表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

馬車が飛ぶ夜は ~中編~

前編からのつづき。


 オヤジから包みを渡された。ズシリと重い。

「分からんように包んでおいた」オヤジがニヤッとして言った。「弾も一緒に包んである」

確かにそれは、分からないように家電量販店のチラシで包んであったのだが、力を込めて包んだためか、拳銃の形がはっきりと見えている。

これでは包んだ意味がないと思うのだが、オヤジには絶対に逆らえない。たとえ間違いであっても逆らえない。それがヤクザの悲しき性というものだ。

「キーは下駄箱の上だ。嫁のものだから大事に乗ってくれ。嫁から了承は得てある。――頼んだぞ、マサ!」

それだけ言うと、オヤジは組事務所の奥に引っ込んでしまった。


 うちの組はかつて地元で二番目の勢力を誇っていた。組長、つまり、さっきのオヤジは二代目の組長として組員をまとめ、組員も組長を信頼し、組はしだいに大きくなっていった。

しかし、好事魔多し。一番目の勢力の組と三番目の組が抗争を始め、うまく立ち振る舞えなかったうちの組は分裂した。一番目の勢力に移る者と、三番目の勢力に移る者と、そのままうちの組に残る者の三つの選択肢があった中で、ほとんどの組員は一番目の勢力に移っていった。

力のある方になびいて当然だ。

結果、うちの組は三番目の勢力どころか五番目、六番目としだいに落ちて行った。

組員の移籍を簡単に認めた組長の甘さもあったと思うが、時代の流れもあった。もはや、昔ながらの組はやっていけない。今は経済ヤクザの時代だ。武士は食わねど高楊枝の時代ではない。この世界も、いつしか金がものを言う時代になっていた。


しかし、頑なに任侠道を極めんとしていた男もいた。

俺のアニキだ。もちろん、実の兄という意味ではない。アニキは俺より二十歳も年下だった。アニキがこの世界に入ったのが早かったのと、俺がこの世界に入ったのが遅かったため年齢にかなりの開きがあるのだが、組内での順位は、どれだけこの世界で飯を喰ってきたかで決まるため、たとえ年下でも尊敬するアニキだ。

アニキはまっすぐな極道者であった。組の地位を取り戻すため、一人で日本刀だけを持って、一番目の勢力を誇る組に殴り込みをかけた。下っ端を蹴散らし、相手の組長のすぐ前にまで突破できたのだが、側近のボディガードに拳銃で返り討ちにされた。


以降、俺の組の勢力は六番目をキープしたままだった。しかし、ここにきて状況が一転した。オヤジがもう一度、組として栄華を極めたいと言い出したのだ。年齢的にこれが最後の機会だという。俺もそう思う。古希を迎えたばかりなので、大きな事をやり遂げるには、最後の年齢なのかもしれないからだ。

オヤジは起死回生の作戦を立てた。そして、オヤジはその役目を俺にやらせることにした。鉄砲玉となって一番デカい組の組長をヤルように言ってきたのだ。

還暦のこの俺に……。

それが三日前のことだ。オヤジからの命令だから、この世界では逆らえない。だが、俺は寝ないで今朝まで悩んだ。そして決心した。アニキの後を追うと。


オヤジは長い間、庭に埋めてあった拳銃と弾丸を掘り起こして俺に渡した。油紙を剥がして朝刊の折り込みチラシに包み直していた。錆びないように油紙に包んであるのだから、そのままでいいじゃないかと思ったのだが、オヤジには逆らえない。

俺は上下を黒っぽい服装でまとめると、上着に拳銃を隠し、薄い色のサングラスをかけて、玄関の下駄箱の上に置いてあるキーを掴み、家のガレージに入った。

姐さんが先月買ったばかりの新車だが、オヤジは使ってもいいと言った。

遠慮なく使わせてもらおう。

俺はキーを差すとサドルにまたがり、ペダルを漕ぎ出した。

初老ヤクザの鉄砲玉がママチャリに乗って人殺しに向かう。前カゴには“パトロール中”と書かれた黄色いプレートが貼り付けてある。誰も暗殺者とは気づかないだろう。

すげえ、クールじゃねえか!


だが、五分もすると息が切れて来た。姐さんのママチャリには電動機が付いてなかったのだ。それでも懸命にペダルを漕いで、敵対する組長宅のそばまで来ると、空き家のブロック塀の向こう側に自転車を隠した。

腕時計で時間を確認する。自転車を隠す場所も襲撃の時間も計画通りだ。

もうすぐ敵の組長が犬の散歩に出てくるはずだ。

俺は豪邸の陰に身を潜める。うちの組長の中古建売住宅と違って、巨大な要塞のような家だ。大きな石垣がずっと続いている。

こんなデカい石、どこから運んできたんだ?


ターゲットとなる組長の行動確認を行った結果、午後六時にブルドッグだかパグだかの黒くてブサイクな犬の散歩に出かけることが分かった。

家を出た後は近くのタヌジ公園に寄り、川の土手を歩いてから、ふたたび家に戻る。毎日、変わることないコースだ。若くて屈強なボディガードが常に三人付いている。デブが二人にチビが一人だ。デブの一人は黒いブリーフケースを持っている。広げると盾になる防弾カバンだろう。刃物も防げるらしい。

あれで俺様の弾丸が防げるのかよ。カバンを広げる前に撃ってやる。ただし、俺に実射の経験はない。海外に行って練習している奴らもいるが、うちの組にも俺自身にも、そんな経済的余裕はない。シューティングゲームで練習した腕が実戦に通用するかどうかは大きな疑問だがやってやる。ゲーセンで費やした時間と労力の分は回収してやる。あいつのタマを取って、オヤジを喜ばせてやる。

といっても、俺は長年、この世界にいるが人殺しの経験は初めてだった。

何でも初体験というものは緊張する。


和服姿の組長がブサイクな犬と三人のボディガードを連れて、豪邸から出てきた。

ピッタリ午後六時。時間通りだ。

用意してきた黒い毛糸の帽子をかぶり、サングラスをはずした。薄暮にサングラスは邪魔だ。自分の顔を隠すことよりも、確実に弾丸を命中させることを優先する。

俺は待ち伏せをするために公園へ先回りした。一番大きな遊具であるゾウの滑り台の下に身を隠す。この時間に子供たちの姿はない。ハトが数羽歩いているだけだ。遠慮なく、任務を遂行できる。

チラシの中からカサカサと拳銃を取り出す。弾は装着してある。しゃがみ込んで、公園の入り口に銃の照準を合わせてみる。――バッチリだ。

「よっしゃ、早く来いよ」

いったん、銃から手を離して、手のひらの汗をズボンで拭う。目は入り口を睨んだままだ。拳銃でしくじったときのために、左足首に短刀を巻きつけて持っている。撃ってダメなら刺してやる。もうすぐ俺たちの組が天下を取る。地獄のどん底で悔しがるがいい。


 組長らがタヌジ公園に入って来た。公園の到着も時間通りだ。

組長はオヤジより二十歳ほど年上だから、八十歳近いはずだが、かくしゃくと歩いている。そんな年になってもこの世界で現役なんだから、敵ながらすごい奴だ。だが、褒めてる場合ではない。残念ながら奴の現役は今日が最後だ。

奴の頭に標準を合わせる。ちょうど頭に当たらなくても、どこかに当たれば、失血死かショック死するだろう。なにぶん、八十歳だ。真っすぐ歩いてはいるが、そんなに体力や免疫力はないはずだ。

 組長は犬に先導されながら、公園内をゆっくり歩いてる。砂場を通り過ぎ、ブランコを通り過ぎ、鉄棒に至る。そして、あの犬は鉄棒のふもとにオシッコをかけるはずだ。 

これがいつものパターンだ。

犬がどこでオシッコをするかまで綿密にリサーチした俺の勝ちだ。


 ボディガードは公園内を睥睨している。アホだ。公園内にいるとしたらガキか、ガキの母親じゃないか。そんな連中に威張ってどうする。ハトに笑われるのがオチだ。そんなことをやってるから、いつもまでたってもチンピラなんだよ。――ああ、俺もチンピラだがな。

 さて、邪魔なボディガードは……?

まずい、デブ二人しかいない!

「チビボディガードがいない!」

いきなり、後頭部に銃口が当てられた。

「チビで悪かったな、若頭のマサさんよ。これで待ち伏せしたつもりか?」

ああ、正体までバレちまったか。

「くそっ!」

俺は拳銃を地面に置いて、ゆっくり両手を挙げる。

左足首に隠した短刀を意識する。

隙を見て、刺してやる。

「弱小組の若頭さんよ、待ち伏せを待ち伏せされた気分はどうだい?」

チビボディガードがせせら笑うが、俺は答えない。

どうやって逃げ出すか?

 そのとき、すぐ近くでハトが飛び上がった。

――今だ!

俺はすばやく頭をずらして銃口を外すと、振り向いて、ハトに驚いているチビの股間を蹴り上げ、右手に転がっている自分の拳銃を拾い上げた。

よしっ、うまくいったぜ!

ところが、チビボディガードは倒れ込みながら、笛を吹きやがった。

――笛? 江戸の岡っ引きかよ。

しかし、その笛の音は公園中に響き渡り、ターゲットの組長は犬とともに地面に伏せ、デブボディガードが防弾カバンを大きく広げてガードした。


俺は構わずに走った。目指すは組長の首だ。

走りながら、なるほど笛か、考えたなと思った。

野太い大声や銃声なら近所の人がすぐに通報するだろう。

笛ならそんな心配はない。それに日本製の笛は性能がいい。サッカーの国際試合でも使われている。だからこれだけ公園内に響く。たちまち防御の態勢がとれる。日本企業の技術力を見くびった俺のミスだ。たかが笛、されど笛だ。

組長まであと少しのところで、俺は足がもつれて派手に転んだ。

もういい年だということを忘れていた。

頭では俊足のつもりだったのだが、足がついていかなかったのだ。運が悪いことに、転ぶとき、デブボディガードに正面から撃たれた。撃たれたのは腹だと分かった。腹部がカッと熱くなったからだ。転ぶ寸前に当たるとは運が悪すぎる。転んだ後だったら、弾丸は頭の上を掠めて、うまくいけば後ろのチビボディガードに命中しただろうに。


衝撃で手から拳銃が飛んで行った。俺は一発も撃つことなく、ゲーセンでの練習の成果も見せることなく、無様に倒れた。

組長まであと三メートルだった。

ふと、手のひらを見た。さっきまで拳銃を握っていた手だ。

「この手に拳銃さえあればなあ。――わっ、ヤバい。生命線が切れとる」

最期に見たものは組長の横で伏せをしているブルドッグだかパグだかの黒くてブサイクな犬の顔だった。 

年金受給の前に死ぬとは運が悪すぎる。毎月せっせと払っていたというのによ。減額されてもいいから、六十歳からの繰り上げ支給を受けていればよかった。

あまりにも付いてない。不運のてんこ盛りだ。ああ、このまま死んでしまうのか。

オヤジとの約束は果たせなかった。姐さんの自転車は放置したままだ。

だが、これでアニキのところに行けると思った。

そのあと、俺の記憶はない。

死ぬ間際に見るという人生の走馬燈?

そんなもん、出てくるかよ!


「暴力団の抗争か? 組員が意識不明」

十二日の午後六時半ごろ、市内のタヌジ公園で男が倒れていると通報がありました。警察によりますと倒れていたのは暴力団桃組の正田正人組員(六十)で腹部を拳銃のような物で撃たれており、意識不明の重体です。撃った犯人は逃走中で、警察は抗争事件として捜査を進めています。なお、公園内には複数の人間がいたとの情報もあります。


 気が付くと、俺はなぜか馬車に乗っていた。

 俺が馬車に? 似合わねえ。

さっきまで電動機が付いてないママチャリに乗ってたんだぞ。

目の前に陰気そうなガキが座っている。ジャンパーにジーンズを履いた今どきのガキだ。足元はおしゃれなスニーカーを履いている。おそらく二十歳くらいだろう。

俺は今までに馬車なんて、テレビの画面を通じて、皇室のセレモニーでしか見たことがない。なのに、なぜか乗せられている。見たこともない場所を走っている。二車線の道路が続いているのだが、周りは暗くて何も見えない。山も海も森も川も田んぼも畑も建物も何もない。

ここはどこだ? どこを走ってるんだ? いったいどうなってるんだ?

そのガキに訊いてみたが、「ボクも分からないんです」と陰気な声で言われた。「御者のキヨミズさんに訊いても、ちゃんと教えてくれないんですよ。ただ、行先は北だと」

北へ行くって、昭和の演歌かよ。

御者はキヨミズと言うのか。

俺が訊いてみる。

「おーい、運転手のキヨミズさんとやらー!」御者台に声をかける。

「ああ、マサさん、気が付かれましたか」御者は前を向いたまま返事をする。

「なに! なんで俺の名前を知ってる!?」マサは大声で叫ぶ。

「これに書いてありますから」と閻魔帳を掲げて、「それと、大きな声を出さなくても聞こえますよ」と言う。

「なんだ、テレパシーか? アンタは超能力者か?」

「いいえ、周りの音が無いだけです」

 確かに大型馬車が走っているのに、車輪の音もひづめの音も聞こえない。耳元で小さな風の音がするだけだ。御者台と客室の間にガラス戸があるのに、なぜか会話は十分に聞こえる。

 どこかにマイクでも仕込んであるのか?

