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【001】ビアトリクス公女と商人モーゼル

黒蜘蛛戦争は、サイサリス公国の敗北によって幕を閉じた。

ビアトリクス公女は「保護」の名のもとにアンドラ公国の公都へ捕らわれている。


彼女が暮らすのは、公都の一角にある貴族の邸宅だった。

本来ならば地方領へ赴任しているはずの者の屋敷である。


生活に不自由はない。

家具も衣服も食事も、十分に整えられていた。


だが、それはあくまで閉ざされた中での自由に過ぎなかった。

公都に移されて、約一か月であった。

日々は過ぎても、心は何ひとつ落ち着かないままだった。


そんなある日のこと。


気晴らしになるだろうと、シュール大公は一人の商人を手配した。

アンドラ公国に出入りする商会の者だとされたが、その真意は定かではなかった。


その夜。


扉が静かに開き、一人の商人が部屋へと足を踏み入れた。

深く頭を下げ、柔らかな口調で挨拶する。


「初めまして。アンドラ公国にて商いをしております、モーゼルと申します。

以後、お見知りおきください」


「私がビアトリクスです。よろしくお願いします」


ビアトリクスは、商人モーゼルに丁寧に挨拶を返した。

敵意を示す相手ではないと理解しており、殊更に強く出る必要もなかった。


「サイラス商会が扱う商品は、食料、嗜好品をはじめ、多岐にわたります。

それもこれも、アンドラ公国を筆頭とした良好な取引関係の賜物であり、心より感謝しております。

本日は、当商会を代表して私が直接対応させていただきたく、こうして伺いました」


「また、本日お持ちしていない商品で、ご希望の品がございましたら、明日にでもご用意いたしますので、遠慮なくお申し付けください」


「では、お持ちした品々を順にお見せしながら、説明させていただきます」


モーゼルが連れてきた若者が、無言で箱から商品を取り出していく。

その動作は滑らかで手慣れていたが、ビアトリクスの目を引いたのは、彼の背中だった。

それは商人のものとは思えぬほど分厚く、鍛え上げられた筋肉が衣服越しにもはっきりとわかる。


尋常ではない。

そう思った瞬間から、彼の所作の一つひとつに目を奪われ、目が離せなくなり、

モーゼルの説明が耳に入ってこなくなっていた。


どれほど見つめていたのか自分でもわからないまま、声をかけられる。


「ビアトリクス様?」


「あ、ありがとうございます。ですが」


ビアトリクスは小さく息を整えた。


「この部屋にあるものの中に、私の気に入る品は一つもありません。

そして、お持ちいただいた商品の中にも、好みに合うものはありません。

申し訳ありませんが、本日お持ちいただいた品は、そのままお持ち帰りください」


「これは、手厳しい」


モーゼルは声を荒げることもなく、肩をすくめるように言った。


「ビアトリクス様が今お使いの物は、すべてシュール大公から与えられたものです。

つまり、ご自身の好みに合った品ではないと拝察しております」


彼は言葉を選ぶように、静かに続けた。


「そこで、少しでもお気に召す品をご用意するよう、私どもに命が下ったのです。

にもかかわらず、私がお持ちした品もお好みでないと言われる。

仮にもシュール大公より直々に任された身としては、責を負うことにもなりかねません。

どうかその点をお汲み取りいただき、ほんの少しでも検討していただけないでしょうか」


ビアトリクスは小さく頷いた。


この商人の言うことはもっともだった。

シュール大公の命を受けて訪れているのなら、何か一つでも購入しなければ、彼が無用な叱責を受けるかもしれない。


だが、それでも首を縦には振れなかった。

アンドラ公国から、これ以上の施しを受けるつもりはなかった。


今の生活も十分に厚遇されている。

しかし、その厚遇こそが、自分を飼いならそうとする鎖に思えて仕方がない。


この感情を軽々しく言葉にすれば、すぐにシュール大公の耳に届くだろう。

そう考えると、彼女の唇は自然と閉じたままだった。


そんな沈黙の中で、モーゼルが穏やかな笑みを浮かべた。


「なるほど。我々を信用していない、ということですね」


