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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

切り裂き令嬢

切り裂き令嬢が今日も可愛い


 オルガ伯爵家の使用人部屋では今日も、メイドたちによる定例お嬢様会議が催されていた。


「顔が良い男はこれだから……!」

「ああ、お嬢様……」

「結婚? あの男と?」


 わっ、と顔を覆って泣き出すアン、メイ、マリの三人は、エレオノールお嬢様愛好会の発起人であり主要メンバーである。

 エレオノール・オルガ。オルガ伯爵家の令嬢である。その美貌は社交界でも群を抜いており、胸も豊かで、老若男女問わず誰もが振り向く天使のようなお嬢様である。艶やかな栗色の髪はまっすぐ腰まで流れ、まるでお嬢様の心の清涼さを表しているよう。大きなモスグリーンの瞳は長い睫毛に守られ、まるでお嬢様の心の繊細さを表しているよう。


 そんな愛らしくて大好きな、目に入れても痛くないお嬢様の婚約者が浮気した。

 この時点で三人にとってそいつは人間でなく、気をつけていてもうっかりキッチンに出現してしまう黒くてカサカサ動くあれ以下である。つまり、叩き潰す。処刑対象である。

 浮気相手は男爵家のご令嬢、名前は知らん。興味もない。こいつも例のあれ以下、もちろん叩き潰す。すでに準備は始めている。


「お可哀想にお嬢様、あんなクソ女に誑かされるようなバカ男を愛してしまったばっかりに」


 およよ、と泣き崩れるアンの肩を抱くメイも、同じように涙を流して鼻をすする。


「アン、言葉が悪いわよ」


 窘めるマリだけが気丈に涙を拭った。その様子を見た二人は、そうね、クソバカはさすがに言葉がいけなかったわ。私達はオルガ伯爵家にお仕えするメイドなのだから、言葉遣いもそれらしくしなくっちゃ、と気を引きしめた。


「お嬢様を悲しませている死刑待ったなしの男女なんだから、クソバカだなんて優しい言葉を選んじゃ普通のクソバカな人間に失礼でしょう。クソもバカもそれ自体に罪はないのだから」


 私達の反省を返せ。二人の心はピタッと揃った。


「馬糞に漬け込んで混ぜ合わせた脳みそが養分になって頭の中で毒花が満開になっちゃった腐れ女と、腐った脳みそが神経までずぶずぶに溶かして泥水みたいになった挙句に下半身まで流れてそこで乾燥しちゃったドブ男と言いなさい」


 ……なんて?

 あまりの長文に言葉を失う。そんな罵詈雑言、生まれて初めて聞いた。どこで覚えたのか小一時間ほど問い質したくて仕方ない。


「呼びにくくない?」


 アンの意見にメイはびっくり仰天した。どうせ半分も覚えてないでしょうに、受け入れるにしても、もう少し間を空けてよ。私だけ置いてけぼりにしないでちょうだい。メイは変なところでおかしな方向へ真面目さを発揮するタイプであった。マリの長ったらしい悪口を一言一句、丁寧に思い出そうと奮闘しているところへのアンの発言は、ちょっぴり裏切られた気分になったのである。もちろん、アンに裏切るような気は少しもない。

 アンはわからないことは考えない主義である。頭の出来がよろしくない自覚はあるし、無理に考えて頓珍漢なことをしでかすより、賢いメイに投げてしまった方が楽だと知っている。マリが頭のおかしなことを言い出した時はひとまず頷いて、後からメイに聞こう、ときちんと他力本願なだけである。


