九話
09
アーリィは薪を二つ焚火に放り込んだ。木々の弾ける音と共に、火柱が波打つ。
あのアシュマンは最後になんと言っていたのだろうか。人型に口つけされた耳を触る。自分の体温とは違う熱がまだ残されている。耳に触れた手を見ると、白い粉のようなものがついていた。
隣でくつくつと声を潜めて笑う気配がした。
「だいぶ驚いたようだな」
「そりゃ、まあ」
「まあ誰でも初めてはあんなものだ。それで、どうだった? 一歩踏み出して見た世界の感想は」
一番にあるのはやはり驚きと恐怖だった。以前、先輩職員に連れられてアーレイで人体切断を行う手品を見たことがあるが、それだってこれほどの驚きはなかった。
手品はタネがあるとわかっているから安心して余興として見ていられるが、アーリィが見せてくれたものはタネもしかけもない。
最高峰の手品師は魔術を扱うなどと比喩されることがあるが、それだってこのようなことはできないだろう。
「驚いたのと怖いのと……あと少しだけ嬉しいです」
「嬉しい? どうして?」
「わかりません。なにかこう、体の内からワクワクする気持ちが沸きあがってくるんです。理由ははっきりと言えないんですけど」
ミーシャは一呼吸置いて、はっきりとアーリィの目を見つめていった。
「期待しているのかもしれません。父が居なくなって、誰も助けてくれなくて。人の……あたしの力ではもうどうしようもないんじゃないかってほんの少しだけ諦めかけていたんです。でも、そうじゃないかもしれない。お伽噺の世界では、無慈悲な暴力に屈するしかない主人公を助けてくれるのは、いつだってちょっと怖くて、胡散臭い言葉遣いをした魔法使いです。出会いと別れを繰り返し、少しずつ成長していく主人公は、最後に希望を手にして終わる。あたしはそんな物語が好きで、憧れていました。アシュマンはまさにあたしにとっての希望になるのかもしれない。そんな期待が、湧き出してくるんです。こんな気持ち、本当に久しぶりで……」
父親が行方不明になったとき、周りの人たちは本当に親身にしてくれた。大規模な捜索隊を組織して、自分たちだって仕事があるのに二月にも渡って父を探してくれた。あたしたち家族の主な収入源は父の給金のみで、それが断たれたと知ると近所の人たちが食料や衣類などの生活必需品を分けてくれた。
母とあたしはその暖かさにとても助けられた。でも、それは心に開いた穴を満たすには足りない。
開いてしまった風穴を埋めるには父の存在が不可欠だった。
「概ね好感なようでよかったよ。世のなかには自分の目で見たものでも信じられないという人間がいるからな。手品のようになにか仕掛けがあるんじゃないかと勘繰りすぎて、全て否定から入ってしまう。そうなるといくら現実を目の当たりにしても、自分のなかの基準に則さないものは受け入れないという反応しかしなくなってしまう。君が素直で助かった」
体を休めるために再び横になったミーシャの介助をしつつ、そう零したアーリィ顔は一仕事を終えたような安堵感が広がっていた。
「あの生き物たちはなんなんですか? 貴方は一体何者なんですか?」
再び煙管に手を伸ばしていたアーリィに、ミーシャは尋ねる。
「そうだな……ではまず、アシュマンについてだ」
紫煙を燻らせながら、アーリィは語り出す。
「よくお伽噺に出てくる妖精や精霊と呼ばれる存在。私はあれらをアシュマンと呼んでいる。アシュマンはいわば記憶の集合体とでも言おうか。この世に存在する全ての生物や物質には魂が宿る。それらは与えられた役目を終えたとき、アヌウンというアシュマンたちが住まう異界に生れ落ちる。大抵のアシュマンはアヌウンで長いときをすごすことになるわけだが、全てがそうというわけではなく、私たちが住む人の世界にやってくるアシュマンもいる。だが、人とアシュマンはそもそも住む世界が違う存在だ。だから、基本的には人から干渉することはできないし、そもそも認識することはできない。同じ場所にいても見えている風景は人間だけが違うんだ」
