四話
04
狼は、計算され尽くした緻密な狩りを家族で行うことで有名だ。獲物を見つけると追う役と待ち伏せする役に別れ、獲物の体力をじわじわと削ながら巧みに包囲網へ誘導する。
その狩りの成功率は高く、狙われれば逃げきることは難しい。
彼らはしたたかで聡明だ。人よりも数倍も優れた嗅覚で、狩人と獲物の違いを選り分ける。狼の遠吠えは死神の歌とは、この地方で語り継がれる所謂教訓だった。
死神の歌が聞こえるほど森の奥へ入ってはいけない。もし破れば死神に攫われてしまう。
子供のころはその話を聞いて、よく眠れなくなったものだった。
お父さんはそんな死神のいる森に出かけて大丈夫なのだろうか。その心配が頭のなかでぐるぐると回っていた。
だから、そんなときは決まって父のベッドに潜り込んで、目一杯の力で父の背中に抱きついた。
あたしとお母さんを置いてどこにもいかないで。
でも、それを口に出すのはなんとなく恥ずかしかった。
今になって考えればそれほど違いを感じられないが、当時のあたしはそうだった。そういうお年頃だったのだ。
父はあたしに向き合うと、いつも優秀で信頼のおける仲間が共にいるから大丈夫だ、と言い聞かせた。顔の知らない人を信用しろと言われても、素直にうんとは言えない。そう伝えると、父は笑いながら大きな切り傷のある右手で優しく頭を撫でてくれた。
父は言った。
『狼さんの見た目は怖いかもしれないけど、実はとても仲間や家族を大切にする生き物なんだ。どんなときも仲間や家族と共に過酷な現実を受け入れて、辛いときも、嬉しいときも、分かち合い支え合って生きていくとても愛情の深い動物だ。人間みたいだろう? お父さんもお仕事では仲間と、家に帰ってきてからはお母さんやミーシャと、色んなことを分かち合って生きている。同じなんだよ。ミーシャが狼さんを怖いと思ったり、父さんの仲間を信用できないと思うのは、お互いのことを良く知らないからだ。知らないのは怖いからね。でも、大丈夫だよ。人も動物もお互いを理解し合える。少しずつでも、前に進めるんだ。いつかミーシャが大人になって外の世界に興味を持つようになったら、怖がらずに色んなことを知りたいと思いなさい。理解し、分かち合うことができれば、きっと——』
父の話は幼いあたしには難しかった。でも、語りかけてくれているときの声は、とても穏やかで心地よかった。だから、あたしは毎回話の途中で眠りに落ちてしまう。
そんなことがあった日の翌朝は、必ず父と母の腕に包まれながら目覚めるのだ。
家族との思い出はどれも暖かい。暖かくて、そしていつもあたしを支えてくれる。
クソが。速すぎる。
ミーシャは走りながら心のなかで愚痴を吐き捨てた。
止めようとするラウルを組み伏せアーリィを追い始めた。少し時間が空いてしまっていたため見失うかも焦りを感じていたが、アーリィはそう遠くないところをのんびりと歩いていてすぐに背中を見つけられた。だが、追われていることに気がついたアーリィが走り出したので、そこから追走劇が始まってしまったのだ。
アーリィは走るには不向きなトランクを抱えているとは思えないほど足が速く、木々の根や苔むした岩のうえをまるで飛ぶように駆けていく。
足にはそれなりに自信のあったミーシャだったが、アーリィはミーシャを遥かに超える駿足だった。
とても同じ人間だとは思えない。
一進二退といった具合の追跡劇は完全にミーシャの劣勢だった。
水のなかを泳ぎまわる魚のようなアーリィの動きは、森を歩きなれたミーシャよりも遥かに洗練されている。
それにただ目的もなく逃げ回っているというわけではなそうだった。時折、なにかを探すように立ち止まり辺りを見回している。そして、犬のように匂いを嗅ぐ仕草をしてはまた走り始めるのだ。
その行動があるから未だにミーシャは置き去りにされずにすんでいる。
どうにかして現状を脱しなければ。そう思いはするものの、アーリィの高い身体能力を前にミーシャは成す術がない。
いや、あるにはあるが本当に奥の手というか、使うことを考えることすら悍ましいものならある。だが、もうそれ以外にミーシャが思いつく方法はなかった。
気は進まないが背に腹は代えられない。背負うライフルに手を伸ばそうとした瞬間、これまで鬱蒼と生えていた木々が途切れて開けた空間の先に背の高い草原が現れた。
そこはパンパスグラスという名の植物が群生している場所だった。
パンパスグラスは成長すると人間の背丈の倍ほどにもなる葉が特徴的で、寒くなると白い綿毛を先端に蓄える。その綿毛は、人間の衣服や工芸品に加工されることもある。
今の季節では綿毛はほとんど見られないが、それでも葉の高さはミーシャの背丈よりもだいぶ高い。