「言いにくい……確かにそうねえ。では、言いやすいようにクソ女、バカ男としましょう」


 元に戻っちゃった。これまでの会話の半分が意味をなくした。メイのちょっぴり傷ついた心も、傷つき損である。普通のクソバカな人間に失礼とまで言っておいて。

 二人のじっとりした視線を受けて、マリは慌てて咳払いした。


「ち、違うのよ。ちゃんと省略したのだから、単にクソバカと言っているわけじゃないのよ」


 思い出して、と言われても、言葉選びが強烈過ぎてちっとも思い出せない。衝撃ばかりが残っている。


「馬糞と混ぜ合わせた脳みそ、の『ば』と毒花が満開に、の『か』を取って、バカ女」


 メイは知らず、アンの手を強く握った。そんな中途半端なところを取って略すな。同じように握り返されたところを見るに、二人の気持ちはまた一つになっているらしい。しかしここはとりあえず、最後まで聞いてみる。


「脳みそが下半身についてる下水道男、の『ゲス』よ。……あら? クソって言ったわよね、私。どこで間違えたのかしら」


 多分、最初から間違えている。マリの残念さに、二人は手をとり合ってしくしく泣いた。

 マリは賢い女である。三人の中では一番しっかりしているのは彼女である。しかし、どうもエレオノールが絡むと途端にバカになってしまう。バカになるほど怒っている、ということは伝わるが、伝達内容が残念過ぎていまいち感情移入できない。泣けてくる。


「まあ、クソでもゲスでも違いはないわね。お嬢様を悲しませる男だもの」


 さっぱり言い切ったマリの堂々たる立ち姿に、二人はただ、そうね、と同意して考えることをやめた。考えるだけ損である。


「さて、そろそろ始めましょう」


 仕切り直すべくメイが言った。


「今日の議題は『くそったれ浮気男を改心させる方法』と『婚約者がいる男を誑かした女の調理法』だったわね」


 真剣な面持ちで、二人がしっかりと頷く。

 そう、クソでもゲスでも、男の方は改心させなければならない。叩き潰すのはあくまでも、改心に至るまでの過程で済ませる必要がある。

 我らがエレオノールお嬢様は、浮気されても健気にくそったれを愛し続け、彼の愛を取り戻そうと懸命に努力をしていた。エレオノールお嬢様愛好会のメンバーとしては、エレオノールの気持ちが一番大事である。彼女が愛すると言うのなら、どんなゲスでも立派な紳士へ鍛え直してみせる。


 三人の決意は固く、そして暑苦しかった。


 事の起こりは半年ほど前になる。彼女達が愛して愛して、溺愛しているお嬢様の様子がおかしくなった。

 ご友人と楽しくティータイムを楽しんでいると思ったら、突如として号泣し部屋に引きこもった。泣いて、泣いて、泣き続けて。ようやく落ち着いたと思ったら、今度は日がな一日、部屋にこもって何やら考え事に夢中。

 あわや気でも狂ったか、と神官様をお招きするほどの大騒ぎになったが、結果は異常なし。嘘でもいいから異常があると言ってくれ。娘の奇行にガチぶるいしていた両親の願いは届かず、エレオノールは奇行を拡大させた。


 ある時はキッチンへ殴り込み、野菜という野菜を微塵切りし、またある時はキッチンから邸中に怒号を響き渡らせ、さらにある時は大事にしていたぬいぐるみに向けてカトラリーを投擲する。


 本当にどうしちゃったんだ、と震えていたのも束の間。エレオノールの婚約者、クリス・エバンズが真実の愛を見つけた、という噂が密やかに囁かれるようになった。合点のいったオルガ家の使用人たちは一様にお嬢様に同情し、涙を流し、クリスの暗殺計画まで企てた。実際に、旦那様へ計画表をまとめて提出したのは家政婦長のリサである。もちろん、三人は諸手を挙げて大賛成した。


『あ、うん。前向きに善処する方向で検討するね』


 どうしてか青褪めていた旦那様からはあれ以来、一切の音沙汰がないけれど、まだ検討中なのだろうと気にしていない。伯爵家の嫡男を暗殺するのだから、殺し屋は慎重に選ぶ必要がある。


