一話
初連載になります。
よろしくお願いいたします。
ルグリと魔人
ソレを見た者の証言は古今東西あらゆる土地で確認できる。
天空の使者大鷲。森の王である大猪。荒野の猛者オオカミ。海を支配する海龍。大地を砕く地震。全てを天に還す竜巻。大岩を砕く大男。他にも大剣や槍など生命に限定せず、様々な内容が語られている。
興味深いことにその話のなかで共通しているのは、ソレの全身が黒い靄のようなもので覆われているということだ。その様をある記録では雲のようだった、また、別の記録では群れている蛾のようだったと記してある。
更にその靄からは男とも女ともとれない囁きが聞こえてきたというのだ。
正体不明の化け物が生み出した恐怖は、人種や国境などを飛び越えて伝染し、人々を介してより増強していった。
恐怖に支配された人々は、遥か昔から語り継がれる悪魔の化身になぞらえてソレを、魔人と呼び畏れたという。
01
最後に父を見たのはもう十年も前のことだ。
霜が降りる寒さのなか真っ黒な熊の革でできた上着を羽織り、麻布の袋を片手に玄関の前で小鳥が挨拶を交わすときのような短いキスを母に送っていた。
父と母はいつもそうして別れを惜しむようにしていた。
気をつけて。いってらっしゃい。
見送る母はいつも寂しそうにしていたが、想いを口に出すことはなかった。その代わりに軽くキスをする。
今になって思えば、いつまでも初々しい恋人のような夫婦だったと思う。それだけ愛が深かったのだろう。
互いを想い合うようになり一緒になるまでひと悶着どころではない騒動があった、と母から聞いたことがある。
多くの障害を乗り越えてようやく結ばれることができたのだ。その想いの深さは、娘でも全てを理解することはできない。
あたしは父と母が羨ましかった。二人には誰にもわからない秘密の合図があり、視線を交わすだけで想いを伝えることができる魔法を知っていて、あたしには内緒にしているのだと嫉妬していた。
試しにそれらしい仕草や合図を真似てみたが、父と母からなにかが伝わってくることはなかった。
それがとても悔しくて二人だけの秘密にしていることへの仕返しに、わがままを言って二人を困らせたりした。特に父にとても懐いていた小さいあたしは、暴君ぶりを遺憾なく発揮した。
ただ、だからといって別に父や母にないがしろにされていたわけではない。むしろ、父は所謂親馬鹿と言われる類の人だった。
あたしが生まれたときには、あまりの興奮にひっくり返って気絶したそうだし、成長し歩き出すころになると、姫を守護する騎士のように休日は一日中あたしの後ろをついて周り、近所の男の子と仲良くしていれば嫉妬の視線を浴びせる具合だったらしい。
そんな様子を見て近所の人たちは仲良しの親子ね、と微笑んで見守ってくれていた。
そのときの記憶は朧げだが、どこへ行くにもついていきたがる父を、幼いながら鬱陶しく思ったのはしっかりと覚えている。
だからだろうか。
あの日、母を見つめる父の視線が寝室から起きてきたあたしを捕らえたとき、優しく微笑みかけてくれたのに、素っ気ない態度をとって寝室に戻ってしまった。
別にいつもの光景だ。今日くらい見送りしなくてもいいだろう。
それにあまり甘い顔をすると父の過保護がエスカレートする。だから、「おはよう」も「いってらっしゃい」も言わずに自分のベッドへ戻ってしまった。
これが今生の別れになると知っていたら、泣いて行かないでと縋りついただろう。母を説得して監禁していたかもしれない。
まあ、そんな後悔も後の祭りだ。
その日を最後に父は私たちの元からいなくなってしまった。
生きているのか、死んでいるのか。村の人々が中心になって捜索してくれたが、結局父が帰ってくることはなかった。
なにもかもがあの日で止まっている。
一時は生きる気力もなくしてしまった。
しかし、それでも母もあたしも自死を選ぶことはしなかった。それだけはしてはならないと思った。
もし父がひょっこり返ってきたときに、二人とも死んでいては「おかえり」と言う人がいないではないか。それはあまりにも──。
「おい、聞いているのか。ミーシャ・シェルズ!」
