地獄で会いましょう
会話中に性加害を匂わせる描写がありますので、ご注意ください。
物部亜子は焦っていた。この学校の教師として恥ずかしくない程度の早足で、一人の女生徒を探し、校舎を駆けずり回っていた。
「見つけた……!」
少し前に廃部になった文芸部が使っていた空き教室に、その生徒はいた。行儀悪く机に座り、窓を見つめる横顔は愉しげにも見える。
「円加さん」
「ああ、物部先生」
扉を閉め、鍵をかける。そんな亜子の教師らしからぬ行動を円加水希は咎めることなく、愉快そうな顔のまま呼びかけに応える。
「遅かったね?」
「っ! ……どういうことなの、あれは!?」
煽るような言葉に亜子は大人の威厳など保てず、けれど大人の常識が彼女の叱責を鋭いが小さな物へとさせた。
「どういう? ……何かおかしい?」
「全てよ! あんな、何で、あんなことを!」
とぼける水希に、亜子の視界が怒りで赤く染まっていく。思考に言葉が追いつかない亜子を手伝うように、水希は話す。
「旦那さんに何で先生との不倫をチクったかって? ……本当にわからないの?」
心の奥を見据えるように水希は亜子を目を見つめる。眉を寄せ、亜子は怒りで茹だる頭で考えるが、答えは浮かびそうになかった。
「……『あーちゃん、ひどいよ。全部ぜんぶ忘れちゃうなんて』」
普段の水希と違う、甘ったるい声音。はじめて聞くそれに、亜子は息を呑む。
水希から出たその声に、聞き覚えが、あった。
「あんた……なんで……水緒の……」
「『あははっ、察しが悪いね? あーちゃん』」
「っ、その声をやめなさいっ!」
亜子はたまらず叫ぶ。その声は記憶の奥底で蓋をしていた忘れたいもの。
彼女は初めての恋の相手で、初めて付き合って、キスも、体を重ねるのも、恋愛でおよそ考え得るはじめてを共に経験し、そして。
「先生が初めて裏切って、初めて捨てて、初めて死に追いやった人だよ。覚えてて良かった!」
にこりと笑い、普段の低めの声に戻った水希の言葉に、亜子は床へと座り込んでしまう。
「なんで……」
「まだわからないの? 本当にあんたは真山水緒のことなんてどうでも良かったんだね?」
「あっ」
机から降りた水希に髪を掴まれる。教室でも、ベッドの中でも見たことがない水希の冷たい表情に、亜子は恐怖を覚えた。
「『年の離れた妹がいるんだ。体の具合が悪くて大きな病院に通わなくちゃいけないから、妹はお母さんとおじいちゃんの家に住んでて会えなくて寂しいんだよね』」
水緒の物真似はまるであの時の会話そのもののようだった。そこまで聞けばいくら頭の回らない亜子でも、目の前の彼女が水緒の妹であることに気付けた。
「あんたがさ、振った後『水緒から告白されて付き纏われた』って言ったせいでお姉ちゃんえげつないイジメに合ったんだよね? あんたは許婚がいたから異性愛者のフリしてさぁ」
息がかかるほどの距離まで顔を近付けてくる水希の目に光はなく、どろりと凪いだ憎悪が浮かんでいる。
「『レズを治してやる』だなんて言われてお姉ちゃんどうなったか覚えてる? 可哀想にさぁ、お姉ちゃんは良い子だったから、家族に言えなくて我慢してさぁ!」
「がっ!?」
水希は振り下ろすように掴んでいた髪を離した。仰向けに倒れ、後頭部を打つ亜子を道ばたで死んだ虫を見る目で見下ろす。
「……死んじゃったんだよ? あたしはやっと病気が良くなって、お姉ちゃんと暮らせるんだって思ってたのに……」
濡れた声で呟いた水希の顔に涙はなく、無機質な表情が一転して笑顔へと変わっていた。
「お姉ちゃん、あたしにだけ最後の手紙をくれたんだ。あんたなんかより、お姉ちゃんは
