【004】ゼインとビアトリクス公女
ビアトリクスは、その思いがけない言葉に思わず息をのんだ。
胸の奥に戸惑いが静かに波紋を描き、言葉を失わせる。
ただ視線だけが、ゼインから離れなかった。
「俺が王となる。そのためのあんたの救出だ。
あんたは俺をサイサリス公国の将軍にしてくれればよい。
その後は、俺が考えることだ」
ビアトリクスはゼインの答えを聞き、彼が無知で無学であると思った。
ゼインがサイサリス公国の将軍となれば、指揮権は私にある。
私の指示なくして勝手に軍勢を動かすことはできない。
しかし、この場で将軍とはいかなる立場かを、ゼインと議論する気にはなれなかった。
その程度の知恵しか持たぬようでは、所詮は盗賊の域を出ない男であり、心配する必要はないと判断した。
「わかりました。今回の件が成功すれば、その功績により将軍の地位を与えることは可能です。
将軍の地位は確約しましょう。
しかしながら、初対面のあなた方をすぐに信用できるはずもありません。
ですので、今お話できる範囲で、具体的な作戦や方針を聞かせていただけますか。
どのように私をここから連れ出し、どのような方法でサイサリス公国の再興につなげるおつもりなのか。
少なくとも、その概要を知るまでは、あなた方に身を任せることはできません」
モーゼルとゼインは顔を見合わせ、そしてモーゼルが口を開いた。
「全てをお話できるはずもありませんが、我々はあなたに信用していただかねばならないということは理解しました。
我々は本日より、さまざまな準備に取りかかります。
しかし、その間にもシュール大公か公子がこちらに来られるでしょう。
ですので、ビアトリクス様には体調を崩していただきます」
そう言って、モーゼルは懐から小瓶を取り出した。
小瓶の中で淡い琥珀色の液体が静かに揺れている。
毒ではないと言われても、口に運ぶには相当な覚悟が要りそうだった。
「大量に飲めば体に害を及ぼしますので、取り扱いには注意が必要です。
しかし、これを数滴飲めば、しばらくの間は心臓の動きが弱まります。
アンドラ公国の者が来る前に飲んでいただければ、やがて医師が呼ばれるでしょう。
もちろん医師には、この薬が原因だとはわかりません。
黒蜘蛛戦争における敗北と、サイサリス公国滅亡による心労だと判断されるはずです。
結果として、アンドラ公国の人間と会わずに養生できるでしょう。
その間に、我々が準備を進めます」
ビアトリクスは、取り出された瓶を手に取り、目の前に近づけた。
「期間はどの程度を考えているのだ」
「一か月程度いただければ、お迎えに上がれると思います」
「ふむ。一か月かからずに私をこのアンドラ公国から連れ出すことができるのだな。
私にとって、あなた方を信用するというのは最後の手段として考えたい。
あなた方の準備が整うまでに、サイサリス公国の人間から連絡があれば、そちらを優先しても構わないな」
ビアトリクスは、二人に向かってきっぱりと言い切った。
盗賊風情に好き勝手されるよりは、サイサリス公国の人間の方が、よほど身元が確かである。
サイサリス公国の将軍の地位欲しさに自分を救出しようとする考えは理解できた。
欲があるのであれば、その欲を利用することは可能だと考えていたからだ。
ビアトリクスの話を聞き、ゼインは不愉快そうな顔をしたが、モーゼルは落ち着いた表情を崩さなかった。
「確かにその通りです。我々よりサイサリス公国の助けを優先されるのは理解できます。
ご随意にしていただいて結構です。
では、我々は準備が整い次第、ビアトリクス様の意向を確認するためにもう一度伺います。
その時に詳細についてお話しいたしますので、お待ちください」
モーゼルは軽く頭を下げ、ゼインもそれに続き、無言のまま部屋を後にした。
二人は、ビアトリクスが捕らわれている屋敷を離れ、サイラス商会の商館へ向かった。
道中、ゼインは一言も発さなかったが、その足取りには怒気がにじんでいた。
商館の一室には、ルグルスの大森林から同行してきた仲間たちが顔をそろえていた。
エルヴィス、セミラミス、エイナル、ブーディカ、そしてマザラン。
ゼインは彼らの顔を見るなり、声を荒げた。
「あの女、ふざけやがって。俺たちとサイサリス公国を天秤にかけると言いやがった」
ゼインの怒りを前にして、一同は一瞬沈黙した。
その沈黙を破ったのはマザランだった。
彼は一行の中で最年少の十七歳であったが、仲間の動きをまとめ、次にどう動くかを冷静に考える役割を自然と担っていた。
マザランはゼインには直接問いかけず、静かにモーゼルに目を向けた。
「それは、話し合いがうまくいかなかったということでしょうか」
モーゼルは、普段と変わらぬ口調で答えた。
「いえ、そうではありません。ビアトリクス様との話し合いは順調でしたよ」
モーゼルがそう言うのであれば、順調であったのだろうと皆は考えた。
ではなぜ、ゼインがこれほどまでに怒っているのか。互いに顔を見合わせた。
「モーゼル!あんな女に「様」なんてつけるなよ!」
普段は年長のモーゼルに対して敬意を忘れないゼインが、珍しく声を荒げた。
だがモーゼルは、その怒りの矛先が自分ではなく、あくまでビアトリクスに向けられていることを理解していた。
だからこそ気に留めることもなく、ゼインではなく、静かに仲間たちへ語り始めた。
「今日は顔合わせのつもりでお邪魔しました。
ただ、元公女の様子を見て、救出の話を少しだけ切り出しました。
彼女の置かれている状況は、どう見ても本人の望むものではありませんでした」
モーゼルは落ち着いた口調で続けた。
「アンドラ公国のシュール大公やその息子たちは、彼女の血筋を利用して、将来的に正統性のある後継を立てるつもりなのでしょう」
「だから、こちらが救出の準備をしているあいだに、旧サイサリスの者たちから救いの手が差し伸べられれば、そのときは我々の提案を断る。と彼女は言ったのです。
私はその判断に無理はないと感じましたが、ゼイン殿は納得できなかったようです。
初対面の我々をすぐに信用できないのは、当然のことだと思っています」