野太い声に意識が呼び戻される。緩慢な動きで顔をあげると、口髭を蓄えた恰幅の良い男性が窮屈そうに体を屈めて覗きこんでいた。
「上司を前に居眠りか? いい度胸だな」
「……いいえ、違います。ちょっと考え事していて」
「その考え事は俺の話よりも重要なのか?」
「……すみません」
「ったく。これから任務なんだから集中してくれないと困るぞ」
「……はい。わかっています」
「適切な判断ができない人間は死ぬ。俺は、お前の死に顔など見たくはない」
「すみませんでした。気合いを入れ直します」
「……ならいいが」
彫の深い顔に張りつく疑いの表情は子供が見れば泣き出してしまいそうな迫力があった。実際、去年生まれたばかりだという彼の息子は、抱っこしようとすると火がついたように泣きだすそうだ。
ミーシャは不精髭が主な原因だと思っているのだが、悲しそうに嫌われエピソードを話す姿が面白いのでまだ教えてあげてはいない。
この山男という言葉が似合う男は、ラウル・イズデル。ミーシャの直属の上司に当たる人物だ。
早春の麗らかな日差しのなか聞こえてくるのは、均された林道をゆったりとした速度で行く荷馬車の心地よくない走行音のみ。
しばしの沈黙のあと、ラウルが口を開いた。
「それではもう一度今回の任務について説明する。三日前に巡回していた職員がモデール森林公園で不審人物を発見。聴取を試みるも抵抗にあいとり逃がしている。侵入者、以降被疑者と呼ぶが、被疑者は現在に至るまで所在が掴めていない」
それは三日前にあった不法侵入の報告内容だった。
「ここからは今日の朝更新されたばかりの情報だ。えーっと……被疑者の服装は暗めの紺のフードつきの外套。グレーのズボンと黒色のブーツに、こげ茶色の手袋を身に着けている。顔の特徴は……すっげえ美人だと? トーラスの奴、見惚れていて逃がしたんじゃないだろうな」
ラウルはしかめっ面で報告書の続きを読みあげる。
「あー……特徴的なのは灰色の瞳と同色の髪か。それに大きなトランクを持っているそうだ」
「身元は判明していないですよね?」
逃げ出す人間が正直に素性を明かすとも思えないが、念のためラウルに尋ねる。すると、意外にも予想とは違う返答が帰ってきた。
「そうであろうと目されている人物はいる」
ラウルは荷台に設置されている備品入れのなかから一綴りの台帳をとり出しミーシャに手渡す。
表紙には極秘調査対象第零九と記されていて、開いてみると一番うえにこの辺では滅多に見られないモノクロの写真があった。
「うわっ、これ写真ってやつじゃないですか。始めて見ましたよ」
噂で写真という風景や人を特殊な技法を用いて紙に保存しておく技術があると聞いたことがあった。ただ、写真が普及しているのは都だけで現物を見るのは初めてだった。
「ああ。元の写真を別の撮影機で撮ったらしいからあまり鮮明ではないが、それは仕方がない。三枚あるだろう。よく見ておけ」
ミーシャは写真を止めているクリップを外すと、一枚一枚目を通す。
一番うえにあった写真はどこかの町の市場で撮られたもののようで、果物が売られている店先で品定めをする一人の人物を遠巻きに撮影したものだった。
二枚目は人でごった返す雑踏のなかで撮ったもののようだが、人が多すぎてどれが対象の人物なのかはわからなかった。
そして、三枚目に目を通した瞬間、ミーシャは思わず息を呑んだ。
三枚目の写真は町の裏路地で撮影されたものらしく、左に緩くカーブしながら壁のように立ち並ぶ建物の一画を撮影したもののようだった。一見すると特段気になるようなものは映っていないように思えるが、よく目を凝らすと一番奥、建物で太陽光が遮られた暗闇の先にこちらを振り向いている人が映っている。
条件が悪いからか表情などの具体的なものは一切わからなかった。ただ、何故だか漠然と彼女がお前らのことなどお見通しだと言わんばかりに不敵な笑みを向けていると思った。
「これ……一体誰なんです?」
「名はアーリィ・リアトリス。都に指名手配されている、とっておきの大罪人だ」
鼻の頭に皺を寄せて、顔をしかめるラウルは資料の犯罪歴の項目を無言のまま指差した。読めということなのだろう。素直に従い目を通すと、確かにラウルの表情にも納得がいくと思った。
