真実の愛と現実の愛
メイドと駆け落ちをした婚約者が、変わり果てた姿で帰ってきた。
死んだわけではない。
持病の喘息が悪化してひどい肺炎と気管支炎をおこし、全身を虫に噛まれ刺され、満身創痍だった。
女は手押し車に男を乗せて、屋敷の裏門で平伏したという。
女の肌には、大したトラブルはなかった。
婚約者の白く、柔らかく、繊細な肌だけが、港町のアパルトマンの先住者たちに抵抗できなかったらしい。
このままでは死んでしまうと悟り、私の元に返しにきた。
なんて図々しい女だろう。
だが、勘は悪くない。
彼の実家ではなく、こちらを選んだ本能だけは、褒められるべきだろう。
彼の実家に帰していたら、今頃、ふたりは撲殺されていただろう。明日の朝には、それこそ変わり果てた姿で沖に浮かんでいただろう。
数ヶ月後、私は彼の弟と、婚約を結び直していただろう。
私たちの婚約は、継続されたままだった。
駆け落ちは伏せられ、行方不明で捜索中になっている。
この結婚は、どちらの家にとっても、経済的な死活問題を孕んでいたのだ。
貧乏くじを引かされた我が家は、虫刺されと引っ掻き傷にまみれた喘息患者を、引き取るしかなかった。
婚約者が駆け落ちした日は、秋の嵐で運河が氾濫直前だった。
帰ってきた日は、とても良く晴れてリラの花が満開だった。
男の人生を破壊した女は、死を覚悟していた。拷問も覚悟していた。
お母様は、女を殺せと喚いた。
お父様と家令が席を外したのは、ならず者を雇う算段か。
私は、エメラルドのブローチを握らせて通用口から逃した。
「隣国に逃げなさい。二度と戻ってこないように」
『男と添い遂げられないから、罪を償って死ぬ』なんて無責任なヒロイズムなど、認めない。赦さない。
生きて苦しめ。
愛する人をメイドごときに奪われ、憤怒し、絶望しながら、死すら許されなかった私に、詫びながらもがけ。
ぐずぐずする女を、秘密裏に運ばせた。
その日の深夜便に乗せたから、朝には隣国の領海に辿り着いただろう。
そこで身を投げようが、娼館に売り飛ばされようが、知ったことではない。
が、まあ、大丈夫な気はする。
あの女は、ひどく人の庇護欲をくすぐる。あの貧相な体で。鶏の羽をむしる頑丈な手足で。裏表のない笑顔で。真面目な仕事ぶりで。
女は、男の家で雇われていた料理メイドだった。
コックや庭師やドアマン、メイド長、執事にまで好かれていた。
私から見ても、今回のことがなければ好感度の高いメイドだった。酸っぱい果実のパイを甘く焼く名人だった。
あの女ならば、どこに行っても保護者に困らないだろう。
そんな女が、ただひとり愛した男が私の婚約者だった。なんの因果だろうか。
……恋は落ちるもの。ままならぬもの。
だが、落下点は、婚約者のいない男にしてほしかった。
一週間後、目を覚ました男は、あの女の名前を呼んだ。
そして、私の姿を認めると、長く息を吐き出してから「すまなかった」と謝罪した。
衛生的な衣服と寝具のおかげか、発作はおさまっていた。
虫刺されの腫れも、化膿しなかった部位は引いた。
だが、運ばれてきた日よりも彼は草臥れていた。ひどい疲労と虚無が、傲慢なほど美しかった相貌から、輝きを奪ったのだろう。
彼は自分を驕っていたのだろう。
愛があれば、どんなことも乗り越えられると。
だが、彼にはできなかった。
