【012】セミラミスの叱責、リディアの命運
その言葉を聞いたエルヴィスは、合図を待っていたかのように、素早くサイサリス公国より取り寄せた鍵爪のついた縄を塀の上へと投げた。
縄がしっかりとかかったのを確認し、エルヴィスが小さく声をかける。
「ゼイン、いけるぜ」
ゼインはその声に頷くと、迷いなく縄を使って塀を素早く駆け上がった。
頂上に達するや否や、すぐに縄を内側へと垂らし、後続が登れるように整える。
そして自らは、塀を下る際に壁を二度蹴って勢いをつけ、ほとんど一瞬で地面へと着地した。
そのまま物音一つ立てずに、ゼインは裏手の扉へと駆け寄った。
扉を警護していた兵士の背後に回り込むと、迷いなくその首筋にナイフを突き立てる。
刃を抜いた瞬間、兵士はゼインに抱きとめられるように崩れ落ち、そのまま静かに地面へと倒れていった。
すべてが一瞬の出来事だった。
兵士は何が起きたのかも分からぬまま、沈黙の中で息絶えた。
遅れて、エルヴィスとセミラミスが到着した。
エルヴィスが小声でつぶやく。
「さすがだな」
ゼインはそれに返事をせず、屋敷を見上げながら言った。
「二階だ」
すでに屋敷の内部構造は把握している。
ビアトリクスがどの部屋に捕らわれているかも、ゼインには分かっていた。
三人は屋敷の壁沿いを進み、目当ての部屋の下まで移動する。
見上げると、窓がわずかに開いていた。
ビアトリクスが事前に開けておいたのだ。
ゼインは、塀際と同じ手順で、鍵爪付きの縄を窓へと投げた。
縄がしっかりとかかったのを確認すると、三人は無言で次々と室内へと侵入した。
ビアトリクスは、窓から入ってきたゼインたちを見ても、取り乱す様子はなかった。
その落ち着いた様子に、ゼインは内心「頼もしい」と感じたのだった。
「自己紹介は後だ。この二人は仲間だ、信用していい」
ゼインがそう言うと、ビアトリクスはうなずきながらも、すぐに彼のもとへ歩み寄った。
彼女の関心は仲間の名前ではない。今、どうしても確かめておきたいことがあった。
「最後に、もう一度だけ、リディアのことを考え直してもらえないかしら」
その声は静かだったが、切実さが滲んでいた。
「私も、リディアも、覚悟はできている。
でも、ここまでずっと私の傍にいてくれた彼女を、このまま置き去りにするなんて、あまりに酷すぎるわ。
少しでも、ほんの少しでもいい。他に方法はないかしら」
ビアトリクスは、必死に訴える。
リディアは、アンドラ公国に捕らわれていた間も、ビアトリクスに付き従い続けた忠実な者だった。
監視の目がある中でも、静かに仕え、苦楽を共にしてきた。
だが、救出作戦には加えられない。それが作戦開始前からの、厳しい現実だった。
人数が増えれば行動が鈍り、失敗のリスクが跳ね上がる。
何より、兵士ではない彼女を連れての脱出は、あまりにも危険だった。
しかも、ただ置いていくだけでは済まない。
ビアトリクスが脱走したと知れれば、リディアはその共犯として扱われるだろう。
アンドラ公国が納得するはずもない。
厳しい尋問、あるいは拷問を受ける可能性は極めて高い。
場合によっては、見せしめとして命を奪われることすらあり得る。
それを分かった上で、ビアトリクスはなおも言ったのだ。
どうにか、リディアを生かす道はないのか、と。
ゼインはビアトリクスを見つめながら、混乱していると感じた。
戦場で兵を指揮し、人の生死を見てきたとはいえ、
こうした場面ではやはり若さが出る。そう思った。
もちろん、ゼイン自身もビアトリクスと大きく年が離れているわけではない。
だが、その年齢からは想像できないほど多くの修羅場を経験してきた。
だからこそ、目の前の相手が今どんな心情にあるかが、痛いほどよく分かった。
そのとき、セミラミスが低く鋭い声で口を開いた。
「公女様、あなたを連れ出すだけでも、こちらは命懸けなのです。
それは、きっとご理解いただけていると信じています。
その上で、足手まといにしかならない侍女を連れての脱出が、どれほどの危険をはらむか、分かっておられるはずです」
セミラミスの声は冷静だが、確かな怒気がこもっていた。
「そして、このまま置き去りにして、あなたが去ったとなれば、その侍女は、生きてきたことを後悔するほどの拷問に遭うかもしれません。
知りませんでしたでは、アンドラ公国が納得するとは思えません。
それらすべてを踏まえたうえで、なおもそのご判断を求められますか?」
と、セミラミスは怒りを隠そうともせず、ビアトリクスを厳しく問い詰めた。
