表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

28/41

【027】ビアトリクス公女、答えなき違和感を抱えて

ローガン侯爵が廊下を進んでいたそのとき、前方からビアトリクス公女の姿が見えた。

その端正な顔立ちには、まだ年若さが残っているが、その表情は氷のように冷たかった。


すぐに立ち止まり、廊下の端に身を寄せて、恭しく頭を下げる。


すると、ビアトリクスが立ち止まり、感情を抑えた声で問いかけた。


「大公と話をしていたのか?」


「はい。商都ハンザの商人も招き、宝物庫の品々を競売にかけて処分するよう仰せつかりました」


ローガン侯爵は、いつもと変わらぬ落ち着いた口調で丁寧に答えた。

ビアトリクスは一瞬眉をひそめたが、すぐに問いを重ねる。


「そうなのか、すべてが売却された場合、どれほどの金額になるのか」


その声は淡々としていたが、その奥に潜む不快感までは隠しきれていなかった。


「サイサリス公国の国家予算、少なくとも一年分以上にはなるかと存じます」


ローガン侯爵は淡々としながらも、どこか自信を滲ませて言葉を続けた。


「中には、歴史的価値の極めて高い品も含まれておりますので、

それらがいかほどの価格で落札されるかは予測が難しいところです。

ですが、もし高値がつけば、三年分以上の予算に相当する金額が得られる可能性もございます」


金額を聞いたビアトリクスは、わずかに目を見開いた。


「それほどの金額になるのか。ルトニア王も、よく貯めこんでいたものだな」


そう呟いたあと、視線を外してから再びローガン侯爵を見た。


「他に、大公とは何か話を?」


ローガン侯爵は一礼し、変わらぬ口調で答えた。


「取り立てて、ビアトリクス様にお伝えすべきようなお話はございませんでした」


ビアトリクスは、自分でも理由のはっきりしない嫌悪感を抱えていた。


ローガン侯爵。

この男とは、生理的にどうにも合わないのだ。


彼は丁寧な言葉遣いを崩さず、礼儀も過不足ない。態度に粗さや傲慢さも見当たらない。

それどころか、姿勢も所作も完璧に整っており、表面的には非の打ちどころがなかった。


それでも、好きになれなかった。


なぜなのかと自問する。

サイサリス公国のために忠実に働いているのは明白で、財政も彼の手腕で豊かになったと耳にしている。

それなのに、どうしても心の奥に引っかかるものがあった。


どうして、この人が、こんなにも受け入れられないのだろう


その違和感は、まだ若い彼女の感情に素直に現れてしまう。

それが相手にも伝わり、必要以上に硬い態度になってしまうのだ。


ローガン侯爵も、その空気を察してはいた。

だが、年長者としての余裕で受け流す術を心得ており、表面上は何事もなかったようにふるまう。


今は周囲に誰もいないため、気まずさを覚えることはなかった。

しかし、人目がある場でも同じ空気を漂わせてしまうのが問題だった。

そのせいで、周囲に気を遣わせる場面も少なくない。


自分でも説明のつかないこの感情。

だが、もし誰かに打ち明ければ、きっとこう言われるだろう。


「若いころにありがちな潔癖さだよ。

老獪な人物を、まだ受け入れきれないんだ」


まさに今のローガン侯爵がそうだ。

ビアトリクスの問いかけに対し、彼は何事もなかったかのように、

「お伝えするような話はございませんでした」とだけ答えた。


その物腰は丁寧だが、どこか乾いていて、肝心なところを意図的に隠しているように思える。

何かを抱えていながらも、平然と何もなかった顔で言い切る。

そうした態度が、どうにも神経に障るのだ。


「わかった。今から父上のもとへ向かうが、何か伝えておくことはあるか?」


そう問いながらも、ビアトリクスの胸の奥には、言葉にしがたい釈然としない思いがくすぶっていた。

その感情を抱えたまま、ローガン侯爵の返答を待つ。


ローガン侯爵はごく自然に一礼し、穏やかな口調で答えた。


「恐れながら、先ほど、お時間を頂戴いたしましたので、特に申し上げることはございません」


その返答には何の不備もないはずだった。

だが、ビアトリクスの中では、やはり何かが引っかかっていた。


丁寧に一礼し、静かに立ち去るローガン侯爵の背中を見送りながら、ビアトリクスは胸の内で呟いた。


どうにも好きになれない


礼儀も言葉も完璧。非の打ちどころがないはずなのに、それでも心が拒んでしまう、

その理由は自分でもわからなかった。


やがて歩を進め、父の執務室の扉の前に立つ。

気づけば、ほんの少し緊張している自分がいた。


やっぱり、私たちは普通の親子ではないのだろうな


どこかでそう感じながらも、それは当然のことだと自分に言い聞かせた。

父はサイサリス公国を治める大公であり、自分もまた、その血を継ぐ者、

私情や甘えなど、許されるはずがないのだ。


ビアトリクスは気を引き締めるように背筋を伸ばし、扉を軽く叩いた。


「ビアトリクスです。入ってもよろしいでしょうか?」


中から返ってきたのは、少し抑えた低い声。


「入れ」


その声に、どこか父親らしからぬ距離を感じ、わずかな違和感が胸をよぎった。

だが同時に、ようやく言葉を交わせるという安堵もあった。


ビアトリクスは扉を押し開け、静かに部屋へと足を踏み入れた。


「失礼いたします。少し、お時間を頂戴いたします」


ビアトリクスが一礼して言うと、オリバー大公は椅子にもたれながら、柔らかい声で応じた。


「何、他に誰もおらぬ。気軽に話すがよい。

今日はどうした? 

何か聞きたいことでもあるのか?」


その声音には、珍しく機嫌の良さがにじんでいた。

何か良いことでもあったのだろうかと一瞬思ったが、今は余計な問いで話が逸れるのを避けたかった。


「恐れながら、昨夜のルーク王子との結婚というお話。

その意図を、どうしても私の中で整理しきれませんでした。

差し支えなければ、改めてお聞かせいただけますでしょうか?」


そう問いかけながらも、内心では迷いが渦巻いていた。


ルークは、滅ぼした相手国、ルトニア王国の王子であり、今は捕らわれの身である。

そんな彼との結婚を、父が突然語ったことに、ビアトリクスは強い違和感を覚えていた。


サイサリスはすでに王都を制圧し、必要な実利は確保している。

この時点で、ルークという男に戦略的な価値があるとは考えにくい。

なのに、なぜ今になって結婚という話が持ち上がったのか。


これは何かの交渉の布石なのか。あるいは、父なりの政治的意図なのか。

さまざまな可能性が思い浮かんだが、いずれも確信には至らなかった。


理解したつもりで軽々しく動くわけにはいかない。


だからこそ今は、「わからない」と認めることが、自分にとって最も誠実な答えだと思えた。

けれど、その選択が正しいのか、自信があるわけではなかった。


本来、誰かの意図が読み取れないというのは、己の理解や経験が足りないことを示すものだ。

ましてや、それを本人に尋ねるというのは、相手に「お前はその程度もわからぬのか」と失望させる危険すらある。


それでも、聞かずにはいられなかった。

中途半端な理解のままでは、前へ進むことなどできない。


ビアトリクスは、覚悟をもってその問いを口にした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