【007】ビアトリクスの選択、ゼインの真意
本来あるべき説明をしないゼインにビアトリクスは驚いた。
「今の説明では、到底納得できない。これでは、返事を出すにも出しようがない」
ゼインが語気を強める。
お世辞にも丁寧とは言えない口ぶりだったが、その目は真剣だった。
「ビアトリクス。
俺たちが成功を保証できるほど、アンドラ公国は甘くない。
だが、俺たちには考えがある。そのために一か月の猶予を取った。
あんたは、何も考えられないこの状況で、ここから救い出してもらって、サイサリス公国を再興するつもりなのか。
段取りが全部そろって、方法も手順も説明されて、ようやく動こうっていうのか。
それじゃ、何も始まらないだろ!」
その言いように、リディアが立ち上がった。
怒りを抑えきれない様子だった。
「お控えなさい!姫様に向かって、そのような口を!
ビアトリクス様は、一か月もの間、あなた方が渡した怪しげな薬を飲み続けてこられたのです。
あなた方に利用されるために、姫様がおられるわけではありません!」
侍女の怒りは正当だった。
サイサリス時代から仕えてきた彼女にとって、
見知らぬ男たちから、ぞんざいに扱われる姫の姿は、耐えがたいものだった。
ビアトリクスは、ただ黙ってゼインを見つめていた。
なぜ、ここまで強く責められなければならないのか。
元盗賊だとは聞いていたが、公女である自分に対して、どうしてここまで。
そんなビアトリクスの戸惑いをよそに、ゼインはなおも言葉を重ねた。
侍女にも聞こえるような声で、まっすぐ彼女に言い放つ。
「あんたが世間知らずのお姫様だからだよ。
今のあんたには地位も名誉もない。元サイサリス公国の公女ってだけで、今は何者でもないんだ。
ただ、自分の選択で不幸な境遇に落ちた、一人の小娘にすぎねぇ。
それが助けてもらおうって時に、この一か月の準備の説明をしろだと?何様のつもりだ!」
ゼインは声を荒らげた。
その口調は粗野で、態度も決して褒められたものではなかったが、
言葉には本気の苛立ちが滲んでいた。
「全部、過去の栄光にすがってるんだよ。
元公女って肩書きで物事を考え、判断しようとしてる。それが通じるのは、あんたの家臣だけだ。
その家臣たちだって、今やあんたの前に現れることすらできない。
それに気づけないってのが、一番の問題なんだよ!」
思わず目を潤ませたビアトリクスに、モーゼルがそっと口を挟んだ。
ゼインの激情をなだめるように、柔らかい声で語りかける。
「ゼイン様。そのことは、もう少し先でもよいのではありませんか?
今、この場でビアトリクス様を責めても、何も生み出しません。
突然のことで、大きく動揺されたのでしょう。大変、失礼いたしました。
話が長引けば、それだけ状況が悪くなるとお考えいただければ十分です」
ゼインはわずかに声を落としながらも、はっきりと言い切った。
「シュール大公は無能だ。この国の貴族たちも同じだ。
だが、アンドラ公国全体が甘いわけじゃない。
レギレウス将軍の存在がある以上、こちらの動きは読まれやすいし、逃げ道も限られる。
だからこそ、俺たちは一か月かけて準備を整えた。
すべては、あんたを連れ出すためだ。
覚悟が決まっているなら、それでいい。あとは俺がやる」
その態度にリディアはますます憤りを募らせていた。
失礼な口ぶり、居丈高な態度。これほど無礼な者が、姫様の前に立ったことがあっただろうか。
「ビアトリクス様、なんという非礼、無礼の極みです!
これほどの無体を受け入れる必要など、どこにもありません。
いっそ、この話は無かったことにして、明朝にもシュール大公にすべてを報告し、
この男を捕らえていただいたほうがよろしいのではないでしょうか!」
侍女の言葉はもっともだった。
ゼインの態度も言葉遣いも、公女に対するものとは思えない。
しかし、ビアトリクスの心は、別の方向へと向かっていた。
確かにリディアの言う通り、シュール大公に報告すれば、ゼインたちはすぐに排除できる。
だが、それで状況が良くなるのか。
自分はこのままアンドラ公国の客人として、子を産むことになるのか。
私は今、公女として扱われている。
けれど、それは、まだシュール大公に価値があると思われているからだ。
肩書を失えば、自分はただの女だ。
ゼインに「世間知らずのお姫様」と言われた時、反発よりも先に、妙な納得を感じていた。
言葉こそ乱暴だったが、彼の言う通りかもしれないと。
たしかに、今の私は何者でもない。
家臣たちは姿を見せない。誰も助けに来ない。
それでも私は、公女という過去だけにすがって、何かを選ぼうとしていたのかもしれない。
シュール大公に嫁ぐことは嫌だ。その息子たちも論外だ。
そして、なによりも
今、この状況をつくったのは、他ならぬ私自身。
敗れた責任から目を逸らして、ただ助けを待つだけの人間にはなりたくない。
ゼインという名には、ルグルスの大森林での悪名がついて回っている。
だが、もしゼインが世間で噂されるような、ただの悪党であれば、モーゼルがあそこまで忠実に仕えるはずがない。
目の前のゼインと、噂で語られるゼインは、まるで別人のように感じられた。
彼は、善人ではない。
しかし、本当に悪人と呼べるのだろうか。
自分の欲を満たすために、他人を利用しようとする。
王になるための手段として、私を利用しようとしている。
これが悪人か?ビアトリクスは、うまく言葉に出来ないと思った。
けれど、今の私に必要なのは、善人ではないのかもしれない。
善人ならば、私をここから救い出し、再び戦乱の渦に投げ込もうなどとは言わない。
その道がどれだけ過酷であるかを知っていればこそ、善人は黙って私の運命を受け入れさせるだろう。
だがゼインは、たとえそれが無謀だとしても、やると言い切った。
悪人でなければ、選べない道がある。
それが、ゼインの示した道だった。




