【028】ビアトリクス公女、後継者としての自覚
オリバー大公は静かに頷き、ゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。
「昨日の件、ルーク王子との結婚についてだな。
お前が一人娘であろうと、それだけで次の大公に据えられると決まったわけではない。
私はお前が次の大公になれるよう希望していた。
そして、その資格を持てるように教育してきたつもりだ。
サイサリスは公国だ。王国のように血筋だけで継がせる習わしはない。
実績も支持も示さねばならん。
周囲には功績を挙げた将軍がいる。
もし私に何かあれば、そういった者たちが後継に名乗りを上げる可能性はあるだろう。
お前が若く、まだ表立った功もない以上、誰もが黙って譲ってくれるとは限らん」
オリバーはそこで一度言葉を切り、娘にまっすぐ視線を向けた。
「だからこそ、お前が正当な後継者であることを、内外に示しておく必要がある。
ルーク王子との結婚は、そのための一つの手段だ。
滅びた王国の王子であり、この大陸で最も尊き血を継ぐ者を婿に迎える。
そのことは、民に対して寛容さと威厳を示すことにつながる。
形式も実権も、すべてお前が握ることになる。
ルーク王子と結婚するのではなく、伴侶として迎え入れるわけでもない。
わかるか」
ビアトリクスがわずかに目を見開いたのを確認すると、大公は続けた。
「ビアトリクス、お前との結婚が彼にとって屈辱であることは承知している。
三百年の歴史を誇った王国の王子が、我が国に婿として迎え入れられるのだ。
ルトニアの民衆がそれを知れば、悔しさに血の涙を流す者もあろう。
ルーク王子を哀れむ声が上がることもあるだろう。
だが、それでよい。
お前との結びつきこそ、彼の力を封じる鎖となる。
そして民衆にとっても、過去を終わらせる象徴となり得るのだ」
オリバー大公は再び視線をビアトリクスに戻した。
「お前はすでに十八だ。国を背負う者として、いずれは誰を隣に置くかを選ばねばならん。
それが誰であろうと、早すぎる話ではない」
視線をまっすぐに向けながら、オリバー大公は締めくくった。
ビアトリクスは、その言葉の裏にあるものを理解していた。
自分がすでに次代の大公として見られていることも、
その立場がまだ脆弱で、支配層すべてから認められているわけではないことも。
後継者としての自覚はある。
けれど、それを口にするには、まだ実力が伴っていないのだと。
だからこそ、父の言葉の重さも、そこに込められた期待も、痛いほど胸に響いた。
「これは、そろそろお前にも自覚を持たせる時が来た、という話だ。
結婚の話そのものが目的ではない。
大公の娘としてではなく、次代の大公となることを自覚せよ、ということだ」
その言葉の意味は、ビアトリクスにも痛いほど伝わった。
結婚は感情ではなく、国の未来を左右する政治の一手。
嫌だと言う自由など、最初からない。
公女として生まれた瞬間から決まっていた役割なのだ。
「お言葉、確かに胸に刻みました」
ビアトリクスはそう前置きし、一瞬だけ視線を落としてから、静かに問いかけた。
「しかし、私とルーク王子との結婚は、果たして本当にサイサリス公国のためになるのでしょうか」
声は落ち着いていたが、その奥には迷いと覚悟が同居していた。
「今すぐ役に立つというわけではない。それは私も承知している」
オリバー大公は視線を外し、窓の外を見ながら静かに続けた。
「今回の急襲で、我々はほとんど無傷のままルトニア王国を手に入れた。
だが、王都とコンラッド侯爵が治めるルトニア東部を押さえただけだ。
西にはリアム侯爵がいて、南にはベネット侯爵が健在だ。
明日以降、残る領地の接収を進めていかねばならん。
この局面でルーク王子を必要とする理由は、正直言ってない」
そこで一度言葉を切り、椅子の肘掛に手を置いたまま、わずかに声を低めた。
「だが、お前がルーク王子との間に子を成せば話は別だ。
その子をルトニアの血を引く存在として、民衆が王に望む可能性はある。
もちろん、それがいつ起きるか、起きるかどうかさえも分からん。
だが、考慮すべき未来ではある」
オリバー大公は再びビアトリクスを見据え、いつもの実務的な声に戻して言った。
「今後、ルトニアを治めていくには、商都ハンザやフランク王国との交渉も避けては通れん。
何が起こるか分からぬ以上、選択肢は狭めずにおくべきだ」
そして、少しだけ肩をすくめるように付け加えた。
「ともかく、今この時点でルーク王子との結婚は必要ない。
いったんなかったことにしておこう」
これから先、それらを本当にサイサリスのものとして治めていくには、数多の困難が待ち受けているだろう。
そう考えるのは難しいことではなかった。
だが、心に引っかかるのは別のことだった。
何かがおかしい。
明確な理由はわからない。
だが、空気が違う。
父の言葉、ローガン侯の態度、自分の感情。
すべてが、少しずつ、ほんのわずかに、歯車がずれているように思えた。
いつもと様子が違う。
その違和感が、じわじわと胸に広がっていく。
言葉にならない、不確かなもの。
それでも確かに心を覆う、得体の知れない予感。
漠然とした不安が、ビアトリクスを静かに包み込んでいた。
サイサリス公国がルトニアの王都を落としてから、四日目の夜が訪れようとしていた。