「なんだか北へ行くらしいが、この馬車はどこへ向かってるんだ?」

「それは私にも分かりません」きっぱりと言われる。

「なんだ、分からないのに走ってるのか。ずいぶん呑気じゃねえか。乗車賃はいくらだ?」

「不要でございます」またきっぱりと言われる。

「ふん、不要でございますか。随分と太っ腹じゃねえか」俺は訊くのを諦める。

生真面目な奴とは生理的に合わないからだ。


「兄ちゃん」陰気なガキに話しかけてみる。「俺はマサという名前だ。アンタは?」

「ボクはレンといいます」背筋を伸ばして答える。

人相の悪いマサの迫力に押されたようだ。

「レンくんか。学生さんかい?」

「はい、大学生です」

「そうかい。俺たちは死んでるよな?」

「たぶん、そうだと思います」

「行先は地獄かね?」

「うーん、どうでしょうか。でもまだ希望はあります」

「死んだ人間に希望はないだろ」

「この馬車のカンテラは二つなんです」

「二つだったら何だと言うんだ?」

「完全に死んでないというか、キヨミズさんによると生死の境をさまよってるらしいです」

「そういうことか。俺は見ての通りのヤクザもんだ。鉄砲玉となって敵対する組の奴らを襲ったんだが、逆に腹を撃ち返された。頭とか心臓だったら即死だが、腹だったからな。まだ生きてるのだろうな」撃たれた腹をさする。

「鉄砲玉さんは運がいいですね。心肺停止になって、人工呼吸器で生かされているんじゃないでしょうか」

「まあ、そんなところだろうな。ところで、カンテラって何だ?」

「馬車の後ろに下げてある照明です」

マサは立ち上がると、リアウィンドウ越しに外を見た。

「おお、あれがカンテラか。確かに二つ揺れてるわな。オマエは学のある大学生だからって、格好つけてカンテラなんて横文字で言うなよ。何でも横文字にすればカッコイイと思ってたら、大間違いだぞ。JAなんて気取って横文字で言ってるけど、あれは農協だからな」

「では、何と言いましょう?」

「四角い提灯でいいだろ。俺の事務所にはたくさん丸い提灯がぶら下がってたぞ。――ところでアンタは何で馬車に乗ってるんだ?」

「首を吊りました」

「ウソだろ。さらっと言うなよ、おっかねえ。何で首吊っても死なないんだ。ジェイソンか? ターミネーターか? ゾンビか?」

「たぶん、吊っていたロープが切れたか、ロープをかけた木の枝が折れたかだと思います。意識がなくなる瞬間、お尻が痛かったですから」

「落ちたというわけか。それでアンタも人工呼吸器のクチか」

「はい。鉄砲玉さんと同じです」

「すぐに死ねなかったことに後悔はないのか?」

「今は複雑な気持ちです」

「生きることへの執着心が起きてきたんだろ」

「そんな感じです」

 マサは座り直して話し始める。

「自殺の名所に霊がいっぱいいるだろ。テレビの心霊特集でやってるわな。俺が思うに、この世が嫌になって死んだのに、なんでまだこの世に残ってるのか? さっさとあの世に行けばいいじゃねえか。死んだとたんに思うんだろうな。死ぬんじゃなかったってな。アンタがもし生きて帰れたら、ちゃんと命を大切にしろよ。鉄砲玉の老ヤクザが言っても説得力がないけどな」

「いえ、こんなボクのためにありがとうございます、鉄砲玉さん」レンは律儀に頭を下げる。「この機会によく考えてみます」

「ああ、それがいい。何もすることはないのに、時間だけはたっぷりありそうだからな」


さくらが乗る馬車はしだいに速度を落としはじめた。

キヨミズが前を向いたまま、これから馬車を乗り換えていただきますと言った。

馬車が左に曲がって、道路脇の空いたスペースに入って行くと、もう一台の大きな馬車が止まっていた。けん引する馬が四頭もいる大型四頭馬車だった。

「あの大きな馬車に乗り換えていただきます。私は新たな客人を連れて戻ってきますから、しばらく馬車の中で待機しておいてください」

キヨミズはそう言うと、三人を降ろし、そのまま空の馬車で戻って行ってしまった。

「キヨミズさんは働き者だね」

さくらは花ちゃんにそう話しかけると、手を取って、乗り換え用の大型馬車へと歩く。慣れてきたためか、さくらが手を差し出すと、ちゃんと握り返してくれた。さくらの小さな手よりも、もっと小さな手のぬくもりを感じる。

さくらは思った。

私一人じゃ帰らない。花ちゃんも一緒に連れて帰るんだ。絶対にママと会わせてあげるんだ。だから、花ちゃん、もう少し我慢するんだよ。

さくらは隣でトコトコ歩く花ちゃんを見下ろした。

まだ自分のことはくわしく話してくれない。きっと辛いことがたくさんあったのだろう。でも、辛かったら、話さなくてもいいよ。私からも訊かないからね。

徳さんは新しい大型馬車の後ろへ走って行った。カンテラの数を数えに行ったのだ。すぐに戻ってきて指で示した数は二つ。今まで乗っていた馬車と同じ数のカンテラだった。

「一つだったら、三人そろってすぐに帰れたし、三つだったら三人そろってあの世に一直線だった。二つということは現状維持だ。相変わらず生死の境をさまよっているわけだ」

 さくらはそれを聞いて、少しがっかりする。

そんな表情を徳さんに読まれる。

「さくらくん、二つということはまだ希望はある。それを忘れたらいかん。あきらめたりしたら、光帯が短くなるぞ」

 さくらはあわてて指先を見る。

――よかった。光帯は長く伸びている。

花ちゃんの光帯も伸びてきている。

だけど、あたりを見渡しても、馬車を追っていた光帯が見当たらない。

「おそらく、こうやって馬車が待機している間は、光帯もどこかで待っているのだろう。だから、心配せんでよい」徳さんは笑顔で教えてくれた。 

 三人は大型馬車に乗り換えた。


 やがて、キヨミズが二人の客人を連れて二頭馬車で戻って来た。

今から三人が乗っている四頭馬車に乗り込んでくる。

さくらは窓から二人を見ていた。一人は六十歳くらいで人相が悪いスキンヘッドの男性。もう一人は二十歳くらいで顔色が悪い学生風の男性だ。

スキンヘッドが先に入って来た。学生が後から続く。

「おお、広いな。これでゆっくりできるな。ああ、これは、これは、親子三代で死んでしまいましたか」

スキンヘッドは、さくらたち三人を見て家族だと思ったらしい。

じゃあ、花ちゃんは私の娘? って、私はまだ十七歳なんだけど!


抗議しようとしたら、徳さんが話しだした。

「客人殿。私たちは家族じゃありません。ここで知り合ったばかりの他人です」

「ああそうかい。そりゃ悪いことを言ったな」素直に謝ってくれる。

「私は小林徳二と言います。徳さんと呼んでください。駐車場の管理人をしておりました」

 へえ、そうなんだ。

さくらは徳さんの本名を初めて聞いた。徳二ということは次男かなあ。

次は私の番だ。

「私はさくらと言います。高校二年生です。こっちは花ちゃん、三歳くらいです」

「くらいって、何だ?」

「あまりしゃべってくれないので分からないんです。たぶん体格からして三歳くらいじゃないかと思います。ちなみに、私は花ちゃんのママじゃないです」

「ああ、そうだったのか。悪かったな」スキンヘッドはまた素直に謝る。「あまりしゃべってくれないのは死んだショックからだろうよ。かわいそうにな。俺は正田正人という者だ。職業は見ての通りの反社会的勢力の一員だ。この業界には四十年間いる。正しい人と書いてマサトだが、職業と相反する名前なんで、呼び名は鉄砲玉のマサでいい。こっちは……」顔色の悪い男を指さす。「首吊りのレンくんだ」

「みなさん、こんにちは。レンと言います。大学生です」

レンは顔色に反して、転校生のように元気な声で、かなり名の通った大学名を挙げる。

「えっ、すごい!」さくらは感心する。

さくらが何浪しても入れないような超難関大学だったからだ。

 みんなが席についたところで、年長の徳さんが締める。

「御者のキヨミズさんも入れると六人。あの世まで仲良くやりましょう」

 キヨミズも乗客に声をかける。

「では、出発いたします」

相変わらず冷静な声だった。


 四頭立ての乗合馬車が五人の乗客を乗せてあの世への道を行く。

動き出したとたん、どこからか数本の光帯が暗い空に再び出現して、馬車の後を追っかけはじめる。

キヨミズは無言のまま、手綱を取っている。四頭の馬は脇目も振らずに前だけを見て、突き進んでいる。薄暗い世界の中には、ぼんやりとした一本の道が見えているだけである。その道を馬車は行く。ときどき反対車線から、一つカンテラの馬車が戻ってきてすれ違う。生死の境から生還した人たちだ。

すれ違う時の風圧に、さくらは嫉妬を覚えて、自分の指先を見る。光帯はさらに伸びてきている。早く馬車の後を追いかけてくる光帯と結びついてほしい。

 お父さん、お母さん、蘭、クラスメイトのみんな、先生、早く来て!

早く私たちを助けに来て!


 いつまでたっても変わらない景色と長い沈黙に嫌気がさしたのか、マサは馬車の窓を開けてから、みんなに向けて語り出した。先行きの不安が、彼を饒舌にさせたのかもしれない。いくら勤続四十年の反社の一員といっても、死ぬ経験は初めてだろう。不安は感じるに違いない。

「俺は暴力団の抗争に巻き込まれてこんなことになった」窓から緩い風が入ってくる。「正確には巻き込まれてじゃなく、俺が巻き込んだのだがな。といっても、見ての通りのジジイだ。ジジイの鉄砲玉なんだが、オヤジの……、組長の命令だから仕方がなかったんだ」

さくらは別な世界の話を聞いているようで、興味津々の顔をしている。徳さんもレンくんもそうだ。花ちゃんだけはポカンとしている。三歳の子には分からなくて当然だ。

「昔、俺の尊敬するアニキがいて、華々しく散って行った。いつか俺もアニキの追うことを考えていたのだが、こういう形になると思わなかったわけだ」

さくらが尋ねる。「組長さんの命令は断れなかったのですか?」

「お嬢さん、いい質問だ。俺たちヤクザの世界で組長は絶対的存在なんだ。カラスは白いと言われたら、おっしゃる通り、白いですと答えなきゃならん」

「でも、変種の白いカラスはいるよ」

「そういう意味じゃねえ。一般論だ。それに、この世界のしきたりというものもある。俺は仁義と名誉を守る男だ」マサは自慢げに胸を張り、「暇があれば、それが何かをキミに説明するがね」クールを装う。

「それは映画ブラック・レインの中で若山富三郎が言ってたセリフですよね」

「アンタ、嫌な女子高生だな」

「マサさんも嫌なヤクザですね」

「良いヤクザなんかいねえよ」

「女子高生が純情とは限りませんよ」

「――だな」

「――だね」

 お父さんと一緒に見た映画“ブラック・レイン”が懐かしく思えてくる。お父さんは松田優作の大ファンなんだ。DVDも何本か持っている。

だけど、そんな楽しい思い出も今は遠くなりつつある。


 さくらはふと、レンくんに目を留めた。

「レンくんはなんで首を吊ったの?」

「えーと」

「ああ、それはな」マサが割り込んでくる。「フラれたんだ」

「ちょっと、決めつけないでくださいよ」レンが小声で抗議する。「確かに女の人とはうまくいかなかったですけど、なんだか勉強にもついて行けないし、バイトもしんどいし、人間関係もグシャグシャだし、家族とも折り合いが悪くなって、いろいろなことが重なったんですよ。それで、何となく死んじゃおうかなと……」

「いや違う。見ればわかる。いろいろあったのだろうけど、主な原因は女だ。オマエはフラれてぶら下がるタイプだ」

「まあ、フラれたといえばフラれたことになるのでしょうけど」

「なんだ、はっきりしないな。相手が七股かけてる女だったとか、セミの抜け殻を集めてる女だったとか、年齢を聞いたら母親より年上だったとか、小学生だったとか、耳毛がボーボー出てる女だったとか、そんなんだろ?」

「そんなのはレアケースだと思いますが」

「レアケースだと思いますか。女芸人が男は三十五億人いると言ってただろ。女は男より人口が多いから四十億人くらいか。四十億人も女がいるんだぞ。選び放題じゃないか」

「でも、向こうにも選ぶ権利が」

「オマエさん、死んだことを少しは後悔してるんだろ。後悔するくらいなら生きろよ。それに何だ、何となく死んじゃおうというのは。死ぬんだったら、ちゃんと目的を果たしてから死ねよ。俺みたいに敵の(タマ)を取るとかな」

「えっ? 未遂だったんでしょ」さくらが言う。

「まあ、志半ばだったわけだが、結果はどうあれ、志を持つことが大事なわけでな。何となく死んじゃおうはないだろ。――なあ、さくらくん」

「そうそう、マサさん、いいことを言うね。今までの長くて辛い人生の中から、そういう真理を悟ったってこと?」

「いや、日曜学校で習ったんだ」

「マジで……?」

「まあ、俺のことはどうでもいい。なあ、レンくんよ、人間はいつか死ぬんだ。急ぐことはねえ。急いだところで、いいことなんか起きないぜ。だが、あんまりのんびりしてると、俺みたいにジジイになってしまうがな」