「でも、人が妖精とか精霊みたいなものを想像できているのはどうしてですか? 話を聞いているとアシュマンとそれらはとても似ている様に思えるんですけど」
「似ているのは当然だ。妖精などの創造の世界はアシュマンやアヌウンが元になっているからな」
お伽噺に出てくる人ではない生き物たち。その大元がアシュマンだという話はミーシャに少なからず衝撃を与えた。そして、同時に矛盾も覚えた。
「でも、人はアシュマンを認識できないんですよね。それなら、人がそういった存在を考えることはないと思うんですけど」
ミーシャの疑問にアーリィは紫煙を吐き出しながら頷く。
「確かにその通りだ。だが、それができた民族がいた。名をルグリという」
「ルグリ……?」
「ルグリというのはかつて存在した流浪の民の名だ。彼らは特定の土地に住むことはなく、数か月から一年単位で住む場所を変える。争いを好まない性格のルグリは、基本的には他民族にも友好的であったとされている。そんな彼らには一族特有のある力があった。その力とはアシュマンを認識する力だ。ルグリは性別や年齢に関わらず、生まれたときからアシュマンを見て言葉を交わすことができた。ルグリは旅のなかで、世界各地のアシュマンと交流を持ち、知恵と技術を学んだとされる。そうして学んだ知識を生かして、アーティファクトと呼ばれる道具を作るようになった。その用途の幅は広く、身近な日用品からいざというときに身を守るための武器であったりさまざまだった。特徴的なのはアーティファクトたちは、本来の用途で求められる性能や効能を遥かに超えているということだ。アーティファクトはルグリの旅を助ける大きな力となった。だが、同時に災厄を招く代物にもなってしまった。力を持ちすぎたものは、いずれ異端視され迫害され殺される。ルグリの民も、その運命から逃れることはできなかった」
アーリィは無表情のまま淡々と語った。
「ルグリは旅のなかでアシュマンを見ることができない人たちにも、存在を教えようとした。どうしてそんなことをしようと思ったのかは分からないが、その結果、アシュマンの話に尾ひれはひれがついて次第に妖精や精霊と呼ばれるようになったんだ」
「へえ……。え、じゃあ貴方も」
「私はそのルグリの生き残りだ。そして、ルグリが残したアーティファクトの回収と、アシュマンが関わるあらゆる問題を解決することを生業とする、専門家だ」
どうしてかはわからないが、アーリィは専門家の部分だけ不貞腐れたように言った。
「少し考える時間が必要か?」
「いいえ……大丈夫です」
アーリィの配慮に甘えたい気持ちはあった。ただ、ここで僅かでも考える時間を作ってしまうと、拒絶する心が生まれてしまいそうな気がした。
「あの、もしかして……この金貨もルグリのアーティファクトと関わりがあったりしますか」
ミーシャの問いに、アーリィは短く「いいや」とだけ返す。
「基本的にアーティファクトとはルグリがアシュマンから学んだ技術を模倣して、作り出したものの総称だ。妖精の金貨はそれには当てはまらない」
「なら、これは?」
「君の父親のものだというその妖精の金貨。それはアシュマンが人と契約を交わした際の、証書代わりに発行されるものだ」
契約という響きに慣れていないミーシャは、一瞬意味がわからなかった。
「契約ってなんですか」
「これこれこうこうしたい、という人間の欲求や願いを叶えるという契約だ」
だから、アーリィから言われたことを反芻してようやく昔読んだお伽噺に出てくる悪魔が人と交わすものと同じなのだと気がついた。そして、ぞくりと腰から首筋にかけて鳥肌があがってくるのを感じた。
何故そんなことをアシュマンがするのだろうか。そんなミーシャの内心を見透かしたように、アーリィは続ける。
