き上げて。無数の篝火が燃え上がり、彼女を照らし上げる。
不意に、目が合う。浮き上がる袖の隙間から、視線と視線が絡まり合う。
途端に僕は、自分の内側を見透かされるような気がして、目を逸せなくなってしまった。
たった一瞬の間に、彼女の瞳は僕の内面をこれでもかと曝け出し、裸にしてしまう。
その羞恥とも開放感とも取れない感じが、僕は好きだった。
踊り舞い、夜は更ける。
ここは幻惑の街。月が満ちる時、天上の少女が人々を魅惑する、たったひとつの劇場である。
=====
「——見たかよ、昨日の」
「昨日のって、何のだよ?」
「それは決まってるだろう。天女の舞だよ」
翌日の昼下がり、学校の教室で、僕は話しかけてきた男子に目を向けた。
「それなら、見たよ。見たに決まってる」
「だろう? 見るよな、普通」
わざとらしく、そいつは同意を求めてきた。何のつもりかと視線を返せば、隣を指さして口を開いた。
「こいつ、見てないんだってよ」
指を刺されたメガネの生徒は、怪訝そうに目を細めた。
「何だよ、見てなかったら、人間じゃないみたいな言い方だな」
「あぁ、そうだとも。俺は感動したぜ。あんな美しい舞を見て、心が震えない奴なんていねえ。だってのに、そんな興味なさげにされちゃ、気分が悪くなるってもんだ」
随分と熱く語る。しかし、実のところ僕もこの意見には同感である。
「でもさ、あの舞を見て、どこがどう感動的だって言うんだ? 俺には、ちょっとクドく見えるんだ。出てくるのも、決まって天女だけだしな」
言い返されて、男子は言葉に詰まる。
しかし、言われてみれば、その意見も一理ある。天女の舞には、バリエーションというものが少ない。豪勢な着物やライトアップも、側から見れば御涙頂戴のしつこい演出にしか見えないのかもしれない。
「とは言ってもなあ、とにかく、感動するもんは感動するんだよ。踊りとか、綺麗だし。それに……」
「それに?」
「可愛ければ、毎回同じでも良くないか?」
だめだ。言葉が短絡的すぎて、効果のある反論になっていない。
メガネはついに、眉を寄せて顔を顰めてしまった。
天女の舞とは、つまりこういうものなのである。馬鹿正直に感動すると捉える人もいれば、興味が無いと切り捨てる人もいる。
捉え方も、楽しみ方も自由。それが、この場における天女の舞の本質だ。
「確かに、あの少女の舞は綺麗かもしれないけどさ、それで何か得するわけでもないだろう。あれを見れば、世界中の戦争が終わって、平和になるっていうのか?」
「……う、うむ」
男子は、言葉を濁らせて、こちらを向いた。
僕は、肩をすくめて、頭を振って応えた。
=====
洒落た美貌の老婆に、月一度会うことがあるか。この問いに、この街における殆どの人は肯首することだろう。
洒落た老婆なら、ここでなくとも目にできるかもしれない。しかし、美貌の老婆とは、なかなか想像に難しい。さらに月に一度会うともなれば、いよいよ現実のものとは考えられなくなってくる。
しかし当の僕も、彼女は間違いなく、洒落た美貌の老婆であると思うのだ。
——帰り道。夕焼けの空に、オレンジ色の太陽が沈みかけている。
僕は立ち止まって、あ、と言葉をこぼした。
「やっぱり、今日も居る」
老婆だ。背は低くて、杖をついている。服装はどこかおしゃれで、老いを感じさせないキレイな風格を覚えさせられる。
「こんにちは、おばあさん」
僕は迷わずに声をかけた。すると、老婆はこちらを向いて笑みを浮かべた。
「おやおや、これは久しぶりだね、少年」
「一ヶ月ぶりですね。お元気そうで、何よりです」
「ええ。君も、相変わらずのようだ。平穏無事というのは、とても良いことだよ」
