五話
05
その金貨を始めて見たのは、夕食を終え仕事道具の手入れをする父を隣で眺めているときだった。
蝋燭の揺らめく光を反射する黄金色のそれは、あたしの人生で初めて美しいという感情を教えてくれた存在だった。
それはなに?
尋ねると父は嬉しそうに我が家の家宝だと教えてくれた。
イセアの花冠を頭に乗せて、天に祈る姿が彫り込まれた金貨は、父の母方の曾祖母から代々受け継いできたという。
父は金貨にまつわる昔話をしてくれた。
曾祖母がまだ年端も行かぬころ、一つ下の病弱な弟のために森で薬草を摘んでいる最中に一つの虹を見つけたそうだ。
虹は幸福をもたらすと言い伝えられていて、そのことを知っていた曾祖母は、弟の病気を治してもらおうとその虹の元へ向かった。
虹の袂にたどり着いた曾祖母は妖精と出会う。妖精に尋ねてきた理由と願いを伝えると、妖精は一枚の金貨を曾祖母に手渡した。
この金貨を持ち帰り弟に握らせなさい。そうすればきっと君の弟は良くなるはずだから、と妖精は教え、暗く帰り道がわからなくて怖いという曾祖母を自宅まで送ってくれたのだという。
妖精の言う通り弟の病は治癒し、数年後には村で一番の力持ちと呼ばれるほどになった。曾祖母は生涯で一度も村から出ることはなかったが、妖精の知恵と力を授かったとその生涯を終えるまで村人から尊敬の念を集めていたという。
以降、妖精の金貨は代々受け継がれる家宝となった。
話が終わると、父は金貨を私の手のひらにそっと置き、そのまま私の手ごと包み込んだ。
『ミーシャが大きくなったら、この金貨をあげよう。この金貨には未だ、妖精の力が宿っている。これから先どんな苦難が立ちはだかろうとも、金貨を持ってさえいればきっと妖精が助けてくれるだろう。そしていつか大切な人ができて、結婚して、子供ができて、その子供が大きくなったらこの金貨の話をしてあげるんだ。』
私はなんて答えたのだったのだろうか。確かうんとか、わかったとか曖昧な返事をしたように思う。あたしは父の言う大切な人という意味がよくわからなかった。
大好きな人と言われれば真っ先に父と母だと答えられるが、話しを聞いている限りでは大切な人という言葉の意味は大好きよりも大きく感じて、それがどのような感覚なのかが想像できなかったのだ。
父が母に呼ばれて席を外した後、私は握りしめていた手を開いて金貨をまじまじと見つめた。イセアの花冠を頭に乗せた少女が彫金されたそれをゆっくりと撫でる。そして、金貨にそっと唇を当てた。以前、母が読んでくれた本にあった王子が姫の手にキスをする仕草を真似て。
──どうか父さんと母さんとずっと一緒にいられますように。
今日は疲れた。
仕事とはいえ、こんな面倒なことは御免だ……なに、死んではいない。見つけたときはほとんど死体だったけど、持ち前の再生力でご覧の通りさ。
いや、違うな。守られているからか。
あれは不慮の事故だったんだよ。結果はどうあれ生きているんだからいいだろう。
文句だけ並べるな。お前がもっと協力的ならこんなことにはならなかったかもしれないんだ。
……やめよう。時間の無駄だ。
体の方は問題ないだろう。元通りの健康体になるさ。だが、記憶の方まで再構築されているかどうかは知らないよ。もしかしたら一部欠損している部分もあるかもしれない。それだけ酷かったんだ。
……うるさいな。そんなに心配なら自分でなんとかすれば?
