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馬車が飛ぶ夜は ~前編~

        「馬車が飛ぶ夜は」 ~前編~


                   右京之介                   


十二月の夜九時。

友人との勉強会からの帰り道。すっかり暗くなった家路を自転車に乗って急いでいたさくらがふと夜空を見上げると、いくつもの星を背景にして二頭馬車が飛んでいた。

驚いて急ブレーキをかけたさくらは、寒さも忘れて透き通る冬空を、馬車が小さくなるまで見上げていた――ここからこの物語は始まる。


勉強会といっても、半分は仲のいい子四人とお菓子をポリポリバリバリ食べながら、受験生の悩みや愚痴を吐き出すおしゃべりの会。終わった頃にはお菓子の香ばしさを覚えていても、何を勉強したのかさっぱり忘れている始末。

でも、一見何の意味もないような集まりが、ストレス発散の場になり、明日からの勉強の意欲へとつながっていくと、さくらたちは無理やり思い込み、みんなでおしゃべりを正当化していた。

そうでも思わないと、受験勉強なんかやってられない!


身を切るような寒さの中、凍りはじめたアスファルトに滑らないよう、気を付けてペダルをこぐ。

地方の小都市。この時間になると、すでに店のシャッターは下りて、歩行者にはめったに出会わず、車もあまり走っていない。

青い毛糸の帽子と口元を覆った赤いマフラーの間から覗く目と鼻を、前方から襲う真冬の冷気が遠慮なく痛みつけてくる。ピンクの毛糸の手袋に包まれた指先も寒さで痛くなってきた。家まであと十分くらいこの過酷な環境はつづく。

いつものことながら、とてもつらい。

お菓子を食べていた天国からすると、家までは地獄の行程だ。

ああ、早くあったかいお風呂に入りたいなあ。

そうしたら、また天国に戻れる。


さくらは冬の寒さは嫌いだったけど、冬の星座は好きだった。あまり高いビルも建っていない地方都市だからこそ、夜空は地上からのさまざまな光に邪魔されることなく、星たちはプラネタリウムのようにはっきりと見える。

くっきりと澄んだ冬空に浮かぶ星の中でも、さくらはオリオン座が大好きだった。

やや坂道になった道路を上りながら、視界の左手上空に捉えた星を数える。

一つ、二つ、三つ。

四つの星の中に並んだ三つの星。

シンプルだけどかわいいデザイン。

星座を作った神様はいいセンスをしている。


そのとき――。

オリオン座の星よりも大きな何かがスッと動いているのを見つけた。

何だろう?

今まで何度も見ていたオリオン座の近くにあんな星はなかった。

さくらは坂の途中で自転車を止めて、懸命に目を凝らした。

流れ星かなあ。UFOかなあ。でも、流れ星にしては大きくてずっと消えないし、UFOにしてはジグザグに飛んでない。

UFOを見たことないけど、ジグザグに飛ぶらしい。そんな動画もある。

しかし、その物体はレールの上を真っすぐに走る一両の電車のように滑らかに動いていて、銀河鉄道のように輝きながら、冬の夜空を音もなく飛んでいる。そう、飛んでいるのだ。

銀河鉄道も読んだことあるけど見たことはない。

なんだか馬車に見えるけど? まさかね。馬車が飛ぶわけないし。

それはオリオン座を形成している星よりも小さくなり、やがて見えなくなった。


翌朝、さくらは朝刊を隅々まで読み、朝のテレビニュースとネットニュースを交互にチェックし、学校で複数の友人にそれとなく尋ねてみたが、そんな奇妙な物体を目撃した人はいなかった。

でも、幻なんかじゃなくて、確かに見たんだ。

馬車が空を飛んでいるのを……。


 一か月後。一月の深夜二時。

夕方から降りはじめた雪はすでに止んでいた。降っていたのが短時間だったとはいえ、家の屋根や道路にはかなりの雪が積もっている。この地域は近年、雪があまり降らなくなったため、この程度の雪でも大雪の部類に入るだろう。雪を降らせた雲はどこかに流れて行き、晴れ渡った夜空には大きな月と、それを取り囲むたくさんの星が輝いていた。


シャン、シャン、シャン……。

雪がすべての音を覆い隠したかのように静まり返った深夜の街。

聞こえてきたその音にさくらは、うん? と首をひねると、受験問題集から顔を上げて、壁にかかったカレンダーを見た。

お母さんが近所のケーキ屋さんからもらってきたイチゴのショートケーキの写真が載っているカレンダーのページは、確かに一月だった。

どうして一月だというのに?


 大学受験を間近に控えたさくらは、深夜に追い込みをかけていた。

一年前まではアニメオタクだった。毎日学校から帰ると、五時からはじまるアニメの再放送に釘付けになっていた。毎月発売される主なアニメ雑誌を買い込み、DVDをそろえて、お気に入りのヒロインのコスチュームまでせっせと手作りをし、夢中になっていた。おかげでお裁縫はお母さんと同じくらいのレベルに達していた。

高校三年生になり、周りの友人たちが受験勉強を始めるのを見て、これではいけないと一念発起し、雑誌を買うのをやめて、テレビを見るのもやめて、お裁縫もやめて、アニメとは一時休戦することにした。そのため学校から帰るとわざとアニメの再放送を見ないよう、放送時間に合わせて二時間ほど仮眠を取ってから、ご飯を食べて、お風呂に入った後、深夜まで勉強に集中することにした。

最初は停戦ではなく、あくまでも休戦のつもりで、受験が終われば、また大好きなアニメとの戦闘を開始するはずだった。しかし、休戦中に少しずつアニメから心が離れていって、今ではどうしてあんなに夢中になっていたのだろうかと、部屋の隅にある本棚をいっぱいに占領しているアニメ関連書とフィギュア類を見渡しながら、すっかり冷めてしまった頭で思っていた。 


 深夜一時から三十分間、大好きなDJの番組がある。

この時間帯だけはラジオに耳を傾けながら勉強をする。息抜きを兼ねて遅くまでがんばっている自分へのご褒美としていた。

でも、お父さんはこう主張する。

「それはな、ラジオを聴きながら勉強をする“ながら族”って言ってな、お父さんの大学受験の頃に流行ったんだ。でもな、ながら勉強は全然、頭に入らんぞ。だからやめとけ。ウソだと思うならお父さんを見てみろ。第一志望の大学を落ちて、第二志望に行ったんだからな」

勉強のことにはほとんど口を挟まないお父さんが言うのだから本当なのだろう。

「でもな、その高校でお母さんと知り合ったんだ。廊下の曲がり角で出合い頭にぶつかったのが始まりでな。よくトレンディドラマであるだろ。あのパターンだよ」

最後は変な自慢をしたがるお父さん。

私はそんな変なお父さんの血を引いている。

でも、私はお父さんに脅されても、第一志望はあきらめない。高校は志望校に入れたし、大学もぜったいに第一志望校に入ろうと思う。このラジオ番組が終わってから二時までの三十分間は、その日最高の集中力を見せる。

ラスト三十分のがんばりが明日への糧となるんだ! たぶん……。

 

シャン、シャン、シャン……。

二階にある六畳の自分の部屋。ラスト三十分間の集中力を解除し、問題集を閉じて、勉強を終えたさくらは、イチゴのショートケーキカレンダーを見上げた。

一月のカレンダー。大学入学共通テストがある十九日と二十日には、赤のマジックで丸印がしてある。確かに今月は一月だ。

クリスマスはとっくに終わっているのに、なぜ?

シャン、シャン、シャン……。

なぜ、鈴の音が聞こえてくるの?

十二月に寝過ごして故郷に帰りそこねたサンタクロースが、今になってトナカイと一緒にあわてて帰るところ?

十二月に怠けていてそのままになっていたクリスマスツリーを誰かが、今になって片付けているところ?

鈴の音はしだいに近づいてきた。

なぜ、鈴の音が移動するの?

さくらはイスから立ち上がると、カーテンをサッと開けて窓の結露を拭い、外を見た。

ひろがっている夜空。シンとした深夜の街。屋根に積もっている雪を照らす街灯。

この時間、一階にいる両親はとっくに寝ていて静まり返っている。

電線に積もっていた雪がササーッと落ちて、宙に舞う。

その時、ふと鈴の音が消えて静寂が戻った。

道路を隔てた斜め前。沢井さんの家の前に乗合馬車が停まっていた。

あのときの馬車だ!

空を飛んでいた馬車だ!


大きな四つの車輪。二人が並んで座れる運転席。おそらく六人ほどが乗れる木製の大型馬車だった。先頭では二頭の馬が鼻から白い息を吐き、やや高い座席にはシルクハットをかぶり、黒っぽい服で正装した男が手綱を持って座っていた。馬車の後ろにはカンテラだろうか、三つの四角い明かりがぶら下がり、闇をほんのりと照らしている。

さくらは初めて見る実物の馬車に驚いていた。テレビや映画で見たことがあるが、窓から見下ろすと大きい。間近で見るともっと大きく感じるだろう。あれが町の中を全速力で走ると、かなりの迫力が出るはずだ。馬車の形や材質や座っているおじさんの格好からすると、年代物の馬車だろう。

でも、最新の馬車なんてあるのかなあ。電動機付きのアシスト馬車なんて。

だったらお馬さんは必要ないしなあ。

あのおじさんの役目の人を何と言ったっけ?

ああ、御者だ、馭者だ。まあ、どっちでもいいけど。

確か、馭者座はオリオン座の北にあるんだっけ。


でも、なぜあんなところに馬車が停まったのだろう?

沢井さんがタクシーとして呼んだのだろうか? こんな夜中に? それに、馬車のタクシーなんてあるのだろうか? 聞いたことはないし走っているのを見たこともない。でも、沢井さんの家を見ても玄関の門灯がついているだけで、家の中の電気はついてない。たまたまあそこに止まったというの?

さくらは自問自答を繰り返す。

沢井さんの家の向こう隣は、さくらが大好きで憧れているナースのかすみさんの家だ。今年の初めまで正看護師の資格を取るために、深夜遅くまで勉強をしていて電気がついていたかすみさんの部屋も、めでたく合格してからは真っ暗の状態だ。

もう寝てしまったのだろうか?

それとも今夜は夜勤で、今頃も働いているのだろうか?

遠くにはかすみさんが勤務する市民病院の大きな建物郡が見える。

いくつかの窓には電気が点いている。

今の時間も医療関係者はあそこでがんばってるんだ。


吐く息でしだいに曇ってきた窓をもう一度、手で拭いて視界を良くした。

目をこらして見てみると、馬の首にいくつもの鈴が文字通り、鈴なりにぶら下がっている。鈴の音の正体はあれだ。トナカイではなく馬だ。橇じゃなくて馬車だ。馬車を操っているのは真っ赤なサンタではなく真っ黒な男性だ。

これから何が起きるのか、もう少し様子を見てみることにする。

後部座席には誰も乗っていないようなので、これから乗り込んでくるのかもしれない。


さくらはとっくに寝る時間になっているのも忘れて馬車を見つめた。

なんだか外国からやってきたような二頭馬車。あのシルクハットの男の顔は見えないが、服装からすると日本人には見えない。あんな格好の人は日本の街では見かけない。外国の街がお似合いだ。そんな馬車がごくありふれたこの住宅街に、なぜかやってきた。 

なぜだろう?

男は手綱を持ったまま、じっと前を向いて座っている。

やはり何かを待っているようだ。

さくらはもっとよく見ようと鍵を開けて、そっと窓をスライドさせる。

意外と重い。力を入れる。

ガッー!

少し凍っていたため、サッシが大きな音を立てた。

あわてて身を伏せる。

ヤバい。ヤバい。

たちまち頬を切るような寒気が部屋の中に入り込んできた。カレンダーのケーキの写真がハタッと揺れておいしそうに見える。だけど空腹は感じない。それどころではない。

さくらは中腰になり、窓枠に両手をかけ、目から上だけを出して、外を見下ろす。前髪がサラリと揺れる。

大丈夫、これだと気づかれることはない。

二頭の馬はしびれを切らしたように、頭を上下に振りはじめた。

シャン、シャン、シャンと鈴が鳴る。それをシルクハットの男が手綱を引いて、低い声でドウドウと鎮める。大人しくなった馬の鼻から白い息がフッ、フッと出てきた。


突然、沢井家の玄関のドアが開いた。

さくらは何だか見てはいけないことが、今からはじまるような気がして部屋の電気を消すと、今度は音がしないようにゆっくりと窓を途中まで閉め、カーテンを引き、ふたたび身を低くして、すきまからそっと覗いた。この距離でこの暗さだからあの男にも馬にも見つからないはずだが、念のためエアコンの暖房も止めて息を凝らした。

部屋の中では自分が小さく息をする音だけが聞こえる。


これから何が起きるのだろうか?