風光明媚な老婆。彼女の容姿を見て、やはり僕は美しいと思った。若いとか、醜いとか、そういったものから、対極までかけ離れている。
彼女は、この辺りでは軽い有名人だ。
それというのも、彼女は天女の舞が行われた翌日、必ず人の前に現れてあることを尋ねてくるのだ。
「……それで、君は、昨日の舞を見たかい?」
「はい、もちろんです! 天女の舞は、見逃すはずがありませんから」
そう言うと、老婆は嬉しそうに微笑んだ。
「それはよかった。では、感想を聞かせてもらおうかね」
月に一度の、感想会。それが、この老婆と交わす恒例の習慣である。
「僕、すごく、魅了されてしまいました。演出も舞も、今までに見たことないくらい精巧で、美しかった。それに、何より、視線が合った時……僕は、人生で一度も感じたことがないくらい、高鳴ったんです」
老婆は、ただ頷く。僕の言葉を受け止めて、呑み込むように。
「あれは、綺麗だった。確かに、綺麗だったんです。でも……」
「でも?」
「思ったんです。天女の舞には、目新しさが無いって。友達が、そう言ってるのを聞いて、納得してしまいました」
言ってしまった。その行為に、僕は後ろめたさを感じた。
「……いけませんね。天女の芸術に文句をつけるなんて。これじゃあ、バチが当たってしまいます」
「いいや。そうとも限らないよ、少年」
しかし、老婆は僕を肯定した。
「——批判や批評、穿った物の見方と言うのは、”それ”のあり方を無数に、無限に広げる。君が赤裸々に気持ちを語れば、どこかの天女もきっと、君の意見を聞き入れて、舞のあり方を変えるはずさ」
——そうやって、彼女の作品は新たな一面を獲得するのだ、と。老婆はそう言った。
珍しく、いつもとは違った。感想なんて、褒めるのと、感嘆するのばかりで、こんなこと口にしたのは、初めてだった。
だから、妙に優しさのこもった眼差しを向けられて、僕は困惑した。
「そう、ですね。そうだと、いいかもしれません」
記憶に残っている、天女に向けられた視線。それが、なぜだか、老婆の瞳と重なった。
柄にもなく、穿った見方をしたせいだと思う。僕は、途端に、己の中に渦巻いた疑念を晴らしたい欲望に駆られた。
「おばあさん。天女っていうのは、一体誰なんでしょう」
「それは、一体どういう意味だい?」
問われて、頭を掻く。少し、不思議に思ったのだ。
「そういえば、僕は天女を、当たり前の存在として受け入れていました。でも、実際のところ、僕は天女が誰なのかすら知らないのです」
天女とは、全てが謎に包まれた存在である。どこにいるのか、なぜ僕たちの前に現れるのか、この街の誰もが、その答えを知らない。
老婆は、少しの間の後、口を開いた。
「天女は、天から降り立つ高貴な乙女さ。それ以外の、何者でもない。彼女の舞が、人々の精神に残り続ける。それさえ叶えば、他は何も周知される必要なんてないのだよ」
その回答は、僕の疑念を晴らす物ではなかった。はぐらかされているようだった。
「ですが、僕は彼女が誰なのかを知りたいです。誰が彼女を存在させて、どうして彼女は僕たちの前に天女として現れるのか。理解したいのです」
すると、たちまち老婆は柳眉を下げて、目を逸らしてしまった。
「好奇心に富んでいるのは、悪いことじゃない。しかし、天女の舞は、天女の物として、揺るぎなく人々に知られるべきなのさ。それは、君の知るべきところではない」
突き放すような物言いだった。どうして、そう言われるのか、わからなかった。
ただ漠然と、後ろめたさと罪悪感のせいで、僕は口を塞がざるを得なくなってしまった。