「さて、まずはくそったれ浮気男の方ね」

「お嬢様のためにも、私達で殺してしまうわけにはいかないわよね?」

「でも叩き潰すくらいならいいわよね?」


 可愛いエレオノールお嬢様のためならば、倫理観など犬に食わせてしまえる三人である。迷いが生じる隙間すらありはしない。……エレオノールの気持ちが第一である、という考えにはもちろん反するものの、貴族社会は綺麗事だけでは生きていけない。たとえクリスが闇に葬られたとしても、跳梁跋扈する貴族社会だ。きっと、何か後ろ暗い闇の思惑がどこかでどうにか働いたのだろう、と誰も気にも留めない。ゴリゴリ私怨を募らせているオルガ家の使用人達が抱える感情と一致する結末が訪れるなんて、不思議なこともあるものだなあ。

 これくらいのすっとぼけはお手の物である。


「肉体的な損傷を与えるのは、やめておいた方がいいわね」

「そうね、お嬢様はあの男の顔がお好きなようだし」

「顔は良いのよね、顔は」


 顔はねぇ、と三人は嘆息する。

 クリス・エバンズは顔が良い。濃い茶髪はさらさらで、黄金色の双眸を涼やかに流せば、一緒に幾人の女が流れていくかしれない。体の方もきちんと整っており、エレオノールと並ぶとそれはもう素晴らしいバランスで完成する。ぶっちゃけ、エレオノールと並んで歩くために生まれてきたと言っても過言ではない。少なくとも三人はそう思っていた。


 顔の良いクリスの顔は、やはり攻撃対象から外すべきだろう。

 

 三人の心は一つになった。

 そして、前半で時間を使い過ぎた定例お嬢様会議は、就寝時間を理由に次回へ持ち越しとなった。



「ぼぉううぇ、げぇっ……」


 オルガ邸にある使用人用のトイレでは今日も、メイが胃の中身をぶちまけていた。

 もう耐えられない、無理。濁点だらけの声で咽び泣きながら、胃ごと吐き出して洗いたいと呻いている。背中をさすって付き添っているマリも、既に二回はもらって便器を抱えた。


 エレオノールがカトラリーの投擲訓練を初めて早三か月。めきめきと腕をあげている。さすがは私達の愛するお嬢様。最初は狙った的を大きく外して地面にナイフをめり込ませたり、通りすがりの庭師のトムさんの帽子を貫いたり、様子を見に来たバトラーのもみあげを剃ったりしていたのに。頑張り屋さんで、弛まぬ努力はしっかり実を結んだ。

 がっちり実った努力の結果、的にされたぬいぐるみ達は見るも無残な姿になっている。しかしお嬢様が頑張った故なのだから、みな涙を流す程に感動している。


「おぅげ……」


 ……感動している。

 余程ストレスが溜まっていらっしゃるのね、と同情の視線を向けられたのは、的に当たるようになったばかりの頃、三日程だった。しゅん、としょげたエレオノールは、用意したカトラリーを投げ終わると、必ず磔にしたぬいぐるみ達を回収し、修理してほしいと頼みに来るのだ。


『お父様にいただいた大事なぬいぐるみなの。綺麗になるかしら?』


 カトラリーを投げている最中は、的を外す度に地団太を踏んで舌打ちしているというのに、毛布にくるんで抱きしめたくなるような憂いを帯びた表情で、ついさっきまで散々弄んでいたぬいぐるみのために涙ぐむ。

 急激な態度の変化は対応するメイドたちを置き去りにし、その切り替えの早さに酔う者を続出させた。そして、受け取ったぬいぐるみの凄惨な姿があまりにもあんまりで、耐えられず皆トイレへ駆け込むのである。