さくらは自慢の1.5の視力をフル稼働して闇夜を見下ろした。

やがて玄関から出てきたのは、薄いピンクと白のストライプのパジャマを着た沢井さんのおばあさんだった。夜中だというのに上着も羽織らず薄着だ。吐く息は白い。

あんな格好で寒くないのかなあ。

おばあさんは大きな馬車を見て、一瞬驚いて立ち止まったようだが、シルクハットの男がうやうやしく右手で馬車に乗るように促すと、引き戸を開け、足をかけて、ゆっくり馬車に乗り込んだ。

さくらの位置から表情までは分からないが、おばあさんの態度からして、大きな馬車はタクシーのように頼んだものではなく、外に出てみたら、思いもよらず、馬車が停まっていて驚いたという雰囲気だった。


シャン、シャン、シャン……。 

馬車はゆっくりと動き出すと、沢井のおばあさんを乗せたままナースのかすみさんの家の前を通り、点滅信号のある角を左に曲がった。

曲がるときにおばあさんのシルエットが街灯によって浮かんで見えた。おばあさんはまっすぐ前を向いて座っていた。他に乗客はいないようだった。沢井さんの家からはおばあさんが出てきただけで、一緒に住んでいるはずの家族の人は誰も出てこなかった。玄関の門灯だけはそのまま光っていた。

あの馬車はいったい何だったんだろう。

おばあさんはこんな遅くにどこへ行ったのだろう。

やっぱり、先月飛んでいたのはあの馬車だったのだろうか?

雪道には真新しい馬の足跡と車輪の跡だけが続いていた。


さくらは真っ暗なままの沢井さんの家の窓をながめながら、静かに窓を閉め、カーテンを引いた。エアコンを切った部屋はすっかり冷え込んでいて、思い出したように寒気が襲ってきた。不気味なものを見たことも相まって、その寒さは歯が噛み合わないほど強烈だった。

すでに、深夜二時三十分になっていた。


 第一目覚まし時計が鳴り、アラームを止めた。

朝にめっぽう弱いさくらは二台の目覚まし時計を時間差でセットしている。

一台目が七時に鳴り、十分後に二台目が鳴る。

その間の十分間、さくらは布団の中で夢と現実の間を行ったり来たりしている。

救急車のサイレンの音を聞いた――ような気がする。

犬のパンジーの鳴き声を聞いた――ような気がする。

たくさんの人たちの話し声を聞いた――ような気がする。

お母さんが玄関のドアを何度も開け閉めした音を聞いた――ような気がする。

お母さんは何をやっているのだろう。朝刊を取りに行くのなら一往復ですむのに。今日はゴミの日じゃないのに。あんなにバタンバタンやらなくてもいいのに。まったくうるさいなあ――夢うつつの中でさくらはそう思った。

第二目覚まし時計が鳴り、さくらは寝ぼけ眼でアラームを止め、気合を入れて両足で掛布団を蹴り上げた。布団が捲れ上がり、たちまち寒気が体を包み込む。

――覚醒!

西郷隆盛は毎朝こうやってお布団を蹴って起きていたらしい。朝が弱い私にお父さんがこのやり方を教えてくれた。マネをしてみるとなかなかいい。特に寒くて眠い冬の朝、暖かいお布団と思い切って決別するには、もってこいの方法だ。

クラスメイトにすすめたら品がないと言われた。

鹿児島県は暖かそうでいいなあと言われた。

キミたちは、日本に夜明けをもたらした西郷どんをバカにしてるのかね!


パジャマ姿のまま階段を下りていくと、玄関先で外から戻ってきたお母さんと会った。朝っぱらから緑色のダウンジャケットを着込んでいる。極度に寒がりのお母さんは、新聞を取りに行くときでも、モコモコのダウン姿だ。派手な色で恥ずかしいから着ないでほしいと言っているのに、この冬一番の寒気が襲っている近頃は外に出るとき、たとえそれがわずか往復八歩であっても、必ず着ているお母さんお気に入りの緑のダウンだ。


「さくら、おはよう。沢井さんのおばあさんが亡くなったんだって。さっき救急車が来てたでしょ。あれがそうみたいよ。ずっと前から具合が悪いと聞いていたけど、二週続けて救急車はないよねえ。塩でもまかないとダメかなあ」

お母さんはさくらの“おはよう”の返事も待たないでしゃべりだした。

「ちょっと! いつ亡くなったの!?」驚いて、強引に割り込んで訊く。

「何時何分かは聞いてないけど、朝起きたら布団の中で冷たくなってたんだって。一目見て、亡くなってるって分かったんだけど、一応救急車を呼んだみたいね。聞こえなかったの? サイレンの音。近所の人がみんな出てきて大騒ぎしているし、パンジーちゃんも起きて鳴いているし、うちの町内でグウグウ寝てたのはアンタとお父さんだけだよ。まったく、似た者父娘だよねえ」


 沢井のおばあさんがお布団の中で死んでたって!?

サイレンの音。パンジーの鳴き声。近所の人の話し声。ドアの開閉音。

ベッドの中でぼやっとしながら聞いていた音はすべて現実の音だったんだ。

さくらは、ピンクと白のパジャマを着て、戸惑いながらもゆっくりと馬車に乗り込むおばあさんの姿を思い浮かべた。

夜中の二時にどこへ出かけたのだろう。あんな寒い中をパジャマ姿で病院に行ったのだろうか? それにしても、あのとき家の人は誰も出てこなかった。家に帰ってから具合が悪くなって亡くなったのだろうか? それともあの馬車に乗り込むときはすでに死んでいた? 

そんな……。

だったら私が見たのはおばあさんの幽霊? 幽霊を馬車が迎えに来たの? 暗くて顔色までは分からなかったから何とも言えないけど、幽霊だったら真っ青じゃないかな。でも足はあった。ちゃんと二本足で歩いている姿が見えた。幽霊なら歩かないで、スーッと移動するのではないだろうか。それに幽霊の髪は長い。おばあさんの髪は短かった。ショートカットの幽霊なんているの? それはそれで怖いけど。

今まで幽霊なんて見たことないから、全部“たぶん”だけど。

じゃあ、あの馬車は空飛ぶ霊柩車ってこと!?


「ねえ、お母さん」さくらはテーブルに座りながら訊いてみる。「沢井のおばあさんのことだけどさあ。うちの近所に馬車を持ってる家ある?」

「馬車って、馬が引っぱる馬車?」ダウンを脱ぎながら言う。「そんなの持ってる家なんてないでしょ。どこかの観光地に行けば走ってるんじゃない。お母さん、乗ったことないけど。だいたい馬なんか飼ったら、維持費だけで月に何十万もかかるんだよ。車検代もかかるし。あれっ、馬車に車検はなかったんだっけ? やっぱり馬検と言うのかなあ。まあ、さすがにセレブの松岡さんの家にも馬車はないわね」

「松岡さん家のどこがセレブなのよ?」

「あそこの奥さんに聞いたんだけどね、ジュースは果汁百パーセントしか飲まないんだって!」

「なんでそれがセレブよ!」

「アンタみたいに体によくない無果汁の炭酸なんか飲んでないところがセレブよ」

そう言って、お母さんは丸めた朝刊で私の頭をボコッとはたいた。

「痛っ!」

果汁の含有量でセレブ度が決まるわけ?

うちのお母さんは世間と価値観がちょっとズレてる。

「――で、馬車と沢井のおばあさんと何の関係があるの?」

「いや別に……。ちょっと訊いてみただけ」訊くだけ無駄でした。

お母さんは今日も朝からうるさい。

人が死んでもうるさい。うるさい私よりもうるさい。


 夜中に見た馬車の話をお母さんにしてみても、夢でも見てたんじゃないかって笑われるだけだろう。でも、確かに沢井さんの家の前に馬車が停まって、おばあさんを乗せて行ったんだ。夢でも錯覚でもないんだ。

鈴の音。手綱を持ったシルクハットの男。二頭の馬から吐き出される白い息。静かに走り出す馬車。しっかりとこの目で見たし、しっかりとこの耳で聞いた。夢にしては思い出される映像がリアルすぎる。夢だったら、あんなに細かく見えないだろうし、はっきりと覚えてないだろう。一時半から二時のラスト三十分の集中タイムが終わってすぐだから、寝ぼけていたはずはない。なんといっても、あの三十分間で覚えた英単語は、まだちゃんと覚えているのだから。


家の中で飼っている白ネコの小梅がソワソワしだしたのは三日前からだった。

窓から外をながめながら、行ったり来たりしている。ときどき立ち止まってはじっと空を見つめている。

「また、凧じゃないの?」とお母さんが言ったが凧は見当たらない。

ちょうど一年前、小梅がうちに来たとき、窓から空に揚がっていた凧を見つけて、あわててソファーの下に逃げ込んだことがあった。

凧といっても、やっこ凧じゃなくて外国製のカイトだ。子どもたちが揚げていた黒いカイトが、小梅には天敵である大きな鳥に見えたのだろう。凧揚げのシーズンが終わるまでずっと空を気にしていたっけ。でも、毎年外で遊ぶ子どもの数が減ってきているからだろうか、今年になってまだ凧は見ていない。だから、原因は凧じゃないようだ。

それに不思議なことに小梅は家の中でもキョロキョロして、何もない空中に向かってジャンプしたり、引っかいたりする仕草をしていた。でも、ちゃんとご飯は食べるし、体調はいつもと変わらないみたいで、ピョンピョンはねた後は、何事もなかったかのように、せっせと毛づくろいをしていた。


だったら、心配することはないんじゃないとお母さんはのんきに構えているのだが、毎日、小梅が真剣な顔をしてピョンピョンはねているのを見ると、何だか心配になる。

今朝も目を覚ますとすぐにソワソワしだしたからだ。

リビングとキッチンと玄関を数往復した後、今はリビングのソファーに飛び乗って何もない天井をキョロキョロと見渡している。

お母さんには話してないけど、馬車で連れて行かれた沢井のおばあさんの幽霊が戻ってきて、その辺をフワフワ飛んでいるんじゃないだろうね。

だったら、小梅も怖がるはずだ。

いったい、おばあさんはどこへ連れて行かれたのだろう?


お母さんは沢井さんのおばあさんについて、お昼すぎに近所の人たちと情報交換をする井戸端会議の約束をしたらしく、キッチンに戻って、食パンをトースターにセットすると、二人分のベーコンエッグを焼きはじめた。

キッチンはお母さんの戦場だ。

戦場の壁にはお母さんが高校生だったときの写真がなぜか、四つ切のパネルにして飾られている。戦場には癒しが必要だというのか、陸上部だった頃のお母さんが大会の決勝で走り幅跳びをしているときの写真だそうだ。両手を上にしてジャンプした瞬間を真横から写したもので、若くて、細かったまばゆい肢体の女子高生の頃の自分を思い出してか、ときどきキッチンで一人ほくそ笑んでいる。飾ってあるのがキッチンじゃなくて玄関だったら、お客さんが来るたびにこの写真の由来を大声で説明しかねない。

だから、我が家にとってはここに飾ってくれるのが一番いいのだが、いまだ高校生の頃の栄光を語るとは、かなり不気味な趣味だ。

私はそんな変なお母さんの血を引いている。


さくらはインスタントコーヒーをクルクルかき回しながら訊いた。

「お母さん、沢井のおばあさんのことだけど、お化け見たことある?」

お母さんは自分のベーコンエッグに塩コショウをシャカシャカ振りながら答える。

「馬車の次はお化け? アンタの頭、寝グセがついて爆発してるでしょ。どう見てもお化けよ」

「違うの!」さくらは髪を手で押えたが、離すとまたピヨーンと豪快にはねた。

「これはあとでスプレーして直すから。そうじゃなくって本物のお化け!」

「お化けに本物とニセ物があるわけ?」

「あるよ。人間じゃないのが本物のお化けじゃん」

「じゃあ、見たことないね。きのうの夜、馬刺しを食べ過ぎて、お腹を壊して寝込んでいるねずみ男なら知ってるけど」

「それはお父さんでしょ! しかも、ねずみ男はお化けじゃなくて妖怪だからね!」

「――で、お化けと沢井のおばあさんと何の関係があるわけ?」

「いや、別に……」

「沢井のおばあさんと馬車とお化けって、落語の三題噺みたいね。オチはどういうの?」

「ちょっと訊いてみただけだから!」

やっぱり、訊くだけ無駄でした。

こんなお母さんは放っておいて、さっさと学校へ行こう。

覚めたコーヒーを一気飲み!

――ゲボッ!

