恋愛と方程式 問:a−b=2√5の時、x²+y²=アイである
生徒が帰った放課後の教室。換気の為に開けている窓の向こうでは運動部が大声を発しながら練習に精を出している。青春真っ盛りって感じだ。あんなに何かに必死になるなんて私には到底無理なので逆に羨ましい。
椅子の背もたれに肘を乗せ、スマホを弄りながらそんな事を考えていると、横から呻き声が聞こえてきた。顔を動かさずにチラッと視線をそちらに向けると、私が勝手に座っている後ろの席で委員長の明雄がシャーペンを握りしめながら頭を抱えている。机の上にあるプリントには数式を解こうとした立ち向かった痕が黒く残っていた。
私はまた手元に視界を戻したのだが、犬の唸り声のような音がずっと聞こえるのが気になってしまい、スマホの画面を消すと上半身だけねじって明雄の方へと体を向けた。
「委員長。うっさい。そんだけ声出したら、テスト中に教室から放り出される。もっと静かに考えて」
明雄は顔を上げて真正面から私を見てきた。眼鏡の奥の瞳からSOSが発信されている。
「そうは言っても珠理クン。この問題は難しすぎないだろうか? いくら教えられた通りに式を変形させてみても正体不明の値が出てきてしまうのだが」
「頭固すぎ。最初から最後までちゃんと問題見なよ。あと、クン付けはやめて。前も言ったけど珠理で良いって」
「だが、同級生と言えど女子生徒を下の名前で呼び捨てするのは、余りにも気安く話しかけすぎていないだろうか? それに、今の僕らの関係はいわば教師と生徒に近しい間柄とも言えるわけなのだから、僕としてはクンではなく敬称で先生と呼ばせていただきたい。どうだろう? 今後は珠理先生と呼ぶのは?」
「私が先生とかマジで無いから。髪型とか服装について注意しないって言うから勉強教えてあげてるだけだし。呼び方なんて無駄な事に考えを割く余裕があるんだったら、さっさとその過去問解いて」
先にその話題を出したのは珠理クンでは、という明雄の抗議を無視して、私は机の上にある問題用紙を色鮮やかなネイルでつついた。明雄は再びシャーペンを構えて余白に暗記している公式を書き連ねていくが、すぐにまた手を止めてしまった。うるさいと私が注意したからなのか、今度は小声でブツブツと呟いている。
「(x+y)²=x²+2xy+y²なのだから、x²+y²=(x+y)²−2xyで答えが出てくるはず。実際、この直前にx+yは求めている。だが、2xyとは一体なんだ? x=b−c、y=c−aなのだから代入して展開してみたが、-2(ab−ac−bc+c²)というこれまたややこしい式になってしまった。ここからどうやって答えを導き出せば良いんだ? 展開しては駄目なのか? いや、そもそもこの公式から計算しようとする事が誤りである可能性も……」
「お、良いところに気がつくじゃん。さっき私が言った言葉を思い出してみ? ここまで来ればもう楽勝っしょ?」
「さっき言われた言葉……。最初から最後までちゃんと問題を見るべし、だったか。なるほど! つまり、実数a、b、cを定義から計算してしまえば良いということだな!」
自信満々にそう言い切る明雄に私はがっくりと肩を落とす。
「マジかぁ……。なんで初っ端の数と式の設問で総当り計算なんかしなきゃならんのよ? 委員長って、困ったらパワープレイでゴリ押ししようとしてくるね。脳筋タイプか?」
「そう言ってもらえると少し嬉しい。珠理クンのおかげで少しづつではあるが力がついてきたということかな?」
「いや、褒めてないから。脳みそ筋肉理論とか、テレビとかネットの冗談真に受けすぎだから」
私は机に肘を乗せ、頬杖をつきながら、混乱して目が回り始めている明雄を観察した。