「でも、善は急げとも言いますけど」レンくん、ヤクザに逆らう。

「それは善だろ。自死は悪だ。ヤクザが善悪を論じるのはおかしいか?」

「いえ、そんなことないです」

「オマエはな、真面目なんだよ。さっき会ったばかりだからよく分からんが、おそらくそうだろ」

「はい、自分でもバカが付くほど真面目です」

「そうか、バカレンくんか」

「名前にバカを付けないでくださいよ」

「日本人にはそういう奴が多い。何事も生真面目に考えすぎるんだ。何でも自分で抱え込んでしまうんだな。たまには他人のせいにすればいい。もっとゆっくりと肩の力を抜いて生きたらいい」

「あまり力を抜きすぎるとマサさんみたいになるよ」さくらが言う。

「その通りだ、女子高生!」マサはうれしそうだ。職業柄、真面目だと思われたくないのだ。「俺みたいな人間に説教されてたら情けないぞ」

「ヤクザ歴四十年だもんね」

「その通りだ、女子高生! ヤクザの皆勤賞だ! どうだ、レンくん、少しは分かったか?」

「こんなボクにまたアドバイスなんかいただいてありがとうございます、鉄砲玉さん」

 さくらにはレンの悩みの原因が具体的に何だったのか分からないままだったが、これ以上は訊くのをやめることにした。やさしさからではなく、レンくんにそれほど興味がわかなかったからである。できれば、四十億人の女の人の中に、自分が含まれてませんようにと願った。


隣でやり取りを聞いていた徳さんがレンくんに言った。

「レンくん、指先を見てごらん」

 指先から青色の光が出ていた。さっきは出てなかったものだ。

「何ですか、これは?」レンは不思議そうな目で自分の指を見つめる。

「光帯というものだ。今度はあれを見てごらん」

馬車の後方の空を指さす。そこにいろいろな色の光帯がクネクネと飛んでいた。

「あれも光帯だ。指から出ている光帯は自分が生きたいという気持ちが形となって現れたものであり、飛んでいる光帯は誰かが生きてくれと願っている気持が形となって現れたものだ。二つの光帯が結びついたとき、私たちは生還することができるんだよ」

「じゃあ、あの中にボクのものも?」

「似たような色の光帯が何本かあるだろう。おそらく、レンくんの身内が飛ばしてる光帯じゃないかな。集中して見てごらん。誰が飛ばしているかがわかるはずだ。――見えるかね、レンくん」

 レンくんが眉間にシワを寄せて、光帯に集中する。

 みんながレンくんを見つめる。

「――見えました! ボクのことを待っててくれてる人がたくさんいます!」

 レンは立ち上がると、窓ガラスに顔を付けるようにして、空の光帯の動きを見た。それを見たマサも自分の手と空を交互に見ている。だが、指先にも空にもマサの光帯は出現していない。

徳さんがそのことに気づいた。

「マサさん、申し訳ない」

「いや、徳さん、かまわんよ。アンタが謝ることはない。俺には気にしてくれる家族や身内なんかいない。色付きのソーメンみたいな光帯が飛んでなくて当然だ。俺の方も生き返ろうなんて思わんから、指先から出てないのも当然だ」

「しかし、その……、組のお方とか……」

「そんな殊勝な組員はいない。足の引っ張り合いをしているような奴らばっかりだ」

「でも、マサさんのことを気にしてくれている仲間はきっといるよ」さくらが言う。

「どうだかな。まあ、俺も末端のチンピラのことまでは知らんからな」

「自分の組なのに詳しく知らないの?」

「入れ替わりが激しいから全部把握できんのよ」

「組のオフィシャルブログはないの?」

「何だ、それは」

「日記みたいなものだけど」

「ヤクザは日記なんか書かんよ」

「じゃあ、組長さんはどう? 鉄砲玉までやらせたのだから、マサさんを気にしてくれてない?」

「そうだな。でもな、オヤジは何かと忙しいからな。俺のことなんか気にかけてないだろ」


 立ち上がって光帯を見ていたレンがゆっくりと座席に戻った。

「みなさん、心配かけてすいません。いろいろと考えてみました」

 何かが吹っ切れたような顔をしている。

「ボクはまたがんばることに決めました。これからがんばります。死ぬ気でがんばります!」と誓うが、

「もう死んでるけど」さくらが冷たく言い放つ。

「そう言うなよ、女子高生。俺のおかげでレンくんは目を覚ましたんだぞ」

 ヤクザにたしなめられるさくら。

「悩みなんか誰にでもある。気にするな。俺くらいの年になったら、たいした悩みはないけどな。せいぜい昼飯をウドンにするかソバにするかで悩むくらいだ」

 このとき、食いしん坊のさくらが気づいた。

「あっ、お腹が減ってない!」


 馬車に乗り込んで、どのくらいの時間が経っただろう。ずっと何も口にしていない。でも、お腹は空いてない。私にこんなことはありえない。蘭ほどじゃないけど、私も食べることは大好きだ。

ああ、イチゴのショートケーキが思い浮かんできた。

「そういえばそうだな。腹が減らん」マサもそう感じるらしい。「運転手のキヨミズさんよ、何で腹が減らんのだ」

キヨミズは相変わらず前を向いたまま答える。

「肉体がないからです」

 なるほど、そうか。みんなが納得する。

「だったら、眠くもならないのかね」徳さんが重ねて訊く。

「はい」キヨミズは短く答える。

「あの世では喰う楽しみも、寝る楽しみもないのかよ」マサ、がっかり。「食堂も布団屋もないというわけだな。飲まず食わずで二十四時間起きてるのかよ、まったく。天国に行けば花屋とか宝石屋とかキレイなものばかりだろ。つまんないな」

「キレイでいいと思うけど」さくらは言う。

「玉石混交と言うだろ。キレイなものとキレイじゃないものが混ざり合ってるからいいんだ。俺みたいなブサイクな男がいるから、イケメンが引き立つ。ゴキブリがいるから、ネコがかわいく見える。そうだろ? だからよ……」

 突然、馬車が揺れて速度を早めた。

マサもみんなも黙り込む。

キヨミズが珍しく後ろを振り向いた。

「申し訳ありませんが、どなたか開いている窓を全部閉めてくださいますか」

 さくらがあわてて立ち上がると、すべての窓を閉めて回った。

 キヨミズの緊張した声で、何かよくないことが起きようとしていることが分かる。

マサが声をかける。

「キヨミズさんよ、どうした。今度は何が起きる?」

「奴らが来ます」キヨミズは震える声で言った。

 いつも冷静なキヨミズさんの声が震えている。

 いったい何が来るというのか!?


 四頭馬車が暗い一本道を、今までにない速さで疾走している。

馬車の中には三人掛けの座席が向かい合って設置してある。御者台側の座席の右端に徳さんが座り、真ん中に花ちゃんを座らせて、さくらが左端に座っている。さくらは今、花ちゃんに覆いかぶさるような姿勢をとっている。

「花ちゃん、大丈夫だからね。お姉ちゃんがついてるからね」

 花ちゃんは小さく頷く。

何が起きるのか分からないが、花ちゃんを守らなくてはいけない。向かいの座席の左端にはレンくんが座り、不安そうな目で窓から外を見つめている。

マサさんは座ることなく、中腰になり、いつでも何かが起きてもいいように周りを見渡して、何かの襲撃に備えている。

さくらは女子高生、花ちゃんはまだ幼い。徳さんは高齢であり、レンくんはあまり役に立ちそうにない。

頼りになるのはマサさんしかいない。年を取ってはいるが現役の暴力団員だ。勤続四十年だ。何が来るのか分からないけど、負けることはないだろう。暴力はいけないことだけど、ここは鉄砲玉のマサさんに頼るしかない。


 闇の中へ向かう直線道路。何もないはずの前方の右のあたりが赤くなっている。

マサがそれに気づく。

猛スピードを出している馬車が、たちまちその場所を通り過ぎる。

横転した大型馬車が炎上していた。車輪が一つはずれていて、屋根も半分剥がれており、壊れたドアから中が見えたが、乗客の姿はなかった。

そばに二頭の馬が腹を裂かれて横たわっていた。

「キヨミズさん、あれは何だ!? 馬車はどうしたんだ!」マサが大声で訊く。

「奴らです」

「奴らって誰だ!?」

 そのとき、右後方の闇の中から何かが飛び出して来た。

「みなさん、姿勢を低くしてください!」キヨミズが言う。

 それは後ろから反対車線を逆走してくると、馬車の真横に並んだ。

「何だ、こいつらは!?」マサが叫ぶ。


 一糸まとわない何人もの裸の死体が複雑に絡み合い、一台の車を形成していた。

馬車よりも少し大きく、長方形をしていて、タイヤの部分も三人の死体が組み合わさり、丸い形を作り上げ、回転している。タイヤの数は全部で四個。死体の色がそのまま車体の色となっていて、黒っぽい肌色をしている。運転席などはなく、バンパーや方向指示器といったパーツは何も付いていない。シンプルなタイヤ付きの長方形だ。

「キヨミズさんよ、これはどう見ても妖怪だろ」マサが気味悪そうに言う。

「成型車と呼ばれてます」キヨミズは全速力で走る馬車を巧みに、そして冷静に操る。

「成型車? 成型肉の塊が走ってるようなものか。肉の代わりに死体か。うぅ、実に気持ち悪いな。奴らは馬もいないのに何で走れるんだ? 動力は何だ?」

「それは分かりません」

「さくらくんも花ちゃんも見ない方がいいぞ。見た瞬間、派手に吐くかもしれんぞ」

 おいおい、ここは地獄じゃねえのか?

 俺が地獄に落ちるなら分かる。

だが、他の連中は善人だぞ。

 これじゃ、神も仏もねえじゃねえか!

 いったいどうなってるんだ!

 マサが馬車の中で吠える。


 成型車は馬車と並走している。

乗客のうち、マサ以外はチラッと見ただけで顔を伏せている。レンも顔をあげない。徳さんの顔もこわばっている。誰もが正視に耐えられないのだろう。

マサもなるべくなら、あんな妖怪は見たくはない。見たくないのに目が合ってしまう。怖いもの見たさで見てしまうからだ。

複雑なパズルのように組み合わさっているすべての死体がこちらに顔を向け、うつろな目で見ている。中には口を半開きにして、ヨダレを垂らしながら、ぶつぶつと何かを言っている死体もいる。苦悶の表情を浮かべている死体もいる。ニタニタ笑っている死体もいる。年齢も性別も国籍もよく分からない。全裸の死体は髪が抜け落ち、半ば腐敗して、朽ち果ててしまっているからだ。

キヨミズが窓を閉めるように言った意味が分かった。やつらは臭いのだ。

窓を閉めても腐敗臭が馬車の中に入り込んでくる。

腐敗した死体がなぜ動くことができるのか? 

キヨミズにも分からないという。


「うう、夢に出そうだ」マサの顔も歪む。

死んだ人間でも夢を見るのかどうか分からないが。いや、その前に死んだら、眠らないらしい。いったいどういう世界なんだ、ここは。

だが、俺も極道者の端くれだ。逃げるわけにはいかない。こいつら乗客も何かの縁で俺と出会ったわけだ。袖振り合うも他生の縁と言うからな。神様も仏様も当てにならない。ならば、俺が守らないでどうするんだ。

神様、仏様、俺様だ!

極道の名にかけて、みんなを命がけで守ってやる!

もう死んじまってるから、賭ける命はないんだが。


「キヨミズさんよ、横転して燃えていた馬車はこいつらの仕業なのか?」

馬車と成型車は相変わらず並んで走っている。

馬車は猛スピードを出しているのに、成型車は遅れずに付いてくる。

「襲ったのはこいつらでしょう。こんな罰当たりなことをするのは、こいつらしかいませんから」

「そもそも、こいつらは何者なんだ?」

「死んでもあの世に行かず。かと言って、現世に戻ることもしないハグレ者の集団です。分かりやすく言うとヤクザ者です」

「俺のことじゃないか! こいつらは俺の成れの果てか? 冗談じゃねえぞ! 死体なんか、ぶっ殺してやる!」


 成型車から一体の死体が剥がれて、むくりと起き上がった。

「マサさん、大事なことを申し上げます。こいつらは人を喰います」

「何だと! さっき横転した馬車に乗客がいなかったのは……」

「おそらく喰われたのでしょう」

「さりげなく言うなよ。怖いじゃねえか。小さい花ちゃんみたいな子も喰われるのか?」

「小さい子はおそらく丸飲みに……」

「アナコンダかよ。喰ってどうするんだ?」

「おそらく仲間にするのだと思います」

「こいつら、本物のゾンビじゃねえか!」

 映画でしか見たことがないゾンビが目の前で動いている。しかも大量に。


 一体の死体が馬車に飛び移ってきた。

「くそっ、ゾンビ野郎が来やがったぜー!」マサが叫んで、すかさずドアに鍵をかける。「レンくん、そっちの鍵を頼む!」

「は、はい!」レンくんが鍵をかける。

 だが、ゾンビは窓ガラスを叩き割ってきた。

とっさに避けた徳さんだったが、間に合わず腕を負傷する。

「徳さん、大丈夫か!?」マサが駆け寄る。

「大丈夫ですよ」というが、二の腕から血が流れ出す。

「おいおい、なんで肉体がないのに血が流れるんだ!?」マサが驚愕する。

 さくらは持っていたハンカチで腕を縛って止血してあげる。

「悪いね、さくらくん」徳さんが顔をしかめながらお礼を言う。

 さらにもう一体のゾンビが馬車に向かって飛んできた。

「徳さん、下がってください!」

さくらが徳さんを庇おうとする。徳さんは足が不自由なのだ。

「わしは大丈夫だ。女子高生に助けてもらうほど落ちぶれてはおらん。一日中立って仕事をしておるから足腰は丈夫だ。あんな化け物なんぞ……」

徳さんはさくらと花ちゃんの前に立ちはだかった。


マサは服をまさぐるが、あの組長を襲ったとき、拳銃は落としてしまっていた。

―—何か武器はないか?