 

 黄色い帽子がちょこまかと動いている。

あの帽子を探すのが、杉本の日課になっている。自転車を降りると、白線からはみださないように、所定の位置へピタリと止めた。乱れていたブランド物のマフラーを巻きなおし、制服のブレザーのすそを引っぱって整えていると、黄色い帽子の老人がこちらを向いてニヤリと笑った。


駅前の青空市営駐輪場。

一ヶ月間格安の三百円で止め放題の巨大なスペースは、今日も通勤通学客の自転車で溢れかえっていて、白線で細かく区切られた小さなスペースが、つぎつぎに埋まっていく。少しでもはみ出してしまうと、後から来る自転車の邪魔になるため、いい加減に止めている自転車はないかを監視し、自転車を整理整頓する管理人が必要になる。

そんな仕事をしている人が、いつも黄色い帽子をかぶって、白い軍手をはめている徳さんだ。フルネームは知らない。年齢は七十歳を少し過ぎたくらいか。若い頃事故にあったらしく、少し足が不自由だ。真冬だというのに日焼けしている。もともとどこかの大きな会社のお偉いさんだったのだが、定年退職したあと、この駐輪場で働いているというウワサだ。

第一高校と第二高校。近くに二つの高校があることもあり、駐輪場の利用者の大半は学生だ。 


徳さんの仕事は学生たちを怒鳴りつけることと言っても過言ではない。朝、急いでいることもあって、適当に止める生徒がけっこういるのだ。そうすると、後から止める人たちが困る。格安ということもあって、駐輪スペースは限界のため、きちっと並べていかないと、道路にまではみ出してしまう。いい加減な連中には容赦なく徳さんの大きな怒号が飛ぶ。

「そこの学生さーん。ちゃんと止めないとダメじゃないかーっ!」

中には逆ギレして、「何だと、このジジイ!」と言い返す生徒もいるが、そんなときも徳さんは負けずに言い返す。

「ジジイとは何だ! このガキ、ちゃんとルールを守れ!」

たとえ、相手がツッパリの悪ガキであろうと関係なく立ち向かっていく。逃げる奴はその不自由な足でトコトン追いかけて捕まえる。その後、遅刻になるギリギリの時間まで離さないで、コンコンと説教をする。

「よくも、わしのことをジジイと呼んだな。お前もいつかジジイになるんだぞ!」

 そりゃそうだろう。


第二高校に通っているツッパリの悪ガキである杉本は、そんな徳さんに一目置いている。普段は大人しく、愛想も良い徳さんだが、ルールを守らない奴は許さないというポリシーを持っていて、雨の日も風の日も少し不自由な足を引きずり、日焼けして真っ黒になりながらも、黄色い帽子をかぶってアホな学生(中にはアホな社会人も)相手に懸命に働いている。仕事とはいえ、なかなかできることではない。おそらく身分はアルバイトだから、そんなに給料もいいわけではないだろう。


“徳さんは正義感と使命感のかたまりのような人”

去年、そんな徳さんの姿を見て、誰かが新聞社に投稿をしたらしく、徳さんの仕事ぶりが大きく紹介されて、市から表彰までされていた。

黄色い帽子を脇に抱えて、照れながら市長から表彰状を受け取る徳さんの姿が新聞に掲載されたのだ。

 徳さんのことをよく見ていたのは杉本だけではなかった。

 たくさん人が徳さんの行動を見て、感心してるようだった。


「よぉ、徳さん、おはよう!」

「おぉ、不良の杉本か、おはよう。きょうも寒いな」

「ああ、真冬だからな」

徳さんは少し歪んでいた黄色い帽子を真っすぐにかぶりなおして、軍手の裾を引っぱり上げると空を見上げた。

「杉本くんよ、今日は黄砂が飛んで来る日か?」

「黄砂?」杉本はあたりを見渡す。「そんなもの、飛んでないぞ」

「そうかい。なんだかさっきから目の前が黄色くてな」

「働き過ぎじゃねえのか?」

「働き過ぎは昔からさ。急に見えだすのはおかしいだろ」

「だったら帽子の色が反射してるんじゃないのか?」徳さんの黄色い帽子を指差す。

「帽子の色が空中に反射するか?」

「どうだろうな。俺は物理が苦手だから分からん」

「こんな黄色じゃなくて」自分の帽子を指差す。「金色に近い。ユラユラと揺れておる。何だろうな、これは」徳さんは目をパチパチさせながら、周りをキョロキョロ見渡す。

「金色だったら、何かいいことが起きるんじゃないのか」

「吉兆だったらいいがな。まあ、年を取るといろいろなことが起こりよるわ」


そのとき、駐輪場の横をけたたましい音を上げて一台のバイクが通り過ぎて行った。それをイヤな顔をしながら目で追う徳さん。杉本も釣られて、完全に制限スピードをオーバーしている若い二人乗りのバイクを目で追いかける。

「おまえさんはバイクには乗らないのか? 不良はみんな乗っているぞ」

「バカいえ。バイクなんか、ガソリンは喰うし、騒音はするし、排気ガスは吐くし、おまけに寒そうだし、いいとこねえじゃん。俺は地球にやさしい不良なんだ」

「ははは、そうか。まじめな不良だな。それよりも、きょうはやけに早いじゃないか」

「まあな。たまには朝早くから勉強をしようと思って、一本早い電車にしたんだ」

「ウソつけ。追試だろ」

「うるせー。早く仕事しろ、ジジイ!」

「なんだとこの不良! この通りやっているじゃないか!」

「ウダウダしゃべらないでやれよ!」

「しゃべりながらでもできるんだ!」

「黙ってやったほうが集中できるだろうが」

「わしは年がら年中いつでも集中しているんだ。さっさと学校へ行かんか!」


杉本は怒っている徳さんを無視して、ゆっくりと自転車の前カゴからペッタンコのかばんを取り出すと、改札へ向かった。

(なんで、早朝追試だとバレたんだ?)

よくあることなのだが、言い争ったことが気になって杉本が振り返ると、徳さんも気になっていたらしくこっちを見ていた。

二人の目が合う。

わっ、やべえ。

あわてて視線をそらす杉本。

やっぱりあのジジイはタダ者じゃないな。市長賞をもらっただけのことはある。

杉本は駅にある鏡を見ながら髪を整え、もう一度マフラーを巻きなおすと、ポケットからICカードを取り出した。

うぅ、寒~ぅ。朝早くからこんなにがんばってるんだから、俺にもくれないかなあ、市長賞。俺のことを誰か新聞社に投稿してくれないかなあ。

もう一度振り返ると黄色い帽子がいつものようにちょこまかと動いていた。


「分かった。それってカボチャの馬車じゃない? 午前0時を過ぎると馬がネズミに変わるはずだよ!」

さくらは教室に入ると、真っ先に目が合った仲良しの蘭に深夜の馬車の話をした。

馬車が沢井さんという家の前に停まり、乗り込んだおばあさんが亡くなったらしいということを。

もしかして、怖がるかなと思ったが、出てきたのはこのセリフだ。

話さなきゃよかった、このバカ蘭に!

人が真剣に訊いているのに何がカボチャだ。自分がカボチャみたいな体形と、カボチャみたいな顔しているクセに。

蘭はいつもこうなんだ。まじめな話をしているのに、いつも茶化すんだ。だったら相談なんかしなければいいと思うのだが、なんか、こいつ話しやすいし、なんか、人を引きつける何かを持っているんだよな、カボチャの分際で。

蘭はいつも首から十字架のペンダントをぶら下げている。以前、飼っていた犬が病気になったときに、近くの教会でお祈りしたら、たちまちのうちに治ったらしく、それ以来、イエス様が大好きになったらしい。毎週日曜日に教会へ出かけるのを楽しみにしていて、私もときどき誘われるけど、まだ一度も行ったことはない。


胸にキラキラ光る十字架を揺らして、蘭が生徒の間をドタドタ走り回り、叫びまくる。

「ねえねえ、さくらがカボチャの馬車を見たんだって!」

「深夜を走る馬車だって! 誰か見てない?」

「黒くてでっかい馬が二頭もいたんだって! やばくない?」

「全身黒づくめの男が運転してたんだって! すごくない?」


バカ蘭がクラス中にわめき散らしたおかげで、私は教室のあちこちで、そして隣のクラスに出張してまで、しまいに通りがかったハゲの教頭先生にまで、何度も馬車の話をしなければならなくなった。

でも、それが結果的に良かったのかもしれない。

バカ蘭のうるさいスピーカーに反応を示した人がいたのだ。


「さっき馬車って言ってなかった?」

元アニメオタクのさくらに声をかけてきたのは、現アニメオタクのカエデくんだった。

以前、さくらがアニメオタクだった頃はよく二人で話をしたし、家も近かったのでよく一緒に帰った。文房具の貸し借りもよくしていた。さくらの筆箱の中には借りっぱなしのシャーペンが入ったままだ。いつか返さなくてはと思いながら、いまだに返せてない。

子供の頃から体があまり丈夫でなかった楓くんは激しい運動ができないため、しだいにインドアの趣味に傾いていき、アニメはもとより囲碁や将棋やテレビゲームやパソコンにもやたらと詳しく、ジグソーパズルとルービックキューブの達人でもあった。

しかし、さくらが受験のためにアニメから遠ざかってからは、しだいに楓くんと話をする回数も減っていった。クラスで唯一の話し相手を失った楓くんは、ときどき二つ隣のクラスのアニメ大好き君のところに話をしに行くが、ほとんどは休み時間もポツリと一人でアニメ誌を読んでいることが多かった。


そんな楓くんが久しぶりにさくらに話しかけたものだから、二人の会話を聞き取ろうと教室中が静かになった。それを意識してか、さくらの声も小さくなる。

「みんな信じてくれないんだけど、夜中の二時半ごろ、うちの家のそばに大きな馬車が来たんだよ」

「その馬車は首にたくさん鈴を付けた二頭の馬が引いていて、変わった帽子をかぶった洋装のおじさんが運転してなかった?」

「えっ、そうだよ! シルクハットをかぶってたよ!」

蘭も含めたクラス中の人たちがこっそり聞き耳を立てていることなんか忘れて、さくらは思わず声を上げてしまった。

「楓くんも見たの?」

「うーん、二年ほど前だったかなあ。見たことがあるよ。そのときも夜中だったんだけど、うちの近所の家の前に停まって、その家の人が乗って行ったんだ。馬車なんか見たことなかったから、びっくりしたよ。たぶん、同じ馬車じゃないのかな。後ろにカンテラが二個、ぶら下がっていたでしょ」

「えっ、三個じゃなかった?」

小太りの楓くんが腕を組んで宙をにらんだ。

「いや。やっぱり二個だったはず」


さくらは深夜の馬車を思い浮かべた。

薄っすらと雪が積もった道に停まった馬車。冷たい風に震える二頭の馬と不気味な年代物の車体。暗闇に浮かぶカンテラの数は?

「やっぱり私が見た馬車のカンテラは三個ぶら下がってたと思うよ」

「そうなの? うーん。二個と三個じゃ、意味が違ってくるのかなあ。料金が違うとか、行き先が違うとか、乗り心地がいいとか。やっぱり、タクシーみたいなものかなあ。馬車のタクシーか、外国じゃあるまいし、そんなの日本で走ってるの見たことないけどなあ」

さくらは、興奮していつもより饒舌になっている楓くんに少し驚く。

「それよりも楓くん。馬車に乗って行った人は、もしかして死んじゃったとか」

“死んだ”という決定的な単語が出てきて、近くで耳をダンボにして聞いていた蘭が、我慢できなくなったらしく、ズカズカとしゃしゃり出てきた。

なぜか、アメを食べている。

こいつの口はいつも何かを食べているか、何かをしゃべっているかで忙しい。

「ねえねえ、それってホラーじゃないの? そうでしょ。カボチャの馬車に乗ったら死んじゃうんだよ、きっと」そう言うと、胸で揺れている十字架を握りしめた。「二人つづけて死んじゃうなんて、超怖え~。ねえ、みんなー、さくらの話、聞いた? 新たな都市伝説が生まれたよ。呪いの馬車だって。また今夜どこかで死人が出るよ、ぜったい!」

興奮した口からアメ玉が落ちそうになって、バカ蘭はあわてて押えたが、

「その人、死んでないよ」

楓くんの冷静な言葉に、蘭の熱い言葉は温度を失い、

「うっそー!?」口からポーンとアメ玉が飛び出した。

「しばらく入院してたんだけど、退院して今はピンピンしているよ。あれから二年経ってるけど元気だよ。先週の区内一周マラソン大会シニア部門で優勝したのはその人だもん」

「なんで生きてるの? さくらの馬車に乗った人は死んだのに」

蘭がアメ玉を拾いながら言う。

ちょっと、バカ蘭!

「私の馬車じゃないんだからね! それと、拾ったアメ玉を食べようとするな!」

「大丈夫! 落としても三秒以内に食べればいいから」


 その日は久しぶりに楓くんと一緒に下校した。

授業中にふと思い出したことがあって、ぜひ伝えておきたい事があるという。きっと馬車のことだろう。あれから目新しい馬車の情報はなかったので、帰り道が楽しみだった。馬車の正体が分かったのかもしれない。

「最近、ネットで話題になってることなんだけど、金色のカーテンって知ってる?」

さくらはスマホもパソコンも持っていたが、アニメ断ちとともにそれらも封印していて、ネット情報にも疎くなっていた。その前に、ネットで流れている情報については、あまり興味もないし、信用もしていない。最近はフェイクニュースという言葉もよく聞かれる。楓くんがネットで話題と言ったとたん、顔に拒絶反応が出てしまった。

きっと嫌な表情になっただろうなあ。見られたかな? チラッと横にいる楓くんを見たが、まっすぐ前を向いたまま、真剣な眼差しをして歩いていた。

私の馬車の話をちゃんと聞いて、考えてくれていたんだ。それが馬車と関係しているのか分からないけど、こっちもちゃんと話を聞いてあげなくては失礼だ。

「最近いろいろと忙しくて知らないんだけど、何それ?」

「金色のカーテンというのはね、ネット上でみんなが勝手に名付けて呼んでるだけなんだけど、そのユラユラ揺れているカーテンの中に包まれるとレイガンが開けるらしいんだ」

「えっ、レイガンって?」

「ボクたちが持っているのは肉眼で形あるものしか見えないんだけど、形がない、たとえば神様とか霊なんかが見えるのが霊眼なんだ。その霊眼が一時的に開くらしいんだ」

「だったら、幽霊も見える……?」

さくらは自分でそう言った瞬間に気づいた。

私の霊眼が開いてる?