「——彼女の芸術は、人によって見方が千変万化する。しかし、ただ一つ、彼女の舞は、間違いなく彼女のものとして人々の精神に根付く。大切なのは、そこさ」
やがて、老婆は都合が悪いと言わんばかりに話を逸らした。
「さて、話はここまでにしようか。今日はもう、家に帰るといい」
「えぇ、そう、ですね……」
老婆は杖をついた。そして、凛とした足取りで道を進む。
「——あの、よかったら、送りましょうか」
「いいえ。構わないよ。私の家は、すぐそこだからね」
僕は、彼女の背を見つめて、口を開いた。
「おばあさんは、どこにお住まいされているのですか?」
「山さ。君たちは、裏山と呼んでいるらしいじゃないか」
ああ、なるほど、と僕は手を打った。
「そういえば、裏山に新しい住居地区が開発されたと聞きました。おばあさんも、越されたんですか?」
老婆は、ふと立ち止まると、喉元を震わせた。
「いいや、それより前だよ。ずっと前から、私はあそこに居る。今年でもう、八十一さ」
はぁ、と、眉を寄せる。あんなところに、今よりも前に住む場所なんてあっただろうか。
再び歩き始めた後ろ姿を見送って、僕は首を傾げた。
=====
——観光地化計画とやらが始まるらしい。
ベッドに横になって、薄く光液晶越しに目を見張る。
「いや、マジか、本気か……」
こんな何もない田舎を、一体どうやって観光地に仕立て上げるというのだろう。
特設サイトの見出しには『みんなで作ろう、伝統の街』などと大きく銘打たれている。大言壮語でないことを祈るばかりだ。
詳細を見ると、手始めに来月、大々的に観光ツアーを行うらしい。人は集まるのだろうか。しばらく記事を読み進めていくと、街の詳細という欄に目がついた。
『狐に化かされる街』と、小題の後に、街の外の人たちに向けた説明が続いている。ここの生まれならば、誰でも聞かされる話だ。
遠い過去のこと。この街も、もはや街とは呼べず、小さな集落だったらしい。なんでも、その時は狐が周りにウヨウヨ歩き回って、住民たちを困らせていたそう。
中でも、特大の悩みの種は、狐が人や物に化けて、人間を惑わすことだった。
どんぶりの姿になった狐が、人の穀物を奪っては、逃げおおせてしまうなんてこともあったらしい。
今では居住区化も進み、狐もその姿を消した。狐が化けるだなんて話も、ただの伝承だ。
「化けた狐の対処法は、煙草を焚く、か……」
初めて知った。煙草とは、タバコのことである。狐たちは、そのタバコの匂いを嗅ぐと、うまく化けられなくなってしまうという。
案外、興味の惹かれる話だった。担当者も、相応にやる気はあるらしい。
そうしてぼうっとしていると、突然メッセージのポップアップが表示された。友人からである。
その内容を読んで、僕は思わずげ、と声を上げてしまった。
「——学校で、ゴミ拾いのボランティアをやるだって?」
=====
「……そういうわけで、この街は来月から新しい観光運動が行われる。よって、景観を保つために、今日は学校総出で裏山のゴミ拾いを行うことになった。いいな?」
「……はい」
良くない。何も良くない。堂々と佇む教師を前に、心の内側で愚痴を吐く。
場所は裏山。僕を含めた生徒たちは、すっかり着替えて、両手にゴミ袋と火バサミを持ち、完全装備である。
本当は、ボランティア活動なんてやりたくない。ただやらされるだけならまだしも、問題はこの活動のせいで、おそらく放課後の時間まで吸収されてしまうだろうということである。全く傍迷惑なものだ。
間も無く、流れるようにゴミ拾い活動は始まった。僕は目立ちすぎない程度に、適当にゴミ袋を膨らませる。菓子の包装紙に、潰れた空き缶。欠けたプラスチックに、タバコの吸い殻が多かった。
