六十五話
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水気を失った口のなかがねばつくのとは対照的に、脇や背中には薄っすらと汗をかいている。
署長室を前にこんなに緊張するのは、入職初日以来のことだった。
あのときは、額に滲む脂汗を手の甲で何度も拭って事前に練習してきた内容を心のなかで反芻していた。結局、緊張で声が裏返って赤っ恥をかいたことを、今でも時折思い出しては悶絶することがある。
扉をノックする。男性の短く低い声か返ってきた。
「誰だ」
「ミーシャ・シェルズです」
部屋の主からの返答は少しだけ時間があった。
「入れ」
「失礼します」
ネジが緩くなってがたつきのあるノブを捻る。設計時に寸法を間違えたのか、若干の引っかかりがある扉がぎぎぎと音を立てた。
署長室は左右の壁に資料や動植物に関する関連書籍がぎっしりと詰め込まれた本棚がある以外はこざっぱりとしていて、最低限の調度品しか備えられていない。
味気のない部屋は、とても監督署内で一番位の高い人物の仕事部屋とは思えない質素さだ。
監督署所長として派遣されてきていた貴族の趣味や色が、部屋を彩る前に頻繁に入れ替わっていることを物語っているようだった。
殺風景な室内に唯一設けられた窓には、長机のうえで小さい蝋燭を灯し、書類仕事に勤しんでいるラウルの後ろ姿が反射している。
部屋のドアを閉めると室内の空気が動いたからか、蝋燭の明かりがわずかに揺れた。
「少し待ってくれ」
ラウルは顔をあげずにさらさらとペンを走らせながら言った。
ミーシャの記憶では机のうえの木製の書類入れにはいつも山のように書類が積みあげられていたが、今日は量が少ないようで、ほどなくして残りを片付けたラウルはペンを置いて、静かに口を開いた。
「お前には寮での療養を命じていたはずだが?」
「すみません。どうしてもお話しておきたいことがあったので」
「それは命令違反をしてでもするべきことなのか」
「はい」
ラウルの刺すような視線に、ミーシャは一切引かずに正面から受け止め返す。
「わかった。話を聞こう」
渋々とため息交じりにラウルが先に折れた。ただ、声には苛立ちや不快感はなく初めからこうすることを決めていたような雰囲気があった。
であるのならば、こちらから切り出した方がいい。これから言おうとしていることはあまりにも身勝手なものになるのだから。
「あたしは……モデール森林監督署を辞めようと思います」
ぱりっとした空気が室内に充満する。心なしか室温がぐっとさがったような気がした。
この時期に退職を願い出ることの意味をミーシャは理解している。
灰菌症が発生したという事実は、いずれ周知の事実となるだろう。そうなれば万年人手不足に悩む監督署はさらに人を集めることに苦労することになる。誰だって曰くのある場所で働きたくはないからだ。
都は感染確認がされても除染が完了し、一定の監視期間を経過すれば物流や商業活動の再開を認めている。
灰菌症を理由に差別や不利益な交易は法律で禁止されており、これに違反すると最高刑で先導者には死刑の判決がくだされる。
ただ、実際のところ差別は存在し、筆舌に尽くしがたい迫害を受けている土地もあると聞く。
モデール森林公園がそうならないとはとても思えない。今回の事実が公になれば、職員やその家族になんらかの影響があることは想像に難くない。
様々な事情からモデール森林監督署で働くことができなくなる人も出てくるだろう。
だから、ミーシャの申し出は一人でも多く人員を確保しておきたい監督署にとって大きな打撃であり、他の職員からすれば一人だけ迫害から逃れようとする行為と映るだろう。
しかし、全てを理解しつつもミーシャは一歩踏み出さなければならないと感じ、また、確信していた。
「そうか。お前がしっかり考えて決めたことなら俺は反対しない」
「え? あ……はい」
ラウルのことだから難色を見せて引き留めてくるだろうと構えていたミーシャは、あっさりとした返答に拍子抜けしてしまった。
「一つ聞かせて欲しい。ここを辞めると決めた理由はなんだ?」
ラウルの予想外の反応に違和感を覚えつつも、ミーシャは一呼吸を入れてからはっきりとした口調で答える。
「やっぱり父さんを諦められないからです」
たとえ誰からも理解されなくとも、世界中の人から批難されようとも、もう一度家族三人で暮らしたい。