「金色のカーテンは最初、九州の南部に現れて、桜前線のように北上してるらしいんだ」

「それじゃ、この辺にそのカーテンが降りているから、私の霊眼が開いて、亡くなったおばあさんと馬車が見えたっていうの?」

まっすぐ前を見て歩いていた楓くんは立ち止まると、初めてさくらの目を見て言った。

「そうだと思う」

さくらも立ち止まると、あたりをキョロキョロと見渡した。

金色のカーテンだって?

周りに金色の物なんて浮かんでないし、神様も霊も……。

「何か見える? ボクの周りなんかに何か見えない? 浮遊霊とか地縛霊とか……」

「何も見えないけど」

「やっぱりそうか。ウワサではいつも見えるわけではないらしい。ときどき何かが見えるときがあって、それも見える人と見えない人がいるんだって。しかも、そのカーテンは一週間くらい居座って、また北上をはじめるらしいんだ」

「よかった。いつも幽霊とかお化けが見えていたら怖いよ」

「そうだよね。赤ちゃんじゃないしね」

楓くんはそう言ってまた歩き出した。

さくらがあわてて追いかける。

「待って、赤ちゃんて霊が見えてるの?」

「そうらしいよ。だんだん成長してくると見えなくなるらしいけど。だから、ボクたちも記憶にないだけで、見えてたはずなんだ。それと動物はずっと見えてるらしいよ。ほら、イヌとかネコが何もない壁に向かって吠えてたりするじゃない。そこには霊がいるらしいよ」

「えっ、動物?」

「そう。金色のカーテンが降りている地域は動物たちに異常な行動が現れるらしくて」

さくらは動物と聞いて思い出した。

「楓くん、この辺に金色のカーテンが降りたのは三日前からかもしれない」

楓くんが驚いて振り向いた。

「どういうこと?」

「うちに小梅っていう白いネコがいるでしょ。三日前からおかしいんだよ。空を見上げたり、空中を引っかいたりして、なんだかキョロキョロソワソワしてる」

「そうか。やっぱり、金色のカーテンがこの地域に降りてきてるんだ」

楓くんはそう言って空を見上げた。

さくらも釣られて見上げてみたが、いつもと変わらない青い空と、少し灰色がかった雲が浮かんでいるだけで、金色はどこにも見えない。

馬車は見えても金色のカーテンは見えないのだろうか。

並んで歩きながら、楓くんが訊いてくる。

「さくらちゃんは、どうやったら見えるようになったの?」

「どうって言われても……」

「どこかで修業した? 山にこもったとか、滝に打たれたとか、お遍路に行ったとか」

「そんなのやるわけないでしょ!」

「うーん。だったら食べてる物が違うのかなあ。毎朝何を食べてるの?」


さくらちゃんはいいなあ。うらやましいなあ。ボクも馬車が見えるようになりたいなあと言いながら、楓くんはなぜか今朝、私が食べた朝食のメニューを聞いて帰って行った。同じものを食べると、同じものが見えると思ったらしい。

食べ物なんか関係ないと思うけどなあ。

同じものを食べてるお母さんとお父さんは何も言わないし。

白ネコの小梅はキャットフードとちゅ~るを食べてるし。

でも、楓くんの明日の朝食はコショウがきいたハムエッグだろうな。

この日もまた、さくらは楓くんから借りていたシャーペンを返すのを忘れた。


 楓はコショウが効きすぎて辛くなったハムエッグを食べて学校に行き、さっそくクラスメイトの背後をジロジロ見てみたが、背後霊も守護霊も見えず、授業中はずっと集中して先生の背後を見ていたら、何を勘違いされたのか、

「おう、楓。やっとやる気が出てきたようだな」と先生にほめられて、

「みんなもボケッとしてないで、楓を見習って黒板に集中しなさい」とおだてられた。

 おかげでクラス全員に注目された。普段から目立たないように行動していた楓にとっては、自業自得とはいえ、迷惑なことだった。


楓は学校にはいろいろな霊がいると聞いたのに何も見えず、ガッカリして校門を出た。放課後はそれでも何とか霊眼が開いて霊が見えないものかと、以前、火事で焼死した人が出たマンションに忍び込んだり、“死亡事故現場”と書かれた看板がある交差点に立ってみたりしたが何も見えず、家の近所にある踏み切りのそばで浮遊霊が現れるのを、張り込みして待ってみた。


ここはいったん閉まると十分ほど開かない“開かずの踏み切り”と呼ばれているところで、かつてなかなか開かないのに焦れて遮断機をくぐったオバサンが、走ってきた特急列車にはねられて即死した場所だった。

楓は寒い中、線路を見つめたり、警報機を見つめたり、空を見上げたりしたが、カーテンらしきものも、霊らしきものも見えない。

なんでボクには見えないのだろう。三年ほど前には馬車らしきものも見えたのに。

あのときは偶然だったのかなあ。それとも金色のカーテンに気づいてなかっただけかなあ。神様じゃなければ幽霊でもいいから見えないかなあ。できれば若くてキレイなお姉さんの幽霊の方がいいんだけど。でも贅沢は言ってられない。オバサンの幽霊でいいから出てきてほしいな。


そろそろ陽も落ちようとしていた時刻。

寒さで震える手を合わせ、足踏みをしながら、踏み切りの傍らに立って、何台もの電車をやり過ごした。遮断機が上がるとたくさんの人に混じって、渋滞していた車がいっせいに走り出す。

こんなにたくさんの人がいたら、幽霊も恥ずかしくて出てこれないんじゃないかなあ。人気のなくなる夜に出直さないとダメかなあと思ったとき、後ろから声をかけられた。

「ちょっと、キミ!」

「ついに出たか、オバサン幽霊!」と振り向く。

「キミはさっきから、ここで何をやってるの?」二人の女性警官が立っていた。

オバサンじゃなくてけっこう若い。ミニスカポリスじゃなくて、ふつうの紺色スラックスをはいているポリスだ。そして、二人の後ろには小さなパトカーが停まっていた。

そういえば、さっきミニパトが通り過ぎて行ったっけ。

遮断機が上がっても踏切を渡らず、ぶつぶつ独り言を言いながら、思い詰めたような表情であたりをキョロキョロしていたので、不審者だと思って引き返してきたんだろう。

ご丁寧に手も合わせていたから、お経を唱えながら、踏み切りに飛び込むと思われたのだろうか。

お経を唱えながら飛び込むなんて、命を粗末にしているわけだから、信仰心があるのかないのか分からないなあ。

「キミは高校生なの?」一人が訊いてくる。

「そ、そうですけど。な、何ですか?」舌がもつれる。

人生初の職務質問に戸惑う。近くに停めてあるミニパトのパトライトが回っているため、たくさんの人が何事かと立ち止まってこちらを見ている。

まさか、心霊スポットで浮遊霊を張り込んでいたなんて言えず、一瞬困ってしまったが、頭の中にたちまち言い訳が湧いてきた。

「ぼくは第一高校の鉄道研究会でして!」わざと大きな声で答える。この方が本当に聞こえるはずだ。「夕陽に向って走り行く電車を観察していたんです!」

二人の女性警官は疑わしそうに楓くんを見ていたが、

「じゃあ、これは何という電車かな?」と訊いてきた。

目の前をオレンジ色の電車が通り過ぎる。

やはり疑っているらしい。

インドアの趣味にはいろいろくわしい楓だったが、鉄道についてはまったくの素人だった。

でも、黙っているわけにはいかない。地元を走っている電車の名前も分からないようでは、本物の鉄道研究会の部員に申し訳ない。

「えーと、これはですねえ――鈍行です」

走っていく速度から判断して、適当なことを言ってみる。

ところがありがたいことに、その女性警官もまったくの素人だった。

「そうみたいね」鈍行を見送る。

「そろそろ暗くなってくるから、早く帰らないとダメだよ」


二人のロングスラックスポリスはミニパトに乗って行ってしまった。

楓は第二高校なのに第一高校とウソをついたことに、ちょっとだけ罪悪感を覚えながら、家路へと急いだ。

楓の横をまた鈍行列車が夕陽へ向かって走って行った。

学生証を見られなかっただけでもいいか。まさか、偽証罪なんてものにはならないだろう。実は第一高校に鉄道研究会があるかどうかも知らないんだけど。

でも、残念だなあ。せっかく金色のカーテンが降りてきているというのに今日も無駄足だった。一度でいいから、金色のカーテンとやらにグルグル巻きにされてみたいものだなあ。


楓は二階の窓から顔を出して、あたりを見渡したが、馬車らしきものは走ってなかったし、耳を澄ましてみたが、鈴の音も聞こえなかった。

やっぱり朝食が原因じゃないのか。同じメニューで食べてみたけど、何も見えなかったしなあ。

よしっ、月曜日、さくらちゃんのお昼のお弁当のおかずをのぞき見して、晩御飯のメニューも訊いてみよう。食べ物じゃなかったら、他の可能性も考えてみることにしよう。 

ああ、それにしても疲れた。長時間、浮遊霊の張り込みを続けたから、体がきついなあ。


楓はゆっりとベッドに横たわった。

今日は久しぶりにあちこち歩き回ったので、かなりの疲れが出ていた。家に帰ってきた楓の顔を見て両親が心配したくらいだ。鏡を見てみると、確かに土気色をしていて、疲れた表情をしている。激しい運動をしてはいけないと言われているが、金色のカーテンの滞在期間は一週間しかない。この機会を逃すわけにはいかない。

天井を見上げながら、考えを巡らせる。

ネット情報によると、騒がしかった九州の南部地方の動物たちが、しだいに沈静化しつつあるらしい。つまり、金色のカーテンの端っこが九州を外れだしたということだ。 

だったら、急がなくてはならない。

カーテンを追いかけて北上するわけにはいかないからだ。今度はいつカーテンが発生するか分からない。いや、もう発生しないかもしれない。これからの人生のうちで、この一週間しかチャンスがないのかもしれない。このチャンスを逃すと、霊眼は開かず、何も見られなくなる。

明日も何か幽霊らしきものが出そうな場所に出かけよう。

ボクに残された時間はわずかしかない。


楓は姿勢を変えず、天井を見上げたまま、今日訪れた場所を一つ一つ思い浮かべていた。他に霊が出そうな場所と言えばどこだろうか?

頭の中で近所の地図をグルグル回してみる。

近所に死にそうなお年寄りはもういないし、やっぱり、病院の前に張り込むか。それとも葬儀屋さんか? いや、葬儀屋さんに行っても、死んじゃった後だから、もう遅いのか。死んで間もない人じゃないとダメだろうしなあ。

やがて眠気が襲って来て、楓の意識は朦朧としはじめた。

その時、規則正しく動いていた心臓の鼓動が、不規則に乱打を始めた。

ドクッ、ドクッ、ドドド……。

これはヤバい!

あわてて上半身を起こした楓の目の前が一面、金色に変わった。

カーテンを閉めた窓。アニメのポスターが貼ってある壁。見慣れたシミがある天井。フローリングの床。エアコンを切ってもまだ暖気が漂っている部屋の空気。

すべてが金色に輝いている!

「ああ、やっと見えた! これが金色のカーテンだ! すごい!」

ここで楓の意識は切れた。


午前一時。

夕方から今夜にかけて、かなりの雪が降った。まだ先日の雪が残っていて、溶けきらないうちに、また降り積もることは珍しい。

あたりは真っ白で、道路や屋根に積もった雪が月の光を反射して、街全体が明るく感じる。

さくらが三十分間だけの“ながら族”を開始しようと、ラジオのスイッチに手を伸ばしたとき、

シャン、シャン、シャン……。

あの鈴の音だ!

二頭の馬が首につけているあの鈴の音が聞こえる。

時報とともにラジオから軽快なテーマ曲が流れ出す。このあと毎週土曜日はオープニングから異様にテンションが高いDJが登場する。このDJはあまり好きじゃないけど、選曲のセンスがいいので土曜日も三十分だけ“ながら族”で勉強している。

DJが大声を出す前にラジオを切った。

シャン、シャン、シャン……。

音が移動している。家に近づいてくる。

――ギシッ。

停まった。

またこの近くに馬車が来たんだ!


さくらは急いで立ち上がり、前回のように部屋の電気とエアコンを消して、窓を少し開けると、中腰になって、カーテンの隙間から外を見た。

沢井さんとは逆方向の斜め前、栗林さんの家の前に、あの馬車が停まっていた。

ドラマなんかでよくやっているように、自分の頬を叩いてみた。

夢ならこれで覚めるだろう。でも、意識になんの変化もない。やっぱり幻聴でも幻覚でも夢でもない。馬車が確かに停まっている。

今度は馬車を正面からはっきりと見ることができた。栗林さんの玄関のドアの上にある蛍光灯と門灯からの光に、馬車が浮かび上がっていたからだ。

馬車の両脇には丸いライトが付いていて、前方を照らしている。首に鈴をつけた二頭の馬は黒毛で大きく、御者台の横には鞭が立てかけられている。そこに座っているシルクハットの男はボックスコートを着ていて、足にはブーツをはいている。年齢までは分からないが、年配者のようで小柄に見える。服装と体型からして、前と同じ男だろう。栗林さんの家の中は真っ暗で、やはり馬車は誰かを待っている様子だ。沢井さんのときと同じだ。これから誰かが出てきて馬車に乗り込むのだろうか。

いったい誰が?