「レンくん、武器になる物を持ってないか?」

「すいません。手ぶらで死んだものですから、何もありません」

「次回は金属バットを持って首を吊らないとな」

「次回はあるのでしょうか?」

「何で俺に訊く? 次回があるかどうかを決めるのは誰だ?」

「はい、ボク自身です!」

「そうだ。分かったなら、そいつを頼む」マサはレンに目で合図をする。

 レンは振り向いた瞬間、窓を破って来たゾンビに鉄拳を喰らわす。

顔面を強打されたゾンビは地面に振り落とされて、たちまち、後方に見えなくなる。

「やるなあ、レンくん」マサはうれしそうだ。

 レンはゾンビを殴ったこぶしに付いた臭いを嗅いでみる。

「わっ、臭いです!」

「じっくり熟成させた死体だから、臭いも格別だろうな。桜チップで燻製にしていればいい香りがしたのにな」

 マサは組長を襲撃した際、短刀を所持していたことを思い出した。

拳銃で失敗した時のため、左足首に巻いて隠し持っていたものだ。どうやら、相手の組員にも気づかれずに、この世に持って来れたようだ。


 愛用のドスの餌食にしてやる。

 俺は長年、このドスとともに極道の世界を生きてきたんだぜ!

「来やがれ、霊界のハグレ者! 俺の成れの果て野郎!」マサはドスをしっかり握りしめる。

 成型車からはゾンビがつぎつぎに馬車へと飛び移ってくる。

「てめえら、ぶっ殺すぞ!」ああ、お互いもう死んでるか。「ならば、殺せるものなら殺してみろ!」

マサは窓に手をかけて入ろうとしているゾンビの腕を狙ってドスを振り下ろす。ゾンビはたちまち落下する。切断された右手首だけが窓枠でブランブランと揺れる。

かまわず、窓からドスを突き出す。馬車にしがみついていたゾンビの額に突き刺さる。それを両手で引っこ抜くと、並んでしがみついていた奴の首に突き刺す。

反対側ではレンくんが臭くなった手で殴りつけ、徳さんが不自由な足で蹴り上げている。さくらは花ちゃんの上に覆いかぶさって守っている。花ちゃんは何が起きているのかよく分からないまま、小さな手を握り締め、じっと目を閉じて耐えている。

馬車内にはゾンビの血液や体液が飛び散り、悪臭を放っている。馬車の外ではキヨミズが、襲いかかるゾンビから身をかわしながら、成型車を振り切ろうと懸命に馬を追い立てている。

かぶっていたシルクハットはどこかに飛んでしまっていた。


「奴らを馬車の中に入れるなよ!」

マサがレンくんに叫びながら、血だらけのドスを持ち直す。

 窓から覗き込んできたゾンビの口にドスを突き刺し、中で引っ掻き回して、舌をズタズタにしてやる。悶絶したゾンビは口から血の固まりを噴き出す。

「へん、これで当分、人は喰えないだろうよ!」

天井でドスドスと足音がしている。

「やつら、屋根の上にもいやがるのか!」

 屋根からさかさまになって、窓から顔を入れてきたゾンビの眉間にドスを突き刺す。すんなり奥まで突き刺さるのは、皮膚も骨も脳も血管も腐敗して、フニャフニャになっているからだろう。

マサはドスをさっと抜くと、隣にいたゾンビの耳から横へ水平にドスを刺す。

「どうだ、ドタマを串団子にされた気分は! いい加減、成仏しやがれ!」

 マサもレンくんも徳さんも返り血を浴びて、服が真っ赤になっている。

ゾンビたちはドアをガタガタと揺すり始めた。ドアごと外すつもりのようだ。

「窓から入れないことに気づいたか。バカどもが」

 マサは、窓から勢いをつけて蹴り込んできたゾンビの足を上段から叩き切り、

「ほら、忘れもんだぞ!」床に転がった足首を外に放り出してやった。

俺は親切なヤクザなんだよ。


 掴みかかって来たゾンビの手に切り付け、指を切断する。床に指がパラパラと散乱する。踏みつけてやろうとしたが血で滑って転びそうになる。馬車内の床は体液でベトベトになっている。漂う悪臭は割られた窓から外へ逃げていくが、消えることはなさそうだ。

マサはゾンビの手首を二十六本、足首を十二本、指を数十本、首を八つぶった切り、他に何体もの顔面や上半身に切り付け、突き刺し、グリグリと穴を開けてやった。

いったい、何体殺したか分からない。

「今が戦国時代なら俺は英雄なんだがな。領地や褒美もたくさんもらえるのにな」

しかし、しつこく繰り出してくるゾンビの攻撃は止まらない。

「いったい、何体いやがるんだ!」


マサは右隣を並走する成型車を見る。ゾンビが何体も抜けているのに、車の大きさはさほど変わってないように見える。

新たなゾンビが起き上がり、剥がれ落ち、つぎつぎと馬車へ飛びついてくる。

成型車の片側に四個ずつある死体タイヤは勢いよくクルクルと回っている。タイヤを成型している死体の顔がときどき見える。クルクル回っている死体の顔は笑っている。――何がおかしいんだ!?

「ゾンビも笑うことがあるのか、気味が悪い!」

 マサは愛用のドスを見る。

刃こぼれして、曲がっている。血と脂が回って切れにくくなっている。

残念だが、もうこのドスは砥がないと使えない。

他に何か武器となるものはないのか?

ポケットを探ると鍵が出てきた。

姐さんの自転車のキーをこっちまで持って来ちまったか。

まあ、スペアキーがあるからいいだろ。

――ああ、そうだ!

「キヨミズさんよー、馬車だったらムチがあるだろ!」

「はい、ございます」

キヨミズが御者台の横に取り付けてあるムチを外した。

マサが客席との境のガラス戸からムチを受け取る。

「マサさん、ムチなんか使えるの?」さくらが花ちゃんを抱えたまま訊く。

「お嬢さん、いい質問だ」マサは巻いてあったムチを引き伸ばす。「俺はアユ釣り名人なんだ。おまけにインディ・ジョーンズは何回も見ている。だから、何かを振り回すのは得意だ。人生には振り回されているけどな。――俺にまかせとけ!」


 マサは窓際に群がっていたゾンビを殴って蹴散らすと、上半身を窓から出して、ムチを振るいはじめた。

「ハリソン・フォード様をなめるなよ、ゾンビ野郎!」

屋根からぶら下がっていたゾンビが、ムチに顔面を打たれて落下する。つづいて前方、キヨミズに飛びかかろうとしていた奴の目に当て、こいつも地面に落ちていく。馬車の後ろにしがみついていた奴もムチの餌食となり、さらに近づいて来た一体が、マサ愛用の曲がったドスを胸に受けて、ドスごと落下していく。

「どうだ、化け物。そのドスは俺からの冥途の土産だ!」

「マサさん!」キヨミズが呼んでいる。

 二体のゾンビが四頭いる馬のうち、後ろの二頭の首に喰らいついていた。

「キヨミズさん、よけてくれ!」

マサが後ろからムチを繰り出す。キヨミズが頭を下げて姿勢を低くする。ムチはキヨミズの頭上を生きているようにシュルシュルと伸びていき、右側のゾンビの体を激しく打った。マサが手を捻ると、ゾンビはバランスを崩して落ちて行く。いったんムチを手繰り寄せたマサは左側のゾンビを狙い、ふたたびムチを放つ。たちまち、もう一体のゾンビも馬の首から落下していく。


「マサさん、ありがとうございます」

「キヨミズさんよ、あいつらは馬も喰うのか?」

「いえ、喰らうのは人だけです。しかし、この馬車の動力が馬だと分かってますから、狙ってくるのです」

「ふん、それくらいの知性はあるわけだな。――ほら、喰らえ!」

屋根の上に立っていた三体の足をムチでからめ取って、仲良くまとめて馬車から突き落とす。

「ざまみろ、ハン・ソロ様をなめるなよ、ゾンビ野郎!」

キャラクターが変わっても気にしないマサ。


「マサさん、ちょっとの間、私を援護してもらえませんか」キヨミズから声が飛ぶ。

「どうした?」

「今の攻撃で二頭の馬が傷つきました」

 後列の二頭の首から大量の血が流れている。さっき、ゾンビが喰らいついていた馬だ。そろって足の動きが鈍くなっており、馬車の速度が目に見えて遅くなっている。

「残念ですが、この二頭を切り離します」

 マサはキヨミズに襲いかかるゾンビをムチで次々と打ち落とす。

キヨミズは馬に合図すると、馬車の速度を最大限に上げた。

傷ついている馬も懸命に走り、たちまち成型車との距離が開く。そのタイミングでキヨミズは後列二頭の馬を解き放った。

「頼んだぞ」キヨミズが前を向いたまま声をかけた。

悲しみに満ちた声だった。


二頭の馬は左右に分かれて下がっていく。

「何をやらかすんだ、キヨミズさんは」マサが馬の行方を目で追う。

 二頭の馬が馬車の後ろ、成型車の前に躍り出た。

危険を察知したゾンビたちが馬車から成型車に飛んで戻り、ふたたび体を組み合わせ、車を成型し直して、防御の態勢を取る。

二頭の馬は一度、お互いにブルッと首を振った。

首の傷口から大量の血が吹き飛んで空中に霧散する。それでも流血は治まらない。二頭とも足にもダメージが来ているらしく、その巨体を左右にフラフラと揺らし、まっすぐに走ることさえできていない。しかし、倒れることなく、力尽きまいと、お互いを胴体で支え合うように疾走する。

やがて、二頭の馬が目を見合わせたように見えた。

同時に速度を合わせ、体を近づけると、全速力で成型車の正面に突っ込んで行った。

――ドゴーン!

大きな衝突音がして、数体のゾンビが宙に投げ出され、タイヤもはずれて転がる。

二頭の馬も宙に投げ出されて、落下し、地面に激突する。

成型車はパズルのピースがバラバラになったように崩れ、道路脇に突っ込んで止まった。道路上にも数体のゾンビが横たわり、うごめいている。

二頭の馬も傷ついた腹を見せて、寄り添うように倒れていた。

もう動くことはなさそうだ。

マサは窓から顔を出して振り返り、犠牲となって倒れている二頭の馬に向けて手を合わせた。さくらも花ちゃんも徳さんもレンくんも手を合わせる。

「二頭の馬たちよ。俺たちのために死んでくれてありがとよ。必ず借りは返してやるから、成仏するんだぞ」

 マサが険しい顔でつぶやいた。


 ゾンビから解放されて、四頭から二頭に減った馬車は速度を緩めることなく、闇の中を突き進む。

生還を果たした一つカンテラの小型馬車とすれ違う。

風圧が馬車を襲う。

マサは馬車から外に出て木枠にしがみつきながら、ゾンビの攻撃に備えていた。

やがて、死体を組み直して長方形に戻った成型車が近づいてきた。

「野郎、また来やがった。しつこいな。そんなに腹が減ってるのかよ」

 マサはムチを伸ばし、飛びかかってくるゾンビに狙いをつける。

足元を打たれたゾンビがバランスを崩して、馬車に手が届くことなく落下していく。しかし、数体のゾンビはムチをかいくぐり、馬車に飛び移る。

「このスッポンポン野郎、あっちへ行け!」

マサは一体の顔面に蹴りを入れて、その細い首をへし折り、その後ろから掴みかかって来た奴を投げ飛ばす。つぎつぎに飛びかかるゾンビを、つぎつぎに叩き落すが、後から後から飛んでくる。これではキリがない。


徳さんは腕の傷をかばいながら、ゾンビの顔をボコボコに殴りつけている。トレードマークの黄色い帽子は吹っ飛んで片隅に落ちている。白い軍手は真っ赤に染まっている。白髪の頭を振り回しながら、ゾンビに立ち向かう。