……冗談だ。仕事だから最後までやる。でも、あの子の身を守ることはできても、心の方はわからない。それはそっちでカバーしてくれ。
それで? あれはどうなった。
……そうか。でも、ここにまだいるんだろう。それなら問題ない。
一目見ただけだが、いまあれは弱っている。いや、弱っているという表現は少し違うか。
まあいいさ。私は目的が果せればそれでいい。
そうだ。彼女の顔を見てくか? 心配なんだろう。……ふん? そう。
じゃあ、私は戻る。君もお役目を全うするといい。
重い瞼を開くと見なれたモデールの夜空が映った。
木々の間から見える夜空を彩る満天の星々。きっと星座に詳しい人が一緒にいれば、夜空を舞台に遍く星の物語を聞かせてくれるのだろう。
それはきっと美しくて儚く、愛に満ち溢れた物語だ。決していまの私のように空しい気持ちになどなりはしない。
嘘をつかれたと。
涙を流すことはなかった。ただ、せり上がってくる感情を堪えるのは数十回、数百回繰り返しても慣れない。
夜明け前の暗い寝室の天井を見つめたまま、夢と現実の狭間で揺れる心を落ち着かせるのは一苦労だった。
だが、回はいつもと違った。独り占めするには惜しい星月夜があたしを見守ってくれているのだ。
しばしその夜色に身を委ねる。憂鬱とした感情がその星芒に溶けて消えていく。
このままあたしの体も一緒に溶けてしまえばいいのに。
そんなことを思って、結局あたしはなにも変わらないのだなと落胆し、意識を手放した。
体の半身にほのかに熱を感じた。熱くもなく寒くもない絶妙な加減は、冬の一番深いころに暖炉の火にあたる幸福感とを連想させる。
暖かい毛布に体を包み、暖かいスープで満たされたカップを両手で包み込む。そして、舐める程度にスープを飲みながら小さな暖炉を家族で囲み、他愛無い話に花を咲かせる。
それは神が人間に与えた最上の贅沢だと思う。
誰にでも実現できる至福のとき。
誰にでも享受する権利のある幸せ。
その幸せが揺るがないものだと信じていた過去の自分がとても羨ましい。
「気がついたか」
誰かの声がした。
「もう意識が戻ったか」
低く擦れた声が聞こえる。
ゆっくりと目を開けると、フードを被った人物がこちらを覗き込んでいた。
「目は見えるか?」
ランタンが顔の近くに寄せられる。起きたての目には幾分刺激が強い。
顔をわずかに逸らして明かりから逃れようとする。
「ふん……大丈夫なようだ。他にどこか不調は?」
「…………あ、がっ」
答えようとしたが、喉が張りついて上手く声を発せない。その様子を見て、フードの人物は小さく頷いた。
「耳も聞こえているようだ。少し待っていろ。飲み物を持ってくる。丁度湯が沸いたところだ」
フードの人物は焚火の元へ向かいなにやら作業を始める。やがて麻糸を組み合わせて網模様にした柄が描かれているグラスをトレイに乗せて戻ってきた。
グラスの中には白く濁った色の液体が湯気を上げている。
「ガニアという植物を煎じたものだ。痛みを鎮めたり、抗炎作用や、細胞の再生の補助をする力がある。少し苦いが、傷んだ体によく効く」
フードの人物は、ミーシャの背に手を回し介助しながらグラスを口元に当てる。淹れたばかりだというのに不思議とお茶は丁度良い温度だった。
「うう……」
口に広がる強い苦みと渋み。お世辞にも美味いとは言い難い味だった。飲み込んでもしつこく残る後味はなんとも言えない不快感を覚えるが、それでも喉を潤すには十分だ。張りついていた喉が、待望の水分に潤いをとり戻していく。
「……不味い」
「私もこの味は好きじゃない。でも、体にはとても効く。特にいまの君にはこれ以上ない特効薬だ。さあ、もう少し飲みなさい」
強烈な味に何度か咳き込みそうになったが、それでも時間を掛けて全てを飲み切った。飲み終わるころには味覚が麻痺してしまったのか、あまり味は感じなかった。
「それだけ飲めれば上出来だ。即効性があるから、間もなく効果が現れる」
フードの人物は安堵したというように声の調子を落とすと、カップをトレイに乗せてさげる。去っていく後ろ姿を見てミーシャは、まだいくらか擦れる声で言った。
「……アーリィ……リアトリス」
ミーシャの呼びかけにアーリィ・リアトリスは溜息を一つ零すとこちらを振り返った。それから深く息を吸い込み感情を抑えるように静かに吐き出した。
「全く……有名人になるというのは困りものだよ。こっちは静かに生活しているというのに、あらぬ疑いを掛けられて追い回されるんだから」
溜息混じりに語る姿はかなり鬱憤が溜まっているといった様子だった。
「人の欲は恐ろしい。指名手配されるまでは私など見向きもされなかったのに、懸賞金が絡んだらあっという間に金のなる木にされてしまった。今じゃどこにいくにも変装しなければならない」
指名手配書を思い出す。備考欄の隅に情報提供を求める文字があった。『情報提供者にリーン銀貨で三百枚。捕らえた者にリーン銀貨で二千枚の懸賞金アリ』。