さくらは先週、栗林さんのおじいさんが救急車で運ばれたことを思い出した。

お母さんが、二週つづけて救急車はないよねえ。塩でもまかないと、と言ってたっけ。急に具合が悪くなって病院に搬送されたのだが、四、五日入院して、すぐに帰ってき

たと聞いたけど、その後はどうなんだろうか。


エアコンを止めたため、そろそろ部屋の中が冷え始めたとき、栗林さんの家のドアが静かに開いた。

蛍光灯の光が上からその人物の顔を照らす。

――やっぱり、栗林のおじいさんだ!

青いパジャマ姿のおじいさんが出てきて、驚いたように大きな馬車を見上げた。沢井のおばあさんのときと同じ仕草だ。しかも、同じように薄着のままだ。

しかし、おじいさんは一人ではなかった。茶色い犬――パンジーを連れていたのだ。御者台の男が右手をあげて、乗るように促した。

この手順も沢井さんのときと同じだ。

栗林のおじいさんはその男を見て大きくうなずくと、パンジーを抱きかかえて馬車に

乗り込んだ。

 

 シャン、シャン、シャン……。

シルクハットの男が手綱を操ると、おじいさんとパンジーを乗せた馬車が走り出した。

深夜の街に鈴が鳴る。車輪がきしむ音と馬の足音があたりに響く。闇の中を二つのライトで照らしながら、馬車がこちらに向かってくる。

さくらは二階だから大丈夫だと思ったのだが、一応見つからないように身をかがめる。家の前を通り過ぎたとき馬車の中が見えた。薄っすらと車内灯が灯っていたからだ。おじいさんは膝の上にパンジーを乗せて、まっすぐ前を向いて座っていた。


カラン、カラン、カラン……。

馬車の後ろで三つのカンテラが鳴っている。楓くんは二つと言っていたけど、やっぱり三つある。三つの明かりが闇の中に遠ざかっていく。

やがて、馬車は沢井さんの家の前を通り過ぎて、ナースのかすみさんの家の角を曲がって見えなくなった。

さくらは鈴の音が聞こえなくなると、押入れから引っぱり出したスマホの電源を素早く入れて、ポケットに突っ込むと、両親を起こさないよう、静かに階段を下りた。

玄関マットの上に白ネコの小梅が座って、こちらを見上げていた。

「小梅、起こしちゃった? じゃあ、一緒においで!」


さくらは片手で小梅を抱え上げると、ドアを開けて外に出た。

パジャマ代わりのピンクのスウェットの上下をいきなり冷気が包む。たちまち息が白くなり、寒さのために両肩に力が入った。小梅も冷たい空気に触れて、目を細めている。

「ねえ、小梅。この辺に金色のカーテンが下りてるはずなんだけど見えないかな?」

小梅はさくらの言葉が分かったかのように、あたりをキョロキョロし始めたが、何も答えてくれない。

道路に積もった雪の上には、馬車が付けた二本の車輪の跡と、馬が付けたいくつもの足跡がくっきりと残っていた。手で触ってみると、今できたばかりの跡だと分かる。もっと前についた跡なら、この寒さだから、カチカチに凍っているはずだ。

やっぱり夢じゃない。蘭が言う童話の世界に出てくるカボチャの馬車ではないし、馬はネズミに変わっていない。ついさっき、二頭馬車が栗林のおじいさんとパンジーを乗せて、ここを走って行ったんだ。

確かに、鈴の音と車輪の音が聞こえた。確かに、丸いライトの明かりと馬が吐く白い息が見えた。あたりにはまだ、大きな黒毛の馬の体臭が漂っているような気がする。これはすべて現実に起きていることなんだ。

おじいさんとパンジーはどこへ連れて行かれたのだろう。

沢井のおばあちゃんのように、もう死んでたのだろうか?


さくらは寒さも忘れて、馬車の轍がずっとつづいている道路を見つめていた。

「あっ、そうだ!」

さくらはポケットからスマホを取り出した。証拠写真を撮っておこうと持ってきたものだ。長い間押し入れに突っ込んでいたが、幸いにもバッテリー残量はまだ三十パーセントもある。安かったのに優秀なスマホだ。

馬車をまったく信じないバカ蘭に写真を送り付けてやるんだ。


さくらは小梅を地面に下ろした。

小梅はブルッと体を震わせる。

「ここで静かにしてるんだよ」

そのとき……、

シャン、シャン、シャン……。

小梅の耳が立ち、音を拾い始めた。 

「ねえ、小梅、どういうこと?」

シャン、シャン、シャン……。

「ヤバい、馬車が引き返してきた!」


 さくらは小梅を抱えると、あわてて家の中に戻った。

玄関のドアの隙間を少し開けると、しゃがんで外を見た。さくらの下で小梅も這いつくばって、外を見ている。今から何が起きるのかが、分かっているらしい。

―—ガーッ!

さくらの家の前を再び黒い馬車が通り過ぎていく。

ドアの隙間から入り込んできた真冬の冷たい空気が顔を刺し、長い髪をかき上げる。すぐ目の前で大きな車輪が回転している。それを小梅が懸命に目で追う。たちまち粉雪が舞い上がり、視界を塞いだ。さくらは何とか目を凝らして馬車を見上げた。間近で見ると、思ったよりも大きくて迫力がある。猛スピードで通り過ぎる馬車に遅れないよう、目で追いかける。御者台で手綱を持っている小柄な男は六十歳くらいで銀縁のめがねをかけている。前列の座席に栗林のおじいさんが一人。膝の上には茶色いパンジーがちょこんと座っている。

そして……。

後列の席にはもう一人の乗客が座っていた。さっき見たときには座ってなかったので、たぶんこの人を迎えに行ったのだろう――ということはこの人も死んでる?

若い男性のように思えたが、さくらの位置からは暗くて顔がよく見えなかった。

馬車が家の前を通り過ぎた。

――今だ!

さくらがドアを開けて飛び出した。

雪煙の向こうを馬車が小さくなっていく。

カシャーン、カシャーン、カシャーン。

スマホを構えてシャッターボタンを押し続ける。

馬車の音に負けじとシャッター音が響く。

連写したあと、写真を確認した。

確かに写っている。

そこには馬車を取り巻くように、金色のカーテンも薄く写っていた。


シャン、シャン、シャン……。 

やがて、三つのカンテラが闇の中に溶けて見えなくなった。

さくらの目の前を金色のカーテンが揺れている。色は薄いが確かに金色をしている。街のあちこちで揺れているようで、小さなオーロラといった感じだ。

「ああ、これが金色のカーテンか。――楓くん、私にも見えたよ」

小梅は寒さに参ったのか、家の中に引っ込んでソファーの上で丸くなっていた。

 部屋に戻るとすでに一時半になっていたが、蘭と楓くんに写真を添付したメールを送った。


“こんばんは、蘭。

アンタ、この時間じゃ、夜食を山盛り食べたあと、口を開けて寝てるでしょ。

だから、電話じゃなくて、メールを送るよ。

また、馬車を見たよ、たった今。

カボチャじゃなかったよ、マジで。

信じないと思うから写真を添付しておくよ。

よーく、見るようにね。

うちの近所のおじいさんを乗せて行ったよ。

だから、都市伝説じゃないよ。

それに、他にも乗ってる人がいたみたい。

もう私も寝るので、くわしくは月曜日に学校で。“


“こんばんは、楓くん。さくらです。

たった今、馬車を見たよ。

金色のカーテンも見えたよ。

うちの近所の栗林さん、知ってるよね。

あの家に来て、おじいさんと犬のパンジーを乗せて行ったよ。

もしかして、また死んじゃってるのかもしれない。

明日、会える?

月曜日でもいいんだけど、早い方がいいかなっと思って。

都合がよければメールをください。

それと馬車についてるカンテラは三つだったよ。

写真を添付したから見ておいてね“


 明日といっても日付はもう変わっているので、すでに日曜日になっている。楓くんとは、ご近所なのですぐに会うことができる。早く会って話がしたかった。早くしないと、さっき見たばかりの馬車の細かいことを忘れそうだし、馬車についての印象も変わってしまうように感じたからだ。楓くんが見た馬車と同じものなのかを、もう一度確かめたかったし、顔がはっきり見えた御者も同じ男なのか聞きたかった。

そして楓くんが見た馬車に乗っていた人は、なぜ無事だったのかも二人で考えてみたかった。たぶん栗林のおじいさんは、すでに死んでいるんだと思う。入院して帰ってきて、自宅療養中だったのだが、また悪くなって死んでしまったんじゃないかと思う。あのパンジーが一緒だったのだから。


第一目覚まし時計が鳴って、さくらはアラームを止めた。日曜日だから少し遅めの時間にセットしてあったが、この朝、第二目覚まし時計の出番はなかった。

第一目覚まし時計が鳴ってすぐに、階段の下からお母さんの怒鳴り声がしたからだ。第二目覚まし時計が鳴らないようにスイッチを切り、気合を入れて、両足で布団を蹴り上げ、覚醒完了!

「ちょっと、さくらーっ、大変よー!」

栗林さんのおじいさんのことだと、さくらは思った。

お母さんは日曜の朝でもうるさい。曜日に関係なくうるさい。


 お母さんが近所から聞き込んできた情報によると……。 

先週、具合が悪くなって病院に運ばれた栗林のおじいさんは、退院してから自宅で療養していた。そして、元気がなくなったおじいさんに合わせるかのように、長年飼っている茶色い犬のパンジーの具合が悪くなり、ほとんど物を食べなくなっていた。そんな病床にいる一人と一匹を、栗林のおばあさんは懸命に世話をしていたという。


しかし、おじいさんとパンジーはほとんど同時刻に亡くなって、一緒に馬車で運ばれた。


沢井のおばあさんの死が確認された朝。さくらは夢うつつでパンジーの鳴き声を聞いていた。パンジーが病気の体を押して激しく鳴いていたのは、次が自分とおじいさんの番だと分かったからなのだろうか。それとも、金色のカーテンを見て驚いて吠えていたのだろうか。動物は人間が持ってない不思議な能力をたくさん備えているという。パンジーはたくさんの能力の中の一つを使って、おばあさんと近所の人たちに、自分とおじいさんの死期が近いことを知らせてから、あの馬車で運ばれて行ったのだろうか。

 日曜日、蘭と楓くんからの返信メールは来なかった。

 

月曜日――。

“神様はすべての人間に対して平等なのです”と書かれた垂れ幕がビルの屋上からぶら下がっている宗教施設の前を、杉本は腕時計をチラッと確認しながら、猛スピードで走りすぎた。

きのう、友人からイヤなウワサのメールを受け取った杉本は、早朝追試がある日でもないのに、いつもより早く家を出て、いつものように駅前の駐輪場に白線内にピタリと自転車を止めると、ちょこまかと動いているはずの黄色い帽子を探したが、見つけることはできなかった。


“徳さんが病気で入院したらしい。危ないみたいだ”

友人からのメールにはそう書いてあった。

日曜日の朝、徳さんの姿が見えなくて、自転車整理をしていた人に訊いてみたらそう言われたらしい。

徳さんは月曜日から金曜日までここで働いているが、土日もボランティアで働いていた。つまり、一年三百六十五日間働いていて、この駐輪場と自宅を往復する毎日だったらしい。


以前、そんな徳さんの体調を心配して、杉本は声をかけたことがあった。

「徳さん。たまには休めよ。体、壊すぞ」

「ふん、大きなお世話だ。わしの体は丈夫にできてんだよ。不良みたいにタバコは吸わないしな」

駐輪場の隅で、白い軍手をはずして、携帯用灰皿を持ちながら一服している徳さんを見かけたことがあるが、杉本は黙ってあげていた。

「俺は不良だけど、タバコは吸わないんだ」

「ほう、健康的な不良だな」

「ケンカするときに体力がいるだろ。俺の経験からするとタバコを吸ってる奴は、体力がなくて弱いんだ」

「ほう、そうかね。酒はどうなんだ」

「飲まねえよ」

「飲めよ。酒はうまいし、体にいいぞ」

「バカか! 高校生に酒をすすめるなよ」


二つの高校の男子生徒のほとんどが、徳さんとケンカしたといってもいい。しかし、みんなどことなく徳さんのことを慕っていた。日曜の朝にメールをしてきた友人も、徳さんとは毎日のように言い合っていたが、入院した徳さんのことを心配して連絡をくれたのだ。

徳さんの代わりに自転車を整理していた、やたらと愛想の良いおじさんに訊いてみたが、警備会社からここに派遣されただけで、徳さんとは面識はなく、ただ会社からは前任者が急病で入院して、再起不能だから交代してほしいと言われたらしい。

見渡しても見当たらないということは、入院していて危ないというウワサは本当だったようだ。

急に寒さを感じた杉本は緩んだマフラーを巻きなおした。

「くそっ、徳さんの奴、何が再起不能だ。毎日元気なフリをしてやがったのか。年寄りのくせに見栄を張りやがって」


ただ、杉本も徳さんという名前を知っているだけで本名は知らなかった。徳さんという名前も先輩から教えてもらったもので、その先輩も本名は知らないだろう。生徒代々、あの駐輪場のおっかないオヤジは徳さんという名前だと、武勇伝とともに語り継がれているだけで、誰もくわしくは知らなかった。

つぎつぎに入ってくる自転車。

徳さんの姿が見えないのをいいことに何人かがいい加減に止めている。新しく来たおじさんがペコペコと頭を下げながら、うるさい生徒らに白線内に止めてくれるようにお願いをしている。

それを見て舌打ちをした杉本の横を、轟音をあげて二人乗りのバイクが通り過ぎる。

あいつらこの前、徳さんと一緒に見ていたバイク野郎だ。

なんで、一年中働いている徳さんが死にかけてるのに、あんなアホな連中が元気なんだ?

