十一話
11
モデール森林公園のなかで特別保護区として認定されている区画は全部で三つある。モデール森林公園を見下ろすクローギペン山の地下脈から湧き出る清水がモデールの水源となっている特区Ⅰ。モデール古種と呼ばれる植物が集まる特区Ⅱ。特区Ⅰと特区Ⅱのやや南に位置する特区Ⅲ。
この三区はいずれも森林保護官であっても容易に立ち入りすることができない区画となっており、最新の研究では約三百年前にはすでに存在していたと推定されている。
元々はこの土地周辺を治める貴族がおり、その支配下にあった村がいくつかあったとされているが、五十年前に都が保護指定した際にはモデール森林は誰も近寄らない秘境となっていた。
貴族や村がどう衰退し、跡形もなく消え去ってしまったのかは史料に残されていないため判明しておらず、アーレイの原型となる移民の村ができるまでこの地は長く人から忘れられた土地だった。
都が森林公園として管理するに伴って調査が入り、生息する動植物の希少性が判明すると、よい意味でも悪い意味でも人々の記憶に残ることになる。
連綿と続く自然の歴史と、そこに住まう全ての生命を外敵から守り継続させるため、森林保護官は存在している。
だから、黙って自然破壊をしたアーリィに対してのちょっとした罰のつもりだった。
「ああ……腹が減った」
拠点を出発してすでに二十回は聞いた台詞が前方から呪詛のように流れてくる。
こんなことになるなら変な期待をさせなければよかった。
ミーシャは杖代わりにしている使い慣れたライフルの銃口を握りながら重いため息をつく。
「もういい加減にしてくださいよ。あんなもの食べて死ぬより空腹を我慢するほうがましでしょ」
「……葡萄が食べたい」
振り返って口を突き出していじける様は、泣きそうになっている子供のようで見ていると腹の底がムズムズと疼いてくる。
それほど期待していたのだろう。見た目は美味そうに見える果実だからか、食べられないと告げられたときのアーリィの顔は、死刑を宣告された罪人のようだった。
ミーシャの言葉を聞いてショックから落としそうになった果実を大切そうに抱え直して早口でまくし立てるアーリィは、今思い出しても笑いが込みあげてくる。
「あれはジザの実といって人間が食べると吐き気や腹痛を起こして、最悪の場合、内臓が腐敗して死に至るんです。この森の鳥たちは耐性があるようで口にしても問題はないですけど、熊や狼は口にしません。小鳥から聞かなかったんですか?」
「……からかうのは止めてくれないか」
そう思うならばいい加減諦めればいいものを。
「あの鳥畜生が! 最後に食えるもんなら食ってみろって言っていたのはこういう意味だったのかっ!」
「もうその辺にしておけば」
「……他に食料がないんだぞ」
「はあ……それならお昼は私の非常食をわけて食べましょう。あんまりたくさん持ってきてないですけど、必要な栄養は摂れます」
「非常食とはどんなものなんだ?」
「監督署で栽培している薬草と、アーレイから仕入れている小麦で作った乾パンです」
「……それ、味はいいのか?」
「お腹は満たされます」
アーリィは音が聞こえそうなほどガックリと肩を落とした。
「そんなことより、ちゃんと道わかってるんですか?」
返事があるまで少しの時間を要したが、それでも一応昼食の目途が立ったからか、仕事用の顔つきになって答える。
「それに関しては問題ない。ここにはもうすでに十日は滞在しているからな。目を瞑っていても大丈夫だ」
「……ほんとかよ」
半ば呆れ気味に溜息をつく。本当にこの人に任せてもいいのか不安になってきた。
「それにしても地図が駄目になったのは困りましたね」
地図が使えなくなってしまったのは痛手だった。アーリィは怪我を負ったミーシャを天幕に連れて帰ったときにバックパック等の装備品を一緒に持って帰ってくれていた。しかし、バックパックは切り裂かれたような跡があり、そこから血が染み込み装備品の一部を汚してしてしまっていた。