少し前まで、ここはこんなにゴミで溢れているような場所じゃなかった。ふと視線を横にやると、遠くに華やかな街並みが視界に映った。最近開発された住宅街、ニュータウンというやつである。
ほんの山の一部でも、人が集まれば、当然生活の痕跡が増える。ゴミが多いというのは、それだけ人通りが増加したということの証拠だろう。
「……あ」
目があった。作業服の業者だ。すぐそこのショベルカーに背中を預けて、タバコを吸っている。直ぐに目を逸らされて、僕は気まずい気持ちになった。
副流煙が鼻についたから、ちょっと顔を顰めた。目線だけ上げると、煙が山の上に向かって伸びていくのが見えた。作業服の人はチラッと僕を睨んで、タバコの吸い殻を地面に投げ捨てた。それをあしでげしげしと踏みつけて、離れていく。
捨てられた吸い殻をじっと見つめる。仕方なくゴミ袋に放り込んだ。全く、損な役回りだ。
そんなことを頭に思い浮かべた、その瞬間。背中に、ゾワっとするような感覚が押し寄せた。
僕は、咄嗟に後ろを振り向いた。
「……誰か、居るの?」
誰もいない虚空に向かって、話しかける。すると、それに呼応するように、視線を向けられた。見えずともわかる、確かな感覚。それを身に感じて、僕は確信した。
「居る。そこに、居る……」
あの時、向けられた視線。それと、全くおんなじだった。だから、そこに彼女が居ると思った。馬鹿らしさなんてまるでなくて、運命と恥ずかしげもなく断言できるほどに、決定的だった。
僕はすっかりそこから目が離せなくなって、ゴミ拾いどころではなくなってしまう。
一歩、近づいてみる。すると、途端に彼女は後退りして、離れて行き始める。
「待って……姿を、見せてくれ……!」
追う。気配だけを頼りに。無我夢中で、彼女の後を追いかけた。
どこに居るかも、どうして存在するのかもわからない、高貴の少女。その正体が、もはやすぐそこにあるというのだ。どうして、諦めることができるだろう。
追って、追って、追いかけて。やがて日が暮れて、地平線の奥に太陽が沈んでいくまで、そうやって、ついに僕は息を切らした。立ち尽くし、肩を落とす。
「見失ってしまった……」
呆然と言葉を溢す。完全に気配が途絶えた。もう、後を追うことすらできない。その場に座り込んで、俯いた。
「それにしたって、ここはどこだろう」
気配を追いかけるのに必死になっていたがあまり、自分がどこに居るのかさえ把握していなかった。その結果、知らない場所に来てしまった。猛省である。
肌寒い風が吹いて、身を丸めた。すると、お腹の虫が寂しそうに鳴いて、ますます惨めな感情が湧き上がってきた。
「お腹、空いたな……」
呟いてみる。意味はないけど。
だんだんと頭の中がモヤがかって、サイケデリックな感覚に侵される。立つ気力すら奪われていくようだった。
その時、後ろから足音がした。——あの視線だ。
やっと、目にすることができる。すがるように、僕は振り返った。
「——少年よ、大事はないかい?」
「おばあ、さん……」
老婆だった。僕は、自分が幻覚でも見ているんじゃないかと思った。
「どうして、ここに……?」
尋ねると、老婆は躊躇いがちに、視線を落とした。
「言っただろう、この山に住んでいると」
期待が外れたような、安堵感が押し寄せてくるような、そんな両極端の感情に挟まれて、どうすればいいかわからなくなってしまう。
「少年よ、もし空腹なら、こちらに来なさい」
皿の上に、丸っこい果物が乗っている。老婆はそれを机の上に差し出すと、窓まで近づいて、パタンと閉じた。
「……最近は、煙草を焚く人が多くて困るね」