 ナイフで喉を掻き切られ、胴を裂かれ、腕を千切られたテディベア。脳天にフォークを突き刺され、ナイフで顔面を抉られ、腹の裂け目から綿という綿を垂らしたテディベア。

 エレオノールはこれを、婚約者とその浮気相手の顔を思い浮かべながらやっている。

 修理を頼まれたメイド達も当然、テディベアに二人を重ね、結果として朝食も昼食もなかったことにした挙句、夕食は喉を通らない。


「やばい……私達のお嬢様、絶対にやばいわ」


 吐く物が無くなったメイが、それでも涙は止められずおいおい泣く。


「承知しているでしょう、メイ。それだけお嬢様は辛いのよ」


 目を真っ赤にして、それでもアンは気丈に振る舞いそんなことを言う。

 それにしたってやば過ぎるでしょ。人間を相手にやる想定でカトラリー投げてんのよ。不満を潤んだ双眸いっぱいに溜めて睨む。しかし、


「うぅ……そうね」


 エレオノールへの愛が勝った。


「一刻も早く、浮気男を叩き潰して改心させましょう」


 お嬢様のために。そして、私達のために。もうこれ以上、食べたものをトイレに口移ししたくない!

 定例お嬢様緊急会議の始まりである。



「それでは、くそったれ浮気男を改心させる方法と、婚約者がいる男を誑かした女の調理法についての会議を始めます」


 夕食時。

 さあ今日も一日みんな頑張った。英気を養って明日も頑張るぞ。普段であればさっぱりした表情で食卓につく使用人たちの様子が、今日ばかりは違った。

 家政婦長のリサを筆頭に、みな険しい表情で背筋を伸ばしている。

 食堂の中央にある長テーブルに集ったのは、エレオノールお嬢様愛好会の過激派ばかりである。つまり、浮気駄目絶対殺す、と日々、殺意を募らせている連中が集まった。

 ちなみに、使用人用の食堂はここしかないため、穏健派も隅の方にこっそりいる。耳をそばだてながら、今日の夕飯はあんまり楽しくないな、と目端に涙を滲ませている。とはいえ彼らもエレオノールお嬢様愛好会のメンバーである。浮気男と浮気相手の女のせいで傷つき発狂しているお嬢様も、気迫に飲まれ震えている伯爵夫妻も、どちらも幸せになってほしいと日々、願っている。


「旦那様は何をもたもたとしていらっしゃるのだ!」


 声を荒げたのはバトラー。エレオノールにもみあげを剃られて以来、短くなった方に長さを揃えている。クリスの暗殺計画書にも、しっかり署名した。


「しかたありませんよ。相手は伯爵家の後継ぎ。慎重にもなります」


 諫めるのはリサ。顔のしわが増えても威厳は衰えず、頼りになるみんなのお母さんである。クリスの暗殺計画は彼女の立案であり、署名は一番上にでかでかと書いた。


「しかし!」

「まあまあ、落ち着いて。エレオノールお嬢様のお気持ちを最優先。これはみんなで決めたことでしょう?」


 なおも荒ぶるバトラーを宥めるのは庭師のトム。

 怒り狂うエレオノールが除草剤や枯葉剤を狙っていると知って、旦那様に新しい鍵や金庫をおねだりした。クリスの暗殺計画書には、丁寧に署名した。多分、人生で一番きれいな文字が書けた気がする。


 二人に制止され、バトラーは渋々、怒りを静める。


「浮気男の暗殺は旦那様の匙加減です。我々は、奴をどう改心させ、お嬢様を幸せにできるか考えましょう」


 こほん、と軽い咳払いで仕切り直し、マリが皆の顔を見回す。アンとメイは隅の方でスープをすする穏健派の顔もとっくり見つめた。全員を巻き込む気満々である。今日のスープはちょっとしょっぱいな、と穏健派のメンバーは滲む涙を誤魔化した。