「委員長さぁ、そんな品行方正で授業も真面目に受けてるのに、なんでここまで壊滅的に勉強が出来ないわけ? そのいかにも学年トップの成績を取ってますって見た目から、小テストで一人だけ毎回全問不正解とかギャップヤバすぎでしょ。あ、ヤバいって良い意味じゃなくて、悪い意味だから。謎のポジティブさで、勝手に盛り上がらないこと」
辛辣な個人評を私から投げつけられたというのに、明雄は怒るような素振りは見せず、恥ずかしそうに頭をかいた。
「まったくもって面目ない。クラスの代表である自分がこのような体たらくでは、先生や皆に合わせる顔がないよ。だからこそ、クラスで一番勉強の出来る珠理クンにこうして個人授業をつけてもらっているわけなのだがね。珠理クンのおかげでなんとか授業には付いていけるようにはなってきたよ。やはり、珠理クンに頼んで正解だった。ありがとう!」
「感謝されたくてやってるわけじゃないし。それに付き合わされるこっちの苦労も考えてほしいんだけど? 最近は委員長が授業中に先生へしつこく質問しないせいで授業の進みが早くなって、その分ほぼ毎日こうして教えなきゃならなくなっちゃったじゃん。本当だったら、今日は友達とカラオケに行く予定だったのに」
言ってしまってから、流石に今の言い方は性格が悪すぎたかなと反省した。まるで明雄に勉強を教える為に誘いを断ってるみたいな話し方になってしまった。実際は社交辞令の誘いに辟易して私から断っているだけだというのに。明雄は少し位腹を立ててもいいのに、眉をほんのちょっぴり下げ、いっちょ前に気を使ってきた。
「そうだったのか。そんな事にも気が付かず、すまない。今後は週一にした方が良いだろうか?」
「週一で委員長が学校の授業についていけるとは思えないけど? 私の都合なんて気にしなくていいから。委員長は私から勉強を教えてもらう。その代わり、私の格好にこれ以上口出ししない。最初の約束通り、あくまで利害関係の一致で取引しているだけ。分かった?」
「そう言ってくれるなら、僕も気兼ねなく教えを請える。だが、格好についてはやっぱりちょっと指摘させてくれないだろうか? いや、珠理クンのファッションセンスを否定するつもりは毛頭ない。似合っているとも思っている。しかし、学校という公共の場には、その、少し、ほんの少し刺激が強いと言うか……」
「なに? 珍しく歯切れ悪いじゃん? 文句があるならはっきり言いなよ」
さっきキツく言ってしまったお詫びに文句位は言わせてあげよう。それに従うかは別だけれど。私から歩み寄ってあげたにも関わらず、明雄は何やら躊躇している。私が催促すると、今まで真正面から私を見つめていた明雄は気まずそうに顔をわずかに逸すと、メガネのガラス越しに目だけをチラチラこちらに向けながら周りに聞こえるか聞こえないかの微妙な声量で私に注意してきた。
「……胸元が開きすぎて、その、たまに下着が……」
「あぁ、そういう事。ブラチラして鼻の下を伸ばしていた訳だ? 何だったら、もっとはっきり見てみる?」
「え゛っ⁉」
「見せるわけ無いだろうが、この童貞。発情してる暇があったらさっさと問題解け」
おもしろ半分でからかってみたが、椅子が大きな音を立てるほど飛び跳ねて動揺するという予想以上の反応に正直引いてしまった。同級生の男子や上級生、たまに先生たちが胸元を盗み見ているのには気づいている。身体に自信があるわけでもないし、ねっとりとした視線を向けられるのは正直キモいけど、普段は私を問題児扱いしている周囲の人間が私に欲情して目を離せなくなるのは面白いし、承認欲求が満たされて快感も覚える。
当然、明雄に対してもその程度の感情しか抱かないと思ったのだけれど、こちらを見ないように顔を下げてプリントを見つめている明雄を眺めながら、なんだかモヤモヤしたモノが胸の奥につっかえているのを感じた。きっと、生真面目で自分に厳しい明雄の普段の姿から発情した様子を思い描くことが出来なくて違和感を覚えたからだろう。多分、そうだ。それ以外に理由などあるはずない。