「よしっ、次!」徳さんの怒号が飛ぶ。

毎朝、不良学生を怒鳴り上げていた声だ。相手に大声で怒鳴ることで、自分自身にも気合を入れる。気力で七十歳を越えた老体を支える。足は不自由だが丈夫だ。

不自由さと丈夫さは違う。

力を込めて、窓から覗くゾンビを蹴る。ポキリと首の骨が折れる音がしてゾンビが落下していく。

「よしっ、次!」腹の底から出る声が馬車内に響く。

その声に怯えたのか、窓から入ろうとしていたゾンビが躊躇する。徳さんはそれを見逃さず、逆にヌルヌルの腕を、爪を立てながら引っ張り、馬車の中に引きずり込む。ゾンビが窓の枠に腹を乗せたところで、上から腕を巻きつけ、ヘッドロックをかけて、か細い首をへし折る。

「よしっ、次!」

徳さんの大きな声は、仲間のみんなに大きな勇気を与えていた。


レンくんもその臭さに辟易しながらも、容赦なくゾンビの首を絞めていた。

「よくもボクのことを振ったな。よくも二股かけたな。よくも知らない男と結婚したな」

 今までの女性の恨みを、関係のないゾンビにぶつけていく。

「よくも悪口をSNSで拡散したな。よくもメールを無視したな。よくもラブレターをビリビリに破いたな。よくも往復ビンタしたな」

殴る蹴るの暴行を働かれるゾンビ。

「よくも居留守を使ったな。よくも上履きに落書したな。よくも財布からお金を抜き取ったな。よくもバイト先の店長にあの人はバカだと告げ口したな」

顔面に唾を吐かれるゾンビ。

レンくんの八つ当たりは止まらない。

「よくも自転車のサドルを盗んで、代わりにブロッコリーを差しておいたな!」

 ゾンビたちはレンくんの日頃の鬱憤を体中に浴びる。

レンくんの悲痛な叫びを聞いていたマサは思った。

レンくんは付き合ってた女にそんなヒドい仕打ちを受けていたのか。

そりゃ、首を吊りたくなるわな。かわいそうにな。

生きて戻れたら、焼肉でもおごってやらないとな。


さくらは花ちゃんを守っていたのだが、形勢が不利になりつつあるのを見て、自分も戦闘に参加することにした。花ちゃんにじっとしているように言い聞かせて、スクールバッグの中から何か武器になるような物を探す。

ヘアバンド、リップクリーム、ミラー、化粧ポーチ、クシ、ブラシ、筆箱の中にあったシャーペン二本。――ああ、これだ!

一本は楓くんから借りているものだ。返さないまま、ここまで持ってきてしまった。

楓くんはすでに三つのカンテラの馬車に乗って、向こうの世界に行ってしまった。

でも、いつか返さなければならない。それは、私が向こうの世界に行ったときに。

それまでは、私たちを守って、楓くん!

 楓くんのシャーペンよ、頼んだよ!

さくらは髪をまとめてポニーテールにすると、両足を踏ん張って立ち、両手にシャーペンを握って上段にかまえて、歯を食いしばった。

 なんだか、威嚇するカマキリみたいだけど、そうも言ってられない。


一体のゾンビが窓から覗き込んだ。

やっつけるチャンスだが、さくらの体は動かない。

ゾンビの怖さもあるのだが、今まで人を傷つけたことなどないため、武器を持ったところで、本能的に体が硬直してしまうのだ。

さくらはやさしい。お父さんもお母さんもやさしい。友達もみんな穏やかだ。口喧嘩くらいはするが、取っ組み合ったり、殴り合ったりしたことはない。

さくらは今まで争い事とは無縁の人生を送って来た。

だから、どうしていいのか分からない。

ゾンビが窓枠に足をかけて入り込もうとしている。

顔の半分がドロドロに溶けている。腐敗臭が強烈だ。

さくらは頭上にシャーペンをかまえたまま動けない。

しだいに膝の力が抜けていく。

ダメだ……。

楓くん、頼むよ、力を貸してよ。

早くやっつけないと……。

花ちゃんが……。

そのとき、マサから声が飛んだ。

「女子高生よ、躊躇するな! こいつらは人じゃない。物だと思え! 人を傷つけるという罪悪感を捨てろ! 今は相手を傷つけないと生きていけないんだ! 正義なんか捨てろ! アンタの後ろには花ちゃんがいるんだ。アンタが守らなきゃ、誰が守るんだ! ――花ちゃんの目をよく見ろー!」


さくらはマサの声に頷き、振り向くと、隅で丸くなっている花ちゃんの姿が見えた。

パジャマはドロドロだ。

髪はバサバサだ。

手はブルブル震えている。

今にも泣き出しそうな目は怯えている。

だが、恐怖で何も言えないようだ。

さくらはその怯えた目をしっかりと脳裏に焼き付けた。


「私のお友達の花ちゃんをこんな目に会わせたのは誰だー!?」


さくら、覚醒!

シャーペンを振りかぶると、ためらうことなく、二本ともゾンビの目に深々と突き刺し、馬車が振動するくらいの大声で吠えた。

「てめえら、花ちゃんに指一本でも触れてみろ、ぶっ殺すぞ、こらっー!」

ゾンビの目から吹き出した血しぶきが、さくらの顔を真っ赤に染める。

さくらはかまわず、シャーペンを引っこ抜くと、右足でゾンビの顔面を蹴り上げた。

すっ飛んで行って、背中から地面に叩きつけられるゾンビ。

「ざまみろ、死にぞこないのクソボケーッ!」

窓から顔を出して、倒れているゾンビに向かって咆哮する。

制服の袖で顔についた血を拭ったさくらは次の獲物に向けて、二本のシャーペンをがむしゃらに振り回す。ゾンビの頭に、腕に、肩に、胸に、楓くんのシャーペンがグサグサ突き刺さり、血しぶきが上がる。

さくらの獅子奮迅の活躍により、馬車にしがみついていたゾンビがつぎつぎと落下していく。

「もう終わりか、こらっー! かかって来いやー!」

 さくらの絶叫する声が馬車内でこだまする。

 すさまじい声にゾンビの顔も引きつる。醜い顔がさらに醜くなる。

勇気づけられた花ちゃんまでウゥウゥ唸りながら、窓枠にかかっていたゾンビの指に噛み付いている。

「全員まとめて、私が相手をしてやるぜー!」

 さくらの叫び声が窓ガラスをガタガタと震わす。

最近のカタギは恐ろしいと武闘派の極道マサは思った。


マサはムチを最大限に伸ばすと、成型車に向けて叩きつけた。

雑魚どもより本陣を狙うことにする。

 成型車ごと潰してやる!

バラバラの木っ端みじんの廃車にしてやるぜ。

マサにムチ打たれた体に何本ものミミズバレが走る。ゾンビの顔が苦痛でゆがむ。

「へん、ゾンビも痛いのかよ。他人の痛みとやらを感じろ、化け物ども!」

しかし、成型車はムチをたくみに避けはじめると、馬車に体当たりしてきた。あたりに轟音が響き、車体の木片が飛び散り、窓ガラスの破片も道路に散乱する。

タイヤを成型しているゾンビはニタニタ笑いながら回転している。

「よく目が回らないな、クソゾンビ!」マサはイラつく。

数度の激突により、馬車は全身を軋ませ、衝撃でレンくんと徳さんは血だらけの床で滑って転倒する。さくらが駆け寄り二人を抱き起す。花ちゃんの顔も引きつっている。


 成型車は体当たりを繰り返し、そのたびに新たなゾンビが乗り移ってくる。その重さにより馬車の速度がしだいに落ち始める。全力で駆けていた二頭の馬は四頭から減ったこともあって、あきらかに体力を消耗している。

ゾンビが馬車側に飛び移った分、成型車の体積は半分くらいにまで減っていた。

馬車の左右のドアは今にも破られそうで、徳さんとレンくんが必死に抑えて、ゾンビの侵入を防いでいる。天井にはいくつかの穴が開き、数体のゾンビが覗き込んでいたり、手足を突き出したりしている。

 どう見ても成型車の方に余力も余裕もある。

「キヨミズさんよ、何とかならんか!」

新たなゾンビにパンチを喰らわせながら、マサが悲痛な叫び声をあげる。

「こちらもギリギリ限界です」

「キヨミズさんよ、アンタ、こいつらの存在を知っていたな。今まで何度も遭遇しているからだろう。そのときはどうやって逃げたんだ?」

「はい、確かに何回か襲われてます。そのたびに全力で振り切っております。しかし、これだけ大きな成型車はお目にかかっておりません。それに、こんなに大勢のゾンビは珍しいのです」

「なんで大勢なんだ?」

「おそらく、乗客数が多いからではないかと思われます」

「ご馳走が五人分というわけか。子供が二人に、ジイさんとひ弱な学生にチンピラ。どれもマズそうだがな。仲間を増やせるのなら誰でもいいのか、ゾンビどもは!」


 ゾンビ軍団に攻撃を受けているとき、数台の馬車が反対車線からやって来た。どれも小型馬車だったこともあり、乗客は少なく、馬車と成型車の間をたくみにすり抜けて、現世に戻って行った。

おそらくご馳走が少なかったから、襲われなかったのだろう。

つまり、小型馬車はコスパが悪かったのである。


マサはドアに取り付いているゾンビを投げ飛ばそうとしたが、掴んだ手が滑ってしまった。ゾンビの体がニチョニチョしているからだ。ならば、体ごと担いでやろうとしたが腰が砕けてしまった。

やっぱり、通信教育で習った柔道は実戦に向いてないな。

面倒になったので蹴飛ばしてやる。

――どかっ!

落下して、たちまち小さくなっていくゾンビたち。

ざまみろ、ニチョニチョ野郎!

しかし、その間にレンくん側のドアの半分が他のゾンビによってこじ開けられた。その勢いでレンくんがドアの部品とともに飛ばされる。転がったレンくんは起き上がろうとするが、床に広がっている血液に足を滑らせる。

「大丈夫か!?」マサが振り向いて声をかけたとき、長くのばしたままで無防備だったムチの先を掴まれた。「こらっ、離せ!」

 ゾンビがつぎつぎとムチに群がり、ついには引き千切られてしまう。

 けっ、ムチを狙ってやがったか!

手元に残った部分は何の役にもたたず、投げ捨てる。

「まずい、まずいぞ。武器がなくなった」

マサは真っ赤になっている手のひらを見ながらつぶやく。

生命線は途中で切れたままだった。 


 闇の中を、ゾンビにたかられた二頭馬車が疾走する。

馬車の外も中もゾンビの血で真っ赤だ。まるで、肉食動物に襲われて血みどろになって逃げている瀕死の草食動物のようだ。

何体ものゾンビが剥離し、車高が半分以下になった成型車が並走している。そろそろ獲物にありつけると感じたのか、タイヤ部分のゾンビの笑いが止まらない。

ニタニタ、ニタニタ……。


マサは馬車内の、さくら、花ちゃん、レンくん、徳さんを順に見渡す。

 俺は誰一人として守れなかった。

格好いいことを言っておきながら、なんだこの様は。これでも極道の端くれかよ。

敵対する組長の命は取れない。女、子供、年寄りといった弱者を守り切れない。この人たちは俺と違って、生き返るという希望を持っている。この人たちの生還を、希望を持って待っている人がいる。そんな希望を、そんな可能性を俺は守れなかった。

これでは死んで当然だ。

俺は、俺たちのために成型車へ突っ込んで死んでくれた二頭の馬以下の存在だ。

さっきから、なかなか動悸と息切れが治まらない。考えてみればもう還暦だ。

ヤクザ時代の不摂生が祟って、体はボロボロだった。集中してゾンビ野郎と戦っているうちはいいのだが、気を抜いたとたん、体中が重く、強烈な疲労感が襲ってくる。肉体がないのだから、不死身にしてくれてもいいだろうよ。

この馬車のカンテラは二つだ。生還できる可能性があるらしい。その可能性に少しでも期待した俺はバカだった。少しでも生ようとした俺はバカだった。生への執着心が侮りを生んだ。隙を生んだ。自業自得だ。

だが、このまま簡単に死んでたまるか。こんなわけのわからない場所でくたばってたまるか。たった一人で死ぬもんか。何とか、あのゾンビどもに一矢報いてやりたい。相打ちで十分だ。一体でもいい。刺し違えて、地獄への道連れにしてやる。


徳さんとレンくんは、体を目いっぱい使ってドアを押さえたまま、今にも崩れ落ちそうだ。もともと色白だったレンくんは返り血で顔が真っ赤になっている。

体力を使い果たしたさくらは戦うことができず、花ちゃんを抱えて丸くなっている。ポニーテールは崩れ、髪は乱れている。さくらの制服も花ちゃんのパジャマもゾンビの体液でベトベトだ。しかし、それを拭うようなタオルもなければ気力もない。