「そのことなのだが、浮気相手の方に関してはお嬢様が何やら策を講じていらっしゃるようだ」


 沈黙を破った家令の言葉に、食堂内がどよめく。


「どうやら怪しげな術でクリス様をたぶらかしたのだとか。お嬢様はその証拠集めに奔走していらっしゃるらしい」


 どよめきが大きくなる。さすがの穏健派も、これには前のめりになった。


「放っておいても浮気相手の娘は、お嬢様の手によって然るべき裁きが下されるだろう」


 二つ目の議題は、あっさり結論が出た。

 最も恨みを抱いているエレオノールが直接、手を下すのであれば、我々にできるそれ以上のことはないだろう、ということで身を引くことが決定した。


「そうすると、浮気男も被害者か?」


 バトラーの言葉に、三人がくわっと牙を剥いた。


「そうだとしても、お嬢様を裏切った事実は残ります!」

「そうです! 傷ついたお嬢様の気持ちはどうなるんですか!」

「術が解けて改心したとしても、何かしらの罰は受けてもらわないと!」


 私達の気が済まない、と。それはもうだだ漏れの本心にみなが押し黙る。穏健派もこの辺であげた腰を落ち着けた。


「では、彼への罰を考えましょう」


 凛とした声が場の空気を引き締めた。リサは眼光を鋭くさせ、三人を見る。


「お嬢様はきっとクリス様との和解を望むでしょう。婚約を継続させているのは愛故でしょうからね」


 そう、そうなのだ。エレオノールはクリスが浮気をしていても、贈り物をしなくなっても、手紙をくれなくなっても、愛を取り戻そうと一生懸命なのである。

 返事がなくとも手紙を書き、お返しがなくともささやかな贈り物を欠かさない。デートに誘って、たとえそれがお断りの返事でも、返事があったことでそっと安堵している。まだ婚約者を完全に無視するまでには至っていない。ほんのわずかでも心を向けてくれる。ならば諦めない、と。


 いつどこでクリスの視界に入ってもいいように、睫の一本、爪の甘皮まで徹底して自分を磨く。気づかれなくたって、きっと無駄にはならないわ、と微笑む。つらいはずなのに、悲しいはずなのに。

 健気なエレオノールの姿は多くの使用人の涙を誘い、過激派の熱意にじゃんじゃん薪をくべている。


「私達が手を下すのではなく、浮気相手の断罪の場で同時にクリス様へ罰を下していただく。お嬢様が自ら下す罰であれば、クリス様も二度と不届きな輩に不意を突かれはしないでしょう」


 にやり、と口角をあげたリサを見て、みなの背筋が凍りつく。

 厳しくも母のような温もりのあるリサではあるが、ことエレオノールのこととなると途端にどこぞの暗殺者のようになる。長くオルガ家へ身を捧げてきた反動か、自分の子を産めなかったためか、エレオノールのことを実の娘のようにそれはもう愛しまくっている。時折、ティータイムと称して奥様と二人、エレオノール愛を語らう姿が目撃されることもしばしば。


「私達、旦那様にお願いしてミートハンマーを新調しましたのよ」

「重くて頑丈、人の肉でもしっかり潰せます」

「うまくやれば骨も」


 ……なんて?

 隅の方で料理長が真っ青になった。手から滑り落ちたパンは、そばで同じく真っ青になったメイドが床に落ちる前に受け止めてくれた。

 アン、メイ、マリ。それぞれの名前の札と一緒に厨房の壁にかかっていたやたらとデカいミートハンマーのことを思い出す。どうりで打面の棘が鋭利過ぎると思った。何の肉を叩くつもりなのかと思ったら、クリスと浮気相手だったとは。旦那様も何で買い与えちゃうんだよ。