咳き込んで、彼女は煙たがる。
ボロ屋だ。壁はささくれだらけで、長い間手入れされていないことがわかる。床は所々に穴が空いていて、油断していると足を取られそうだ。
差し出された果実を、恐る恐る手に取って、口の中に入れる。噛み砕くと、ツブツブとした食感と共に、ほんのりとした甘さが口の中に広がった。
「野いちごだ……美味しい」
再び果実を頬張ると、唾液と共に酸味が腹の中へ溶け込んだ。
「おばあさん、わざわざ、ありがとうございます」
迷惑をかけてしまっただろうか。そんな面目なさとは裏腹に、老婆は快く頭を振った。
「気にしないでおくれ。いつも、君は天女の舞の感想を聞かせてくれるからね。そのお返しと思ってくれればいい」
その言葉を聞いて、僕は徐に口を開いた。
「おばあさん。多分、僕はさっき、その天女に会いました」
すると、老婆は顔を俯けて、眉を下げた。
「会ったといっても、気配だけですが。きっと、僕は本当に、天女と対面したと思うんです」
「気配かい? 君は、目にしていないものを、まるで見たかのように話すのだね」
どうにも、言葉の上では痛いところをつかれたようだが、僕はまるでそんな気がしていなかった。
「視線ですよ。誰でも、瞳の奥に隠れた思想を隠すことは出来ないものです。僕は、間違いなく、天女の瞳を向けられていた。そんな確信があるのです」
机に視線を下げる。どうにか気まずさのようなものを紛らわすように、手元の指を絡ませた。
「……僕は、思うんです。もしかしたら、天女はまだこの近くに居るかもしれないと。それこそ、一歩動けば、すぐそこで触れられる場所とも限らない」
じっと、老婆を見つめる。不気味な沈黙が降りて、僕は唾を飲み込んだ。
「——そうかい。確かに、君が言うなら、そうかもしれないね」
老婆はそう言うと、徐に咳き込んだ。
僕は途端に我に返り、手元のゴミ袋を覗き込んだ。微かに煙たさを感じる。奥の方で、タバコが火気を取り戻していた。
慌てて、火の元を潰す。袋の口から煙が噴き出て、室内に充満した。
「すみません、おばあさん。このゴミ、うっかり持ったままでした」
「構わないよ。その辺りに置いて、帰る時に持っていけばいい」
老婆は再び咳をして、口元を抑えた。
「大丈夫、ですか?」
「ああ、大丈夫だよ。しかし、少し疲れた……私は、休むとするよ」
杖をついて、彼女は戸の取手を掴む。
「いいかい、少年。私は、今からこの部屋で休らうが、決して戸を開けてはいけないよ。果物を食べ終えたら、すぐにここから出ていくんだ。挨拶はいらないよ。きっと、ご両親が心配しているだろうからね」
「……はい、わかりました」
僕が返事をするのを見ると、老婆は満足した様子で、部屋の中に入っていった。
一人取り残された。しんとした空間に、自分の息の音だけが鳴り響く。
頭の中は、天女の視線のことでいっぱいだった。老婆の瞳が、記憶の中で彼女と重なって、鮮烈に脳内に焼きつく。
初めはただの疑念に過ぎなかった感情が、今ではその正体を理解したいという欲求に成り変わり、己の中で熱烈と膨らみ続けていた。
食卓の果実を貪る。誰の視線も向けられない今、もはや僕は恥ずかしげもなく謙虚という仮面を取り去り、本当の自分を曝け出すかのように横暴に振る舞った。
やがて全てが自分の腹の中に収まると、僕は息をついて、椅子から立った。
「……少年よ、食べ終わったかい?」
直後、戸の向こう側から老婆の声が聞こえてきて、僕はハッと我に帰った。そして、今までの行いの全てが見られていたかのような感覚に陥り、顔を赤くした。
「ええ、ごちそうさまでした。今、帰ります」