自分の中で答えが出ているはずなのに、なぜか悶々とした気持ちを抱えている私をよそに、明雄は何かに気づいたのか大きな声を出した。
「あれっ⁉ 前の問いで、(a-b)²+(b-c)²+(c-a)²を求めてる? xとyはそれぞれ(b−c)と(c−a)だから、この式に代入すると(a-b)²+x²+y²になって、導き出した答えから(a-b)²を引いたらこの問いの答えになってる?」
「やっと気づいた。だから、最初から最後までちゃんと読めって言ったじゃん。前の設問で自分が求めた答えもちゃんと確認しときなよ」
「いや、だがそうは言うけれど、これは意地が悪すぎでは? 数学は公式とパターンの暗記だと教わった気が……」
私にそんな事を言われても困る。文句ならこれを作ったお偉い教授に言ってほしい。尤も、直前の問いで乗法公式を使うように誘導しておいて、こういう構成にするのは私だって意地が悪いと思う。プレッシャーのかかる場でこんな例年と傾向が異なった事をされたら受験生はたまったものではないだろう。実際、このテストが出た年の数学は壊滅的な平均点だったらしい。
明雄はやや不服そうな顔をしていたが、私に促されて設問に戻ると三十分以上頭を悩ませていた難問をいとも簡単に解くことが出来て興奮し、嬉しそうな笑顔を私に見せた。
「やった! やったぞ、珠理クン! やっと次に進める! 後は二乗の公式を用いれば、最後の問いの答えもあっという間に解けるぞ! ありがとう、珠理クン‼」
大問の一つを解くことが出来ただけだと言うのに、明雄はまるでテストで満点を取ったかのように大喜びした。それを見て、私も自然と頬が緩んでしまった。
「はいはい。おめでとう。んじゃ、今日はもう遅いしここまでってことで……なに? 人の顔をじっと見て?」
「いや、笑った顔を初めて見て、ちょっとびっくりしてしまった。そんな柔和な笑顔が出来るんだな」
「は? 喧嘩売ってる?」
「とんでもない。とても素敵で、可愛かった。もっと見たかったくら……い……だ」
みるみるうちに明雄の顔が茹で蛸のように赤くなっていく。自分が何を言っているのか、喋っている途中で気がついたようだ。大きな体を縮こまらせて下を向いてしまった。
「あっそ。そんなおべっかを言える位なら、明日の小テストは余裕で満点取れるっしょ? もし取れなかったら覚悟しときなよ? じゃ、私帰るから。委員長、後片付け宜しく」
「え? あっ、ちょ‼」
明雄が呼び止めようとするのを無視して、私は足元の鞄を掴むと早足で教室から出ていった。廊下を歩きながら、さっきの言葉について考える。
可愛いとか、言われなくても知ってるし。可愛く見せるために身支度も整えているのだから、これで可愛くなかったら無駄な努力でしょ。
ていうか、何アレ? あんな顔を赤くして恥ずかしがるとか、小学生かよ。女の子と話したことないんか? これだから、堅物童貞委員長は。
勘違いされる前に勉強教えきっちゃって、さっさと二人っきりにならなくて済むようにしよう。そうすべきだ。
そう決意した私は視線を正面から逸らさず窓を見ないように誰もいない廊下を進んでいく。窓ガラスに反射した私の横顔は、夕焼けのせいなのか明雄に負けず劣らず赤かった。
お読みいただきありがとうございました
思いついた短編その3になります
キッカケはYouTubeのオススメに表示された去年の共通テストの内容をまとめた動画です
青春物を書きたい欲求が溜まっていたのもあり、勉強を教えるという題材からイメージを膨らませていき、勉強の出来る問題児と勉強の出来ない委員長という一見真逆に見えて、同じように不器用な二人の設定を固めていきました
ちなみにデジタル新聞に掲載されていた数Ⅰ・Aを興味本位で見てみましたが、解説が無いと何を言っているのかサッパリ分かりませんでした
ちょっと残念