あたしのことが好きだったんだよね。『ごめんね』っていっぱい書いてあったんだ」
「あっ!?」
起き上がろうとした亜子の頭を掴み、押さえ込んで水希は話す。
「お姉ちゃんを踏みにじって幸せになったお前は、何年経っても何を使っても壊してやろうと思ったんだ」
そこまで話し、水希は亜子を解放する。それとほぼ同時に、『物部亜子先生、校長室まで至急来てください』と焦ったような校内放送が流れた。
「え、なに」
「あー、やっとかぁ」
水希は笑ったまま、また机に座り直す。突然の教頭からの呼び出しに混乱する亜子へ、水希は答えを教えてやる。
「壊すの家庭だけだと思った? 考えが甘いよ」
「……そんな……」
亜子の顔から一気に血の気が引く。女子高生とのベッドシーンを見せられた夫は「初めから俺を騙してたのか!」と怒りの言葉と共に侮蔑的な目でこちらを見てきた。
それと同じものを学校にも送られていたら。
「なんて質問されるだろうね? 『女子校の教師になったのは獲物を物色する為ですか?』とかかな?」
亜子は急に部屋の温度が下がったように感じた。水希はころころと笑いながら、がちがちと歯を鳴らす亜子を更に凍らせるような冷たい瞳で見下ろす。
「大丈夫だよ、あんたはひとりじゃないから」
「……え……?」
夫からも離婚を突きつけられ、恐らくこれから退職を求められる亜子の周りから人など誰もいなくなるだろうに。
復讐を達成した少女は何を言っているのだろうか。
「あたしも一緒に堕ちてあげるから」
「ひっ!?」
まるで口が裂けたかと思うほどに口角を上げて少女が笑う。
その恐ろしさに後退る亜子など見えないように語り続ける水希の存在が、どんどんと大きくなり教室を埋め尽くしていくように感じられる。
「あたしの人生全部を賭けてあんたの人生を潰してあげる。あんたが死んで地獄に堕ちても、あたしも一緒に堕ちてあんたが苦しむ所を見ててあげるから」
「ぁ……ッ」
何故か亜子は夫との結婚式を思い出した。チャペル風の式場で行われた形ばかりの宣誓よりも何十倍も重い誓いに、亜子の浅く荒くなった呼吸が更に激しくなり、ぶつんと息が切れたように気を失った。
「……ださっ」
水希はつまらなそうに亜子を見下ろし、教室を出た。
職員室へ寄り、三階の空き教室の方へ少し前に亜子が向かっていたと伝えてから、校舎を出る。
「ふふっ、愉しいのはこれからだよね」
亜子の夫、亜子の勤める学校だけでなく、亜子の実家にもデータは送ってある。配偶者と職場と実の親から見放されて、彼女はどこまで頑張れるだろうか。
「あははは、『これからいーっぱい一緒に苦しんでこうね、あーちゃん?』」
姉と同じように亜子を自殺に追い込んだとて、姉を失った悲しみも、自殺に追いやった奴らへの恨みも、気付けなかった自分への怒りも、欠片も晴れることなく水希の心を焼き苦しませ続ける。
けれど、それでいいのだ。と、水希は姉を殺した者達全てを追い詰める誓いを立ててからずっと、納得していた。
「この苦しさがあるから、あたしはお姉ちゃんを想い続けられる」
まだ苦しめなければいけない人間は多い。自殺した人間が天国へ行けないと言うなら、姉を苦しめた奴らはひとりひとりと水希の生涯を使い、潰し、更に下の地獄へと堕としていかねば。
「お姉ちゃん、地獄に行くまで待っててね」
水希は最後に姉と会った子供の時のように、地獄の底で姉を見上げる日を夢見て、復讐を続ける。
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