六十三話
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「ラウルさんすごい。きた方向覚えているんですね」
「昔取った杵柄ってやつだ。ここは目印になるものがないから正確かどうかと言われれば、微妙なズレはあるかもしれないが、それでも全く見当違いということもないはずだ」
ラウルを先頭に一行は烙核の海を進む。亀の如く、相変わらずの速度で。
ただ、どこまでも続く烙核の海で明確な目的をもって進んでいるというのは精神的な安心感があった。
もしかしたらグリフィスとラウルが一緒にいることが影響しているのかもしれない。
しばらく黙々と泳いでいると、烙核の海の先からか細い子犬の鳴き声に似た響きのある音が聞こえてきた。
全員が泳ぐのを止める。
「なんだこの音は」
「始めて聞く音ですけど」
ミーシャは隣にいたキャスウェルに視線を送るも、わからないというように首を横に振る。
音自体は神秘的な響きを感じるが、なにかよくないことが起こるのではないか、という予感めいたものがあった。
「とりあえず警戒しながら進み──」
言いかけて強烈な違和感に口を噤む。
泳ぐのを止めているはずなのに烙核たちが後方へ流れている?
「おい、あれ……」
ラウルが愕然とした表情で後方を指差す。全員の視線が差された先に集中する。
「……渦?」
闇のなかに点在していた烙核たちがある一点を目指して渦を巻くように動いている。
渦の中心から離れた烙核たちは速く、中心付近にある烙核たちはとても遅く動いている。
中心へ向かって集まる烙核たちの輝きは凝縮されていくことはなく、深い水の底へ飲み込まれていくかのように、一つまた一つと消えていく。
「烙核たちが吸い寄せられている……?」
「逃げろ!」
悲鳴に似た怒号をあげたのはキャスウェルだ。
「あれに巻き込まれると戻れなくなるぞ!」
その一言が継起となり、ミーシャたちは一斉に渦に背を向け逃げ出し始めた。
意味のないことだとは知りながらも、ほんの少しでも早く進もうと手足を動かす。
距離という概念がこの空間に存在するのならば、渦がミーシャたちに追いつくまではかなり余裕があるように思える。しかし、烙核たちが渦潮に弄ばれて消えていく泡のようだと気がついてしまうと、言いようのない焦りに襲われた。
「さっきまでなにもなかったのに!」
「今は進むことだけ考えるんだ!」
背後から聞こえてくる音が段々と大きくなってきている。全身の毛穴が粟立ち、嫌な汗が滝のように噴き出してくる。
「おい! あれって」
先頭を進むラウルが進行方向を指差す。
「アーリィさん!?」
前方に灰色の髪をクルクルと指先で遊ばせながら、待ちぼうけでもくらったかのようにつまらなそうな表情を浮かべるアーリィがいた。
「やっときたか。遅いぞ」
開口一番にそんなことを言われて、眉間に皺が寄る。しかし、同時に安堵する気持ちがあるのも事実だった。
「アーリィ殿、俺を一人にしてどこ行ってたんですか!」
「おいおい、女性がなにも言わずに席を外した理由を聞くか? 野暮な奴だな」
「今はふざけている場合ではない!」
「怒るなよ。個人的な用事があったんだ。それにちゃんとミーシャとは合流できたんだからいいだろう」
「あのですねえ……!」
「まあまあ、ラウルさん」
ミーシャはまだ言いたいことがあり気なラウルをなだめつつ、迫りくる渦を指差す。
「あれはなんですか。いきなり現れたと思ったら、周りを巻き込んで迫ってくるんです」
「魔人に私たちの存在がバレてしまったのかもな。まさか、あいつも腹のなかで生きていられる奴がいるとは思わなかったんだろう。要するに消化不良を起こして原因を排除しようとしているんだ」
なんともわかりやすい説明だ。
「こっちだ。ちゃんと念い段の出口は確保してある」
アーリィは顎をしゃくると、まるでそこに地面があるかのように歩き始めた。