「しまったっ」
ライフルを使うかどうかの一瞬の躊躇がいけなかった。
アーリィは一切減速することなく群生するパンパスグラスのなかに飛び込んでしまった。わずかに遅れてミーシャがたどり着いたときには、すでに人の気配はなくなっていた。
城壁のようにそびえ立つパンパスグラスを前に、ミーシャは茫然とする。
「……これじゃあ」
目の前に広がる草原の海は、身を隠すにはうってつけの場所だ。視界はないに等しく、人が動いた音で場所を特定するのは困難。完全に撒かれてしまった。
頬を伝って流れ落ちた汗が地面に黒い影を落とす。一滴、また一滴と汗の雫が落ちる度に広がる黒い影はミーシャの心の内を表すようだった。
風が吹いた。森全体を抜ける乾いた風だった。パンパスグラスの葉が風に撫でられ、ざあと波音を奏でる。それは絶望に傾いた心を更に絶望に引き込ませてしまう魔力を帯びた音だった。
終わった。もう少しというところで手がかりを掴み損ねた。いつまでも収まらない呼吸音と風の音が遠くなる。世界の色が白くぼやけていく。
糸が切れたように足に力が入らなくなりライフルを抱えるようにして、ミーシャはへたり込んだ。
「せっかく……」
囁くようにこぼれた声は、不思議と震えてはいなかった。
「せっかく……父さん」
頭をよぎるのは父の笑顔だった。髭を蓄えて、一見すると熊ような印象を受ける父は、実はとても繊細で、涙もろく、とても優しい性格の持ち主だった。
冬の暖炉のようなじんわりと心に染み込んでくるような優しさを含んだ声。
子供のことを第一に考えてくれて、仕事でどれだけ遅くなったとしても、寝る前に絵本を読んでくれた。
とても楽しみにしていることを知っていたのだろう。だから、父はどれだけ忙しくても寝る前の絵本読みは欠かさなかった。
父の声で紡がれる物語を子守歌に眠るまでが一日の欠かせない日課だった。過保護なところが嫌になることもあったが、やはり父はとても特別な存在でかけがえのない人だった。
父がいなくなってからは寂しい夜を過ごすことが多くなった。母が代わりに絵本を読んでくれることもあったが、途中で詰まってしまって最後まで読み切ることができずに、二人抱きしめ合って眠ることがほとんどだった。
月日が経ち、森林保護官として働くことが決まり、寮へと引っ越す日に一つの決意を固めた。
必ず父の手がかりを見つけて、連れ帰ってくる。
母にこの決意は伝えられなかった。
そのとき家族のために動くことができるのはミーシャだけだった。余計な心配はかけたくない。
玄関で振り返り「行ってきます」と言うと、母は優しく包み込むようにそっと抱きしめて、「気を付けて。母さんはいつもミーシャのことを想っているよ」と震えた声で送り出してくれた。
母に寂しい思いをさせているのは本当に申し訳ないと思っている。支え合って生きていくことができればそうしたかった。
しかし、それは叶わない夢だ。底のない喪失感を欠けあった家族で補うことはできない。
人は思い出に縋る生き物だ。つらいとき、うれしいとき、人は自分を慰めるために、批判するために、生きていくために思い出に縋る。
溢れんばかりに増殖する思い出は人の人格や心や体を形成していくために必要なものだ。
しかし、ミーシャの場合は少し違う。ミーシャの思い出は霞がかった遠い日々もの。
昔の記憶は雨上がりの陽の光を反射して葉の上が宝石の如く輝いて見えるように綺麗なものばかりで全てが宝物であるが、全て過去のものだ。増えることはなく、むしろ年を追うごとに擦れて削れて色を失くしていく。
過去に縛られ生きていく。それが悪いことだとは考えてはいない。
さっきも言ったように思い出がなければ人は生きていけない。だから、過去を蔑ろにする必要はない。しかし、現実を生き、未来を生きていくためには過去は枷になってしまうのではないかとも思う。
そんなことを延々と考えてついにミーシャは、宙に浮いたままになっている父のことを解決するしかないと思いモデール森林監督署の門を叩いた。
どんな些細なことでもいい。父の痕跡を見つけとり戻す。そして、もう一度家族三人で新しい思い出を作っていく。
思いを胸に秘め一年監督署で働き、ようやく見つけた父への手がかり。絶対に逃すわけにはいかなかった。
「……父さん……母さん」
地面の影が濃くなった。汗から涙に変わったそれは一層色濃い。
「ごめんなさい……父さん、母さん……ラウルさん」
強い虚無感と絶望が体のなかで渦を巻いて血液に混じって全身を巡る。強い虚脱感と共に喉の奥から嫌な臭いがこみあげてくる。
「うわあああああああああああああ」
慟哭。喉を焼く叫びが森に木霊する。