ミーシャの行動原理は一貫して変わらないのだ。
「アーリィ殿の話では、グリフィスさんはあの空間で保護されているということだったな。お前はあそこから助けだしたいんだな?」
ミーシャは力強く頷く。
「しかし、お前が望むものはあまりにも遠くにあるものだ。それこそ人の人生の長さではたどり着けない果てにあるものだと俺は感じた。どれだけの時間をかけて追い求めても全ては無駄になるかもしれないぞ? なにも手に入れられずに徒労感と絶望に伏す結果になるかもしれない。それでもお前はそんな道を進もうと言うのか?」
「確かに今のままではそうなる可能性の方が高いんだと思います。無謀なことをしようとしているのかもしれません」
「わかっているのに、どうして?」
「正しい後悔をしたいから、です」
ラウルの眉が一瞬ぴくりと反応する。
「あたしは母さんが好きだったお伽噺の世界にずっと憧れていたんです。そこでは魔法は当たり前に存在していて、人は情に厚く、どんな困難や高い壁が立ちはだかっても、必ず試練に打ち勝って皆が幸せであり続ける。本を読んでいる間だけは、自分も登場人物たちと同じ空間で生きていて、一緒に冒険しているような感覚に浸っていられた。それがあたしにとってはかけがえのないものだったんです」
だが、光の裏には必ず闇がある。その事実から目をそらしていたのは、幸せな物語を見る度に自身の心のなかで燻る嫉妬を直視したくなかったからだ。
闇に目を向けてしまえば、こんなにも幸せそうな世界でも不幸な人たち——たとえば父がいなくなり家族の形が変わってしまった自分のような存在——がいるのだと嫌でも思い知らされる。
それでは困るのだ。唯一の現実逃避先が奪われてしまうのは嫌だった。
「だから、アーリィさんが見せてくれた世界はあたしにとって理想そのもので、あたしもお伽噺の世界で生きられるんだって嬉しくなってしまったんです」
胸が高鳴っていた。そこにあるのはまさしく絵本の世界そのものだったからだ。
ルグリやアシュマンという存在は、まさにミーシャが待ち焦がれていたお伽噺を象徴する存在だった。
「それが間違いでした。あたしが知らなかっただけで、ずっと昔からお伽噺の世界はあたしが生きている世界と地続きだったんです」
本当は気がついていたのだと思う。始めてキャスウェルの工房に行ったときに、グリフィスの記憶がなくなってしまっていることを知り、内心でこんなものはお伽噺の世界じゃない、と失望していた。
だから、無意識に不都合な現実を視界から外してしまった。こんなはずはない。きっとまだなにかしらの手段があるはずだと思い込むことにした。
足元をすくわれた原因はそこなんだろう。目を背けていた影に、息を潜めてこちらの様子を伺っていた悪意がいることに気がつかなかった。そして、虎視眈々と爪を研ぎ舌なめずりしながら獲物を探していた狼に無垢な羊は首元を晒してしまった。
「受け入れるのはとても難しくて辛いことでした。でも、そのうちこう考えるようになってきたんです。地続きだったら歩いて行けないわけはないかなって」
そう思えるようになったのはアーリィの言葉があったからだ。
「アーリィさんと一緒にいたときに、言われたことがあるんです。『心が受け入れたくないと拒絶しているうちは、そのままでいい。でも、もし受け入れてもいいかもしれないと思えるときがきたら、そのとき始めて後悔を深く正しく刻むんだ』って」
「俺も似たようなことを言われたよ」
「アーリィさんって結構難しいことを言いますよね。でも、確かにその通りだと思うんです。あたしはずっと現実を受け入れることを拒絶してきたんだと思います。幸せな過去があまりにも眩しくて手放しがたかったから、いつまでも過去に縋って都合の悪いものを見ないようにして生きてきました。でも、今回のことがあってもう変わるときがきたんだと思ったんです。そして、あたしはその変化を受け入れてもいいと思えるようになりました」
決心ができたのは、もう一つの家族の形を教えてくれた人たちの存在があったからだ。
「後悔することからは逃れられない。でも、後悔の仕方は選べる。だから、あたしは地続きの世界で待っている父さんを助けたい」
ミーシャの選択が正しい後悔の道に繋がっているのかはわからない。
ただ、それでもミーシャは選ぶことを止めないし、諦めない。
