3.頭を悩ませる女主人のために
決して走らないが、忙しい足取りでエースは女主人の待つ家に戻った。パック入りの卵が入った買い物籠を、扉のぶつからない場所において、家の扉の前でワオンと一声鳴く。
エースが出発した時と同じような、恐る恐ると言う様子で、彼の女主人はドアを開ける。エースは任務を完了できた報告のために、傍らに置いておいた籠を歯にくわえて差し出した。
「ありがとう。エー…ス?」と、怖がるように言いながら、女主人は籠を受け取る。
「お使いが出来たら、頭と喉元を撫でてあげて」と、エースは女主人の夫…つまり、生前の飼い主の声で言う。女主人は、その声に従って、エースの頭を撫で、頬の肉をつかむように首元までを掻いてくれた。
エースも、このへんてこりんな現象が起こってから、何がなんだか分からなかった。口がわやわやと動くようになり、今まで犬らしい太い鳴き声しか出せなかった喉から、生前の飼い主の声がする。
その事が、新しく自分が付き従う事になった、ローベと言う名の女主人を怖がらせているのだと言う事は分かった。
エースもこの現象は異常であると認識していたので、何とか自分が「口走ろうとすること」を止めるために、くしゃみをすることを覚えた。最初は偶然だったが、くしゃみをすると飼い主の声はしばらく出て来なくなる。
飼い主は何か伝えたいことがあるらしい、仕切りに「仕事を」とか、「頼みたい事が」と言うが、その度にエースはくしゃみをして、飼い主に喋らせなかった。
女主人はその現象が「ノイローゼ」と言う物であると思っている。ノイローゼが白昼夢を引き起こしており、もし悪化したら入院生活をしなければならないかも知れない、それを避けるためには、どうにかしてノイローゼを解消しなければ、と。
他人と触れ合わない時間が続いているのが悪いと判断した女主人は、散歩をしてご近所の様子を伺うようになった。散歩の範囲も、両隣の家を離れるくらいになって、天気と気分の良いときには、ちょっとしたピクニックくらいの距離を歩いた。そして、ご近所さんになった農場主に雇われている農夫達と会話をしていた。今年の小麦の出来はどうなのかとか、小麦以外の作物は作らないのかをだ。
農夫達は、この辺りは小麦を専門的に作る家が多く、他の作物の栽培はあまり行われないと話した。時々、痩せてしまった畑を回復するために豆を植えたりするが、それも一時的な事であると。
「この様子を観ると、今年は豊作…と言いたい所だけど、中身の入っていない穂がついてしまう場合もあるんだ。今はまだ判断が難しいね。夏になれば、刈り取りの時期が来るから、そしたら結果を教えられるだろうさ」と語る。そして聞いてきた。「あんた、ノステラスの屋敷に越してしてきた人だろ?」
「はい。ほんの、一、二ヶ月前に」と、ローベは答えた。
「若い奥さんが一人で生活してるって言うから、ここら辺の連中も心配してたんだ。旦那さんは何処に行ったんだい?」と、農夫は聞いてくる。
ローベが、夫が事故で他界した事を告げると、「なんとも大変な話だ」と言って、農夫達は帽子を脱ぎ、胸に抱えて見せた。どうやら、他人を悼む時の仕草らしい。
「まだこの土地にも慣れてないだろうに。私等も、出来る事は手伝うよ。いつでも声をかけてくれ」
そう言われて、ローベは笑顔を見せ、「ええ。ありがとう」と答えてから、「それじゃぁ」と言って、エースのリードを引いた。
そんな生活を続けているうちに、エースは無駄に飼い主の声でしゃべる事も無くなり、唯の忠実な飼い犬として女主人の身の周りを警護するようになった。
ある日、雨音の響く屋敷の外から、救急車のサイレンの音がした。なんだろうと思ったエースは、女主人を見た。女主人もエースのほうを見つめ返す。
女主人の手により窓を覆っていたカーテンが開けられ、エースも一緒に窓を覗き込んだ。赤いランプを光らせた救急者が、隣の家に入って行くのが見える。
「誰か怪我をしたり、病気になったりしたのかしら…」と、女主人は呟いた。エースも、恐らくそうだろうと思った。口元がムズムズしてきて、飼い主の言葉を喋ろうとしているのに気付いたエースは、ワザとくしゃみをしてみせた。
翌日、スーツ姿の刑事達が、女主人を玄関口に呼び出して、手帳のような物に記されている警察のシンボルマークと、手帳の内側の身分証を見せた。それから、昨日、この屋敷の隣家で死体が見つかったと話した。右隣のほうの、あの分厚いカーテンに包まれた家の事だ。
「殺人事件ですか?」と、女主人が聞くと、「明確に殺人とは言い難いのですが」と前置きしてから、刑事は「ミイラ化した遺体が発見されたんです」と説明してくれた。
女主人は、まだ自分はこの屋敷に越してきて一年も経過しておらず、ご近所の事は小麦畑で働いている農夫達から聞いた事くらいしか知らないと述べた。
警察は、「そうですか。ご家族は?」と聞いてきた。「犬が一匹です。夫は、数ヶ月前に他界しました」と語ると、刑事は「ご主人が居なくなったのはどのような状況でか」を聞いてきた。
ローベは、他人から聞いた事故の時の様子を話し、刑事達はその話が事件とは関わりが無いようだと判断したらしい。「それは、大変なことでしたね。ご夫人の一人暮らしは心細いでしょう。あなたも、何か困ったことがあったら、すぐに警察に連絡をして下さい」と残して帰って行った。
女主人は、ノイローゼだと思っている症状を治すために、人に話しかける他、毎日日記を書いていた。眠る前に、部屋にある小さなテーブルの前に椅子を用意し、インク瓶にペンを付けて、分厚い日記帳にその日にあったことを記録している。
恐らく、今日刑事達が来たことも書いただろう。女主人が眠りに就いてから、エースはテーブルの上に置かれたままの日記帳を「見て」みた。エース自身はそうしようと思ったわけではないのだが、頭に閃いた何かからの働きかけで、日記帳をめくって、其処に書かれている文字を目で追った。
「警察の人達が、この屋敷に話を聞きに来た。隣の家で遺体が見つかったって。それも、ミイラ化していたなんて言うから、すごく驚いた。ミイラになるほど、何も食べて無かったり、飲んでなかったりしたって事かしら。もしかしたら、病気の人が体を動かせないまま亡くなってしまって、それがミイラ化したのかも知れない。なんであれ、ひどい話」
エースも少しは文字が読めるが、筆記体が読めないし、言葉の意味はほとんど分からなかったが、何故かそうする事で気分が落ち着いて、日記帳を閉じると、女主人の眠って居るベッドの横の床に寝そべった。