その瞬間。
──グオオオオオオオオオオオオオオオオオン
慟哭に呼応するかのように大地を揺るがす咆哮がモデールの森に響き渡った。
熊か狼か。いや、違う。モデールに生息している大型の肉食獣の鳴き声は全て記憶しているが、あのようなものは始めて聞いた。
それにどちらかというとあの咆哮は獣というよりも人間の声に近く感じた。絶望に打ちひしがれ、人を、世界を、神を憎みぬいたような慟哭。
だとしたらこんな場所で一体誰が。
すぐにその誰か、は思いつく。
アーリィ・リアトリス。
彼女に違いない。それ以外に考えられない。
希望はまだ潰えていなかったのだ。まだ間に合う。それがわかれば行動は速い。
ミーシャは躊躇なくパンパスラスのなかに飛びこんだ。やはり青々とした茎に阻まれ視界など全くきかない。方向感覚などはすぐになくなった。だが、そんなことはどうでもよかった。
──クグググ
しかし、猪突猛進なミーシャの足がはたと止まった。いや、止められたという方が正しいかもしれない。くぐもる唸りのような音が地を伝って、足を這いあがってきた。
途端に全身が硬直し、本能が危険信号を発し始める。ビリビリと静電気のような痺れが首筋からつま先にかけて走る。
この感覚には覚えがあった。
殺気だ。
入職当時、現場研修で演習を行った際に狼の群れに遭遇してしまい、囲まれて危うく襲われそうになる経験をしたことがある。幸い教官として先行して森のなかで待機していた他の職員たちが駆けつけてくれて事なきを得たが、あのときの狼の眼差しと、地の底から響いてくるような不気味な唸り声はいつまで経っても忘れられない。
あれは良い肉が飛びこんできたという喜びというよりも、ただ単に自分たちの縄張りに侵入された怒り、憎しみから発せられたものだと思う。
食事のためにではなく、ただ敵を排除するためにだけに殺そうとする純粋な殺意。
そのときの感覚と、とてもよく似ていた。
この殺気の主はアーリィなのだろうか。だとすれば、アーリィは逃げることを止め、待ち受けることにしたということだ。
アーリィが犯した罪はどれも一級犯罪。しかもまだ余罪がたっぷりとある。暗い世界の住人である彼女からすればミーシャなど赤子同然。
森林保護官は非常事態でも対応できるように鍛錬を積んでいるとはいえ、それは万が一に備えるためのもので本格的な戦闘訓練ではない。
その証拠に、モデールで一番格闘術に長けたラウルでもアーリィは余力を残した状態で制圧してしまった。もしかしたらあれでも手加減されていたかもしれない。
逃げるべきなのだろう。しかし、わかってはいるが、引き下がろうとは思えない。
心のなかの天秤がゆらゆらと揺れ始める。天秤の皿のうえに乗せられているのはミーシャの命と、父親の情報。
拮抗していた天秤は徐々に一方に傾き始める。そして、結果が出るまでにはそう時間はかからなかった。
小さく息を飲み込む。全身を刺すような殺気は依然途絶えてはいない。だが腹の底に力を入れて、木の根のように張りついた足を無理やり引きはがす。
一歩、また一歩。
心臓が早鐘を打つ。止まることのない汗が首筋を流れ続ける。
すぐそこに待ち構えているのは苦痛の闇か。それとも希望への光か。
顔が引きつるのが恐怖によるものなのか、それとも喜びに対しての笑みなのかはミーシャにもわからなかった。
「あ、あの……」
呼びかけに反応はない。
「あの、あたしミーシャと言います。あの……あの、父さんのことで」
背の高いパンパスグラス越しに声をかける。するとなにかが起きあがるような気配と凝り固まった関節を無理やり動かすときのような不快な音が聞こえてきた。
本当にこの先に待つのはアーリィなのだろうか。今更そんな不安が頭を持ち上げる。だが、止まることはできない。もう決めてしまったのだから。
ミーシャは最後の一歩を踏み出した。
視界に飛びこんできた光景にすぐには反応できなかった。
踏み出したその先に待っていたのは、群生しているはずのパンパスグラスが広範囲にわたって腐敗している姿だった。黒く変色し、鼻をつく強い腐敗臭が辺りに立ち込めている。だが、それ自体はそこまで衝撃はない。
本当に衝撃を受けたのは、腐り朽ちたパンパスグラスのなかに一人の少年が俯いて佇んでいたことだ。
周囲の変色した葉と同色の髪色。着ている服はひどく汚れ、特に上半身にいっては肌を隠している箇所の方が少ないほどに擦り切れていた。浮き出たあばら骨に張りつく皮膚は、乾いていて瑞々しさは一切感じられない。
「──」
「……え?」
生温い風に乗って声が聞こえたような気がした。
「なに……なにか——」