更に唯一の武器のライフルは、銃身が曲がっていてストックにも亀裂が入っていた。大切に使ってきただけに無残な姿に心が痛んだが、近接戦闘ではまだ武器になるし、杖としても使えるので持ってきている。幸い携帯食料は無事で、バックパックは裁縫道具を持っていたので補修はすることができた。
アーリィから大体の現在地を聞き、ミーシャの頭のなかの地図と比較して、大方の目安を定めると方位磁石を頼りに、森を進む。
巡回用の道に出れば正確な現在地も把握することが可能だし、目的地までの時間もある程度逆算できるが、他の保護官との接触の可能性は避けたいとアーリィが難色を示したために道なき道を行くことになった。
「それで? 森の専門家さんはいくつ候補が浮かんだのかな」
「周囲をシラカバの木に囲まれて、湧き水を湛えた泉に石塚か立石のある場所、ですよね? あたしが知っている範囲では特区ⅠとⅡに一つずつ該当する場所があったと思いますが」
アーリィが出した虹の出現に必要な条件は三つだった。
「贅沢を言えば、その付近で地下に続く洞窟なんかがあれば言うことなしなんだけど、最悪それはなくてもいい。最初の三つを満たしていれば条件としては申し分ないからな」
「でも、なんでそれが虹の出現する条件なんですか?」
「アシュマンが住むアヌウンと私たちが住む世界は本来交じり合うことはない。二つの世界にはそれぞれ見えない境界線が存在している。私があげた条件が揃う場所はその見えない境界線をとり除き、一時的に二つの世界を融合させるいわば施設のようなものなんだ」
「でも、昨日貴方がアシュマンたちを見せてくれたときはそんなものありませんでしたけど」
「一時的であれば私の力で私自身をその施設代わりにすることができる。まあそれも長続きはしないが。だが、条件の揃う場所さえあれば話は別だ」
アシュマンと共に生き、技術を学んだという放浪の民ルグリ族。
正直手品を使った詐欺だったと言われた方がまだ腑に落ちる。しかし、実物を目の当たりにしてしまっている以上は信じざるを得ない。
ルグリか。監督署に戻ったら一度調べてみよう。
特区Ⅰにある目的地まではまだ時間がかかる。道のない森を進むにはどうしても歩みが遅くなってしまうからだ。
本来なら特区までの道を知っているミーシャが先頭を歩くべきなのだが、アーリィが先に歩くと言ってきかなかったので、ミーシャがアーリィに着いて行く形になっている。
始めは非効率だと苛立ったが、すぐにその意図に気がついた。これはアーリィなりの気遣いだ。
地面には木の根があり一部は地上に飛び出しているものもある。草や岩のうえに生えた苔だらけの森は普通に歩くときと違い、体力も神経も使う。病みあがりの人間が先陣を切って進むのは体力的に難しいだろう。
今朝は怪我の痛みも消えて問題なさそうに感じていたが、やはり傷が完全に治ったわけではないようで、歩き始めてすぐに息があがり始めたと思ったら、ふくらはぎに僅かな痺れを感じ始めてきた。
まだまだいつも通りに歩けるわけではないのだとわかると、急速に気持ちも落ち込んでしまった。
ただ着いて行くことができないという事態にはならなかった。アーリィが歩調を合わせて歩いてくれていたからだ。
もしかしたら空腹を訴えていじけていたのも、ミーシャにへこたれている演技をして気を紛らわせようとしてくれていたのかもしれない。
一つ気がつくと次々と目につく優しさがあった。アーリィはさりげなく地面に転がっている石を除け、地面から張り出した根や背の高い植物が現れるとざわざわ迂回している。
意外と気遣いの人なのだな、と思った。そして、そのわかりにくい優しさに触れているうちに、落ち込んでいた気持ちもいつの間にか元に戻っていた。
