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【006】ゼインの計画、千七百キロ先の目的地

侍女リディアは、ビアトリクスがこの一か月ほどほとんど食事を取らない事を案じていた。

サイサリス公国が健在だった頃も、滅亡した今も、彼女は変わらず傍らでビアトリクスを支えてきた。


「姫様、今朝も食欲がないのですか」


「そうね。体調が良ければシュール大公と会わなければならないから、仕方ないことだわ」


モーゼルからもらった薬の影響で体調が優れないことは、ビアトリクス自身も理解していた。

リディアと二人きりなら、こんな芝居をする必要はない。

だが、ほとんど毎日、アンドラ公国の医師が様子を見に来るのだ。


「昨夜も、サイサリス公国から使者は来ませんでしたね。

これほどビアトリクス様が助けを求めているのに、動けないとは、旧臣たちも、なんとも情けないものです」


「黒蜘蛛戦争によって、サイサリス公国を滅ぼしたのは私自身なのだから、不甲斐ない旧臣というのは違うかもしれないわね」


「姫様は、よくやられました。

オリバー大公を失い、ルトニア王都やチェド湖の戦いで多くの将軍を失った中、あの退却戦を立派に戦い抜かれたのです。

誰が何と言おうと、それは揺るぎません。


それに、アンドラ公国の裏切りがなければ、ここまで追い込まれることもなかった。

この結果を、姫様お一人に背負わせるなど、決してあってはならぬことです」


どれだけ侍女に慰められても、ビアトリクスの心には敗戦の痛みが残っていた。

多くの家臣を失った責任は、自分が引き受けなければならない。

そう思っていた。


「そうかもしれないわね。

でも、動けない旧臣のことを嘆いても仕方がないと思うの。

いろいろ考えたけれど、今さら失うものなんて、もう残っていない気がするわ。


アンドラ公国の子を産むか、反抗して失敗するかの選択だとしたら、もう悩む必要はないでしょう。

ゼインとモーゼルの提案を、受けることにするわ」


しばらく沈黙したあと、ビアトリクスを励ますように、リディアはようやく声を振り絞った。


「サイサリス公国からの使者が、昨日までに来られなかったということはありませんか。

すでにアンドラ公国に着いていて、この屋敷にたどり着けていないだけかもしれません」


望みを捨てきれない侍女は、どうにかしてビアトリクスの決断を思いとどまらせようとしていた。


「リディアが心配してくれるのは、とても嬉しい。

でも、何の情報も与えられず、このまま捕らわれて時間だけが過ぎていくのが怖いの。


死ぬことは、もうそれほど怖くないと思える。

だけど、シュール大公やあの公子たちの思い通りになるのだけは、絶対に嫌なの」


リディアは、ビアトリクスの言葉に驚いた。

戦場でも恐れを見せなかった彼女が、今「怖い」と口にしたのだ。


ビアトリクスは、まだ十八歳。


その想いが胸に迫り、リディアはそれ以上言葉を続けられなかった。


「失礼いたしました。これ以上は、何も申し上げません。

私は、姫様と共におります」


その日の夕食が終わったあと、一か月ぶりにゼインとモーゼルが部屋に入ってきた。

前回とは違い、ゼインはどこか堂々として見えた。

モーゼルは従者のような雰囲気で、後ろに控えている。


ビアトリクスは二人の姿を見比べ、ゼインの印象を改めて見直した。

ごく自然に振る舞っており、場に違和感がない。

モーゼルの忠誠を当然のこととして受け入れ、それを不自然に見せない。

昨日今日で築かれた関係ではないことが、ありありと伝わってくる。


そしてモーゼル自身も、嬉々としてゼインに付き従っていた。

まるで、ゼインのそばを離れたくない子供のようにさえ見えた。


ビアトリクスが準備しておいた机に二人を促した。

モーゼルは一歩進み出て椅子を一つだけ引き、ゼインを座らせた。

自身はゼインの背後に立つ位置を取る。

なるほど、今回は従者として同行したという意味なのだな。

ビアトリクスは、その意図をすぐに理解した。


ゼインが口を開いた。


「一か月、いろいろあっただろうが、そんなことはどうでもいい。

単刀直入に、この前の返事を聞かせてもらえるか」


しばらく沈黙したあと、ビアトリクスは静かに応じた。


「その前に、この一か月でどのような準備をしたのか聞かせてほしい。

返事は、それを聞いてから考えたい」


ゼインが目を細めた。

整った顔立ちに、どこか冷たさが宿る。


「細かい話は省くが、大まかなところは今から話す。

この屋敷を脱出したのち、東へ向かってティモール王朝に入り、そこから南下して草原を西へ横断する。

最終的には、キール将軍が守る城塞都市アラモを目指すつもりだ。

行程は長い。ざっと千七百キロに及ぶ」


ゼインが話し終えると、ビアトリクスは思わず言葉を失った。


大まかな話をすると言っていたが、これでは行き先の羅列にすぎない。

この説明で、計画の成否を判断しろというのだろうか。


「それで終わりなのか」


「そうだ。他にどんな話が聞きたい。

ここで細かく説明したところで、その通りに進むとは限らない。


アンドラ公国を出てすぐ南下し、まっすぐサイサリス公国を目指す案も考えた。

距離にして千三百キロ、最短でアラモに辿り着ける道だ。

だが当然、アンドラ側も警戒している。

街道沿いで追撃を振り切り、アラモまで行けるとは思えなかった。


だからこそ、今の経路が現時点で最も現実的で、かつ最短だと判断したんだ」


ゼインは、まるで当然のことのように言った。


ビアトリクスは戸惑いを隠せなかった。

話の大筋は理解できた。

だが、脱出の方法や追跡の対処、補給の計画、味方との合流地点など、

説明すべきことは他にも山ほどあるはずだった。

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