「殺人、放火、脅迫、逃走幇助、公人襲撃未遂、内乱未遂、通貨偽造、公文書偽造……なんですかこれ。重罪のオンパレードですね」
「半端じゃないだろう。これでもわかっている内容だけで、判明していない余罪もあると言われている」
「こんな人がこの森に潜伏しているんですか」
「いい隠れ蓑なんだろう。ここは人の出入りはほとんどないから、潜伏するにはもってこいだ」
台帳にまとめられた資料はアーリィ・リアトリスが起こしてきた、または、関わっていると考えられている事件の概要や証言が八割。残り二割はそれらを元に行われた検証内容を報告するものだった。
資料の枚数はそれほど多くはない。抑揚のない無感情な文字列に辟易しつつ、流しながら目を通していると一つ気になったことがあった。
「……なんか、あんまり詳しいことはわかっていないんですね」
「ああ。実は名前以外の情報はなにも判明してない。その資料にも書いてあるが目撃時の容姿も時と場所によってまちまちでな。その写真だって数年かけてようやく撮れた三枚だそうだ。大々的な調査や捜索が行われたこともあるらしいが、結局全て空振りに終わっているらしい。そりゃそうだよな。容姿が変わるんじゃ寄せられた情報の精査も困難だろうし、用心深そうだから立ち寄った土地に証拠を残すようなヘマはしなさそうだ」
調査資料の内容は推測がほとんどで、たとえばアーリィ・リアトリスがどこの出身であるとか、年齢、家族構成、友人関係などの個人情報は全く記されていない。
調査内容を読んでもアーリィ・リアトリスの経歴や人となりを知ることはできそうにない。
「よく写真なんか撮れましたね」
「たゆまぬ努力の賜物ってやつだろうさ」
そんな言葉で片づけていいのだろうか。
「でも、トーラスさんは不審者をアーリィ・リアトリスだと証言したんですよね? どうしてわかったんです?」
ミーシャの問いにラウルは大きなため息をついて、一枚の写真を指さした。
「写真のここ。口元に小さなほくろがあるのがわかるか?」
ラウルが指さす写真は、一枚目のアーリィ・リアトリスと思われる人物を横から撮影したものだった。
よく目を凝らして見ると確かにほくろのようなものがあるようには見えるが——。
「まあ……それっぽいのはありますけど」
「トーラス曰く、被疑者もこの写真と同じ位置にほくろがあったそうだ。俺に向かって『この麗しき女性に間違いないっす』と興奮しながら断言していた」
「とり逃がしたくせにそういうところはちゃんと見てるんですね。きも」
「まあ勘弁してやれ。そもそもあいつが見た覚えのある顔だったと騒ぎ出さなかったら、相手が凶悪な犯罪者かもしれないとはわからなかったんだ。それにちゃんとペナルティは課してある。あいつには休みを返上させてアーレイまでこの台帳をとりに行かせたんだ」
アーレイとはモデールから半日以上馬を走らせたところにある地方都市だ。トーラスから侵入者をとり逃がしたと報告があったのは、三日前の夕刻すぎだった。そのあとすぐに馬を走らせたとしたら、アーレイに着いたのは朝方だろう。ただ、台帳を管理している駐在軍施設はそんなに早い時間から開いていない。
ようやく開いたとしても記憶を頼りに数多の罪人のなかから被疑者と思しき人物を探し出し、面倒で手間の多い台帳の貸し出し申請が終わるのは早くて夕方ごろ。その足で戻ってきたとすれば二日連続徹夜をしたことになる。
「……きもいは取り消します。きしょいです」
ラウルが隣で耳鳴りがするほどの大きな声で笑った。
「そんな大罪人が一体こんな田舎の森にどんな用があるっていうんでしょうか」
「俺は研究者が絡んでいるのではと睨んでいる」
「研究者ですか?」