女にだけ、安定した給金を、家族を、友を失った場所で生きていく力があった。
孤児院育ちの女には、生活力のない貴族の男を、養う気概があった。
それだけの話だ。
駆け落ち相手が平民だったら、今頃は大きな腹をかかえながら赤子の靴下でも編んでいたかもしれない。
男たちを魅了し、女たちに嫉妬させた豊かな金髪を、売る必要もなかったかもしれない。最後に会った女は、短く切った髪を粗末なバンダナでまとめていた。
聞けば、我が婚約者は、全くの足手まといだった。
港の倉庫で帳簿をつける仕事には、ありつけたらしい。
字が書けて計算ができる人間は、市井ではまあまあ重宝されるんだとか。
だが、周囲は価値観の違う荒くればかりだ。帳簿の間違いを指摘しただけで殴られるだとか。
持ち前の社交力で人間関係は持ち直したらしいが、雪が降り始めた頃には喘息で出歩けなくなった。
仕事は、春まで休みになった。
春がきたら、今度は虫にやられた。
愛する女のひび割れた手にクリームひとつ買ってやれず、負担をかけるだけの毎日。
それでも、女はこの甲斐性なしを見捨てなかった。
否、甲斐性なしと過ごす日々を慈しんだ。
あなたさえいれば、何もいらないと。自分が働くから、ゆっくりしてほしいと。強がりでなく、心から。
狭く、不衛生な、埴生の宿。
走り回るネズミの足音も、女がいれば気にならない。
だが、女が仕事に出て、病床で咳をくりかえせば、壁の穴から出てきたネズミと目が合うこともあった。
病原菌の運び屋と病人の邂逅。
愚鈍な病人は、素早いネズミを殺すことすらままならない。
彼がポツポツと話す懺悔は、なかなか興味深い内容だった。
かつての私は、たしかにこの男を愛し、あの女に嫉妬して、物を投げたり、ワインをかけたりしたのに。
もはや、この抜け殻のような男に、私の鼓動は反応を示さない。
男は、自らの感情を多く語らなかったが、彼女への愛を隠すことはできずにいた。
私は、市井にはどんな人間がいるのかを尋ねた。
隣人は気の良いやもめで、咳が止まらなかった男に蜂蜜飴をプレゼントしてくれたという。港が凍る冬は、ほとんど稼ぎがない港湾労働者なのに。
一階に住む未亡人は、職場でもらった萎びたリンゴを切り分けもせずによこしたという。
鄙びたアパートメントでは、そういった助け合いが当たり前で、女はそれをよく心得ていたらしい。
老人の部屋の窓を磨き、野の花で押し花を作っては近所の幼児たちに配ったりしていたそうだ。
市井の者たちは、ないものを分け合うらしい。
溢れる富から施しを与える側だった男には、さっぱりわからない常識だと言った。私にもわからない。
わからない時点で、住む世界が違うのだろう。
その世界のことは男以上にわからないが、女が苦労を苦労とも思わず、くるくると働き、笑顔をふりまいては周囲を魅了したであろう光景は、想像に難くない。
病弱な亭主など捨ててしまえと、幾人の男たちに愛を請われただろう。
だが、女は頬を赤らめて、心からの笑顔で首を振ったのだろう。
「私、あの方がいるから幸せなの。彼がいなくなったら、生きていけないわ」と。
男が馴染めない世界は、男から美貌や健康、矜持を奪った。
だが男は、こんな日々に腐らず、明日こそはと歯を食いしばり、心から女を慈しんだ。
駆け落ちしたことを、一度も後悔しなかったという自己申告は、信頼に値するのだろうか?