清貧な暮らしをすれば、二十年は食べるに困らない額が記載されていた。
バウンティハンターからすれば、金が大手を振って歩いているようなものだろう
「愚痴っぽくなってしまって申し訳ないが、それでもあれはひどいと言わざるを得ない。確かに品行方正な生き方はしていないが、あんな大犯罪者みたいな扱いを受けるほどの罪は犯していないんだ」
冤罪だとでも言いたげな物言いだが、それでも心当たりがないとは言わない辺りそれなりのことはしているのだろう。
「まあバウンティハンターごときに捕まるつもりなどないからあまり問題視はしていない」
アーリィはそう締めると、胸の前で手をぱんと打ち鳴らした。
「ともかく、まずは彼岸からの帰還おめでとう。正直助かるとは思っていなかったが、なにはともあれ命を繋ぐことができたのは慶すべきことだ。せっかく繋いだ命、むざむざと散すようなことは今後しない方がいいと、人生の先輩からアドバイスしておこう」
そう言いながらアーリィは被っていたフードを外す。
始めて見たアーリィの顔は焚火の明かりに照らされているというのに、深雪のような冷酷で凍えるような笑みを浮かべていた。
フードを外したアーリィの顔をミーシャはまじまじと見る。
猫のような大きくぱっちりとした瞳を飾る色は灰。小さくて筋の通った鼻と、薄い唇の絶妙なバランスは人形のような可憐さと儚さを演出している。片側を耳に掛けた瞳と同色の髪は肩口までで整えられ、
整った容姿にシックな装いなので大人びた印象を受けるが、化粧っ気のない顔どこかに幼さを残している。美しくはある。だが、その美しさにはどこか拭えない違和感があった。
それは彼女の特徴のある声のせいなのか。それとも、彼女の冷たい灰色の瞳がそう感じさせるのか。
しかし、トーラスが鼻の下を伸ばすのも無理はないな、とミーシャは変に納得をしていた。こういった影のある人がトーラスの好みど真ん中なのを知っているからだ。
「右足骨折、腹部の裂傷、全身打撲。これが今の君が負っている怪我だ。だが心配しなくてもいい。とてもそんな風には思えないだろうけど、いずれ傷跡も残らないぐらい綺麗になるから」
ミーシャの体中に巻いてある包帯を指差してアーリィはそう言った。
治療してくれたのはアーリィだという。道具もなにもない状態で処置をするなどよほど腕がいいのだろうが、彼女の風貌は医者には見えない。聞いてみると、女の一人旅は色々と知恵がつくものだと濁されてしまった。
ならば、どうしてこんな怪我をしているのか、という問いには知らんの一言で片づけられてしまった。
「君を見つけたときには、すでに血だらけで転がっていたんだ。私にもわからないけど、熊にでも襲われたんじゃないか」
アーリィ発言にミーシャはその可能性は低いのではと思った。熊は一度目をつけた獲物には異常に執着心を持つ。なにかがあって逃げ出した、もしくは興味を失くしたという可能性は考えられなくもないが、冬が空けて腹を空かせている熊が、無防備に転がっている肉をみすみす逃すとは思えない。
熊以外の生き物に襲われたはずだ。しかし、だからといって他に思いつく候補はミーシャにもなかった。
そもそも何故こんな大怪我を負うことになったのだろうか。アーリィを追っていたことは思い出せるのだが、それ以上先のことになると急に頭のなかに靄がかかる。
怪我の影響もあるのかもしれない。ミーシャは無理に思い出そうとするのをやめてアーリィに視線を戻した。アーリィは膝のうえに手帳を広げてなにか書き物をしているようだ。
俯いているために耳にかけた灰色の髪がはらはらと前に垂れてしまう。その度にシルクのようになめらかなそれを形のよい耳にかけ直す。
武勇と礼儀を重んじる騎士であっても、その仕草を目の当たりにすれば下心を抑えきれなくなってしまうのではないだろうか。
それだけ夜の闇のなかで焚火の揺らめく明かりで照らし出されるアーリィは蠱惑的だった。
今この瞬間、世界で一番綺麗な人の横顔を独り占めしている。計算されつくした美貌を前に怪我の痛みを忘れてしまいそうだった。
美麗な姿を眺めつづけていると、なにかを思い出したような顔をしてアーリィはおもむろに懐に手を差し込むと折り畳まれた純白のハンカチをとり出した。そして、ハンカチを丁寧に開く。見えたものにミーシャは思わず声をあげた。と中から一枚の金色に輝くモノを取り出した。
「そ、それ! 父さんの金貨……」
「うん? ああ、これか」
アーリィは視線を手帳に落とし、金貨を手のなかで弄ぶ。
「その金貨、なんで貴方が持っているんですか? それは父のもので──」
「別に私のものってわけじゃない。君も見ていただろう。川で拾ったんだよ」
「拾った……?」
被疑者発見とその後の争いですっかり忘れていたが、そういえばアーリィを見つけたとき、彼女は屈みこんで川のなかを探すような素振りをしていた。
あれは川に落ちていた金貨を拾い上げていたのか?
