4.事と次第
いつもの散歩のときに、ローベとエースは、左隣の家から人が出てくるのを見た。黒い髪を一束の三つ編みに結っている、灰色の瞳の女性だった。灰色と黒のストライプのワンピースを着ている。表情は少し憂鬱そうで、胸元に、空になった大きなミルク瓶を抱えていた。
その家の前で立ち止まり、「こんにちは!」と、ローベは元気よく女性に声をかけた。
女性は少しだけ顔を上げて、庭を横切り、家の柵を開けてから、「こんにちは」と応えた。よく洗ってある空き瓶を、門に備えてあるミルクボックスに片づける。こうしておくと、小麦畑に覆われているこの農地とは別の、酪農家の取り仕切っている農地から、毎日新鮮な牛乳が届けられるのだ。
「良い天気ですね。あなたの家も、牛乳を取ってるの?」と、ローベは何でもない事を話しかけた。
「ええ。…あなたは?」と、女性は聞き返してきた。牛乳を取っているかどうかではなく、ローベが何者かを聞いているのだ。
「私は、ローベ。ローベ・ノステラスと言います。隣の家の者です」
「私は、エリー・フォーン。この家の娘です」と、女性は言い、聞いてきた。「あなた、確か、旦那さんを亡くされたって言う…」
「ああ、はい。その話は、誰から?」
「農夫達から、うちの父に伝わって、それから私達に」と、エリーは静かに淡々と話す。次第に憂鬱そうな表情に戻り、「この辺りでは、知られたくない事は絶対話さないほうが良いですよ」と助言をしてくれた。「話した次の日には、村全体に広まってるから」
ローベは口元に手をあて、「分かりました。ありがとうございます」と挨拶をした。
エリーはローベの横に居るエースを見て、「立派な犬ですね」と言う。
「はい。名前は、エースと言います。ほら、小アルカナのカードの、『エース』の意味で」
その後、ローベとエリーは犬の事から話題が広がり、エリーの家の中から「何時まで話してるの!」と言う怒鳴り声がするまでおしゃべりを続けた。
「ああ。母です」と、エリーは言って、「まだ手伝いの途中だったから、これで」と、家に戻ろうとした。
「また、声をかけても良い?」と、ローベは聞いた。
「ええ。今度は、手伝いをしていない時に」と言って、エリーは憂鬱そうな顔の口元だけ笑ませて、家に戻った。
翌日、ポストに投函された新聞をエースが持ってきた。其処には、一面記事に「自由は奪われた」と言う見出しの、近年流行っている病の内容が書かれている。その下に「ミイラ化した遺体、盗まれる」と言う記事が載っていた。
先日、発見された遺体が、葬儀前に何処かに消えてしまったらしい。棺を墓地まで運んでいたら、中身がごろりと動いたような気がした。そこで、中身を改めて見てみると、遺体が大きな石と取り換えられていたそうだ。
「なんで、こんな事が…」と、ローベが呟くと、エースがワオンと吠えた。それから、「それが君に任せたい仕事だ」と、夫の声で言い出した。
ローベは顔をこわばらせたが、比較的落ち着いた声で、「どう言う事?」と、エースに向かって尋ねた。
夫の声でしゃべるエース曰く、「天国に来られない異常のある人々の魂が地上を闊歩している」と言うのだ。「その人達が、なんで地上に執着しているのかの理由が知りたい。天国は、自動で魂を吸収する機関だから、そう言う地上に残る人達が増えるのは異常事態ではあるんだ。君とエースには、その謎を解いて、僕に報告してほしいんだ」
そう言われて、ローベは考えた。それからこう答えた。
「私に、そんなに大それた探偵ごっこが出来るかしら」
「もちろん、僕もサポートする。君がエースに話しかけたら、すぐ通信をつなぐようにするから、思いついた事は何でもエースに話しかけてみて」
そこまで喋った後、エースがくしゃみをした。
ゴリゴリと素材を引き潰し、マチルダは乳鉢の中身に幾つかのスパイスと乾燥させたハーブを混ぜた。それらを再び引き潰してから、少量の蜂蜜を入れ、練って硬めのペースト状にする。
娘は先に作っておいたペーストを一つまみ千切り、手の平で丸めて、清潔な布を敷いた籠の上で乾燥させている。ペーストを全て丸薬に作り替えてから、シンクで手を洗った。
材料はすっかり使いつくしてしまった。それにしても、香りを誤魔化すためのスパイスがまだだいぶ必要だ。依頼主に仕入れの伝票を送っておこう、とマチルダは思った。長い付き合いになる依頼主は、数年前から同じ薬を所望している。
マチルダの経験から、依頼主の指定してきた材料が、薬になるとは思えなかった。どちらかと言えば、一緒に混ぜ込んでいるスパイスや蜂蜜のほうが、よっぽど薬効はあるだろう。
そう考えていると、末娘が「ママー。描いたの。見てー」と言って、クレヨンで画用紙に描いた絵を見せてきた。
其処には、人間の手足を切り取っている、エプロン姿の人物が描かれている。
マチルダは、「こんな気味の悪い絵、描くんじゃないの」と言って、画用紙をぐちゃぐちゃに丸めると、ゴミ箱に捨てた。
折角描いた絵を捨てられた末娘は、ふてくされた顔をして「ママ、嫌い!」と言うと、台所から廊下に走って行った。