ただ、さくらは右手にしっかりと一本のシャーペンを握っていた。楓くんから借りたシャーペンはゾンビとの戦いで真ん中から折れ曲がっていた。

二本のうち一本も曲がって使えなくなり、床に転がっている。

でも、このシャーペンはいつかどこかで楓くんに返さないと……。

楓くん、曲げてしまって、ゴメンね。

さくらはうつろな目をしてつぶやく。


みんなは限界にきていた。いや、限界はとっくに越えていた。

マサは馬車の中に戻り、窓とドアの隙間から来るゾンビの攻撃を、血だらけになっている素手と傷だらけの足を使って何とか防いでいた。

だが、全身がガクガクしてきた。

膝からズルズルと崩れ落ちて行く。

ついに、マサの限界も越えた。


一度、拳銃で撃たれてくたばったのに、またここでくたばるのかよ。

二度も死んでしまうのかよ。

徒手空拳――もはや何の武器もない。

俺の日頃の行いが悪いのは分かっている。

だからこんな目に遭うのだろう。

だが、他の連中はいい奴ばかりじゃないか。

俺は地獄に落ちてもいいから、みんなは許してやってくれよ。

神さんでも仏さんでもかまわないから、

俺たちはどうすればいいのか教えてくれよ。

いつもは神仏に祈ってなんかいないけど、今日だけは頼むよ。

みんなを何とかしてやってくれよ。


マサは座り込んだまま、天井を見上げた。

 そのとき、キヨミズが振り向いた。

「マサさん、ご安心ください!」

「どうした?」

「助っ人が来てくれました!」

「誰だそいつは! 聞いてないぞ!」

「外をご覧ください」

 マサはヨロヨロと立ち上がり、窓に近づいた。

 外に黒い男がいた。


 ブラックジーンズに黒の革ジャン、全身黒ずくめのその男は栗毛色の馬に乗って、馬車の後方から突然現れた。

成型車から馬車に向かって宙を飛んでいたゾンビを、持っていた日本刀で上段から一気に両断する。ゾンビは上半身と下半身が分かれて、血と内臓をまき散らしながら地面に落下した。

馬車に取り付いていたゾンビが危険を察知したのか、つぎつぎに成型車へと飛んで戻っていく。

黒ずくめの男は器用に馬を操りながら、宙を舞うゾンビを下から狙いを付けて、つぎつぎにぶった切って行く。

もはや、男は手綱を握っていない。足で体のバランスを取りながら、両手で鋭い日本刀を掴み、軽々と振り回している。

馬車が通った後にはゾンビの死体と死体の一部が散乱し、流れた血液がテカテカと闇の中で光っている。途切れることなく、血と体液が空中に飛び散る。

あたりには赤い霧が漂っているようだ。

男はすでに返り血で全身が真っ赤だった。それでもゾンビの殺戮をやめない。ゾンビのズタズタになった皮膚も、粉々になった骨も宙に拡散していく。

ゾンビの肺が胃が腸が心臓が肝臓が脾臓が膵臓が小腸が大腸が十二指腸が膀胱が空中に舞う。

「すげぇ、内臓祭りじゃねえか!」マサが歓喜する。

ゾンビたちにとって、黒ずくめの男は決して遭ってはいけない死神であった。

「キヨミズさんよー、あの人は誰だー!?」 

マサが大声で叫んだためか、黒ずくめの男が馬車の方を見た。

マサと目が合った。

「アニキ……」


組の地位を取り戻すため、一人で日本刀だけを持って、殴り込みをかけたアニキ。

相手の組長のすぐ前でボディガードに返り討ちにされたアニキがそこにいた。

ブラックジーンズに黒の革ジャン。殴り込んだときと同じ服装だ。

この服装で兄は無念にも死んで行ったんだ。

「アニキ! アニキじゃないですか。俺です、マサですよー!」

 マサは窓から思いっきり顔を突き出して叫ぶ。両手を懸命に振る。

男はマサの方をチラッと見ただけで、ふたたびゾンビに向かっていく。

「アニキ! アニキ! 俺のことを忘れたのですかー!?」

マサはわめくが、男は振り向いてはくれない。

「マサさん」とキヨミズの声。「おそらく、あの方には生前の記憶がないと思います」

「なんでだ?」

「分かりません。あの世とこの世の狭間にあるこの世界ではいろいろなことが起こります。肉体がないために、お腹が減らないし、眠くもならないかと思うと、肉体がないのに痛みがあり、ケガをし、疲れる。記憶が残っていたり、残っていなかったりしても、不思議ではありません」

黒ずくめの男のおかげで大量のゾンビが成敗されていく。馬車に群がっていたゾンビがつぎつぎに戻って行くが、成型車の体積は半分くらいにまで減ってきている。

「そうか。俺のことをアニキは覚えてないのか。悲しいなあ。――キヨミズさんはアニキのことを知ってたんだな」

「マサさんのアニキ分だとは知りませんでしたが、何度かあの方には助けていただいてます。襲われて逃げ切れなかったとき、どこからともなく現れて助けてくださるのです」

「その後は名前も告げずに去っていくと……」

「はい、おっしゃる通りです」

ゾンビの肉片と体液が宙を舞う。

もはや、怖気づいた奴らにマサたちを喰らうという意志はない。

「アニキらしいや。ゾンビ共もアニキを知ってるんだな」

「はい、いまや奴らの天敵ですから」

「さんざんやられてきたのだろう。奴らにも学習能力があるというわけだ。しかし、アニキはなんで、こんなところにいて、こんなことをやっているんだ?」

「どうでしょうか。ただ単に、弱い者いじめは許さないとか」

「そうかもな。それもアニキらしいな。弱者をイジメるような奴らには容赦なかったからな。暴れ出したら、誰も止められなかった。信念がすごいんだ」

「その凝り固まった信念のために、安らかに成仏することなく、自らの意思でこの世界にいらっしゃるのではないでしょうか」

「あのゾンビ共がいなくなるまで斬りまくるのか。そうかもしれないな。それにしても、あの刀さばきはすごい。生前に剣の流派は聞いてなかったが、俺には無理だ。できっこない」


 徳さんとレンくんは突然現れた男に驚いていたが、マサの知り合いと分かって、安心した表情を浮かべている。

さくらと花ちゃんは窓から顔を出して男に声援を送っている。

がんばれ、がんばれ、がんばれー。

花ちゃんがさくらに訊く。

「ねえ、さくらちゃん、あの人はマサさんのお友達?」

「そうみたいだね。すごいね」

花ちゃんは少しずつお話をしてくれるようになっていた。

さくらが振り向いて、マサに言う。

「マサさんのお友達、すごいじゃん! 花ちゃんも喜んでるよ。マサさんを見直したよ!」

「へへへ。そうかい」マサうれしそう。


がんばれ、がんばれ、がんばれー!

花ちゃんが小さな声で応援している。

がんばれ、がんばれ、がんばれー!

さくらが花ちゃんの声に重ねる。

 

やがて成型車は速度を緩めて、蛇行を始めた。もはや、その体積は三分の一にまで減っている。強固な石垣のように組み合わさっていたゾンビが斬られたり、傷つけられたりしたことにより、成型車のあちこちには隙間ができ、今にも分解しそうである。

男から成型車を死守しようと戻ったため、もはや馬車にはゾンビが一体もしがみついていない。

そして、傷だらけになりながらも、キヨミズが操る馬車は疾走をやめない。


黒ずくめの男が馬で並走しながら、成型車に狙いをつけている。

刀を持ち変えて、姿勢を低くした。

「タイヤだ」マサがつぶやく。

 男は日本刀を煌めかせると、タイヤに斬りつけた。

血しぶきとともに一体のゾンビの首が飛んで行く。タイヤを成型している残りのゾンビのバランスが崩れ、五体ほどのゾンビがバラバラになり、後輪に巻き込まれて、グシャグシャと潰れていく。左前輪を失った成型車は前に傾き、その部分を構成していたゾンビが地面に擦られて、血みどろになり、道に赤い線を付けていく。

「さすがアニキ! やっぱりタイヤを狙うか!」マサは自分の予想が当たってうれしい。「あのタイヤゾンビ、斬られても笑ってやがる。気味の悪い奴だ」

「あの日本刀は特別な何かですか?」徳さんがマサに訊く。

「どうだろう。アニキが日本刀を集めていて、大切に保管していたことは知っていたが」

「あれだけ斬っても、切れ味が落ちないのは不思議ですな」

「アニキの魂が宿ってるんだろうなあ。すげえなあ、アニキは」

 アニキのことを語るとき、マサの目はキラキラ輝いていた。


 左前方のゾンビの顔面を道路でズルズル引きずりながら成型車は行く。顔面はすでに半分くらいにまで削られている。成型車が通った後にはゾンビの血の道が、まるでナメクジが這った跡のようにできていて、ヌラヌラと光っている。

引き返して来た男は、次に左後方のタイヤを切り裂いた。

二つのタイヤを失った成型車は大きく左に傾くが、それでも止まらない。数体のゾンビを道路との摩擦で失いながらも、成型車は執拗に走り続ける。

もはや、何が目的か分からない。

ただ、馬車を追って走り続ける幽霊車。

男は成型車の右から前から後ろからさんざんに日本刀で斬り付け、やがて、中心にいた一体の大柄なゾンビの首を刎ねた。

「キヨミズさん、あいつは何だ?」

「おそらく、首領格のゾンビでしょう」

「ゾンビ軍団は滅亡したというわけか」

「いいえ、首領格のゾンビはたくさんいるようです。だから、また奴らは来ます」

 成型車は解体され、全滅した。

 男は血だらけの日本刀を布で拭い、鞘に納め、首領ゾンビの首を馬の鞍に結びつけると、もはや車の形を成していない成型車の残党である数体のゾンビを蹴散らし、去って行った。マサの方はチラリとも見なかった。


「キヨミズさんよ、アニキはずっとこんなことを続けるのかなあ」マサが訊く。

「ゾンビがいなくならない限りは続けるのでしょう」

キヨミズが返事をするが、その声は穏やかだ。

ゾンビがいなくなって、馬車には束の間の平和が訪れている。

「終わりを迎えるのはゾンビが一体残らずいなくなったときか、それともアニキの信念が薄れたときだろうな。いや、アニキの信念は薄れないだろうから、ゾンビの存在によるだろうな」

 マサは自問自答する。

マサの表情も久しぶりに穏やかになっていた。


この世界からゾンビがいなくなったとき、

アニキは自分の意思であの世へ行くのだろう。

この世界に何の未練も残すことなく、何の憂いも残すことなく。

あの馬を乗り捨て、あの日本刀を投げ捨てて。

 果たして、アニキを待っているのは地獄なのか天国なのか?


 あの世とこの世の狭間にあるこの世界は、長年ここにいるキヨミズにさえ、分からないことだらけだ。あちこち傷だらけだったマサや徳さん、レンくんの体はいつの間にか元に戻り、たくさんの血を浴びていたさくらと花ちゃんもきれいな姿に戻り、着ている制服もパジャマも新品のようによみがえった。キヨミズのシルクハットも戻り、ボックスコートもきれいになっている。傷ついていた二頭の馬も元気を取り戻し、あれだけ攻撃を受けてボロボロになっていた馬車もいつの間にか修復されて、元のきれいなままに戻っている。


そして、曲がっていた楓くんのシャーペンも真っすぐに戻っていた。

成型車に体当たりして死んでいった二頭の馬の死骸は見当たらない。

ゾンビの体や体液が飛び散っていたはずの道にはもう何も落ちていない。

あいつらはどこへ行ってしまったのか?

この道はただ闇に続いている。

馬車を追うように何本もの光帯が宙にうねっていた。


ゾンビとの戦いが終わってすぐのことだった。

後ろからものすごい勢いの小型馬車がやってきた。

「何だ、また新手が来たのか!?」マサが立ち上がって、身構える。

何か武器はないか?

愛用のドスはゾンビに持って行かれてなくなったが、ちぎれていた馬車のムチはなぜか自然に修復されて、元に戻っていた。

「キヨミズさんよー、またそのムチを渡してくれんかー!」

 新手の小型馬車はたちまち馬車のすぐ後ろについた。

追い抜くタイミングを計っているようだ。

「マサさん、あれは敵じゃありません。ムチは必要ありませんよ」キヨミズが答える。

「ああ、カンテラ三つの即死馬車か」マサは軽口を叩く。

「確かにカンテラは三つですが、あれは歓喜馬車です」

「なんだ、それは?」

「社会に貢献し、人々を助け、天命を全うした人が一直線に天国へ行く馬車です」

「ほう、俺と正反対の生き方をした人が乗るのか」

 歓喜馬車は速度をあげると、一気に追い抜いて行った。

「へえ、そんな馬車があるのか」

マサはすれ違う瞬間、馬車をのぞき込んだ。

二人の上品そうな見知らぬ老婦が乗っていたが、二人とも穏やかに微笑んでいた。

「楽しい天国界が待っているのだから、笑いも止まらんだろうよ」ケチをつけるマサ。

「マサさん、嫉妬してるの?」さくらがからかう。

「そうじゃねえよ。まあ、俺は何回生まれ変わっても乗れないだろうけどな」

歓喜馬車はたちまち小さくなって行った。

後ろで三つのカンテラが揺れていた。

それをマサは憎たらしそうな目で見送っていた。

そして、新たな馬車が走って来るのに気づいた。

「キヨミズさんよー、歓喜馬車というのは連なって走って来るものなのか?」

「馬車が連なって走ることはありません。一定の間隔を開けて走ります」キヨミズが振り返って、後ろの馬車を確認した。「ああ、あれは乗合馬車ではなくて、荷馬車ですよ」

「荷馬車だって? いったい何を運んでるんだ?」

「おそらく先ほどの……」

 キヨミズが言いかけたとき、荷馬車が猛スピードで追い抜いて行った。

 マサは積んであった荷物を見た。

 荷馬車はゾンビを運んでいた。

 血みどろのゾンビの手、足、頭、胴体が荷馬車からはみ出しそうなくらいに積まれている。マサたちが戦っていたゾンビたちの残骸だ。すれ違ったのは一瞬だったが、その悪臭が漂って来そうだった。荷馬車はゾンビの血を垂れ流しながら遠ざかって行く。