 料理長は食事も忘れてしくしく泣いた。トムさんの道具小屋に隠そうかな。駄目だあいつも過激派だ。

 背を撫でてくれるメイドの手は優しく、二人の心は一つになった。もうやだこの職場みんな怖い。


「彼も被害者という判断が下った場合、叩き潰したら駄目だろう」


 バトラーのもっともな意見にも、三人は不満顔だ。


「いけませんよ、三人とも。あなた達の気持ちよりも、お嬢様の気持ちが大切です」


 リサの言葉を聞いて、三人は渋々、嫌々、はい、と返事をした。せっかく買っていただいたのに。


「外から見える場所に傷を残すなど言語道断です。綺麗な顔を台無しにすることも、バランスのいい体を損なうことも禁止です」


 リサもまた、クリスはエレオノールと並んで初めて完成すると思っている口であった。


「ならばどうする」

「一度、強めに叩き潰すことでわからせる必要はあると思うな」

「肩の骨でも抜くかい? 骨なら戻せる」

「ダメですよ、事故に見せかけるのが難しいじゃないですか」

「じゃあ折る?」

「ミートハンマーは目立ち過ぎる」

「あくまでお嬢様が手を下すんだぞ」

「カトラリーで的を外してしまえば、うっかりさん、ってことで丸く収まらないかしら?」

「いいわね、候補としましょう」


 どんどん燃え上がる過激派の議論に反して、穏健派の空気はどんどん冷えていく。

 何がいいんだよ何も良くないよ。カトラリーの投擲が既に故意だよ。

 口を挟める人間など誰もいない。いるはずがない。

 どれだけそうしていたか。


「それでは、」


 リサの声が盛り上がった場を黙らせる。


「娘を処した後、和解の場面で、お嬢様がどさくさに紛れてクリス様の足の小指を踏み潰す、ということで」


 よろしいわね、と。

 澄まし顔で告げるリサの言葉で、食堂に拍手が湧き起った。拍手喝采、雨あられ。何もよろしくないだろう、と青を通り越して真っ白になった穏健派の心の声など知りもせず、緊急お嬢様緊急会議は幕を閉じた。


 その翌日から、エレオノールのカトラリー投擲練習に付き添うメイド達によって、踏む地団太にも課題が課せられた。

 お嬢様、地団太を踏む時に一点集中するのです。こちらに目印をつけておきますからね。慣れてきたら目印は外しましょう。お上手です、お嬢様。さあ、この目印をクリス様の足の小指だと思ってください。そこは親指ですお嬢様。そこは足の甲ですわお嬢様。小指です、小指だけを正確に踏み抜くのです。さすがですお嬢様。


 的を外した悔しさの発露で踏んでいた地団太であったのに、どうしてか的を設置されてしまった。混乱するエレオノールはしかし、すぐに適応した。クリスの小指。浮気をしているクリスの、憎たらしい小指。深く考えない思考が幸いした。……クリスにとっては災いした。


 エレオノールが的を外さずカトラリーを投擲できるようになり、地団太も過たず小指を踏み潰せるようになった頃、エバンズ邸での夜会が催された。いよいよ本番。決行の時である。

 この日のために、エレオノールは血の滲むような研鑽を積んできた。使用人達も吐きながら泣きながら、必死でしがみついてきた。


「いってらっしゃいませ、お嬢様。必ずや恨めしい浮気女をぶちのめしてくださいませ」


 アイは笑顔で送り出した。


「いってらっしゃいませ、お嬢様。努力は必ず実を結びます。大丈夫です、ちゃんと浮気男の顔面にナイフを突き刺せます」


 メイはぐっと拳を握って送り出した。


「いってらっしゃいませ、お嬢様。世界一お綺麗ですよ。本日のヒールであれば、いかに強固な爪でも間違いなく潰せるでしょう」


 マイは澄まし顔で、しかし力強く頷いて送り出した。


「いってらっしゃいませ、お嬢様。お嬢様の幸せを勝ち取るための大切な日です。これまでの訓練を胸に刻んで、存分に実力を発揮してくださいね。大丈夫、私達はいつだってお嬢様の味方です。サポート体制は整っております」


