【036】王都決戦の幕開け
沈黙が戻った玉座の間で、アーロン将軍がゆっくりと視線を巡らせ、口を開いた。
民衆の暴動、王子の脱走、すべてを見届けたうえでの静かな決意だった。
「皆の者、聞いての通りだ」
アーロン将軍の声には、重みがこもっていた。
「我々は無能ではない。誇りを持て。
ビアトリクス様がお戻りになるまでに、秩序を一刻も早く取り戻さねばならん。
胸を張って迎えられるよう、誇りを忘れるな。
すべてをお預けしてよいなどと、決して思うな。
ビアトリクス様は北へ三百キロ離れたエデッサで反乱鎮圧に当たっておられる。
ダレル団長は東へ五百三十キロの地にあるサイサリス公国へ帰国中だ。
コンラッド侯爵は南へ三百キロの地で、ベネット侯爵と対峙している。
伝令は走らせてあるが、いずれもすぐには戻れぬ。
ゆえに我らが何とか日数を稼がねばならん。
その間、この王都の混乱を我らの手で抑えるのだ」
将軍たちは無言で頷いた。
これ以上の混乱を招かぬために、今、自分にできることを果たさねばならない。
その思いが、玉座の間に静かに広がっていった。
その空気を受け継ぐように、政務を預かるローガン侯爵が一歩前に出て、静かに言葉を継いだ。
「ひとまず、王都内の混乱については、先ほど出ていった将軍が鎮圧に向かいました。
現時点では、彼に一任して差し支えないと考えます。
すべての民が暴徒と化しているわけではなく、武装しているという報告もありません。
我々が本気で対処すれば、制圧自体は不可能ではないでしょう。
ただ、数が多い。それが唯一の懸念です」
慎重に言葉を選びながら、さらに続けた。
「加えて、今後の統治を見据えるなら、過度な武力行使は避けるべきかと存じます。
必要最低限にとどめ、威圧と懐柔を適切に使い分けることが肝要です」
その言葉に、アーロンは深くうなずいた。助かったと、心の中で思った。
策を出す者、決断する者、行動する者。
それぞれに役目がある中で、今のアーロン将軍には事態を打開する妙手がなかった。
あまりにも急な展開に、思考が追いつかなかったのだ。
しかし、ローガン侯爵が言葉を重ねてくれたことで、状況を整理し、視野を広げることができた。
判断を支える冷静な助言こそ、今の自分に最も必要なものであった。
「しかし」
アーロン将軍は眉をひそめ、口を開いた。
「すでに暴発している民衆を、武力以外の手段で抑えるのは、難しいのではないか」
ローガン侯爵に問いを投げかけたが、その返答が発せられる前に、玉座の間の扉が再び開かれた。
アーロン将軍、ローガン侯爵、そして軍議に加わっていた将軍たちが、同時に息をのむ。
またか、また何かが起きたのか。
心の奥底に、じわりと嫌な予感が広がっていく。
逃げ場はなく、身動きひとつ取れない。
扉が勢いよく開き、衛兵が駆け込んできた。
顔面は蒼白で、息は荒く、言葉を発する前からただ事ではない様子が伝わってくる。
「西門より、ルーク王子が旧ルトニア王国兵を率いて攻め込んできました。
その数、およそ四千。
さらに、暴動を起こした民衆もこれに呼応し、各所で我が軍勢が討たれる事態となっています。
状況は極めて深刻です」
玉座の間に、重く冷たい沈黙が落ちた。
それは、先ほどまでの混乱とは異なる、破滅の前触れとも言うべき静寂だった。
「そうか、そうきたか。ルーク王子、ルトニア王国軍、まだ残っていたか。これが最後の手か」
アーロン将軍は机を叩き、周囲の将軍たちにも聞こえるように声を上げた。
すべてが後手に回っていた。
目の前で、サイサリス公国が攻略したはずのルトニア王都が、音を立てて崩れ落ちていく。
物理的な崩壊ではない。統治そのものが、目に見えてほころび始めていた。
その言葉を受けて、二人の将軍が立ち上がった。
「我々が出向きましょう。王都内で大軍を展開するのは困難ですが、敵はルトニア王国軍。
兵数が同程度なら、我々が負けるはずがありません。
四千の軍勢を率いて迎え撃ちます。
その間に、今後の対策をおまとめください」
そう言って、二人の将軍は玉座の間を後にした。
アーロン将軍も、ローガン侯爵も、そして残された将軍たちも、しばし呆然としていた。
そんな時間が許されないことは、誰もが痛いほど理解していた。
だが、あまりにも急激な事態の変化に、思考が追いつかない。
アーロン将軍がふと口を開いた。
「なぜ西門だけなのだ。あれがルトニア王国軍の全軍か。
四千と、王都の群衆だけで、我々一万三千を討ち取れると本気で思っているのか」
アーロン将軍の疑念は、まるで冷水のように玉座の間に広がった。
ローガン侯爵も、他の将軍たちも返す言葉がない。
それは、誰もが内心で同じ不安に突き当たっていたからだった。
何かが足りない。
この奇襲は単なる陽動ではない。もっと恐ろしい本体が、別の場所に潜んでいるのではないか。
今後の展開を読み、次に何が起きるかを予測できれば、戦局を動かせるかもしれない。
だが、このままでは、ただ一方的にルトニア王国軍の策に絡め取られるだけだ。
誰もがその焦燥を感じていた。
しかし口を閉ざすしかなかった。
まるで巨大な蜘蛛が静かに巣を張り巡らせ、獲物が罠にかかる瞬間を待っているような戦慄が、王都を覆い始めていた。