いいや、ここと向こうの部屋では、扉で完全に断絶されている。見られようはずなどないのだ。自分に言い聞かせ、言葉だけ返した。
「……ですが、やはり、挨拶もなしに立ち去るというのは、不躾な気がしてきました」
ギシギシと歪む床を歩いて、戸の前に立つ。
「ならば、この扉越しにで構わないよ」
諌められる。ただ、僕は目を泳がせて、言葉を取り繕った。
「おばあさん、しかし僕は、顔も見せずに挨拶をするというのは、失礼な気がしてなりません」
扉の取手に、手をかける。
「いけないよ。今、すぐに、引き返すんだ」
なぜ、こんな山奥に、老婆が一人で暮らしているのか。思えば、おかしなところはたくさんあった。
どうして、顔を見られるのを嫌がるのか。この扉を開いて、中の情景を一度見せて仕舞えば、それで済むことだと言うのに。
震える手先に力を込める。
「一度、見せてくれるだけでいいんです。そうしたなら、僕はきっと満足するはずです」
「よすんだ、少年。君は、今の私を見たら、きっと失望してしまう」
いいや、失望など、するはずもない。この好奇心と欲望から解放された時、後悔など残る余地すら無いのだ。
僕は目一杯力を込めて、扉を開け放った。そして、目を見開いて、焼き付けるように内側の情景を瞳に映す。
「……ぁ」
瞬間、視線が合った。たちまち、彼女の姿を輪郭から肌の先まで認識し、頭の中にあったイメージが再構築される。
向けられた瞳を見て、疑念は確信へと変わった。
「あなたが、天女なのですね」
僕は、そこに座り込む一匹の狐に向かって、そう言った。
「どうして、分かってしまうんだい」
狐の声は、あの老婆とは違って、若い男のようだった。まるきり姿が変貌してしまった彼女は、悲しそうに呻いた。
「そうさ。僕は天女。そして、天女は僕が化けて成った姿だ」
コン、と音が鳴り、一瞬にして狐の姿は変貌し、一人の少女と成った。天女である。間違いなく、彼女である。
僕は、息を呑んで、手を伸ばした。
その直後、天女は苦しそうに目を背け、掻き消えた。伸ばしかけた手が、元の姿に戻った狐の前で止まる。
「——天女も可憐な老婆も、同じ肉体を持った、同じ存在。そしてそれは、僕も例外ではない。これが君の求めていた答えだよ」
驚愕とも、納得とも言い難い感情だった。ただ、どこか胸の奥で、微かな腑の落ちなさだけが残るばかりだった。
「本当に、残念でならない。よりにもよって、僕の演じた舞に一番向き合ってくれた君が、僕の姿を見ることになるなんて」
「何が……」
僕は狼狽えて、口を開いた。
「いったい何が、残念だと言うのですか……!」
狐は、答えない。
「もう、帰ってくれ。ここから北の方向に真っ直ぐ進めば、街に着くはずだから」
ついに僕は何も言い返せず、口をつぐんだ。
それからと言うもの、いく日もの間僕は呻かされた。
頭の中に、天女に化ける狐が何度も現れては、胸の内のしこりを膨らませていく。
正体を明かしたと言うのに、ますます悩ましく成っていくこの感覚は、いったい何だというのだろう。
もう一度、天女の姿を見たいと思った。そうすれば、きっと、この気掛かりも解消される。
そうだ。僕は決心した。次の満月の日、必ず彼女の舞を目に焼き付けるのだ。
——そうして、その日は訪れた。
外は寒かったから、厚着を着て河川に来た。人はいつにも増して多かった。
待つ。僕は待った。彼女がやってくるのを。
「……来た」
天が光った。天女が降り立ち、その身を人々の前に曝け出す。歓声が上がった。
ついに彼女は水面に足を付け、舞い始めた。舞い始めて——僕は困惑した。どうして。頭を抱えて、瞠目する。