聞き返そうとしたときだった。俯いていた少年の頭がゆっくりとこちらを向き始めた。黒髪の影に隠されていた顔が徐々に日の元に晒される。やはり純白の肌。血色の一切ない肌は、蝋が固まって張りついているだけのような異物感がある。
そして、顔の全体が露になった瞬間。
「ひっ」
ミーシャは喉が詰まるような短い悲鳴をあげた。
異質なものが二つ、少年の顔にとりついていたからだ。
強膜、いわゆる眼球の白目に当たる部分が黒く変色しており、そして角膜から瞳孔は薄い翠色に染まっていた。
およそ人間のそれとは違う双眸は、淀んだ水溜まりのように光を失っている。
「……わず……あた……ぞ……こど……のう……み、い」
ミーシャが少年の瞳を認識した途端、声のようなものが、徐々に形を構築し始めた。
明らかに異様な少年に腰が引けそうになるが、それでも少年から目を離すことはできなかった。
何故なら、少年の瞳から一筋の涙が零れる瞬間を見てしまったからだ。
「どうしたの? あたしになにかできることはある?」
「いたい……」
「え?」
「やだ……やだ……いたい、やめて、いたい、やめて、くるしい」
次々に溢れてくる拒絶と懇願の言葉を、少年は涙を流しながら無表情で吐き続ける。
少年になにがあったのかはわからない。ただ、服装とやせ細った体を見るに、奴隷だったのではないかと思った。
奴隷商がモデールを取引の場所に使うことがあると、ラウルは言っていた。
もしかしたら取引のどさくさに紛れて逃げ出してきた子なのかもしれない。
「大丈夫、痛いことはなにもしないよ。もう大丈夫だからね」
とりあえず少年を保護しなければ、とミーシャは落ち着かせるために声をかける。しかし、少年の耳には届いていないようで。
「やめて殺さないで死にたくない痛い痛い痛いやめてやめてやめて」
囁き声が次第に叫び声へと変わっていく。
「いやああああああああああああああああああああなんでなんでなんで裏切った死ね死ねやだやだやだやだ痛いくるしい殺すなか身ださないでとうさんかあさんやめてやめてころしてころして!」
少年は顔や喉に爪を深く突き立てて掻きむしりながら絶叫する。瞬く間に血が滲み始め、白い肌を赤黒く汚していく。
「ぎゃああああああああああああああああぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼あああああああああああああああああああああアアああああああああグボォォゴゴガッガガがああ」
喉の太い血管を破ってしまったのか、吹き出す血液が雨のように地面に降り注ぐ。
血液が喉へ流れ込み、ごぼごぼと空気と血が混じった音が聞こえてくる。
その様は筆舌に尽くしがたいものだった。だが、ミーシャは更に狂気の光景を目の当たりにする。
少年は絶叫のまま片腕を肩口からねじ切るようなに力任せに引きちぎったのだ。
骨の折れる音。肉が断裂する音。皮が引きちぎれる音。耳を塞ぎたくなるような壮絶な破壊音。
ミーシャは目を背けたくなるほどの凄惨な光景を、ただただ茫然と眺めることしかできなかった。
「ぎぎゃあああああぐぐぐああああああどああああああああああああああああああ」
少年は千切れた腕を掲げて空に向かって咆哮を飛ばす様は、戦場で騎士が自軍を鼓舞する様子に見えなくもない。
「やめ……て。そんな……」
「だはっだはっだばあああああああああ」
ああ、神様。これが夢なら早くあたしを現実に連れ戻して。
そんな願いも空しく、目の前で起こる惨状が瞳の奥に焼きついていく。そんな光景もずっと見続けていると多少の慣れが生じてくるのか、一つ気がつくことがあった。
引きちぎった腕から滴る血液が、黒くてどろどろしたものに変わっていくのだ。そして、地面に溜まっていくどろどろは、次第になにかの意思を持つかのように蠢き始める。
「ぐぎゃっぐぎゃっ」
少年はなにかを追い払うように引きちぎった腕を振り回す。その度に肩や腕の断面から飛び散るどろどろが周囲にこびりついていく。
悍ましい光景だが、この状況はミーシャにとって追い風でもあった。少年の視線がミーシャから外れている。
逃げ出すなら今しかない。
ミーシャは少年に気取られないよう一歩ずつゆっくりと後退する。
すでにミーシャの頭のなかにアーリィを追うという考えはなくなっていた。
どう考えてもアーリィとあの少年が繋がるとは思えないし、父の手がかりに繋がるとも思えない。
あれは明らかに異常だ。人が関わっていいものではない気がする。
ぱき、と足元から音がしたのは、もう少しでパンパスグラスのなかに身を隠せるところまできた瞬間だった。
視線を落とすとおそらく風で飛ばされてきたのであろう、木の小枝を踏んでいた。
なんでこんなときに……!