「アシュマン……とりわけ人の世界にいるアシュマンたちのなかには強い力を持ち、人間に並々ならぬ興味を持っている個体がいる。特に強い願いや願望を持つ人間に対しては、親身になって話を聞き、またその願いを叶える助力をすることがある。それは母親が子を慈しむ心に似ていて、父親が命を賭して家族を守ろうとする本能と言ってもいいかもしれない。理屈じゃないんだ。人が夜になれば眠りにつくように、アシュマンにとってその行動は自然なもので、抑えることのできない衝動と言える」
つい先ほどまで見ていたアシュマンたちを思う。彼らは傷ついたミーシャのために、薬草を探してくれていた。目が覚めるまでミーシャのそばで見守ってくれていた。
彼らがいなかったら、今頃どうなっていただろうか。
もし、アーリィが彼らの存在を教えてくれなかったら、ミーシャはアーリィにだけ礼を述べるだけだっただろう。自分のために奔走してくれたアシュマンたちがいたことなど知りもせずに。
それでもアシュマンたちは自らの行いを知られることがなくとも、感謝されることがなくともミーシャの命を繋ぐために懸命になってくれた。
ミーシャのなかでアシュマンたちに対する恐怖はもうなかった。代わりに、もう一度会ってちゃんとお礼を言いたいという思いが沸々と湧いている。
「アシュマンが契約するのは、切望する願いのある人間だけだ。全てを犠牲にしてでも叶えたい。そういった強い想いの力がある人間の前に現れ、力を与える。金貨はその証だ」
手のなかの金貨を強く握りしめて目を瞑る。瞼の裏に浮かんでくるのは懐かしく暖かい幸せだけで作られた世界だ。
だが、記憶たちの一部は色が抜けて輪郭がぼやけ始めている。どれだけ忘れないように記憶に刻み直そうとも、砂で作った城のように、時間という波に少しずつ浸食されて崩れ落ちてしまう。それを止める術はどこにもなく、ただただ削れていく砂を眺めては寂寥感に蝕まれる日々。
少しでも現状を変えるために、かつて父が働いていたモデールへやってきた。それがミーシャのできる唯一の選択だったから。
しかし、結局なにも変えることはできなかった。父の部下だった人たちから話を聞いて、その足跡をたどることはできても、途切れてしまった跡の先には誰も待ってはいなかった。
でも、もしかしたら──。
新たな選択肢は違うかもしれない。いや、違うに決まっている。
何故なら目の前にいる人物は、常識の外の世界を教えてくれた。そして、新たな可能性を示してくれた。
「……依頼」
ふと口をついて出てきた言葉に、アーリィの肩眉がピクリと跳ねる。
「あたしの依頼を、受けてくれませんか」
アーリィの口角がわずかにあがったような気がした。
「どのような依頼かな」
「あたしの願いを叶えてくれる強い力を持ったアシュマンの元へ連れて行って欲しいです」
心臓が壊れてしまうのではないかと思うほどに鼓動している。
また監督署を裏切る行為をしているという自覚はある。職務を忘れ、自分の願望に突き動かされている。
でも、それを止めようとは思わなかった。怖くなってしまうほどお膳立てされた状況であるにも関わらず、自制しようとする理性に蓋をして見ないように、気づかないようにした。
「虹の袂」
「え?」
「君の父親の話に出てきただろう。虹の袂で妖精と出会った、と」
「それがどうしたんですか?」
「君の願いを叶えるには、話しに出てきた虹が重要になってくる、まずは虹を見つけることから始めよう。そして、そこから先は……君次第だ。対価はそうだな……成功報酬で構わない。私の働きが納得のいくものだと思ったら支払ってくれ。以上が私の提示する条件だ。それでも構わないか?」
「わかりました。それでお願いします」
「……いいだろう、その依頼受けさせていただきます」
アーリィが白くて細くて痛みを覚えるほどに冷たい手を差し出してくる。