セミラミスは、そもそもビアトリクスに対して良い感情を持っていない。
その理由は単なる性格の不一致ではない。
かつて彼女は、すでに滅びたある王国に仕えていた。否、その王族の血を引く者だった。
だが、その過去は仲間たちにすら語っていない。
仕えていた国は戦乱の末に滅ぼされ、王族の多くは捕らえられ、そして処刑された。
彼女自身も命からがら逃れた過去を持つ。
だからこそ思うのだ。
ビアトリクスのように、一度滅びた公国の公女でありながら、生き延びるどころか再興の機会まで与えられている。
そんな境遇が、どれほど恵まれているかを。
それにも関わらず、何一つ代償を払わず、すべてを得ようとする。
そんな姫君気質が、セミラミスにはどうにも我慢ならなかった。
どこまでも覚悟が足りない。
彼女には、そう見えてしまうのだ。
今回の作戦に自分が選ばれた理由も、セミラミスには分かっていた。
「このお姫様の世話役」として適任とされたのだ。
元騎士として礼を欠くことのない振る舞いが期待されている。そのことも重々承知している。
だからこそ、余計に腹立たしかった。
ゼインと共に行動できるのは、心から嬉しい。だが、
その傍らで、このわがままなお姫様の身の回りの世話までも、自分に任されるとは思ってもいなかった。
そうした葛藤を抱えながらも、表には出せない。
セミラミスは黙したまま、内心で感情を押し殺していた。
そんな彼女の心の内を知ってか知らずか
ゼインはちらりとセミラミスに目を向け、次に視線をビアトリクスへと移した。
ゼインが低く、静かに言った。
「一つだけ方法がある。今さらだが、そこまで言うなら、やってやれないことはない。
もっとも、結果は同じかもしれんが、瀕死の状態で発見されるようにすることは可能だ」
ゼインは短く間を取り、言葉を続けた。
「眠り薬を使って、痛みのないうちに腹を刺す。
見回りが来る頃には、血の中で意識のないまま横たわっている。そういう状況を作る。
命からがら生き延びたが、相手の顔も見えなかった。という形にな」
そして、冷徹な現実を付け加える。
「だが、何度でも言う。発見が遅れれば、結局は助からん。それを承知の上での選択だ」
「生き延びる可能性が、少しでもあるのなら、お願いします」
それ以上を望めないことは、彼女自身が誰よりも分かっていた。
ゼインはエルヴィスを振り返り、無言で顎を引いた。
それが合図となり、エルヴィスは頷いて部屋を出ていく。
ゼインは、ビアトリクスに向き直って言った。
「さて、お姫様は寝巻きのまま誘拐されることになる。だから、そのままの格好で構わない。
万が一見つかったとしても、それならそれで言い訳がきく」
シュール大公の趣味で選ばれていた寝間着は、裾の広がったワンピースのような形をしており、動きやすいとは言いがたい代物だった。
ゼインは続けた。
「俺がお姫様を背負う。
その上から上着を羽織って、モーゼルが用意した馬車まで走る。着替えは、その後だ」
ゼインがそう言い放つと、ビアトリクスは思わず声を上げた。
「ちょ、ちょっと待ってください。いくらなんでも、それは」
戸惑いの言葉を口にする彼女をよそに、時間を合わせたかのようにエルヴィスが部屋へ戻ってきた。
「事情を話して、静かに眠ってもらった。四時間以内なら問題ないだろう」
そう言い終えると、セミラミスがそっとビアトリクスの耳元で囁いた。
「この状況でわがままを言われると困ります。後で、ちゃんと聞いてあげますから」
その声には容赦がなかった。
そして次の瞬間には、有無を言わさずビアトリクスの体をゼインの背中にしっかりと固定していた。
状況が状況なだけに、ビアトリクスは反論の言葉を飲み込み、なすがままにされるしかなかった。
ゼインは、ビアトリクスを背負っているというのに、まるで重みを感じていないかのように軽々と立ち上がった。
「忘れるところだったな。これで奴らは混乱するぜ」
そう言うとゼインは、ビアトリクス公女を誘拐したことに仕立て上げるべく、後日身代金を要求する旨を記した手紙をベッドの上に置いた。
その顔には、どこか愉快そうな笑みが浮かんでいた。
「さて、これからが始まりだな」
ゼインはそう呟くと、ビアトリクスを背負ったまま裏口へ向けて駆け出した。
その足取りに迷いはなく、背負っているはずの重みも感じさせなかった。
裏口に出たゼインたちは、待機していたマザランたちと合流する。
誰一人口を開くことなく、静かに屋敷を後にした。
やがて、朝日が昇る頃、
一行は東門から無事に街を脱出し、サイサリス公国再興の旅路へと歩を進めた。