「最後の最後まで気味が悪いな」マサが顔を歪める。

「しかしマサさん」キヨミズが言う。「あのゾンビたちも元はというと人間なのですよ」

「ああ、そうか。何の因果か分からないが、あんな姿に変えられたんだなあ。あいつら

はどこに運ばれるんだ?」

「それは私にも分かりません。尾行するわけにはいきませんので」

「生前に何をやらかしたか知らないが、ああなるとゾンビもかわいそうだな」

荷馬車は小さくなって、はるか先を行く。

「ドナドナよりもかわいそうだ」


 花ちゃんは丸くなって寝ていた。

「キヨミズさんよ、俺たちは肉体がないから寝ないんじゃないのか?」

「そのはずですが、花ちゃんはまだ小さいから寝るのでしょう」

「なんだか、いい加減だな」マサはボヤく。「まあ、いい加減なのはキヨミズさんじゃなくて、この世界なんだろうけどな。――おお、花ちゃんの光帯も伸びてきたな」

花ちゃんの小さな指先を見てマサが感心する。

「そのことだけど」さくらが三人を見渡して訊く。「花ちゃんを追いかけてる光帯が、一本しか見えないのはどうしてだろう?」


 馬車の後を何本もの色とりどりの光帯がクネクネと飛んで追いかけている。センスの悪いマサは色付きのソーメンと称したが、おしゃれな店の入口で見かけるネオンチューブのようだ。

他の馬車の光帯も交じっているのだが、この馬車に届いている光帯は、もっとも接近している数本だと思われた。その光帯は馬車の乗客が出す光帯と結び付こうと、懸命に追いかけて来ている。


 さくらの指先から出ている光帯はかなり長く太くなっている。さくらの生きようとする気持ちが大きく育ってきたからである。

それを追う赤い光帯は、さくらの両親のものであり、緑色の光帯は先生と友人たちが放つものである。特に濃くて大きな光帯は、大親友である蘭の強烈な祈りが具象化したものと思われた。

一方、レンくんの光帯は青色だ。それを追う特に青い光帯が両親のものだろう。身寄りがない徳さんの分と、誰からもよく思われてないマサの光帯は見当たらない。

本人がそう言うのだから、そうなのだろう。


花ちゃんの指先から出る光帯はオレンジ色だ。しかし、この馬車を追ってくる光帯の中にオレンジ色のものは一本しかない。それはかなり大きな一本であるが、他の光帯は見当たらない。

「あれはお母さんから来ている光帯だろう」徳さんが後ろを見上げながら言う。

「やっぱり、そうですよね。お父さんはいないのかなあ」

 さくらは花ちゃんの寝顔を見る。

ゾンビとの戦いに疲れたのだろう。座席の隅で平和そうにスヤスヤと眠っている。


「シングルマザーじゃないのか?」マサが言う。「よくあるだろ。離婚して子供とアパートに住んでいるところに無職の男が転がり込んで来て、昼間からゴロゴロしているうちに、連れ子をイジメて逮捕されるパターンだ。そいつは今頃、刑務所だな。しつけのためにやったとか言い訳をしても、捕まるってわけだ」

「じゃあ、実のお父さんは?」さくらが訊く。

「実の父親とは連絡は取ってないのだろう。だから、花ちゃんが病気かケガで死にそうになっていることも知らない」

 マサは適当なストーリーを滔々と述べる。だが、マサの言うように、よくあるパターンだから、さくらは本当のことのように思えてきた。

「花ちゃん、かわいそう」さくらは花ちゃんの安らかな寝顔を見る。

「こういうケースだと、実の父親からは毎月の養育費ももらってないだろうな」

「難しい病気とか大きなケガだったら、医療費が大変だね」

「そうだな。だがな、こうしてカンテラ二個の馬車に乗ってるということは、懸命に治療が続けられてるんだろ」


 花ちゃんの光帯が、お母さんの光帯に呼応するかのようにぐんぐん大きくなっている。

「これはすごいな」マサはそれを見て驚く。

「寝ていてもお母さんのことを考えているのだろうな」

「お母さんの夢を見ているのかもね」

「ああ、そうだな」

マサは反社の人間とは思えないような柔和な表情をしていた。

 さくらは驚く。

マサさんもこんな顔になるんだ。


「キヨミズさんよー」マサが話しかける。「この馬車は止まれないのか? 止まれば、あの光帯が追いつけるだろ」

「速度を緩めることはできますが、止まることはできません。私ができることは馬車の速度を上げるだけで、止まることはできないのです。乗り換えの時は馬車が勝手に動き出します」

「そうか。そりゃ面倒だな。いい考えだと思ったのだがな」マサはすっかり修復された窓から光帯を見上げる。「なんだか、光帯が近づいてないか?」と不思議そうな顔をする。 

みんなも見上げてみるが、確かに光帯の飛ぶスピードが増していて、先ほどよりもかなり馬車に近くなっている。

「そうですな。これはもしかして、もしかして」徳さんの声が少しうれしそうだ。

 たちまち光帯は馬車の後ろのすぐ上空にまで到達している。

「近づいて来ているのは三人全員の分ですな。これはすごい偶然だ」

 やがて、光帯のうちの二本が結びついて、大きな一本になった。

さらに他の二本も合わさって大きな一本になった。

「一本に合わさった光帯はさくらくんのご両親と、レンくんのご両親のものだろう」

「徳さん、両親の一本って、どういうことですか?」さくらが訊く。

「家族や血縁関係にある光帯は、やがてまとまって一本になるのだよ。その一本はとても大きくなる。一+一が二になるのでなく、三にも四にもなるというわけだ。受ける側もそうだ。もし、さくらくんと花ちゃんが姉妹なら、二人の光帯は大きな一本になっているはずなのだよ。大きくなった方がより早く、確実に結びつく。急を要するときなんかは、家族同士なら助かる可能性が高くなるのだよ」


 さくら、花ちゃん、レンくんの三人を追う光帯がすぐ近くまで来ている。

さくら、花ちゃん、レンくんの三人が指から放つ光帯が今までになく太く伸びている。

さくらを追う赤と緑の光帯が一本になった。

花ちゃんを追うオレンジの光帯がより太くなった。

レンくんを追う青い光帯もより太くなった。

 そのとき、キヨミズから声がかかった。

「さくらさん、花ちゃん、レンくん、そろそろ準備をしてください」

 さくらはあわてて花ちゃんを起こす。

「花ちゃん、ママのところに帰るよ!」

 花ちゃんが小さな目を開けた。


 まだ若いママは離婚して、花ちゃんと二人で小さなアパートに住んでいた。

結婚して三年目に花ちゃんを授かったのだが、夫は稼いだお金をほとんど家に入れず、ギャンブルに熱中し、言い争いが絶えない日々が続いていた。経済的に厳しくなったため、働きに出ると言い出したところで、夫と大喧嘩となり、ママは花ちゃんを連れて家を出た。行先は告げなかった。花ちゃんを連れ戻されることを恐れたからである。

パート勤務をしながら花ちゃんを育てていたが、一人の男性が現れて、一緒に住むことになった。しかし、ママの男運は悪かった。元夫につづいてこの男も、ろくでなしであった。ママの収入を頼り、働かなくなったのだ。収入といってもパートだ。アパートの家賃を払ったら、残りはカツカツになる。ストレスのはけ口として、花ちゃんをイジメだした。ここまではだいたい、マサの想像通りである。しかし、想像と違って、同居男は逮捕されなかったのである。


 ママは男のイジメを止められなかった。

おっかないということもあったが、そんな男でも好きだったからである。男がいなくなると、寂しくなると思っていたからである。イジメはしだいにエスカレートしていった。

 ある日、花ちゃんは耐えきれずに家出をした。

一人でトボトボと歩いているうちに、横断歩道でトラックに轢かれた。轢いたトラックはそのまま逃げた。花ちゃんはすぐに病院に運ばれた。花ちゃんの全身にはアザがあった。アザによりイジメが発覚することを恐れた同居男も逃げた。その後の行方は分からない。

 花ちゃんがあまりしゃべってくれないのは、マサが言ったような死んだショックといこともあるが、それ以前に度重なるイジメによって、心を閉ざしてしまっていたからである。

そのことをママはとても気にかけていた。男が悪いとはいえ、そんな男を選んだのは自分自身だからである。母親として責任を感じていたのである。


ママが病院に駆け付けたとき、花ちゃんは集中治療室で、懸命に死と戦っていた。

このまま死んでしまったら、この子の人生は何だったのだろう。

はしゃぎ回るような楽しいことはなく、オモチャもたいして買ってもらったことがなく、ほとんど遊びに連れて行ってもらった記憶もないはずだ。

ママは思う。

何とか生きてほしい。

これからたくさんの楽しい思い出を作ってあげたい。

たくさんおいしいものを食べさせてあげたい。

きれいなお洋服を着せてあげたい。

お買い物も行こうね。公園も行こうね。

まだ一度も見たことがない海にも行こうね。


深夜の病室。

ママは起きていた。お医者さんに今夜がヤマになると告げられたからだ。

一刻も目は離せない。花ちゃんの付き添いはママだけだ。ママの身寄りはもう誰もいない。元夫の連絡先は知らない。同居していた男の連絡先も不通となった。

静まり返った病室内は二人きりだ。

花ちゃんと、花ちゃんに繋がれた機械が示すモニター画面の波線を交互に見つめる。

この波線が直線にならないように何度も祈る。

朝まで眠らないように、ママはときどき立ち上がって体を動かし、頭から睡魔を追い出していた。

ふたたび、ママが粗末なパイプ椅子に座って、花ちゃんの顔を見つめたとき、まぶたがピクリと動いた。

「花ちゃん!」

ママはあわててナースコールを押した。


やがて馬車は左折して、乗り換え地点に入って行った。

そこには一台の小さな馬車が止まっていた。カンテラの数は一つ。つまり、生還できた人が乗る馬車だ。

そこには見たことがない御者が乗っていた。

キヨミズが馬車から降りて、その御者の元へと向かう。二言、三言、言葉をかわすと自分の馬車に戻って来た。

「さくらさん、花ちゃんは起きたかな?」

「はい、起きてます」さくらが窓から顔を出して答える。

「では、さくらさん、花ちゃん、レンくんの三名はあちらの馬車に乗り換えてください。御者はアラシヤマ殿です」


キヨミズとは正反対の髭を生やした大柄な御者がシルクハットをかぶって待っていた。

ボックスコートを着ていて、足にはブーツをはいている。アラシヤマですと名乗って、律儀に頭を下げた。顔に似合わず、キヨミズと同じく礼儀正しく、真面目そうな男だった。

アラシヤマは御者台に座り、三人は小さな馬車に乗り込んだ。

突然、空中で待機していた数本の光帯が三人を追って急降下して、馬車の車体を素通りして、車内に入り込んだ。

馬車の中が色とりどりの光で満たされる。その光は窓から外にまで溢れ出した。

徳さんとマサは驚きの表情でそれを見ている。

「なんだ、すげえな」マサの目はまん丸になる。

空から飛んできた光帯は、三人の指先から出ていた光帯と馬車内で結びつき、派手にスパークすると、さらなる光を発した。

その眩しさに、三人は目を開けてられず、手を取り合ったまま、目をギュッと閉じた。

やがて、馬車全体が光に包まれた。

絵本に出てくるおとぎの国の馬車のようだった。


光の中からさくらが、花ちゃんが、レンくんが顔を出す。

「徳さん、マサさん、キヨミズさん、ありがとう。さようなら」

三人が元気に手を振っている。こちらの三人も手を振り返す。

やがて、三人を乗せた馬車は一つだけのカンテラを揺らしながら、この世と呼ばれる世界へと戻って行った。


看護師が花ちゃんの病室に駆け込んできた。

「すぐに先生が来ますから!」

 花ちゃんを見ると、意識が戻り、ママと話をしていた。

「花はね、馬車に乗ったんだよ。お馬さんがいたよ」

 ママは花ちゃんが馬車をどこで知ったのだろうと思った。馬車があるところに連れて行ったことはない。いつか、テレビで見たのだろうか。

ああそうか。どこかでシンデレラの童話を読んだか、聞かされたんだ。

「花ちゃん、それはかぼちゃの馬車でしょ?」

「かぼちゃ? 違うよ。馬車だよ。さくらちゃんとレンくんも一緒だったよ」

「さくらちゃんとレンくん?」

 花ちゃんにそんな名前のお友達はいない。

「さくらちゃんはすごくやさしいお姉さんなんだよ」

 お姉さん? 