握手を求められているのだと気づき、ミーシャは包帯だらけの手で差し出された手を軽く握った。
「これで契約は成立だ」
この瞬間、二人は共犯になった。
「ならばこれで契約成立。これからよろしく頼むよ。オーナー」
そうして微笑むアーリィはやはり絶世の美女だった。
ようやく長い夜が終わる。空に輝いていた星々もその役目を終え、だいぶ数を減らしている。
結局会議が終わった後も夜中まで仕事をしていたので、家には帰らず監督署にある仮眠室で短い睡眠をとった。
寝不足がたたって頭が痛い。それに体が鉛のように重かった。
頑丈な体のせいで周りからは屈強で丸太のような、太くて折れない精神の持ち主だと思われがちだが、ラウル自身は繊細な部類だと思っている。
モデール森林監督署の班長になって早十年。やはり人のうえに立つというのは神経を減らすことが多かった。
職員から上がる不満や改善案。都からやってくる監査官の叱責や無茶な課題。
最近鏡に映る自分を見てだいぶ老けたなと思うことが増えた。単に加齢だけではない。精神的な疲労は、目には見えない生命力を奪う。
あの人も同じだったのだろうか。気がつくとそんなことをよく考えるようになった。
前任者は芯が強く、常に優しい笑みを讃えた人格者で、モデール森林公園で働く全ての職員の心の支えだった。
森に関して彼の右に出るものはなく、外部からやってくる研究者も唸らせるほどの知識。誠実であり、人の心に寄り添える唯一無二の存在。
彼に救われた人間は多い。かくいうラウルも新人のころはよく面倒を見て貰った。人生で最も尊敬する人物は誰だと聞かれれば、迷うことなく彼の名を挙げるだろう。
モデールを頼むと言われたとき、ラウルは心に決めた。
あの人のようになろう。すぐには無理でも、いつかモデールの大黒柱と呼ばれるような立派な班長になろうと。
散々迷惑ばかりかけて、最後まで隣に立つことはできなかったが、それが自分のできる最大限の恩返しだと思った。
そう思ったのだ。
だが、十年経って理解した。自分はあの人のようにはなれないと。
いつだって優しい笑みを浮かべ、背中で語ってくれた。「大丈夫だ。俺についてこい」と。
格好よかったから真似た。それが一番の近道だと思ったから。
それがどうだ。大切な班員を守ることも説得することもできずに、失うかもしれない瀬戸際に立たされている。
あの人ならこうはならなかった。きっと危険を未然に防ぎ、仲間を守り通しただろう。
「……きっと先輩ならこうはならなかったんでしょうね」
簡易ベッドの腰かけ、こめかみを解すように揉む。
薄いべニアのドアをノックする音が聞こえた。ドアの向こうで女性班員が声をかけてくる。どうやら時間らしい。
「……ああ。起きている。準備をすませたらすぐに行く」
返事をしてもすぐにベッドから立ちあがることはできなかった。この顔で皆の前に戻るわけにはいかない。鏡など見なくとも情けない面をしているのがわかる。
「先輩……俺、ミーシャはなにがあっても助け出しますから。約束は絶対に守ります。命に代えても」
首から提げていたドッグタグを手にとり刻まれた名に視線を這わせる。戒めとして、町で彫金師に作ってもらったものだ。
グリフィス・シェルズ。偉大で、敬愛する人の名だ。
何者でもなかったころに誓いを立てた。そして何者にもなれなかった今、この言葉にどれだけの意味があるのだろうか……
いや、深く考えるのはよそう。するべきことに集中できなくなってしまう。
「待ってろ、ミーシャ」
薄暗かった室内に鱗粉のような光の粒が舞い始めた。窓の外に視線を向けると、ラウルの決意を称えるように黄金色に染まった雲が空に広がっていた。
第二章 了
ここまでお読みなってくださりありがとうございます。
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