「アーリィさん、ここで普通に歩けるんですか?」
「コツがあるんだ。お前たちはそのまま浮いた状態でついてこい」
アーリィの歩く後ろ姿は、本当にそこに地面があるかのようだった。ブーツが土を踏み鳴らす音すら聞こえてくる。
「着いたぞ」
しばらく背中を追って烙核の海を進むと、アーリィが立ち止まって指を指した。見ると黒紫の靄があり、時折雲間に見える太陽のような光が顔を覗かせている。
「ああ、ここだここだ」
ラウルが安堵したように声をあげる。
「この霧のなかに入ってキャスウェルの工房を強くイメージするんだ。そうすればたどり着ける」
その一言に誰ともなく安堵の溜息がもれる。
「だが、全員脱出とはいかない」
アーリィは無機質な灰色の瞳をグリフィスに向けた。
「悪いがグリフィス。貴方はここに残ってもらう」
アーリィの言葉にラウルとミーシャは目を剥き、キャスウェルは諦観の表情を浮かべた。
名指しされたグリフィスは、何故だか穏やかに微笑んでいる。
「どういうことですか!? どうして父さんだけが!」
「いいんだ。わかっていたことだから」
激昂しアーリィに掴みかからんばかりに迫るミーシャを、グリフィスが手でやんわりと制止する。
「僕の体の問題、ということでいいのですか」
「ああ」
「……そうですか。やはり、これ以上の無理はききませんか」
「猶予はほとんどないと言っていいだろう」
「それほどまでに僕の体は変わってしまっていたのですね」
そう言ってグリフィスは自身の手に視線を落とす。
「いつのころからか、目覚めていてもどこか夢うつつのような感覚が抜けないことに気がつきました。始めは季節病かとも疑いましたが、日々ほんの少しずつ強くなる違和感に、どうやらこれはそんな簡単なことではないぞと思うようになりました。そして、ある日、主様の机を片付けている最中に偶然見てしまったのです。変換のタトゥーの副作用について記述されている研究資料を」
キャスウェルが苦虫を嚙み潰したかのようにひどく顔を歪める。
「そこには主様とは違う筆跡で事細かく変換のタトゥーについての危険性を訴える内容が書かれていました。僕の頭では全てを理解することは叶いませんでしたが、一部はなんとなく理解できました。その研究資料には『変換のタトゥーは改良途中で破棄されたものである。アシュマン以外には猛毒の粉を浴びるような危険な代物だ』と記されていました」
「やはりあれもプロトだったのか」
アーリィの視線に促されたキャスウェルが項垂れながら後を続ける。
「変換のタトゥーはアヌウンと人間の世界を繋ぐ架け橋となるべく開発をされていた技術でした。しかし、どうしても変換する過程で人間の体内に微量のゲシュが残留してしまう。長い研究の末、短期間であれば影響を及ぼさない程度にゲシュの残留量を減らすことには成功しました」
「やはりな。あの変換のタトゥーではせいぜい半年程度が限界だろう」
「はい。ただ人によって異常をきたさないゲシュの量は変わるので多少の前後はあるでしょう。解決策は体内に残ってしまったゲシュを摘出することですが、未だに理論も方法も発見されていません」
「どうしてそれほどの危険な代物が破棄されていなかったんだ?」
「ドランは遥か昔に凍結された研究開発を独自に続けていたようです。しかし、結果的に今の技術では改良は不可能だという結論に至った。ただ、技術そのものは不完全に終わってしまいましたが、着眼点は素晴らしいと思っていたのでしょう。それに変換のタトゥーはいつまでも先の見えない研究というわけでもありませんでした。だから、まだ見ぬ未来の技術が誕生するまで厳重に管理することにしたのです。でも、ある問題が起こってしまった」
問題とはキャスウェルの裏切りによってドランが管理者の座を追われてしまったことだろう。