 杉本はさっき通り過ぎた宗教施設の垂れ幕を思い出した。

“神様はすべての人間に対して平等なのです”

――そうかもしれない。

平等だから良い人も悪い人も同じように病気になるんだ。

平等だから良い人もアホな連中も同じように元気なんだ。

杉本はどんよりとした雲を見上げてそう思った。

諦めて、重い足取りで駅に向かう。

マフラーが乱れているが直そうとしない。

もう一度、曇った空を見上げた。

「徳さん、今日も金色の黄砂なんか飛んでねえよ。何が吉兆だよ。ふざけんじゃねえよ」


冬の月曜日の朝は一番嫌いだ。

寒いし、眠いし、体がだるいしと、三拍子そろっているからだ。

おまけに死んだ人を乗せて走るあの不吉な馬車を夜中に二度も見てしまったため、いつもの倍は気分がすぐれない。

私がさっき歩いた道を、まだ路肩に少しだけ雪が残っているあの道を、二頭馬車が死者を乗せて通って行った。

確かにそのはずだった。

でも、馬の足跡も馬車の車輪の跡もなぜか消えていた。

あれだけくっきりと付いていたのに、不思議なことだらけだ。

さくらは歩きながら思った。

そもそも、お迎えというのは、ああいう形でやってくるのだろうか。いずれ私にも。いや、その前に年齢の順番からするとお父さん、お母さんにお迎えが来る。そのときはうちの家の前にやっぱりあの馬車が来るのだろうか。あのシルクハットをかぶったおじさんが二頭の馬を操って、やって来るのだろうか。

そのとき、私は何をしているのだろう。どうすることもできずに、お父さんかお母さんを乗せた馬車を見送るのだろうか。でも、そのときは楓くんが言う金色のカーテンは北上していて、霊眼も閉じているだろうから、馬車は見えないのかもしれない。

だから、私が寝ている間に行ってしまうのだろう。

あの奇妙な馬車に乗せられて死者が行く?

いったい、どこへ?


さくらは立て続けに起こった奇妙な出来事をもう一度思い出し、あれこれ考えながら、寒空の元、背中を丸めながら、学校へと急いでいた。

二頭の黒毛馬。黒い御者。青白い死者。金色のカーテン。騒いでいる小梅、霊眼。

保存しておいたスマホの写真をチェックしてみたら、二頭の馬も馬車の車体もあの三つのカンテラも消えていた。薄く写っていたはずの金色のカーテンも見当たらない。確かに馬車に向けてシャッターを切ったし、そのとき写っていたのを、その場で確認した。なのに後から見てみると、舞い上がった雪が写っているだけだった。

蘭と楓くんに送った写真も馬車が消えて、雪しか写ってないのだろう。二人は文句を言ってくるかもしれない。

でも、説明のしようはない。

小梅も一緒に見ていたのだが、証人にはなれない。だって猫だもん。

さくらはもしかしたら馬車は写ってないのではと思っていた。

あれはこの世のものじゃないんだ。

だから、この世の常識なんか通用しないんだ。


校門が見えたときのことだった。

「わっ!」

さくらは後ろから走ってきた巨大な物体に体当たりされて、転びそうになった。

振り返ってみると蘭だった。胸で十字架が揺れている。

「痛ェなあ。ちょっと、蘭。アンタ、人より体が図々しいんだから加減しなよ。ムチ打ちになるところだったじゃない」

「さくらがボケッと歩いてるからだよ。でも、寒い朝は走るに限るね。ダイエットにもなるし」

蘭が口をモゴモゴさせながら言う。

「アンタ、なに喰ってんの?」

「芋ようかん」モゴモゴ。

「そんなもん、朝っぱらから喰うなよ! ダイエットにならないでしょ」

こいつにもこの世の常識は通用しない。

「こんなのは許容範囲内よ。些細な誤差よ」

蘭はポケットからハンカチを取り出して口元をぬぐった。

「それよりも蘭。アンタ、なんでメールの返事くれないの」

「えっ、メールくれたの? 私のスマホ壊れてたんだよ。充電しても全然電気がたまらないし、電池がボワーッて膨れる事故があったじゃん。それじゃないかと思って、危うく爆発よォ。だから今、修理に出してんの。今日、戻ってくるからさあ、読んだら返事を送ってあげるよ。ハハハ」

「ハハハじゃないよ。あとからメールを読むより、今、直接話した方が早いでしょ。――またうちの近所に馬車が来て、おじいさんと犬を乗せて行ったんだよ」

「ハハハ。どうせ乗った人はマラソン大会で優勝したんでしょ?」

蘭が満開の顔で言った。

「きのう、亡くなったよ」

「えっ、うっそ?」蘭の顔がしおれた。

「具合が悪いと聞いていた犬も一緒に死んじゃったみたい」


土曜の夜のできごとをくわしく話してあげたら、蘭はショックを受けたみたいで、しばらく二人は無言で歩いた。都市伝説だなんて言いながら、さんざん茶化して学校中に言い触らしていたことが本当に起きたことだったのだから、悪いと思っているようだ。

「さっきから考えてたんだけどさあ、私も蘭も死んだら馬車が迎えに来るのかなあ」

「うーん。でもさあ、馬車って、どっちかというと外国のものじゃない。私みたいにイエス様が大好きで、外国人みたいに彫りの深い顔している人は馬車なんだろうね」

ダメだ。こいつ全然反省してない。

「メリハリのないノッペリした顔のどこが外国人顔なんだよ。じゃあ、私は何が迎えに来るわけ?」

「さくらは凹凸がないバリバリの日本人顔だから駕籠じゃない? エッサ、ホイサって来るんだよ」

「ちょっと、蘭。アンタ、人がまじめに訊いてるんだから、まじめに答えてよね」

「そうだよね。死んでから、エッサ、ホイサって運ばれたら笑っちゃうよねえ。すごく揺れそうだしね。おまけに担いでるのがチンパンジー! ウッキー!」

「アンタ、全然分かってないね。――あっ、蘭。ヤバいよ!」

「えっ、なに!?」

「学校を通り過ぎた!」


 冬の月曜日の朝の教室はいつもと違ってかったるい雰囲気が漂っている。今日から新しい週が始まるという抑揚感など感じられない。みんなは遊びすぎた土日の疲れを引きずって、寒い中を学校に来ていた。

しかし、今日の教室は何か少し違った雰囲気に包まれている。すでに何人かの生徒が来ていたし、教室内も暖房で暖まっていたというのに、蘭が大きな声で、おっはよー! と叫んでも、チラッと見ただけで誰も返事をしてくれなかったのだ。

「みんな、どうしたの?」蘭が戸惑って訊く。

異様な雰囲気の中で立ち尽くすさくらと蘭に、近くにいた男子生徒が指を差して教えてくれた。

ある生徒の机の上に菊の花が飾られていた。

たちまち、さくらの怒りが爆発して、その男子に食ってかかる。

「ちょっと、どういうこと! 悪い冗談はやめてよね!」

その怒りに顔を歪めた男子が、隣に座っていた学級委員長の竹やんをあごで示した。

うなずいて立ち上がった竹やんが話し出した。

「ボクが来たときにはもう花が置いてあったんだよ。それでボクもてっきり悪い冗談だと思って、先生に言いつけに行ったんだけど、臨時の職員会議みたいで。しばらく待っていたら、柳腰先生が出てきたんで訊いてみたんだ。そしたら……」

さくらはもう一度花瓶が置いてある机に目をやった。

「そしたら、楓くんが亡くなったって……」

 竹やんはウソをつくような男子じゃなかった。

 さくらはショックで倒れそうになった。

 蘭も呆然と突っ立ったままだった。


 さくらが送ったメールの返信が来なかったはずだ。

あのとき楓くんはすでに死んでいたのだ。朝一番で行われた臨時ホームルームで、担任の柳腰先生から正式に楓くんの死が告げられた。楓くんは土曜日の夜、心筋梗塞で亡くなったらしい。朝になっても起きてこないのを心配したお母さんが見に行ったら、ベッドの中で冷たくなっていたという。

昼間、久しぶりに歩き回ったからじゃないかと言っていたらしい。家に帰ってきたとき、かなり疲れた表情だったという。以前から体が丈夫でないとは聞いていたが、あまりにも突然で、あまりにも若すぎる死にクラスメイトは戸惑っていた。


さくらはよく一緒に帰ったころの楓くんのことを思い出していた。丈夫じゃない楓くんに合わせて、いつもゆっくり歩いてあげた。アニメにも詳しかったけど、本にもやたらと詳しくて、おすすめの本をたくさん教えてもらった。でも、読むのが遅くて、よく楓くんに笑われていた。金曜日、馬車のことで久しぶりに話したのが最後になってしまった。


 そうだ、あのとき……。

栗林さんとパンジーを乗せた馬車が引き返してきたとき、若い男の人が乗ってるのが見えた。暗くてよく分からなかったけど、あれが楓くんだったんだ。家の方向も合っているし、きっと同じ日に死んだので一緒にお迎えに行ってたんだ。

あれほど羨ましがっていた金色のカーテンが見れないまま、楓くんは逝ってしまった。馬車も見たがっていたが、その馬車に乗って行ってしまった。


もし、あのとき……。

私が家から飛び出て馬車を止めたなら、楓くんは助かったのだろうか。

栗林のおじいさんもパンジーも生き返ったのだろうか。

死んだ人を運んでいるのだから、助けることはできないのだろうけど、もしかしたらと思う。

今更、考えても楓くんは帰って来ないと分かっていても、あのときのシーンが浮かんでくる。でも、怖くてできなかった。闇夜の中を迫ってくる黒くて大きい馬車に身を縮めていた。飛び出すどころか、玄関のドアの隙間からそっと覗くのが精一杯だった。私にもう少し勇気があったら、楓くんは……。

さくらは体がコロコロしていて、いつも笑っている楓くんのお母さんを思い出していた。いつも楓と仲良くしてくれてありがとねと大げさに感謝していたお母さん。

お母さん、ごめんなさい。

楓くんに何もしてあげられなくて、ごめんなさい。


 翌日の早朝。

意外と律儀な蘭はさくらに返信メールを送ってきた。

“さくら、おはよう。

きょうは朝から栗ようかんだぜ。

スマホの電池を換えたからメール送るよ。

おモチのように膨れた電池は欠陥品だったんだって。

マジで火を噴く寸前だったんだって。

でも、私は日頃の行いがいいし、イエス様に守られているので助かったよ。

さくらも日頃の行いには気をつけて、たまには教会に行ってお祈りをしたらいいよ。

P.S.馬車のことをカボチャだなんて言ってごめん。つづきは学校でね“


 しかし、さくらは蘭からのメールを読むことはできなかった。

メールを受信した直後、さくらのスマホはぺしゃんこに潰れてしまったからだ。


さくらがふと我に返ったとき、突っ立って大きな馬車を見上げていた。

シルクハットをかぶって、ボックスコートを着た小柄な御者。首に鈴を付けた大きな黒毛の馬。座席が向かい合って二列ある二頭馬車。チロチロと燃えているカンテラ。

あの馬車がすぐ目の前に停まってる!

霊眼がまた開いたようだ。

金色のカーテンはまだ居座っているようで、馬車の周りを薄く漂っている。

今度は誰が乗り込むのだろう。

近所の人たちを思い浮かべるが、病気やケガで具合が悪いと聞いている人はいない。

でも、なんだかおかしい。

いつものように自分の部屋から見下ろしてるんじゃない。

どうして私は馬車のすぐそばで立ってるの?

御者が振り向いて右手をあげた。乗れという合図だろう。いつもの手順だ。

だが、周りを見渡しても私以外誰もいない。

私に合図しているの?

シルクハットの下で銀縁のめがねが光る。この光景を二度も見たから知っている。乗ったらどうなるかも知っている。

乗ったらダメだ、早く逃げろと、頭の中でアラームが点滅する。

私が乗る……? 

でも、体が勝手に動き出す。夜中に二度も見かけたあの馬車が目の前にいて、今度は私自身が乗り込もうとしている。時間は分からないが、たぶん深夜だろう。あたりは真っ暗で誰も歩いてないし、車も走っていない。

空一面の星。腕時計で時間を確認しようとしたが見当たらない。スマホもない。どこかで落としたのだろうか、記憶にはない。

目は見える。音も聞こえる。でも、寒さを感じないのはなぜだろう。

やがて、目が暗闇に慣れてきた。

ここは……?

闇の中にいくつかの大きな建物が立っていた。ほとんどの窓は真っ暗だが、電気がついている部屋もある。――市民病院だ!

