【035】ルーク王子の逃亡
扉を開けて入ってきた衛兵が、蒼白な顔のまま入口で立ち尽くしていた。
それを見たアーロン将軍が声をかける。
「どうしたのだ」
衛兵は、震えるような声で答えた。
「ルーク王子を幽閉していた部屋を隈なく探しましたが、どこにもおりません。
それと、王子の身の回りの世話をしていた女兵士も、同様に姿が見当たりません」
部屋に、深い沈黙が広がった。
衛兵の報告だけが重く響き、軍議に参加している将軍たちの誰ひとりとして、ため息すら漏らさない。
まるで言葉も呼吸も、すべてを封じられたかのような空気が支配していた。
その静寂のなかで、衛兵はまるで自らが重大な過失を犯したかのように呆然とし、
魂が抜けたようにその場に立ち尽くしていた。
部屋の空気が凍りつき、まるで時間が止まったかのようだった。
その静止していた時を再び動かしたのは、やはりアーロン将軍であった。
「わかった。下がってよい。
それともう一度、数名で部屋を調べさせよ。
天井や床に隠し通路がないかも確認させるのだ」
そう命じる声には、衛兵を気遣うような柔らかさがあった。
アーロン将軍は気の毒そうにその背を見送った。
扉が閉まり衛兵の姿が見えなくなるのを見届けると、ふっと天を仰ぎ、絞り出すような声で呟いた。
「なるほど、ルーク王子が裏で糸を引いていたのか」
アーロン将軍の呟きに、将軍たちの視線が一斉に集まった。
この場にいる将軍たちは、いずれも戦場での武勇に自信を持つ者ばかりだった。
だが、計略や策略となると、どうにも不得手であることを自覚していた。
アーロン将軍が特段、それに秀でていたわけではない。
ただ、彼はこの中で最も長くオリバー大公と行動を共にしていた。
それだけの理由で、今この場を預かっているにすぎなかった。
この状況で発言できるのは、アーロン将軍とローガン侯爵のみである。
とはいえ、そのアーロン将軍でさえ、ローガン侯爵と同様に「結果」を読み解くことはできても、それに対して「どう対処すべきか」という戦略的な対抗策を即座に導き出せるわけではない。
なぜなら、彼らはこれまで、そうした役割を担う立場ではなかったのだから。
これまでは、どんな敵に対しても、どのように挑むべきか。
そのすべてを考え、決断していたのはオリバー大公だった。
将軍たちはただ戦うことに専念すればよく、策を練る必要などなかったのだ。
ローガン侯爵にしても、政務には通じているが、戦場における駆け引きとなると話は別だった。
敵の動きを先読みし、一手先を見越して動く、そうした戦略的判断は本来の役割ではない。
アーロン将軍は、いまこの状況で自分たちにできることをやるしかないと考えていた。
だが、敵がこれからどんな手を打ってくるのか、まったく見当がつかない。
その不安は、ローガン侯爵もまた同じだった。
アーロン将軍は、朝日が昇り、主のいなくなった玉座に光が差し込むのを見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「皆の者、ここは、もはや戦場だ。
我らが大公は、すでにこの世にはおらぬ。だが、我々にはビアトリクス様がいる。
これからは、ビアトリクス様を戴き、サイサリス公国を支えていかねばならぬ。
今までの戦は、ただ目の前の敵を討てばよかった。
だが、これからは違う。
目に見えぬ敵、策略、世論、裏の動き、そうしたものと戦わねばならぬ。
それができなければ、我々は生き残ることすらできなくなるだろう」
アーロンは、この期に及んでなお、後継者の座を狙う者がいないかを確かめるために、あえてビアトリクスの名を出した。
自らが大公の座を望んだことは一度もない。
だが、この場にいる将軍たち全員がそうとは限らない。
隙あらば、その座を奪おうとする者が現れる。アーロン将軍は、そう感じていた。
そして、もしここで後継者争いが勃発すれば、サイサリス公国の遠征軍は一瞬で瓦解する。
先日、オリバー大公がルーク王子とビアトリクス様の結婚について口にされた。
その言葉こそ、ビアトリクス様を後継者とする大公の意志の表れである。
それを今、この場で明示しなければならない。アーロン将軍は、そう考えた。
そのとき、扉を叩く音が響いた。
本来であれば、軍議の最中に立ち入るなど、許されるはずもない。
だが、扉を叩いた衛兵も、そのことは重々承知しているはずだった。
それでもなお、報告せねばならぬ事態。
そう察したからこそ、アーロン将軍は直感的に、嫌な予感を覚えた。
「今度は何だ」
思わず、うんざりとした声が漏れる。
これ以上、悪い知らせは聞きたくなかった。
だが、その願いは、あっけなく打ち砕かれた。
「巡回中の兵士が各所で民衆に襲われています!
一部の兵は捕らえられたとの報告もあります!」
軍議に参加していた将軍たちは、自分たちの感覚が麻痺していくのを実感していた。
衛兵が告げたのは、「王都内で暴動が発生している」という重大な報告。
だが、もはやその報せですら、驚きにはならなかった。
それまでに次々と知らされた。
オリバー大公の死、ルーク王子の脱走。
あまりにも衝撃的な出来事が続いたせいで、心が追いついていなかったのだ。
「またか」
誰かが呟いたその一言が、軍議の空気を代弁していた。
そのとき、一人の将軍が席を立ち、軽く頭を下げて言った。
「私が二千の兵を率いて、現場を収めてまいります」
そう言い残し、足早に玉座の間を後にした。
だが、彼が冷静だったわけではない。
むしろ、軍議の内容があまりに複雑で理解が追いつかず、
ただ自分の役目を果たすことで精一杯だったのだ。
ならば、自分にできることをする。
目の前の混乱を鎮めに行くほうが、よほど有意義だ。
彼は、そう考えていた。