自分の運のなさに苛立ちと焦燥感が募る。
目を強く瞑り、神に祈る。
神様どうか今の音が聞こえていませんように。
しかし、運命の神は微笑むことはなかった。耳が痛くなるほどの咆哮がぴたりと止み、音という概念が消失してしまったかのような無音が訪れる。
じりじりと刺すような視線を感じる。
ミーシャは閉じていた瞳をゆっくりと開くと、顔は動かさずに目だけで少年を盗み見た。
少年はミーシャを真っすぐ見つめていた。
「裏切るの?」
濁る翠の瞳で。
「うらぎるの?」
少年は嗤う。
「殺すの? その斧で」
少年は呻る。
「殺すの、その槍で。殺すの、その銃で。殺すの、そのナイフで」
少年は啼く。
「殺した、この槍で。殺した、この銃で。殺した、このナイフで」
少年は泪を流す。
「かあさんとうさん殺した。じいちゃんばあちゃんころした。いもうとおとうとにいさんころされた。皆ころされた? なかみだされて殺された? しんぞう食べた? のうみそおいしい……はいは? かんぞうならいい……腸はくさい」
おぞましい言葉の数々をつぶやく少年の瞳は最初より変化していて、黒く染まった強膜に白い血管が浮かびあがっていた。白い血管は芋虫のようにうねり、瞳のなかで蠢いている。
「でも……なんでよくならない!? 肉が足りない? ほね? 目玉はおれの! じゃあ歯はわたしの! 舌はあげない! いはくさいつめつめどこからたべる! そこの肉のすじがだげげばれぞしえみろくろ──」
男性、女性、老人、子供。
少年の喉から発せられる声が次々と変わり、全てが交じり合った絶叫が大地を揺らす。
弾けた空気が頬を打つ。
もう恐怖という段階はとうにすぎた。
今は狂気に浸る叫ぶ姿を漫然と眺めることしかできない。
「げだぶらえじげるがどあいむばひゃみ──」
聞くに堪えない言葉が形を崩し始めた瞬間。
少年の体が嫌な音を立ててひび割れ始め唐突に。
爆散した。
鼓膜を貫く爆発音。目を潰さんばかりの閃光。肌を焼く熱波。弾ける肉片。
抵抗する間など微塵もない。稲光よりも早く、火炎よりも執拗に襲いくる——はずだった。
ミーシャは目を強く瞑ってその瞬間を待っていた。だが、いつまでも訪れない終わりに閉じていた瞼をおずおずと開く。
「あ、あ……ああ」
ソレは厳かに佇んでいた。
「……嘘」
紫黒の体躯は周辺の木々の高さを遥かに超える。背中から生える、空を覆い尽くさんばかりの巨大な六枚の翼は金色の鱗粉を吹いており、鰐革と蛇革を合わせたような紫黒の鱗が全身を覆っている。磨きこまれた刃のような鈍い輝きを放つ大きな鉤爪には赤い染みがこびりついていた。
大樹の幹のような首の先に見える鉄をも噛み砕いてしまいそうな牙と、顔の左右に三つずつある瞳は暗闇から抜きとったかのような黒眼。そして、それぞれの黒眼のなかに隣り合う二つの翠眼が怪しく揺らめいている。
ソレはお伽噺のなかで生きる最恐の貌。
全ての異形を束ねる至高の存在。
世界を統べる絶対の王。
──グルルラァ
鳴らした喉の音が、骨に響く。
──グオオオオオオオオオオオオオオオオオオアアアアアアアアアアアアアアアア
天と大地を貫く轟々しい咆哮をあげ、古から語られる竜が降臨する。
──第一章 了──
ここまでお読みなってくださりありがとうございます。
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