私は今、市民病院の前に立っている。そして、電気がついているのはナースステーションだ。あの明かりの中でナースのかすみさんが働いているはずだ。

市民病院の正面玄関前に馬車が迎えに来た?

だったら、私は……?

記憶の断片が頭の中を駆ける。

赤信号、飛んで行く腕時計、潰れたスマホ、悲鳴、サイレン、全身の痛み……。

やがて、すべての断片がつながった。

思い出した!

私は……、私は死んでしまったのかもしれない!


 通学途中、鳴り出したスマホをバッグから取り出して、片手に持ちながら横断歩道を歩いていて、横から突っ込んで来た車にはねられたんだ。

宙に舞った瞬間、横断歩道の青信号が見えた。つまり、相手の車の信号無視だった。かなりの滞空時間を感じたが、実際はあっという間だっただろう。

私は地面に叩きつけられた。

あらぬ方向に曲がった手から飛び出したスマホは着メロが鳴ったまま十メートルほど飛んで行って、対向車に轢かれてぺしゃんこに壊れた。

周りを歩いていた生徒たちから悲鳴があがった。早く救急車という声が聞こえて、誰かが110番通報をしてくれた。

手にも足にも力が入らずに、投げ出された姿勢のまま動けなかった。体の下に生温かいものがじわじわと広がっていく。かなりの出血だった。やがて私は聞こえてきたサイレンの音を聞きながら気を失った。


あれから、どれだけの時間が過ぎたのだろう。たぶん、病院で懸命に治療をしてくれたのだろう。その中に新人ナースのかすみさんはいたのだろうか。

泣きそうになりながら、手当てをしてくれるかすみさんの姿を想像して、さくらも泣きそうになる。

かすみさん、私はどうしてここにいるの?

寒さを感じないのは肉体がないからなの?

ねえ、かすみさん、私は本当に死んじゃったの?


 やがて、片足が自分の意思に反して、馬車の踏み板にかかった。足を戻そうとしても力が入らない。自由にならない自分の足をながめてみた。白いソックスを履いている。

通学途中に事故にあったときの服装である、セーラー服の格好のままで、馬車に乗り込もうとしている。病院に運ばれてから、パジャマか何かに着替えさせられたと思うのだが記憶にはない。なぜ制服の格好なのだろう。事故後、すぐに肉体から霊体が抜け出したからだろうか。

私の腕時計はどこにいったのだろう。あのお気に入りの時計は。


シャン、シャン、シャン……。

二頭の馬が焦れて鈴を鳴らす。それを御者の男が無言で手綱を動かしてなだめる。

私はこれからこの馬車でどこかへ運ばれて行く。

たぶん、あの世と呼ばれているところだ。

楓くん、沢井のおばあさん、栗林のおじいさん、犬のパンジーが一足先に行っているであろう、あの世だ。

お父さんとお母さんよりも早く行ってしまうなんて。

お父さんとお母さんは、今頃、どこで何をしているのだろう。私が死んでしまって泣いてるのだろうか。

お父さんと最後に話したのはいつだろう。

お母さんと最後に話したのはいつだろう。

思い出せない。とても大切なことなのに……。

お父さん、最近はお父さんとあまり話をしてなくてごめんなさい。

お母さん、お気に入りの緑色のダウンジャケットをバカにしてごめんなさい。


馬車の扉を摑んで抵抗しようとするが力が入らない。誰かに助けを求めようとしたが声が出ない。さくらはもう一度、振り向いて建物を見上げた。首だけはかろうじて動いた。

あの明かりの中にかすみさんがいるはずなのに声が出せないなんて。

早く、早く逃げないと……。

やがて、さくらは意に反して後ろから押されるように、乗合馬車へ乗り込んだ。


 シャン、シャン、シャン……。 

さくらを乗せた馬車が滑るように走り出す。やっと動くことができた二頭の馬が、開放感に浸るように競い合って駆ける。ひづめの音が街に響く。

市民病院の敷地から道路へ出て大きく左折し、二十メートルほど進んだところで――馬車が飛んだ。


馬車が進む空中の道は大きく左にカーブを描きながら続いている。ずっと先には山が見える。道路はその山のふもとに吸い込まれているように見える。

今から何が起きるのだろう?

薄暗い空が天を覆っている。空に張り付いた星がすぐ近くに見える。

宙に架かる道を二頭馬車が滑るように走って行く。


体の自由が利かず、操られるように馬車に乗り込んださくらだったが、座席に座ったとたん、体が自由に動くようになった。

「あー、あー」声も出せる。

さくらは身を乗り出して下を見たが、真っ暗で何も見えない。たぶん、街の上を飛んでいるのだろうが、なぜか明かり一つ見えない。

これからどこへ連れて行かれるのだろう?

シルクハットの男は馬車の前にある御者台に座って、無言で二頭の馬を操っている。

さくらは思い切って声をかけてみた。

「あの、すいません!」大きな声を出してみる。

なぜか馬車が走る音はしない。他に雑音もしない。

かなり大きな声を出したので聞こえてるはずだ。

「すいませーん!」もっと大きな声を出す。

御者はまっすぐに前を向いたままで、返事をしてくれない。

あのオヤジ、とぼけやがって!

「ちょっと、おじさーん、聞こえてるんだったら、返事くらいしてくださいよー。これからどこへ行くんですかーっ!」

さくらの大きな声は薄暗い空間に響くだけで、御者は振り向いてくれない。

まったく、無愛想なオヤジめ。こいつ服装からして日本人じゃないのかもしれない。だったら……。

さくらが得意の英語で呼びかけてみようと、御者台の方に身を乗り出してみると、左横の隅にまるでタクシーかバスのように、ネームプレートが立ててあった。

“KIYOMIZU”

そうか、この人、キヨミズて言うんだ。

日本人っぽい名前だ。

「おい、キヨミズ!」

キヨミズの背中がビクンとした。

「ほら、聞こえてるでしょ! さっきから訊いてるんだけど、これからどこへ行くんですかー!!」最大級の大声で叫んでやった。

 すると、御者のキヨミズは前を向いたまま静かに言った。

「はい、確かに聞こえております。ですので、そんなに大きな声を出さないでください。他のお客様にご迷惑ですから」

「えっ、他のお客様って?」

 さくらは薄暗い馬車の中を見渡した。

座席の隅で小さな女の子が丸くなっていた。


 キヨミズが答える。

「その子は花ちゃんですよ、さくらさん」

 花ちゃんはピンクのパジャマ姿で、座席の上に膝をかかえて小さくなっている。年齢は三歳くらいだ。ツインテールに赤い花の髪飾りを二つ付けていて、怯えたような目でさくらを見上げている。

「そうか、花ちゃんという女の子か。――って、なんで、キヨミズさんは私の名前を知ってるの!?」

「ここに書いてあります」キヨミズは前を向いたまま、左手で黒い帳面を掲げる。「閻魔帳です」

「閻魔帳って、私たち死んでるんですよね。ブラックジョークですか? まあ、いいです。これからどこへ行くのですか?」

「北へ」

「北って、どこですか? あの世ですか? 天国ですか?」

 キヨミズは答えない。

「いいですよ。自分で考えるから」

 さくらは座席の隅にいる女の子に話しかけた。

「お嬢ちゃんのお名前は花ちゃんだね」

 花ちゃんがコクリと頷く。

「お姉ちゃんの名前はさくらっていうんだよ。桜もお花の仲間だから、よろしくね」

 また花ちゃんはコクリと頷く。

「ねえ、花ちゃん、何があったの?」

 さくらは花ちゃんが事故に遭ってここにいるのか、病気にかかってここにいるのかが気になって訊いてみた。だが、今度は頷かないで黙っている。

パジャマ姿だからどこかに入院していたのかもしれない。それで病状が悪化した。でも、言いたくなさそうなので訊かないことにしよう。

そうだ、キヨミズさんが持っている閻魔帳だ。あれには事情が掲載されているだろう。

さくらは小さな声で訊いた。

「ねえ、キヨミズさん、なんで花ちゃんはこの馬車に乗ってるの?」

「それは個人情報なので申し上げられません」きっぱりと断られた。

 ふん。ケチなオヤジだ。

でも、確かに個人情報は順守すべきだ。今はそういう時代だ。


シャン、シャン、シャン……。

二頭馬車はさくらと花を乗せて、天の道を静かに北へと向かって行く。

馬車の後をいくつかの光の帯が、まるでヘビのようにクネクネと飛びながら追いかけてきていることに、二人はまだ気づいていない。

 やがて馬車が速度を落とすと、キヨミズは前を向いたまま、これから新たな客人を乗せますから、ご了承くださいと言った。

「えっ、客人って? 他に誰かが乗ってくるの?」

さくらの質問は聞き流された。

馬車が左に曲がって、道路脇の空いたスペースに入って行くと、一台の小さな馬車が止まっていた。

あの小さな馬車からこの大きな馬車へお客さんが移って来るのだろう。

「ここは乗り換え地点です。場所としてはドライブインみたいなものです」

キヨミズが説明してくれる。

ドライブイン? ああ、道の駅ね。

でも、駐車スペースみたいな空間があるだけで、お店とかはないなあ。

 馬車のドアがノックされて、新たな客が入って来た。足を少し引きずっている。

その客はさくらがよく知っている人だった。

「ああ、こっちの馬車は広くていいな。向こうは窮屈でいかんわ」

黄色い帽子の下に人懐こい目がある。

「徳さん!」さくらが叫ぶ。

「ほう。わしの名前を知っとるということは、お嬢さん、第一高校かな? 第二高校かな?」

「第二高校です!」

 今まで心細かったさくらは、知ってる人に出会えて声が大きくなった。


制服の襟元には桜の花びらをかたどった校章が付いている。第一高校の校章は星をかたどったもので、第二高校の校章は花をかたどったものだ。

さくらは徒歩通学をしていたが、地元の有名人である徳さんの顔と名前は知っていた。休みの日、駅を利用するときに何度も見かけたことがあるし、言葉をかわしたこともある。市長から表彰されたという新聞記事も読んだことがある。

続けて、さくらは自分の名前を告げた。

「第二高校のさくらくんか。校章通りの名前だね。若い生徒さんとこんなところで会うとは、いったい何をやったのかな?」

「たぶん、事故に遭ったんだと思います」

「ほう、事故かね。たぶんということはよく覚えてないんだね。そちらのお嬢ちゃんは?」

「花ちゃんです。花ちゃんに何が起きたのかは分からないです」

花ちゃんは大きな目で新しい客人の徳さんを見上げている。

「御者のオジサンに訊いても、個人情報だからといって、教えてくれないんです」

乗り換えを済ませた乗合馬車は、三人の乗客を乗せてふたたび走り出した。


駐輪場の管理人の徳さんは黄色い帽子をかぶり直すと、何かを思い出すように天井をにらんだ。しばらくそうした後、馬車の左の窓に顔を付けて前方をながめながら、まだ遠いなとつぶやいた。

「あの、徳さん。この馬車はどこへ向かってるのですか?」

「そうだな。お嬢さんが想像している通りだろうな」

「やっぱり、あの世ですか……」

想像していた通りのあの世。最悪の想像は当たっていた。

もう戻れないのだろうか。 

あのイチゴのショートケーキのカレンダーがかかっている私の部屋には帰れないのだろうか。あの大好きなDJがしゃべるラジオ番組は二度と聴けないのだろうか。


さくらは、ふと楓くんのことを思い浮かべた。

楓くん、この馬車に乗っているときどんな気分だった? 

不安じゃなかった? 怖くなかった? 

どこに続いているか分からないこの道を、栗林のおじいさんと馬車に乗ってあの世に行ってしまったんだね。楓くん、私も今、同じ馬車に乗っているんだよ。だから、またそっちで会えるかもしれない。

そっちはどんな世界なの? 明るいの? 暗いの? 楽しいの? つらいの? 

楓くん、私も死んじゃったみたいなんだ。でも、楓くんには悪いけど、私はまだそっちには行きたくない。そっちの世界で楓くんに再会するのは、もう少し後にしてほしい。


「徳さんには何があったのですか?」

「わしは病気だ。このとおり、もう年なんでな」

さくらは元気な徳さんの姿しか想像ができなかった。黄色い帽子をかぶって、いつも日焼けをして、いつも走り回って、怒鳴りまくっている徳さんしか知らなかった。足が悪いことは知っていたが、それ以上に無理をして仕事をしていたのだろうか。やはり、できの悪い生徒が多いから、ストレスがたまっていたのだろうか。

「あちこち病気だらけだったからな。しかし、わしに比べてお嬢さんは若いし……」

徳さんはさくらを悲しそうな目でみつめた。

「やっぱり、私も花ちゃんも死んじゃったのですか?」

花ちゃんには聞こえないくらいの小さな声で訊いてみる。

さくらの頭の中ではずっと最悪の想像が渦巻いている。

「いや……」

徳さんはあいまいに返事をした。


シャン、シャン、シャン……。 

右脇を一台の馬車が猛スピードで追い抜いて行った。

他にも馬車が走っている!