「そうだったんですか……。でも、その後にあたしが金貨のことを聞いたら、貴方は意味深なことを言いましたよね? あれはどういう意味だったんですか」
ミーシャの問いに、アーリィはすぐに答えようとはしなかった。なにか考えるように万年筆を唇に当てている。
「お願いします。貴方しかいないんです。ようやく見つけた手がかりなんです。金貨を返してとは言いません。知っていることを教えてくれるだけで構わないんです。お願いしますっお願いしますっ」
「そう急かすな。今は日課で忙しい」
アーリィは万年筆で唇を三度叩いてから、そう言った。とりつく島もない。しかし、ここで引くほどミーシャは冷静ではなかった。
「こっちは全部捨てる覚悟なんだ! はぐらかさないで!」
纏わりつく呪いのような夜に涙を流して堪えていただけの日々。誰も助けてはくれない。夜が明けても、絶望の闇は常にミーシャの心の中にあった。周りの人がどれだけ言葉を尽くしてくれても、慰めにはならなかった。歳を重ねるごとにやり過ごす術を身につけはしたが、それは解決の方法ではない。
根本の闇はどれだけ時間が経っても消えることはなかった。この闇を消し去るにはどうすればいいのか。そればかり考え悩んできた。だからアーリィの態度に蔑ろにされたような気がして噴き出す怒りを抑えられなかった。
半身を起してアーリィを睨みつける。口のなかは血の味がする。どくどくと、心臓の鼓動に呼応するように剣で突き刺されるような痛みが体を蝕む。
それでもミーシャはアーリィを睨みつけることをやめない。
この程度の痛み、これまでの十年と比べれば屁でもない。
「……はあ」
ミーシャの圧に押されたのか、アーリィは瞳を閉じて大きなため息をついた。
「別にはぐらかしてなんていないだろう。私は今、一日のルーティンをこなしているんだ。これは私にとっては命の次に大事なものだ。それを邪魔する権利が君にあるのか? 大人しくしていろ。これが終われば君の質問に答えてやる」
そんなもの、と言いかけて口を噤む。アーリィの灰色の瞳が刃のような鈍く鋭い光を宿していたからだ。
「……っ、すみません」
ミーシャは喉までせり上がっていた感情を飲み下して、顔を伏せた。
アーリィを待つ間、手持ち無沙汰なミーシャは森の様子を観察した。
焚火の明かりでうっすらと浮かび上がるのはシラカバの木。四方から奏でられる虫の歌。時折、小動物のものと思われる鳴き声が聞こえてくる。
次にミーシャは身の回りを観察する。
渦巻き模様が幾重にも組み合わさった独特な装飾の天幕。そばには焚火用に集めたと思われる木っ端が集められている。他にも水窯やハーブの入った瓶。調合に使われる薬研などが見受けられる。
金属製のラックに吊るされた包丁などの調理器具や、天幕と似たような模様が描かれた朱色のラグは、直接地面に敷くには勿体ない上等品に見えた。恐らくここはアーリィが拠点として使っている場所なのだろう。
それにしてもずいぶんと大荷物だ。これだけの荷物を抱えたまま誰にも見つからないように侵入するのは難しい。渡し屋という人間がいるらしいから、やはりそういった者の手を借りたのだろうか。
アーリィのように裏の世界に生きる人間は、蜘蛛の糸のようにあちこちに張り巡らせた情報網と横の繋がりがあるはずだ。
きっと想像もつかない裏道を知っているのだろう。
「はあ……あたし、大変なことしちゃったかも」
今になって自分の行動に頭を抱えたくなった。
指名手配犯をとり逃がしただけではなく、私的な感情に駆られて命令を無視。
戻ると約束したが、それも果たせず大怪我を負ったうえに、本来捕まえるべき相手に助けられる始末。
「ラウルさんにどやされそう……」
それですめばいいが、最悪仕事を辞めさせられるかもしれない。上司相手に暴力まで振るってしまったのだから、言い訳のしようもない。
というか、あたしは皆の元へ帰れるのだろうか。
「皆どうしてるかな」
ミーシャは夜空に無数にある星を数えながら、今頃混乱の最中であろう監督署に想いを馳せた。
ここまでお読みなってくださりありがとうございます。
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