選択の先に待つ後悔を心に刻む覚悟はもうできているから。
「勝手なことを言っている自覚はあります。不義理なことをしようとしているのもわかっています。それでもあたしはこの道を歩きたいんです」
「死ぬことになるかもしれないぞ」
「わかってます。でも、あたしはこのまま父さんを一人ぼっちでいさせる方が死ぬよりも怖いんです」
ずっと孤独な気でいた。しかし、本当はたくさんの人が愛してくれていた。
考えてみれば周りはわかりやすく愛情を示してくれていたのだ。それに気がつかなかったのは、単にミーシャが受け入れる準備ができていなかったからだ。
家族を助けてくれなかった人間の愛情を受けとるのは、グリフィスへの裏切りだと思っていた。
だが、隠されていた真実を知った今では、それは間違いだったとはっきりと言える。
「本当は怖かったんだ」
ラウルが席を立ち、背後の窓から外の様子を眺めながら言う。
「グリフィスさんから託された監督署とミーシャを守ることだけが、俺の生きる意味だと思っていた。そのためにがむしゃらにこれまでやってきた。周りの助けもあって、どうにか今日まで大切なものを守り続けてこられた。それは俺の誇りだ。だが、常に重荷でもあった」
そう語るラウルの背はいつもより小さく見える。
「先人が積みあげてきたものを外敵から守り、これから先の世代に渡していかねばならない。尊敬する人の子供をあらゆる危険から守り、いつか託せるやつが現れるまで見守っていかねばならない。それを嫌だと思ったことは一度もない。これは俺の使命であり、償いだと思って生きてきた。だが、いつしかその重さに耐えられなくなってきている自分に気がついていたんだ。気がついていて、見ないようにしてきた。もし直視してしまえば心の支柱が折れてしまうと思ったから」
「ラウルさん……」
「だが、それは俺が自分の本心を騙すために用意した詭弁だったんだ。背負いきれないものを背負うことで、自分を追い込み逃げ場を失くすことで、すぐそばまでやってきている未来を考えないようにしていた」
「未来を考えない?」
「ああ。俺は……ミーシャがいつか俺の元を巣立って行ってしまうのが怖かったんだ」
アーリィに尋ねられたことがある。君と彼はどんな関係なのか、と。
ミーシャはラウルがグリフィスの部下で世話になっていたから過保護なのだと説明した。
間違ってはいない。ラウルも言うようにグリフィスから託された子を守る使命を感じていたのだから。
ただ、それだけではないような気がしてきた。
もしかしたらラウルはミーシャを本当の子供のように思っていてくれたのではないだろうか。
そう考えれば、これまでのラウルの言動も納得がいく。
親は子供が怖い思いをしないか気にするものだ。危ないことをして欲しくないと願うものだ。いつまでもそばにいてほしいと思ってしまうものだ。
これらは子を持つ親ならば誰でも抱く親心だ。
ラウルが深く息を吸ってから振り向き、ミーシャの前にやってくる。
「こうやって大人になっていくんだな」
感慨深げに言うラウルの瞳に、震える唇を必死に噛みしめるミーシャが映る。
「本当の信頼ってのは相手の意思を尊重し、責任を半分預けることなんだ。俺は預かった責任の半分をミーシャへ託すよ」
「…………はいっ」
「そして、俺も正しく後悔をできるように頑張るよ。成長していく子供の背中を見て、寂しさと嫉妬に身を焦がすのは今日で終わりだ」
ラウルから託された信頼はとても重いもので。
「ラウルさんっ」
しかし、その託された重さこそがミーシャに必要なものであり。
「ありがとうございます。あたしは……この重みを一生忘れません」
託す行為がラウルに必要なものだった。
「ああ。でも、疲れたらいつでも帰ってこい。ここはミーシャのもう一つの家なんだからな」
グリフィスと同じ、ごつごつとした手がミーシャの頭を撫でる。ほんの少し前までは嫌がってそれとなく避けていたが、今回はされるがまま受け入れた。
漠然とこうして頭を撫でてくれるのはこれが最後だと思った。
そう思うと、寂しいと思ってしまう。これは決して知られたくない子供心だ。
「はい!」
ミーシャは目尻から零れる涙を気にせずに、ありったけの笑みをラウルに向けた。
ここまでお読みなってくださりありがとうございます。
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