そんなこんなで歩き始めてしばらく経ったころ、先頭を行くアーリィの足がふと止った。
「ここらで休憩を入れようか」
「わかりました」
額に滲み始めていた汗を袖で拭う。ふくらはぎのしびれが太ももにあがってきていたところだったので、丁度よいタイミングだった。
近くの木の幹に背中を預けると、アーリィは一人分開けて隣に腰をおろした。
「あの、ずっと気になっていたんですけど、そんな大きなトランクを持って歩くのって大変じゃないですか?」
アーリィが肌身離さず持ち歩いているトランクを指差す。一見すると市場に出回っている一般的なトランクと変わりはない。錠前がついているので、多少値の張るものなのかもしれないが、知識のないミーシャにはそれ以上のことはわからなかった。ただ、艶のある褐色の表面は擦り傷一つ見当たらないし、持ち手や金具も同様で大切に扱っているのだということはわかる。
「こいつとは長いつき合いだからな。もう慣れたよ。それに、これは大切な仕事道具だから常に私と一緒でなければならない」
「なにが入っているんですか?」
「全て、さ」
色香たっぷりの悪戯な笑みを浮かべて囁く姿に頬が紅潮していくのを自覚する。その様子を見て、アーリィが口元に手を当てて声を忍ばせながら笑い出す。
「女をからかって楽しいですか」
「くくく、ごめんよ。君は純粋そうだからつい遊んでみたくなってしまうんだ」
白い頬をわずかに染めながら笑う姿は、白雪のなかで健気に咲く一輪の花を思わせる。もっとも、見た目と中身は全くの正反対だが。
「別に言いたくないならいいですよ。そんなに気になったわけじゃないし」
「ついさっき自分で気になったって言っていたのに?」
「……うるさいですね」
「くふ……まあ、君がそこまで言うなら教えてあげよう」
アーリィは脇に置いたトランクを膝のうえに持ってくると、赤子にするかのように優しく撫でる。
「これはルグリ族がアーティファクトの製造を始めた初期に作り出された逸品でね。元々は万物を保存する器を作り出したかった一人のルグリが、数十年の歳月をかけて研究し仕上げたものなんだ。まあ、見ての通り最終的に少し大きめなトランクにスケールダウンしてしまったみたいだけど、それでも欲していた性能はきちんと再現したところをみると、その人物のアシュマンの技術を学ぶ意欲は相当のものだったんだろうね。このトランクに入る大きさのものなら、どんなものだってしまっておくことができるんだから」
アーリィのトランクに入る大きさものなら、という発言に違和感を覚える。
「いや物を仕舞うのがトランクの役目でしょう? それってルグリとかアシュマンとか関係なくないですか」
切れ長の瞳がわずかに弧を描いてこちらを見る。本当にそうだと思うか、とでも言いたげだ。
意地の悪い。なにも知らない相手をそんな風に試すようなことをするなんて。
諦めたようにミーシャが溜息をつくと、アーリィはやれやれと言った風にわかりやすく肩をすくめてから、上着の懐に手を差し込んで小さな鍵を取り出し、錠前に差し込んだ。
小気味よい解錠の音の後、トランクが開かれる。
アーリィの顔を見てから、ミーシャは恐る恐る首を伸ばした。
トランク内部の生地は底部が黒色の布で開口部の内側は白色の布が張りつけてあった。なかには綺麗に折りたたまれたシャツと皮の手帳が一つずつ収められている。開口部側には丸められた羊皮紙が三枚ベルトで固定されており、その隣には昨晩使っていたものとは別の貝からとれる真珠のような美しい濃い白色の万年筆がホルダーに差さっていた。
およそ普通だった。普通すぎて拍子抜けしてしまうくらいだ。気になることがあるとすれば、トランクの容量に対して入っているものが少なすぎるというくらいか。
もったいぶっておいて、見せられたのは至って変哲もないトランクの中身。
まさか、またからかわれたのか?