「この森には様々な動植物が生息しているのはお前も知っているだろう。なかには希少価値の高いものもある。なにせ原始のころから姿を変えていないと言われる森だからな。研究者からすればここは宝の山なんだよ。だが、この森に入るには嫌になるほどたくさんの手続きが必要になる。特に森の最深部にある特別保護区への調査となると、加えて莫大な金も必要になってくる。しかも、誰でも申請すれば許可が下りるわけではない。しっかりとした研究機関に所属していて尚且つ実績のある高名な学者でなければ審査は通らん。年間で申請自体の件数は数百件にのぼるが、許可がおりるのは多くても十件だ。それだってなるべく環境に影響を与えないように、調査や研究にはあらゆる制限が課される。その狭き門を乗り越えて得られる情報は研究者からすれば垂涎ものだ。だから、審査を通らなかった人間は、非合法な手段を使ってでもサンプルを入手しようと考える」
「じゃあ、どこかの研究者がアーリィ・リアトリスにサンプル採取の代理人を頼んだと?」
「ああ。それに、世のなかには金次第で依頼人をどんな場所へでも運ぶ、渡し屋という人間もいるという噂だ。モデールの特別保護区域も奴らの商品になっているらしい」
確かにラウルの話は可能性として十分あり得る。地位名声を手に入れるため、追い求めているものを手に入れるためならばどんな手段も厭わないという人間は事実として存在するのだ。
これは普段より一層気を引き締めなければいけない。
「でも、もしそうならあたしたち二人だけというのは心もとないですね」
「……全くだ。だが、森林保護官として見過ごすことはできない」
「はい」
二人の会話が終わるのと同時に馬が嘶いて止まった。荷馬車の手綱を握っていた職員がこちらに振り向いて告げる。
「到着しました。ここが侵入ポイントです」
「了解した。行くぞ、ミーシャ」
二人分の装備をおろすと、荷馬車はきた道を戻って行った。徐々に小さくなる後ろ姿を見送り終えると、ミーシャはバックパックから地図をとり出して現在地と目的地の確認を行う。
現在地は森の南東にある森林保護官専用に四ケ所整備された細道の前だ。ここから森へ入り、目的地へ向かうことになる。
人の営みから完全に隔離された深緑の森は、小鳥の囀りと心地よい風に揺れる葉の音が流れていた。
目を閉じて深呼吸をすれば、乗り心地の悪い馬車のせいで凝って硬くなった体も自然とほぐれていく。
「装備の点検は?」
ラウルがバックパックのチェストストラップの長さを調整しながら、ミーシャに尋ねる。
「問題ありません」
間を置くことなくミーシャは答えた。事前に点検はすませてあるし、荷馬車のうえでも再度点検を行っていた。そのことを知っているからか、ラウルはミーシャの即答に満足そうに頷いた。
「よし。では、改めて今回の任務内容を確認する。本任務はモデール森林公園にて確認された不法侵入者の捜索。対象はアーリィ・リアトリスという人物に酷似しているとの情報があるが確定ではない。別人の可能性もありうる点を考慮し、十分注意を払って捜索にあたれ」
「発見した場合はどうしましょうか?」
「無抵抗ならば我々の安全を確保した後に拘束し、監督署に連行し聴取を行う。対象が本当にアーリィ・リアトリスだった場合は、アーレイの駐在軍に報告して指示を仰ぐ。抵抗された場合は随時判断するが、攻撃を受けた場合は戦闘行為はせずに撤退する」
「逃がしてもいいんですか?」
「俺たちは兵士でもなければ、騎士でもない。本来の仕事は森林管理だ。森で起こる犯罪に対しては逮捕権を持ってはいるが、命を懸けて戦うのは俺たちの仕事ではない。それを忘れるな」
諭すように、しかし、有無を言わせない静かな迫力の籠った声でラウルは念を押す。
ミーシャは静かに唾を飲み込んでから頷いた。
「わかりました」
「……今回がお前の初捜索任務になるわけだが、あまり気負うなよ。ここで被疑者を逃がしたとしても俺たちにはどうしようもないことだったと割り切れ。相手が手練れだった場合、俺たちが敵う相手ではないんだからな」
「はい」
少し籠り気味な声で返事をする。
「それと……」
緊張した面持ちを見て、ラウルはわかりやすく声の調子を穏やかなものに変えてミーシャの肩に手を置く。
「なんですか?」
「自分の命を最優先に考えて行動しろ。命より大切な仕事など存在しない」
「……はい」
「よし。では、これから捜索任務を開始する」
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