【008】ビアトリクスの決断とゼインの計略
部屋に沈黙が流れていた。
ビアトリクスが決断できずにいたからだ。
いや、正確には「決断できない」というより、ゼインに返事を返せないままの状態が続いていた。
その空気を察したのか、モーゼルが静かに、しかし力強く後押しするように口を開いた。
「ビアトリクス様。
この瞬間、私たちが求めているのは、あなた様のお返事です。
この状況から抜け出したいと、本当にお思いなのかどうか、それを伺いたいのです。
失礼を承知で申し上げますが、我々は命を賭けてあなた様を救出しようとしています。
当然ながら、アンドラ公国に捕らえられれば、我々の命はありません。
処刑されるのは確実です。
あなた様がご懸念されているのは、
おそらく我々があなた様をさらうつもりではないかということかもしれません。
ですが、どうかご理解ください。
我々は、あなた様が思っている以上に、金銭には不自由しておりません
繰り返します。
あなた様は、どうなさりたいのですか?」
ビアトリクスは、うつむいていた顔をゆっくりと上げ、ゼインをまっすぐに見据えた。
そして、はっきりとした口調で答えた。
「私は、サイサリス公国を再興したい」
「そう、それだ」
ゼインの声がわずかに高まる。
「あんたがその気なら、俺たちも動ける。
俺は、命を懸けてでもあんたをサイサリス公国の女大公にしてやる。必ず、だ」
力強くそう言い切ると、ゼインは続けた。
「何があっても、俺を信じろ。それさえできれば、サイサリス公国の再興は成し遂げられる」
その言葉に、ビアトリクスはただ静かに彼を見つめ返していた。
ゼインは「やっと態度が変わったな」や「ようやく頼れるようになったな」といった、彼女の誇りを傷つけるようなことは一切言わなかった。
不思議だった。
「必ず」という言葉が、なぜか甘く、美しく響いた。
今まで出会ってきた男たちとは、明らかに違う雰囲気を纏っていた。
「わかりました。今すぐにあなたを全面的に信用することはできません。
けれど、これから少しずつでも、あなた方を信じる努力をします。
ただ、信用するからと言って、何も教えてもらえないというのは、私には耐えられません。
今、何をしているのか。何を目指し、何を待っているのか。
どうか、それだけはきちんと伝えてください。
私は、ただ担ぎ上げられるだけの存在でいるつもりはありません。
たとえサイサリス公国の再興が成ろうと成るまいと、私はそのすべてを知っていたいのです。
かつて、サイサリス公国が滅びたとき、私は何も知らされず、決断する権限すら持っていませんでした。
もちろん、それを言い訳にするつもりはありません。
私の責任は重大であり、このような現状を招いたのも、私自身に原因があることは理解しています。
けれど、知らなかったこともまた、確かに多かったのです。
だからこれからは、すべてのことを自分の目で見て、自分の意志で判断したい。
辛いことも、楽しいことも、すべてを知り、すべてを感じながら進んでいきたいと思っています」
ゼインはビアトリクスの話を聞き終えると、後ろに控えていたモーゼルの方を振り返り、最大級の賛辞を口にした。
「なかなか素敵なお嬢様じゃないか」
モーゼルは笑いながら応じた。
「私は初めから、そう思っておりましたよ」
ゼインは再びビアトリクスに視線を向け、まっすぐに言った。
「あんたの言っていることは理解した。なるほど、確かにその通りだ。
俺に任せるってことと、今何が起きているかを知りたいってのは、まったく別の話だな。
これからは、ちゃんと話すことにするよ」
そう言うと、今回の脱出計画について語り始めた。
「さっきも言ったが、まずはアンドラ公国を脱出する。
だがそのままサイサリスへ向かえば、確実に進路を塞がれる。
だから、直線的にサイサリス公国の公都を目指さずに、別の方向へ逃れる。
その上で、機を見てサイサリス公国へ入る。
そこで兵を挙げ、首都の奪還を目指す。
今のところ、それしか道はない」