流石に苛立ちを覚えたミーシャがじっとりとした視線を向けると、その反応を待っていたかのように鷹揚に頷いてから、アーリィは手帳とシャツの間の布地部分に手を近づけて、そのまま底部に手を差し込んだ。
「えっ……」
いや、差し込むという表現は一般的ではないことは重々承知してはいるが、今目の前で起こっていることがまさに言葉の通りなのだから、他に言い表しようがない。
絶句するミーシャをよそに、アーリィはなにかを探すようにしきりに腕を動かし、ガラスでできたスキットルをとり出した。
「飲んでみたまえ」
差し出されたスキットルをミーシャはおずおずと受けとる。スキットルはじんわりと暖かく、中身は黄金色の液体で満たされている。
蓋を外して逡巡した後、ミーシャは唇を湿らせる程度に中身に口をつけた。
「……紅茶?」
「ああ。今日は天気もいいから喉が渇くと思って、君が席を外していたときにジャスミンティーを淹れておいたんだ」
もう一口飲む。口内に甘い香りが広がると同時に、若干の渋みのような味わい。
「美味しい」
「それはよかった。それは君の分だからゆっくり飲みたまえ」
アーリィはそう言うと、もう一つのスキットルを先ほどと同じ様にとり出した。
「どんな手品を使ったんですか?」
「自分の目で見たことしか信じないというのは、ただ了見が狭いだけの愚か者だが、自分の目で見たものすら信じられないというのは、もはや哀れ者を通り越して不憫だなと憐れみたくなる。私のオーナーはそんな人間ではないと信じているよ」
嫌な言い回しをしないでほしい。
「言ってみただけです。それで……普通のトランクじゃないってことはわかりましたけど、一体どうなっているんですか」
返答に満足したのか、アーリィは自分の分の紅茶で唇を湿らせるとトランクに視線を落として教えてくれた。
「最初に万物を保存する器を作ろうとしたルグリがいたと言っただろう? 彼は限りなく無限に近い空間を作り出すことには成功していたんだ。しかし、水は入れ物がなければ留まることができないように、成功したそれはとても不規則で不安定なものだった。そこで彼は有限のものに無限を張りつけることで二つの事象の中間を作り出すことに成功したんだ」
「その有限のものっていうのが、そのトランクってことですか?」
「ああ。本当はこれを足掛かりにもっと大きなスケールのものを作ろうとしていたらしいが、実現可能な範囲で制作しようとすると、どうしてもこのサイズが限界だったというわけだ」
「はあ……」
どこか遠くの世界のような話にミーシャはついていけずに、間抜けな返事をする。
「こいつが私の元にきたとき、これは失敗作だ、と聞かされた。縮小されすぎた駄作だとね。だが、私はそう思わない。例え目指したところより遥かに低いところに到達したとしても、たどり着くまでの時間と労力と努力を伴う情熱は確実に存在する。仮に注ぎ込まれた情熱が消えかけてしまったとしても、新たな篝火を持った人間が必ず現れ、その熱を糧にまた手を伸ばそうとする。こいつはその過程の産物なんだ。そして、この先も続いていく技術者たちの礎となる。だから私は駄作とは思わない」
愛おしそうにトランクを撫でるアーリィは、穏やかな顔をしていて本当に大切にしているのだということが伝わってくる。
「その考えすごくいいですね」
「それに案外一人旅というのは荷物が増えるものでね。重宝しているんだ」
「もしかして拠点にあったものって全部そのトランクに入れてたんですか?」
「そうだ。野宿の敵はストレスだ。そのストレスを少しでも緩和するには、親しんだ環境に身を置くにかぎる」
どうやってあれほどのものを運び込んだのかと疑問に思っていたが、謎が解けた。なるほど、そんな便利な道具があるのならば、あの大荷物にも納得がいく。
「昨日のこともそうですけど、なんだかお伽噺の世界に迷い込んだ気分です」
「知らない世界というのは総じてお伽噺のようなものさ。だが、知ってしまえば否が応でも現実を味わうことになる。今はその気分を楽しむことだな」
スキットルを軽く揺する。立ち昇る香りを飲み込むように煽った。
「そうですね。それがあたしの選択ですから」
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