夢の中で出会った子なのだろうと、ママは思った。

「それとね、マサさんのお友達は強いんだよ。刀をビュンビュン振り回すんだよ」

 マサさん? そんな子も知らない。さん付けで呼ぶということは大人の人かな。でも、花ちゃんの年頃だと中学生でも大人に見えてしまうから、ただの年上の人かもしれない。その人がチャンバラでもしていたのだろう。もしかして、スターウォーズごっこかも。きっと、刀はライトセーバーだ。

「ゾンビは怖かったよう」花ちゃんは思い出したのか、泣きそうな顔になる。

 ゾンビ? 何だろう。スターウォーズの中にゾンビは出てきたのかな。

「花はね、ゾンビに噛み付いたんだよ。臭かったよう」

 臭い? 夢の中で嗅覚は働くのだろうか? ニオイを感じたことはないけど。

なんだか、変な夢だなとママは思った。


花ちゃんは自分の両手と天井を交互に見つめている。

「爪が伸びてるの? 後から切ってあげるね」

 花ちゃんはママに光帯のことを教えてあげようと思ったのだが、また眠たくなってきた。さくらちゃんのこともたくさん教えてあげようと思った。他にも、ママにたくさん教えてあげたいことがあった。でも、それは後にすることにした。

「そろそろ、休ませてあげてください。おしゃべりは体力を消耗しますから」と、遅れて入って来た先生に言われた。

意識が戻り、ヤマは越えたが、まだ病状は予断を許さないようだ。もうしばらく入院して様子を見るということだった。

「お母さんも休まれたらどうですか、寝ておられないでしょう」

お医者さんに言われて、少し横になることにした。

花ちゃんのベッドの下から、補助ベッドを引っ張り出して横になった。

「花ちゃん、ごめんね。ママが弱かったから、つらい目に遭わせちゃったね。ママはもうちょっとしっかりするね。これからは、あまり人に頼らないようにするね。だから、花ちゃん、これからもママをよろしくね」

 ママはすぐ眠りに落ちた。


 レンくんも病室で目を覚ましていた。

ベッドのそばには両親がいた。先生と看護師さんも取り巻いていた。外から数人の友人が遠慮をしながら入って来た。意識が戻るまで、廊下で待ってくれていたそうだ。 

ボクはどれだけの時間を眠っていたのだろうか。友人たちは順番に交代しながら、夜通し廊下にいてくれたらしい。

廊下での彼らの祈りが何本もの光帯と化し、ボクの元に届いていたのだ。それは太くて濃い光帯だった。徳さんによると、かなり強く祈り込まないと、あんなに太く濃くならないらしい。ボクのことを思っていてくれる人がたくさんいた。普段、あまり話さないような友人まで駆け付けて、徹夜で祈ってくれていた。死んでしまおうなんて、ボクは本当にバカなことをしたと思う。


ボクが首を吊ったのは子供の頃の思い出の場所だった。

みんなで拾った物を持ち寄って作った秘密基地がある林の中。

その頃は不法投棄について、今ほどは厳しくなく、あちこちにいろいろな物が落ちていた。それらをせっせと集めて、基地を完成させたのである。そんな楽しかった思い出の場所を、ボクは死の場所として選んで、木の枝にロープをかけた。しかし、木の枝が折れたかロープが切れて、ボクは落下した。


今となっては、なぜ死のうとしたのか、自分でもよく分からない。

マサさんに指摘された通り、フラれたのは確かだ。当時、つき合っていた女性は短大を卒業したばかりの社会人で、当然毎月の収入がそれなりにあった。一方、ボクは大学生で、バイトをしていたものの、自由になるお金はさほどなく、経済格差が生まれていた。デート代は割り勘か、彼女が支払う。あと二年もすると卒業して、ボクも社会人になるのだけど、彼女はそれが待てなかったらしい。

たぶん、そうなのだろうが、今となっては確かめようのないことだ。なぜなら、いきなり結婚してしまい、音信不通になってしまったからだ。

ある日、何かの用事で(その用事も何だったか、今では忘れてしまったのだが)、彼女にメールを送ったのだが返事がなく、電話をしても留守電だったので、思い切って会社に電話してみたところ休んでいて、病気か何かですかと訊いてみると、今日はお日柄がいいので、結納らしいですよと言われたのである。

安物のドラマのような展開だった。

主人公のはずのボクは、いきなり脇役にずり落ちてしまった。ボクの頭の中はパニックになって、真っ白になって、クエスチョンマークだらけになった。

結納ってことは結婚? 誰と? どこで? なぜ? ボクは? ボクの立場は……?


ちょうど、バイト先の人間関係がグチャグチャになって、授業がよく理解できなくなって、風邪が治らないし、自転車のキーは無くすし、チンピラにイチャモンを付けられるし、スマホの調子は悪くなるし、歯ぐきは腫れるし……。

こうやって様々な(今、考えたらどうでもいいことだけど)、小さな不幸が複合して、ああ、もう死ぬしかないと結論付けて、それを実行してしまったのである。


ボクが最期の場所に選んだ秘密基地は、子供の頃の思い出の場所だった。でも、ボクの思い出の場所が、みんなの思い出の場所でもあると気づいてなかった。

自分の勝手さに情けなくなる。

生死の境にいたボクが目を覚ましてからは、神聖な場所を汚したとして、友人たちからさんざん怒られた。

退院して、まず初めにやったことは、その場所の掃除だった。

積もった落ち葉を拾い、邪魔な枝を切り落とし、残骸と化していた秘密基地を片付け、きれいな更地に変えた。

今後、ここをどう使うかはまだ決めていない。

ゆっくり友人たちと相談したいと思う。


たくさんの人がボクを待っていてくれました。ボクの命はボクだけのものではないと分かりました。ボクはまた生きることに決めました。生まれ変わったボクはこの世に何らかの爪痕を残してやります。もちろん、正しい爪痕です。

鉄砲玉のマサさん、ありがとうございました。

これからボクはしっかり生きます。

もちろん、あなたの分も……。


二頭馬車はふたたび走り出した。

乗客は徳さんとマサの二人だけになった。

「あんな子供たちでも、いなくなると寂しくなるもんだな」

マサがしみじみと徳さんに言う。

「そうですなあ。もともと寂しい道を走ってますからなあ。それに、光帯もいなくなりましたからなあ」

徳さんは何も浮いていない空を見上げて、しみじみと答える。

「徳さん、前から思っていたのだが、あんたはやたらとこの世界に詳しい。もしかしたら、この馬車に乗ったことがあるのか?」

徳さんは不自由な足をさすりながら言った。

「今回で二度目だよ。一度目は事故だった」

やっぱりそうか。

マサは合点がいった。

いつも引きずっている足は事故の後遺症なのだろう。

「最初に乗ったときもカンテラが二つの馬車だった。大昔の話だ。あの頃はまだ若かった。そのときは結婚したばかりの連れ合いがいて、光帯を飛ばしてくれたから、九死に一生を得た。もっとも、その後すぐにその連れ合いは亡くなったのだがね。そのとき一人の老人が乗っておった。その人は戦争で何度も死にかけて、何度も助かった人だった。だから、この馬車の常連客みたいなもんだな。その人にいろいろと教えてもらったというわけだ。カンテラの数の意味も、光帯のことも」

「じゃあ、その老人、今は?」

「そのときに会ったきりで、連絡は取り合ってないから分からんが、あのとき、既にかなりの年だったからな。もう、あの世に行っただろうな。三つのカンテラの馬車に乗ってな」


徳さんは黄色い帽子をかぶりなおすと、フーッと大きく息を一つして、少し硬めの座席に深く腰をかけた。ゾンビとの戦いでグシャグシャになっていた帽子も元に戻っている。

足をさすってみるが、さすがにこの古傷は治らんな。

「このシワだらけの手にも世話になったなあ」

徳さんは両手をごしごしと摺り合わせて、ついでに顔もごしごしと擦った。

振り向いてみると、さくらたちを乗せた馬車はもう遠くを走っていて、小さな点にしか見えない。いろいろあったあの馬車ともお別れだな。

さくらくん、よかったなあ。もうすぐ、お父さんにも、お母さんにも、蘭ちゃんにも会えるぞ。花ちゃんはお母さんと会えるし、レンくんも両親と友人が待っている。

よかった。本当によかった。


「徳さんよ、あんたは戻らなくていいのか?」マサが気にかける。

「いや、わしはもういい。これで二度目だからな」

「二度あることは三度あるってことわざがあるぞ。だから、もう一度生きてみたらどうだ?」

「あの通り、光帯は来ておらんし」

 馬車の後ろには何も見えない。暗い道が続いているだけだ。上空にあれだけきれいに輝いていた光帯は一本も飛んでいない。

しばらくの間、二人は何も言わずに曇った空を見上げていた。

そのとき……。

「あっ、光帯だ!」マサが指差した。「あんたの光帯じゃないのか? いや、あんたは身寄りがないのか。――じゃあ、誰のだ?」


空に四本の光帯が出現した。一本は太い光帯で、三本は細く、四本とも黄色だ。

薄暗い空がたちまち明るくなった。

この馬車の後を離れずについてきている。

間違いなく、この馬車の乗客のために現れた光帯だ。

「俺のはずはない。やっぱり、あれは徳さんの光帯だ。――違うか?」

 徳さんはじっとその光帯を見ていた。

「どうやら、わしの光帯のようだ」

「そうだろ。俺というわけないからな。だが、あんた、身寄りがいたのか?」

「イギリスにな」

「何だ、いきなり外国の話か。金髪の嫁でもいるのか?」

「いや、わしは若くして妻を失った。だが、子供が一人いる。娘だ。イギリス人と結婚して、向こうに住んでおるんだ。だから、日本にはわしの身寄りはいない。よほど向こうの生活が気に入ったのか、娘はもう何年も帰って来てない。そういうわけなんだ。まさか、光帯が来るとは、思ってもみなかった。誰かが連絡を付けてくれたのだろうな。イギリスから祈ってくれておるのか、帰国して祈ってくれておるのか分からんが」

「おーい、キヨミズさんよー」マサがゆっくりと馬車を操縦しているキヨミズに訊く。「イギリスから祈っても、ここまで光帯は飛んでくるのか?」

「はい、この世界は時空を超越してますから、地球の裏側からでも届きます」

「ほう、そりゃ便利だな。――徳さんよ、光帯は四本あるぞ」

「おそらく、太い光帯は娘で、三本の細い光帯は孫だろう」

「あんた、孫がいたのか。そりゃいいな。だが、あの三本は同じ色で、同じ太さをしてるぞ」

「三つ子だ」

「そりゃ、すごい。今時、三つ子なんか聞かんぞ。少子化の時代にありがたい。少子化担当大臣に成り代わって御礼申し上げるぞ。――キヨミズさんよー、三つ子は光帯もそっくりになるのか?」

「私も見るのは初めてです」キヨミズも驚いている。

「そうか、それはお互い貴重な体験をしたな。――で、徳さんよ、もちろん、帰るわな」

「いや、このまま向こうの世界に行くよ」

徳さんの指先から光帯は出ていなかった。

帰る気がないからである。


 徳さんは馬車を追って来ている一本の太い光帯に向けて話しかけた。

娘の菊江が発している光帯だ。

(菊江よ、世話になったな。男手一つで育てられた人生はどうだったかね? わしの至らぬところがたくさんあっただろう。お母さんがいなくて、さびしい思いもたくさんしただろう。しかし、おまえは、わしの前で涙は見せなかったな。わしに心配かけまいとしていたんだな。ありがとよ。これから、おまえのお母さんに会いに行くよ。楽しみだ。三人の孫たちを頼むぞ。 しっかり育ててやってくれ)


徳さんは細い光帯を見ながら、三人の孫の顔を目の奥に焼き付けた。それは送られてきた写真の顔と同じだったのだが、孫たちはおじいちゃんの回復を祈ってくれているのだろう。徳さんの顔はすっかり好々爺の表情に変わっていた。


(いろいろなことがあった人生だったなあ。この馬車を降りて、待っているのは三途の川か。歩いては渡れんのだろうなあ。子供の頃に泳ぎの練習をしておいてよかった。さてさて、いったいどんな世界が待ってるのやら。

さっきからマサさんが帰るようにと、必死に説得してくれている。いい人だと思う。しかし、反社の人間だ。おそらく、あなたはいい人だと言うと怒るだろうな)

「せっかく光帯が来ているのだから、帰るべきだろ。なっ、徳さんよ。娘と三つ子の孫に顔を見せてやりなよ。ブサイクな顔だけどよ」一言多い。

「もう一度、人生をやり直せよ。駐輪場でまだ働けるだろ。学生がいっぱい待ってくれてるだろ。さくらくんと花ちゃんとレンくんにもまた会えるぞ。――まあ、こんなヤクザもんに説教されたら、気分も悪くなるだろうけどな」

「いや、そうじゃない。気を使ってもらって有り難いと思っておるよ」

徳さんはマサの言うことを聞きながらも、キヨミズが操る馬車に身を任せることにして、黄色い帽子を目深にかぶると、腕を組んでゆっくり目を閉じようとした。

しかし……。

そのとき、さらに大きな光帯が現れた。

「徳さんよ、また来たぞ!」

娘の菊江の光帯と同じくらい大きく濃い光帯が出現していた。

「うん? 誰だろう。さくらくんやレンくんにしては早すぎるな」

徳さんはあわてて体を起こすと、大きく目を見開いて新しい光帯を見つめた。

光帯からその発する人物を読み取ろうとする。身内じゃなくても集中すれば、誰だか分かる。祈っている人物をここから逆にたどればいいのだから。

そして、それは自分がよく知っている人物のはずだ。

飛んできた念に対して、こちらからも念で返してみる。

やがて、ぼやけていた風景が焦点を結んで、はっきりと現れた。

「あんたは……」


後編につづく。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