「愚かにもなにも知らない偽物の管理者は、変換のタトゥーの本当の恐ろしさを知らず、十分な検証も行わずに使用してしまった。その後のことなんてこれっぽっちも考えていなかった」
「完成された技術と不完全な技術の違いは、リスクとリターンの差だ。完成された技術は、比較的少ないリスクである程度のリターンを得られるように調整されている。だが、不完全な技術は一見少ないリスクで大きなリターンを得られるように錯覚してしまうが、その実は真逆だ。私はそこを理解しないままとり返しのつかない事態になった奴らをたくさん知っている」
「アーリィ様にお聞きしたいことがあります。もしこのまま元の世界に戻ってしまった場合、僕はどうなってしまうのでしょうか」
グリフィスがアーリィに尋ねる。アーリィは逡巡したのちに、断言はできないと前置きをつけてから続ける。
「アシュマン化という現象は未解明の部分が多い。症例も数えるほどしかなく、記録も曖昧なものが多い。その原因は、アシュマン化してしまった人は双方の世界から消えてしまうからだ」
「消えてしまう?」
「私が知っている記録は二例。その二つとも対象が完全にアシュマン化した瞬間、姿を認識できなくなったという。対象が消えてしまえば検証のしようもない。恐らく、このままグリフィスがアヌウンにいようと、人の世界に戻ろうとも、いずれは消えてしまうと思われる。しかし──」
アーリィは赤い舌で下唇を湿らせる。
「この烙核の海に残れば、もしかしたら消えずにいられるかもしれない」
「どういうことでしょうか」
「ここに揺蕩う烙核たちは、常に自身の記憶を追憶し続けることで存在を保ち続けている。そして、この空間はその烙核たちを長期間に渡って保存する効果を持つ。この二つの性質を利用し、グリフィスの烙と肉体をもう一度分離させ、別々に烙核の海で保管することで存在の消失を遅らせることが可能、かもしれない」
「せっかく烙を体に元に戻せたのに、また離れ離れにしようって言うんですか!」
噛みついたミーシャに、アーリィは感情の見えない表情で告げる。
「ならばこのまま元の世界に戻るか? そうすれば遠くない未来に君の父親は完全に消えてなくなってしまうのだぞ」
「嫌だ! 父さんは置いて行けない。どうしてもって言うならあたしもここに残る!」
与えられた選択はあまりにも残酷で到底受け入れられるものではない。
ふと、始めてアーリィと迎えた夜のことを思い出した。
『選択の機会を得ることはある意味の恵みを受けたということだ』
なにが恵だ。この選択で得られるものなどなにもないじゃないか。責任が起こる未来だってないじゃないか。
これを与えられた恵などとは断じて認められない。
「いいかい、ミーシャ。よく聞くんだ」
直視できない現実を前に竦んだミーシャの肩に、グリフィスの手が添えられる。
じんわりと伝わる体温が、今も確かに生きているのだということを伝えてくれる。
「親っていうのは、子供を見送ることに幸せを感じるものなんだ。あんなにお転婆だった娘がこんなに大きくなって、僕のために危険を顧みず助けようとしてくれた。長い間、僕の記憶のなかの君は小さいままの女の子だったけれど、今はこんなに可愛く素直な少女に育ってくれた。それを知れたただけでも僕は本当に幸せなんだ。この幸せを嚙みしめたまま、ミーシャを見送りたい。そして、いつまでもミーシャの幸せを願っていたいんだ。このままここに僕と残ってしまったら、僕の願いは叶わなくなってしまう」
「でも、お母さんが……」
「ああ。でも、きっとわかってくれるさ。夫婦というのは長い間一緒に暮らしていると、言葉を交わさずとも顔を合わせずとも、お互いの気持ちがなんとなくわかってくるんだ。もし、お母さんの記憶のなかの僕が薄れてしまったとしても、心の深い部分で僕たちは絆で繋がっている。そして、その絆はミーシャにも必ず繋がっている。これからどんな困難に見舞われたとしても、この絆がある限り僕たちの心は永遠に離れることはない」