 最後にリサが、いつもより鋭い眼光でエレオノールを見据えて送り出した。

 クリスが浮気している娘の件はともかく、今日はただの夜会のはずなんだけどなあ……。その場に立ち会った両親は、みんなが何の話をしているのか理解できない、蚊帳の外にいる寂しさを噛みしめて、いってきます、と気合十分で拳を握りしめ足を踏みしめた娘をどこか遠い目で見送った。父はなんとなく嫌な予感を覚えながら、母はもう考えるのは止そうと思いながら。


 そうして、エレオノールの気合が通じたのか、使用人達の熱意が届いたのか。

 クリス・エバンズの心変わりと、彼をたぶらかした男爵家令嬢の一件は解決した。多くの人間の心に大きな爪痕を残しながら。


 幸せいっぱいで帰宅したエレオノールを出迎えた使用人達は歓喜に打ち震え、げっそりした旦那様そっちのけで、エレオノールを祝福した。


「おめでとうございます、お嬢様」

「ありがとう、アイ。おかげで浮気女を罰することができたわ」

「おめでとうございます、お嬢様」

「ありがとう、メイ。おかげでカトラリーは完璧に投げられたわ」

「おめでとうございます、お嬢様」

「ありがとう、マリ。おかげでクリスの小指を駄目にできたわ」

「おめでとうございます、お嬢様。私も鼻が高いですよ」

「ありがとう、リサ。みんなのおかげで幸せよ」


 ……こいつら全員、解雇しちゃおっかな。

 震えながらも肩を抱いてくれる妻と顔を見合わせて、げっそりした伯爵はぼそっとそんなことを思ったとか、思わなかったとか。



「それでは、定例お嬢様緊急会議を始めます」

「本日の議題は、」

「私達はどうやったらお嬢様の嫁入り道具に紛れ込めると思いますか!?」


 知らん。無理。緊急なのに定例なの?

 深い溜め息と共に吐き出された苦情などどこ吹く風で、今日も三人の情熱は熱風となって吹き荒ぶ。


「お嬢様への愛は旦那様への忠誠に勝る」

「是が非でもお嬢様のそばにいたい」

「あわよくば乳母になって末永くべったり寄り添いたい」


 勘弁して。

 多くの嘆きの言葉を踏み潰し、三人の熱意は暑苦しく使用人達を巻き込んで燃え上がる。


「堂々とついて行ってしまってはいかが?」


 家政婦長リサが眠気に負けて、虚ろな目でそう呟いてようやく、オルガ邸に仕える使用人達の長く辛い夜は終わった。空は薄ぼんやりと白み始めていたような気がするが、みな口を噤んで目を逸らした。眠くて白目を剥いてるだけだから。今から寝るんだから。もう朝とかそんなことは絶対に、絶対にないから。

 その日、オルガ邸の使用人が全員、使い物にならなかったことは言うまでもない。脳内物質がどばどば出ていた三人も、空元気が続いたのは午後までだった。普段、めったに怒らない奥様と温厚な旦那様に、わりと本気でがっつり叱られた。さすがはお嬢様のご両親、怒った時の恐ろしさがそっくり、と言ったのは誰だったか。もちろん、漏れ出た言葉を聞いた伯爵夫妻からは三倍叱られた。

 

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[良い点] 振っ切れ具合がスバラシイ❗イイゾ、モットヤレッ❗ [一言] サポーターじゃなくてフーリガンだよねぇ。
[一言] 読んだ結論。伯爵家の人間は大体ヤベェ奴(笑)そしてエレオノールのキレっぷりはやっぱり伯爵夫妻のキレ方を受け継いでるんやな。このメイド3人組のやらかしはこれからも続きそう
[良い点] 以前投稿された本編の切り裂き令嬢が好きだったので、あの勢いをそのまま別視点で読むことができて面白かったです。 カトラリー投げを練習していたのはわかっていましたが、まさか地団駄まで訓練済だっ…
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