「脱出については、問題なく実行できる手はずを整えてある。
簡単な話だ、あんたを誘拐する。
その方が、サイサリス公国に残っている連中にとっても都合がいい。
盗賊が公女を誘拐し、身代金を要求するという形にすれば、サイサリス公国の関係者が疑われることはない。
さらに言えば、誘拐の際に置き手紙を残して「後日、身代金を請求する」と書いておけば、アンドラ公国はこの事件を公にしづらくなるはずだ。
捕らわれていた公女を盗賊にさらわれたなどという醜聞は、サイサリス公国だけでなく他国に知られることになり、無能ぶりを証明することになる。
だから、アンドラはこの件をひた隠しにするだろう。
ましてや、誘拐された公女が協力的だったなどとは、シュール大公も夢にも思うまい。
その後は二か月ほどかけて大きく迂回し、サイサリス公国のアラモ城塞都市へ入り、再興を宣言するつもりだ。
問題はその後である。
「アラモには、どれほどの兵がいる」
「正規兵が千名、徴収兵が三千、合わせて四千名が常駐していました」
「それだけの戦力で再興を進めねばならない。だが旧サイサリス公国の軍勢は当てにならん。
アデイラ元公妃は、アンドラ公国による併呑を喜び、最大戦力だったダレル団長の傭兵団もアンドラに組み込まれた。
他の貴族たちも厳しい監視下に置かれ、我々との連絡は一切不可能だ。
表向きには、キール将軍を除くすべての貴族がアンドラに服従している」
ゼインの説明に、ビアトリクスは顔を曇らせた。
サイサリス公国から救援を期待できる状態ではないことを、この時初めて知ったのだ。
「おいおい、そんな顔すんなよ。あんたを責めたいわけじゃない。
まだ話は続きがある、一喜一憂するな」
ゼインは努めて軽く言い、続けた。
「頼れるのは、先代大公の腹心であるキール将軍だ。
彼はアラモに立てこもり、アンドラからの出頭命令を無視している。現状で確実に味方と呼べるのは、正直この人くらいだ。
あとは、身分を平民に落とされたり地方へ追放された下級貴族たち、それに、あんたが捕らえられたと聞き、反攻に備えてアラモへ逃げ込んだ兵士たち。
今のところ、見込みがあるのはこの程度だ」
まあ、これがサイサリス公国の現状ってわけだ。
良いとは言えねえが、悪すぎるってほどでもねえ。
こんなもんだろ。
もっと歴史がある国なら、ルトニア王国なら、皇族も貴族も武将も数が揃ってたかもしれないが、今のサイサリスはそれほどじゃない。
ただし、中心から離れた街や村に住む平民たちは違う。
あいつらは、サイサリス公国の再興を心から願ってる。
オリバー大公は、善政を敷いてたからな。
人心は、確実に、こっち側にある」
ビアトリクスは、ゼインの話を聞きながら、前途多難だと感じていた。
もとより、サイサリス公国の再興が簡単に成し遂げられるとは思っていなかった。
だが、それでもなお、先ほどからのゼインの説明を併せて考えてみても、
成功の可能性は極めて低いと、改めて痛感した。
そんな彼女の沈黙を受け取ったかのように、ゼインが声を上げる。
「何度も言うけどな、これは今の状況の話だ。
だが、あんたが解放されたと知れ渡れば、必ず反応する貴族が出てくる。
全員が見捨てるなんてあり得ねえ」
ゼインは指を折って説明を続ける。
「それにな、こっちが勝ち始めて再興の兆しを見せりゃ、その時点でついてくる連中もいるさ。
最初から味方してくれりゃ理想だが、あいつらにも生活がある。
もし俺たちが負ければ、一族郎党がアンドラの下で生き延びる道すら潰えるからな」
ゼインの声音には確信がこもっていた。
「つまりだ。こいつら勝ちそうだと思わせた時点で、勝利はほぼ確定なんだよ。だから安心しな」
ゼインはそう言って、どこか豪快に笑ってみせた。
しかし、ビアトリクスは、「安心しな」という言葉に、まったく安心などできるはずがないと感じていた。
そもそも、ここまで追い詰められた状況で、本当に勝ち目を作ることなど可能なのか。
彼女の胸には、強い不安が渦巻いていた。