急に後ろから現れたので、御者や乗ってる人を見るゆとりはなかったけど、たぶん今乗っている馬車と同じタイプの大型馬車だ。

行き先も同じなのだろうか。

私のように死んでしまった人が、運ばれてるのだろうか。

たちまち遠ざかる馬車の後ろで、カンテラが並んで揺れている。

「あれっ、三つ付いてる。でも、私が今乗っている馬車のカンテラは確か……」

さくらが乗り込む前に見上げていたカンテラの数を思い出そうとしたとき、

「二つだよ」徳さんがボソリと言う。


その後、徳さんは黙ったままだった。

さくらは薄々、気づいていた。あの事故の記憶がよみがえったとき、あの血だらけの光景を思い出したとき、私はもうこの世にいないんだなと思った。しかし、今あらためてこの馬車が向こうの世界に向かっていることを聞いて、絶望的な思いにとらわれた。

さくらは前に向き直って、さっき徳さんがまだ遠いと言った、はるか前方をながめた。左カーブがつづく道の先にそびえる山が、だんだんはっきりと見えはじめた。

「お嬢さん、先ほどの話だが」

徳さんは意を決したように話し始めた。

「この馬車についてるカンテラは二つだっただろう。そして、さっき三つのカンテラをつけた馬車が追い抜いて行ったな。実は、馬車には三種類あってな、カンテラの数には意味があるんだよ。とても大切な意味がな」

「えっ、どういう意味ですか?」


楓くんが言ってたっけ。

(料金が違うとか、行き先が違うとか、乗り心地がいいとか)

さくらはもったいぶって話す徳さんの言葉を聞き逃すまいと、身を乗り出した。

徳さんが駐輪場で仕事をしているときはとてもおっかない。ルールを守らない生徒には容赦なく怒鳴りつけたり、追いかけ回したりすることは、学校内で有名な話だった。ところが、今はどうだろう。自分が死んでしまったこともあるかもしれないが、表情はやさしくて、言葉には温かさが感じられる。

そして、今の言葉には何よりも希望が感じられる。

カンテラの意味……。とても大切な意味……。

もしかして、絶望的な思いが絶望でなくなるのかも。

希望に変わるのかも。

さくらは徳さんの言葉を待った。


「まだ見たことがないだろうが、カンテラが一つしかない馬車もある。その馬車はいったん死にかけたが、まだ十分に助かる可能性がある人を運んでおる。そして、三つのカンテラをつけた馬車は、もうどうしても助からない即死の人を運んでおる。さくらくん、分かるかな、この意味が。ちょうどいい。あの馬車を見てごらん」

一方通行だとばかり思っていたあの世へ続く道。

前から二つの丸いライトをつけた馬車が走って来る。

「えっ、あの馬車、こっちに向かって来る!」

空を走っている道は左側通行で、この世的にいうと一車線ずつあって合計二車線だ。今、反対車線から一台の馬車が戻ってくる。

男性の御者が二頭の馬にムチを入れる姿が、こちらの馬車が照らすライトに浮かび上がった。

「徳さん、もしかして、前からくる馬車に乗ってる人は助かった人ですか?」

「そうだ。逆方向に走る馬車に乗っているのは九死に一生を得た人だ。あの世に行く寸前だったのだが戻って来られた人だ。だから、元の世界に戻るところなんだ」

徳さんはそう言って、またやさしい笑顔を向けた。

すれ違った馬車に付いているカンテラは一つだけだった。


シャン、シャン、シャン……。

また反対車線から大型馬車が来た。小さな鈴の音と大きな車輪の音をたててすれ違う。瞬間、風圧でこちらの馬車が揺れた。徳さんはあわてて黄色い帽子を押える。

御者はキヨミズさんと同じくらいの年配のおじさんで、すれ違うときにバスのドライバーのように片手をあげてあいさつをしていた。たぶん、キヨミズさんも返したのだろう。中には中年の女性が一人で座っていた。


カラン……。

九死に一生を得た人が乗るという一つのカンテラをつけた馬車が遠ざかって行く。

 さくらは振り向いたまま、カンテラの明かりが見えなくなるまで見送っていた。

助かったあの女性の家族は、あと少しで喜びに湧き上がるのだろう。彼女がベッドの上で目を覚ましたとき、周りにいるご主人さん、お子さん、お父さんもお母さんもお医者さんも看護師さんも、よくがんばったねと言って、抱き合って喜ぶのだろう。

そして、彼女は彼らに最高の笑みを浮かべるのだろう。


亡くなった沢井のおばあさんも栗林のおじいさんもパンジーも楓くんも、三つのカンテラの馬車が迎えに来ていたはずだ。

そして、みんなは死んでしまった。

どうしても助からない人たち。

すると、楓くんたちを乗せた馬車が家の前を通ったとき、私が飛び出して止めたとしても助からなかったのか。

以前、楓くんが見たという二つのカンテラの馬車に乗った人は入院をしたけど、命が助かってマラソン大会でも優勝した。

カンテラが一つの馬車はあの世に行かずに戻ってくる人を乗せている。

カンテラが三つの馬車はもう助からない人を乗せている。

ああ、そうか!

「二つのカンテラの馬車に乗ってる私たちは、生死の境をさまよっているんですね?」

「その通りだよ」そう言って徳さんは笑った。

えっ、笑った!?

やっぱり徳さんは何かを知っている。

ここは決して笑う場面じゃない。たぶん、私たちはまだ生きている。あんなに体中から出血をして、力なく横たわっていたのに私は生きているんだ。生死の境にいるんだ。そして今も、あの市民病院の病室で私の肉体は懸命に死と戦ってるんだ。

かすみさん……。

ナースのかすみさんの顔が浮かんできた。

きっと、かすみさんは私の治療をしてくれているのだろう。そして、お父さんとお母さんはきっと私の奇跡を信じて祈ってくれている。

やがて、さくらがさっき感じた希望が大きくなった。

「徳さん、助かる方法があるんですね!?」さくらは大きな声で訊いた。「徳さんも花ちゃんも私も助かる方法があるんですよね!?」


 徳さんは黙ってうなずくと、体をずらして馬車の右の窓から顔を出した。

「ほら、あれが見えるかな?」後方を指さす。

さくらはあわてて窓に顔を近づけて、馬車の後ろに広がる空を見上げた。

花ちゃんも座席の上に立ち上がった。

さくらは転ばないように、花ちゃんの背中を押さえてあげる。

さくらと花ちゃんは並んで窓から外を見た。

馬車の後ろから光が追いかけて来ていた。

「ええっ、あれは?」

「コウタイだよ。光の帯と書く。さくらくんの身を心配してくれている人たちの祈りが結集、具象化して、光の帯を成しているわけだ」

「ほら、花ちゃん、見てごらん。あれは光帯と言うんだって」さくらは花ちゃんの背中を支えたまま教えてあげる。「見える? たくさん飛んでて、きれいだね」


何色もの光がまるで生きているかのように、クネクネと動きながら空を飛んでいる。何本かはさくらが乗っている馬車を追い越していく。もっと前を行く馬車があるのだろう。その馬車から発せられている祈りが光帯化しているのだろう。

「さくらくん、あそこにひときわ太くて赤い光帯が飛んでいるだろ。集中してじっと見てごらん」

さくらは窓の枠に手をかけたまま、空にうねる一本の赤い光帯を見つめた。

しばらく見ているとぼんやりとした風景が目の前に現れた。

たくさんの樹木、玉砂利、狛犬、鳥居、ここは神社……?

やがてピントが合って、ぼやけていた像が鮮明になった。

お賽銭箱の前にうずくまる男性。

目から流れている涙。

手を合わせて必死に何かを祈っている。

「――お父さんだ!」

「どうだ、見えたかね」

「お父さんがうちの近所の神社で泣きながら……」

「祈ってくれてるんだね。お父さんの見えない祈りが、目に見える光帯へと変化してここに届いてるんだよ。もう一本の大きい帯はお母さんだろう」

さくらはもう一本の大きくて赤い帯に意識を集中した。

白い壁、白いシーツ。私の体につながった何本ものチューブと複雑な機械。

「お母さん……」

さくらが危篤になっている病室で、お母さんはベッドに顔を伏せるようにして祈ってくれていた。さくらはベッドの上で目を閉じたまま横たわっている。

大きな二本の赤い光帯は、さくらの回復を懸命に祈っている両親の想いが形となって現れたものだった。

お父さんとお母さんが私のことをこんなに想ってくれている。

私のことをこんなに待っていてくれている。

「他の光帯はお友達じゃないのかい?」

さくらは馬車を追ってくる緑色の帯の一本を見つめた。

窓、机、イス、黒板、三年三組と書かれたボード。

クラスメイトが千羽鶴を折ってくれている。担任の柳腰先生も黙って折ってくれている。手先が不器用な先生の前には少し形の崩れた鶴がいくつも並んでいる。教室のうしろにはすでに折られたたくさんの鶴がいくつもの束となって吊り下げられていた。それらはやがて、私の病室へと運ばれて来るのだろう。


今日の朝、柳腰先生が真っ青な顔をして教室に駆け込んできた。

「みんな。さくらさんが事故に遭って危ないんだ。今夜が峠らしい。しかし、われわれはお医者さんでも看護師さんでもない。だから、彼女を治すことはできない。できることは快方を願って鶴を折るくらいだ。今日の授業は取りやめにする。いくら校長に怒られても私がすべての責任を持つ。だから、何が何でも千羽鶴を折ってくれ。心を込めて千羽の折り鶴を完成させてくれ。みんなの願いは死と戦っているさくらさんの元にきっと届く。そして、生と死の境にいる彼女をこちらの世界に呼び戻す。――みんな、頼んだぞ!」

そういって、机の上に折り紙の束をドンと置いた。


「みんな、心配かけてごめんね」

 さくら目を閉じて、両手を握り締める。

クラスメイトの想いが一つに合わさり、一本の緑色の帯を形成して、この馬車を追いかけて来ている。

一人一人の顔が浮かんでくる。仲のいいクラスメイトも、普段はあまり話さないクラスメイトも、みんな私を助けようと心を一つにしてくれている。

そこに突然、クラスメイトの光帯よりさらに濃い緑色の大きな帯が現れた。

「ほう。あれだけ大きいということはご家族からの光帯だろうな」

 徳さんの声にさくらは目を開けて、大きな帯を見上げる。

「いえ、私は一人っ子ですから、家族は三人だけです」

 確かに今までとは違う太い光帯が出現している。

「えっ、そうかね。ならば、さくらくんのことをよほど心配している人だな」

誰だろう?

さくらはその大きな光帯に神経を集中させた。

天井が高く大きくて静かな部屋、長いイス、ステンドグラス、パイプオルガン。

一人の女性がイエスキリストの像に向かってひざまずいていた。

「――蘭。アンタ!」

「お友達かね?」

さくらは徳さんの問いかけにすぐに答えず、蘭の光帯を見続けた。

バカ蘭。なんでアンタが……。

「そうです。同じクラスの蘭ちゃんというお友達です。でも、蘭ちゃんとはいつもケンカばっかりして、こんなことをしてくれる子じゃないんです。とてもめんどくさがり屋で」

「友達なんてそんなものだよ。普段はケンカをしていても、ずっとさくらくんのことを気にかけていたのだろうよ」


いつか病気になった犬を助けてもらった教会で、十字架を握り締めて蘭が祈ってくれている。うちの両親と同じくらいの強い想いで祈ってくれている。きっと学校で私の事故のことを聞いて、教会まで走ってくれたのだろう。蘭はいい加減なヤツだけど、授業をサボるようなことはしない。ちゃんと先生に許可を取って教会に向かってくれたはずだ。いつもあんなにふざけあっていた仲なのに、こんなに真剣に私のことを想ってくれている。

蘭、ありがとね。

届いてるよ、アンタのデッカイ光帯が。

誰よりも大きくて輝いている光帯が。


「さくらくんよ。肉親ではなく、ただの友達なのにこんなに光帯が大きくなるということは、この子はたぶん、飲まず食わずで座り込んだまま、何時間も祈り続けているはずだ。さくらくんが助かったのに、この子が倒れたらシャレにもならんぞ」

「そんな、蘭が何も食べてないなんて」

さくらは徳さんを見つめた。

「徳さん、私は帰ります。家族のところに、友達のところに帰ります。帰りたいので向こうに戻る方法を教えてください!」

徳さんの顔が柔和に戻った。

「手を広げてごらん」と言って、手の甲を上にして広げた。

さくらも真似てみる。

指の先から光が出ていた。

こちらをそっと見ていた花ちゃんの指先からも淡い光が出ている。

「今は小さくて弱い光だが、こちらからも強く祈りを込めることによって、大きな光の帯と化する。そして、この馬車を追いかけてきているあの光帯と結合させて、お互いが引き合う。それがあちらに戻れる唯一の方法だ。うまくタイミングを合わさなければならない。しかも、時間は限られている。この馬車が向こうの世界に到着してしまったら終わりだ。もう後戻りはできない。しかし、われわれが元いた世界に戻れる方法はこれしかない」


馬車はしだいに速度を落としはじめた。

キヨミズが前を向いたまま、これから馬車を乗り換えていただきますと言った。

馬車が左に曲がって、道路脇の空いたスペースに入って行くと、さらに一台の大きな馬車が止まっていた。馬車を引く馬が四頭もいる大型四頭馬車だった。

「ここは乗り換え地点です。場所としてはドライブインみたいなものです」

キヨミズが説明してくれるが、以前にも聞いたセリフだ。

御者のための運用マニュアルがあるのかもしれない。

見てみたいとは思わないけど。


中編につづく。


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