グリフィスはミーシャの頬を流れる一筋の涙を、柔肌を労わるようにそっとすくう。
「大丈夫。これが永遠の別れってわけじゃない。ここは皆が還ってくる場所なんだろう? だったら、僕はのんびり待たせてもらうとするよ。いつかまた会えたときには、ミーシャの人生の物語を聞かせておくれ。なにを感じ、なにを学んで、なにを残してきたのか。大変だぞ? だって人の一生の物語だ。壮大な物語になるだろうなあ。すごく楽しみだよ」
遠くを見つめるグリフィスの瞳には、未来が見えているかのようだった。
幸せな光景を慈しむように瞳を閉じて楽しそうに笑った。
「そろそろ余裕がなくなってきたぞ。もうそこまできてる」
家族の残された時間が終わりを迎えようとしている。
「グリフィスさん……俺はっ」
ラウルが堪えきれなくなったように声を発する。
「悩んだら、自分を慕ってくれる仲間と膝を突き合わせてみればいい」
そんなラウルにグリフィスは短く告げる。
とても短い言葉だった。しかし、ラウルはその言葉だけでなにかに気がついたように息を呑み、そして「ありがとうございました」と佇まいを直して慇懃に頭をさげた。
「僕はこのあとどうすればいいのでしょうか」
「あの渦に身を委ねろ。それで全て上手くいく。きっと眠るように楽になれる」
「ありがとうございました」
グリフィスはアーリィに深々と頭をさげた。その様子を見届けたアーリィは身を翻し、工房へと続く靄へと向き合う。
「ほら、全員さっさと飛び込め。ちんたらしていると帰れなくなるぞ」
「ありがとう、グリフィス。君と過ごした十年間を決して過去のものにはしない」
「また会えたときは、たくさん話を聞かせてください」
まずキャスウェルとラウルが靄のなかに消えていく。徐々に霞んでいく後ろ姿が、陽炎のように歪んで見えなくなった。
「殿は君に任せる」
アーリィはミーシャを見ずに短く言った。
最後の別れは二人きりで、ということだろう。
一歩踏み出す音が聞こえ、それっきりアーリィの気配は霧散した。
「お父さん……」
これが最後になる。もう生きている間に言葉を交わすことはない。
「あたし、は……お父さんの、娘で……」
言いたくない。こんな根性の別れのような台詞なんて。
「ミーシャ。君は僕の宝物だよ」
俯いて下唇を噛みしめているミーシャを、グリフィスはそっと抱きしめた。
懐かしい思い出ばかりの香りを忘れないように、ミーシャもグリフィスの肩に顔を圧しつけながら強く抱きしめ返す。
子供のころは抱きしめられるばかりだったのに、いつの間にか父が小さくなったように感じた。
それが老いであり、成長であることをミーシャはまだ理解できない。
ミーシャは涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔でグリフィスを見あげる。そして、ずっと言いたかった言葉を伝える。
「お父さん……だいずぎ」
「ああ。僕もミーシャを愛している」
グリフィスの顔がぐにゃりと歪んだ。渦がとうとう追いついたのだ。
あっと声を出す暇もなく、渦に引き込まれるグリフィスに手を差し出して引き留めようとする。しかし、後ろから強く肩を引かれ、手を掴むことは叶わなかった。
靄のなかに落ちていく。烙核の海が遠く去っていく。
靄が濃くなり視界を覆う間際、渦の中心に人を見た。
一本の枯れ木に体を預ける長い金色の髪の女性と、栗色の短髪の男性。
二人は手を繋いで穏やかに眠っていた。
あの二人は誰なんだろう。どうしてこんな場所であんなに幸せそうに眠り続けられるのだろう。
溶けていく意識の狭間で、そんなことを思った。
こうしてミーシャのモデールでの物語は終わりを迎えた。
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カクヨム、アルファポリスにも同作を投稿しております。