思わぬ言葉に、ビアトリクスは眉をわずかに動かした。

どういう意味かと問いかけるより早く、モーゼルは柔らかな声で続ける。


「何かを言おうとして、言わない。

考えを抱えたまま、口に出すことを避けているようにお見受けします」


彼はゆったりとした口調のまま、しかし確信を帯びて言葉を重ねた。


「あなたの態度からは、こう聞こえます。

私は現状に満足していないが、これ以上の施しも望んでいない。と」


「そのお気持ちは理解できます。

しかし、それは言葉にしなくても、態度や表情の端々に滲んでしまうものです。

まだ十八歳なのですから、隠しきれないのも当然です」


この男は、ただの商人ではない。

そう直感したビアトリクスは、態度を改めるように姿勢を正した。


「注意した方が良いと言われたが、それは、どういう意味か?」


モーゼルは、ゆっくりと首を横に振った。


「本当にご自身の気持ちを隠したいのであれば、適当な品を何点か選んで、満足しているふりをなさるべきでした。

ですが、あなたはどの商品にも手を伸ばさなかった」


彼は穏やかに言葉を区切る。


「その態度が、はっきりとした意思表示になってしまっている。

つまり、アンドラから施しを受けたくないという強い感情が、選ばなかった行為そのものに表れてしまっているのです」


それは、見事なまでの観察と洞察だった。

モーゼルの指摘は的を射ており、反論の余地がなかった。


「ビアトリクス様が何をお考えであっても、私がそれをシュール大公に報告することはございません。

どうかご安心ください。私は少なからず、ビアトリクス様のご境遇に同情を覚えているのです」


言葉を一度区切り、モーゼルはじっと彼女を見つめた。

そして、穏やかな笑みを浮かべながら続ける。


「同情されるのは、不愉快だというお顔をなさっていますね」


あまりに正確に内面を言い当てられ、ビアトリクスはわずかに眉をひそめた。

この初対面の商人に、こうもあっさり心を読まれることが、不快でならなかった。


「あなたとは、今日が初対面のはずです。

にもかかわらず、モーゼル殿の言いようは、少々、失礼ではありませんか」


自身の語気の揺れに気づき、さらに苛立ちを覚えたビアトリクス。

その様子を前にしても、モーゼルは落ち着いたまま、静かに返した。


「私は、ビアトリクス様とは親子ほども歳が離れております。

その分、見えるものも違うのでしょう。無礼な振る舞いをした覚えは、一切ございません」


視線をしっかりと合わせながら、彼は言葉を続けた。


「加えて私は、シュール大公のご命によりこの場を訪れ、商品をお持ちした者です。

にもかかわらず、何ひとつ選ばれず、さらにはアンドラ公国からの施しを受ける気もないとおっしゃる。

どちらが礼を欠いているのか、いま一度、お考えいただければと存じます」


失礼に当たるのではないか。

そう思い、あえて柔らかく言葉を選んだつもりだった。


だが、モーゼルはその言葉遣いや態度を、微塵も改める様子を見せなかった。

ビアトリクスは静かに息を吸い、口を開いた。


「お互いに言い分があるようですね。

ですが、モーゼル殿とこのまま話をしていても平行線のままでしょう。

私はこれ以上、あなたと会話を続けるつもりはありません。

シュール大公に何を報告なさっても構いません。

どうぞ、お引き取りください」


その言葉にも、モーゼルの笑顔はまったく揺るがなかった。


「ビアトリクス様、それは、あまりにも短慮ではございませんか。

先ほどから申し上げております通り、私はシュール大公にご様子を報告するつもりなどございません。

そして、あなたのご境遇には、少なからず同情しております」


モーゼルの落ち着いた声音に、ビアトリクスの瞳が鋭くなる。


「初対面であるにもかかわらず、私の気持ちを顧みない方と、これ以上お話しする必要はありません。

それが短慮で、私が悪いとおっしゃるのですか」


声は静かだったが、その語尾には確かな怒気が宿っていた。

ビアトリクスは真っすぐにモーゼルを睨みつける。

室内の空気が、ひときわ張り詰めた。


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