観衆が、感嘆の声を漏らす。だと言うのに、僕はそれを側から見て、そこ知れぬ滑稽さを覚えてしまった。だから、何故と、己に問う。
「どうして、僕は、魅了されないんだ……!」
今まで、幻覚でも見てきたかのようだった。美しく魅惑的な彼女はどこかへと消え去り、今目に映る少女は、どこまでも凡庸で魅力がない。いや、それどころではなかった。
その少女がしなやかに舞うほどに、脳内で僕を咎める狐の姿が鮮烈に浮かび上がる。天女の舞は、もはや天女の物ではなく、その裏にある本性によって演じられているものでしかなくなる。
天女が踊る。美麗に、流麗に、優雅に、閑雅に。
しかし、それは僕からしてみれば、見せかけのものでしかない。まるで、わざと難しい言い回しで、己の素晴らしさを誇示してくる子供のような幼稚さすら感じた。
矮小な狐が、背伸びをして必死に芸術を語っている。きっと僕はそんなふうに思った。
やがて、天女と視線が交錯する。そしてやっぱり、僕は自分の内の全てを見透かされるような感覚に陥った。
咄嗟に僕は目を逸らした。自分の内側なんて、見せてやるものかと思って。
ハッと気づく。そして視線を戻すと、寂しそうに去っていく彼女の瞳を、目の端がとらえた。僕は後悔した。一度も逸らしたことのない目を、今日、逸らしてしまったのだ。
天女の舞が終わった。僕は急いで、裏山に向かう。息を切らして入り口に着くと、彼が待ち構えていた。
「そうか……」
その狐を見て、息を飲み込む。
「僕は、君を魅了できなくなってしまったんだね」
否定などできない。誰よりも、その事実は自分自身が理解していたから。
「僕は、狐だ。本当なら化粧は似合わないし、着物も合わない。舞だって踊れない。だから、君が感じていることは、何も間違ってなんかない」
罪悪感と後悔とが、僕に襲いかかって、強烈なやましさを生み出す。
「ごめん、なさい……」
形だけの謝罪が、虚しく宙吊りになる。
「——狐はね、随分前から人間に住処を奪われてきたんだ」
「……え?」
狐は語る。
「仕方のないことさ。僕たちは共存できないからね。だから、僕たちの中には君たちを嫌っているのも多い。だけど、僕みたいに好きなやつもいる。ただ、どちらにしたって、近寄りたかった。だから、僕たちは天女になって、代々人々の前に降りてきた」
「そんな、ことが……」
狐は続けた。
「ただ単純に、仲良くなってみたかっただけなんだ。それで、君たちに対する思いを表現したかった」
皮肉げに笑う彼は、どこか自嘲的に見えた。
「僕は醜くて未熟だから、せっかく一番見破られないと思う格好で君たちに感想を聞きに行ったのに、それも無駄だったみたいだね」
暴いてしまったのだ。僕は、彼女の正体を顕わにしてしまった。ようやく、そのことの実感が湧き上がってきた。
「——どうしようもないことなんだ。僕たちから近寄ろうとする限り、正体を隠し通すことなどできない。でも、もし、もう一度だけ機会があるなら、僕のお願いを聞いてはくれないだろうか」
「あなたの、願い……?」
僕の問いに、狐は頷いた。
「きっと、君は僕が化けた姿を、また目にすることがあるかも知れない。その時——」
その時、と彼は続けた。
「どうか、僕のことを見ないでおくれ」
小さく狐火を漏らして、彼はそう言った。
——時が巡った。随分と長い時間が経った。
僕はしばらくの間、天女の舞を見に行っていない。でも、たまに彼の言葉を思い出すことがある。
いつかまた、会うことがあるだろうか。その時、僕は彼を見ずにいられるだろうか。
分からないが、ただ一つ、間違いなく言えることがある。
——僕はもう、あの頃僕を魅了した彼女に、二度と会えることはないだろう。