「ここまで聞いて、貴女はどうしたいですか?」
聞いたことがないくらい、穏やかな声だった。
私が男を愛することをやめたように、男は私を憎むことをやめていたらしい。
私たちの間に流れる空気は平穏だが、ひどく滑稽だ。
愛と憎しみを捨ててはじめて、意思の疎通がはかれるだなんて。
「さあ? 結婚するしかないんじゃないかしら?」
「こんな酷い男と結婚したいのか?」
男は、心底驚いて目を見開いた。
「したいしたくないではなく、他に選択肢がありませんの。冷たい貴族の血も涙もない女の人生って、こんなものじゃなくて?」
皮肉を言ったつもりはなかったが、男の顔は歪んだ。
そういえば、冷たい貴族の血も涙もない女の、象徴的な存在だと言われたことがあったような。
「貴女自身の意思を聞きたい」
「そうね。他の女に触れた男なんか、願い下げだわ」
男が笑った。女と別れてはじめて笑った。
私の前で笑ったのは、何年ぶりか。
「あのままあなたが見つからなければ、貴方の弟の誰かと結婚することになっていたのよ。あなたが生きているなら、あなたなんじゃないの? 年齢的に」
この男の弟は後妻の子で、8歳と5歳。来月18歳になる私と結婚させるのは、少々酷だろう。
「子どもを産み終えたら、修道院にでも行くわ。あなたも、子どもを授け終わってから女を囲うべきだったわね」
「時を遡ることができたら、そうしたかもしれないな」
冗談を言うなんて、珍しい。
ならば、甘い夢は壊してあげましょう。
夢から覚めて、現実を生きるために。
「あの子の『好きな人のお嫁さんになりたい』って夢を壊すの? あのタイミングで駆け落ちせず、愛人にするために囲っていたら、違う王子様があの子をさらっていたでしょうに」
「…………」
人たらしの女が魅了したのは、この男だけではない。
純粋な愛を捧げ、彼女を幸せにしたいと願うのも、この男だけではない。
全てを捨てたからこそ、愛と信頼と献身を得られたのだろうに。
私以上に、男の方がわかっているはずだ。
「諦めて、私と結婚しなさいな。嫌なら自殺なさい。あの子が生かした命を粗末にしたいなら」
男はしばし沈黙したが、やがて深いため息をついて、寝具の上で姿勢を正した。
「不実この上ない男だが、諦めて結婚してください」
目を見開くのは、息を呑むのは、私の番だった。
だが、不遜な態度を改めたくはない。
「いいわよ。浮気相手を、私だけにするなら。私以外と、子どもを作らなければ」
否定も肯定も命とりだから、男は応えない。
私も、返事など期待しない。
男はおそらく、あの女を永遠に愛するだろう。
貴族としての名誉を回復し、私との間に子を成し、私以外の女に触れようが触れまいが、あの女との愛を忘れないだろう。
私は逆に忘れてしまうだろう。
この男を愛した日々も、憎んだ日々も、恨んだ日々も。
愛の反義語は無関心とはよくいったものだ。
After 15 years
夫との間に3人の子どもを授かったが、修道女にはならなかった。なれなかった。
伯爵夫人という身柄は、子どもさえ産めば趣味と恋愛は自由になるが、人生そのものを自由にはできないらしい。
夫は今でも多分あの女を愛しているが、同じくらい家族を大切にするようになった。
仕事も誠実で熱心だし、私の実家との共同事業は年を追うごとに利益を生んでいた。
つくづく、この男は貴族に向いている。貴族にしかなれない。……私もだが。
先日、隣国訛りの少年が、我が家を訪ねてきた。
彼の養母が死に、遺言の書かれた手紙を届けにきたという。
厳重に封のされた手紙には、忘れようにも忘れられなかった女の半生が綴られていた。
隣国にたどり着いた女は、たまたま立ち寄った店の給仕に雇われたという。
この少年は、その店の入り口に捨てられていたのを、女が養子にしたらしい。
女は、給金を貯めて小さな菓子店を開いた。
数年後、常連になった騎士からアプローチを受けたが、何年も断り続け、なかなか首を縦にふらなかった。
この少年が「お母さんもおじさんが好きなのに、なんで? オレ、おじさんの子になりたい」と背中を押さなければ、結婚しなかったかもしれない。
少年という宝物を得た女は、これ以上幸せになる権利はないと、信じていたらしい。
相変わらず、なんて愚鈍な女だろう。
騎士との間には、女の子がひとり生まれた。
もし、この子と結婚を前提にお付き合いしていた男性が、どこの馬の骨とも知らぬ女と駆け落ちしたら?
ボロボロになった男を、返されたら?
娘を産んではじめて、己の罪の深さを知ったという。
あの時、貴重品を渡して「逃げろ」と言った私の、矜持の高さを知ったという。
そんな立派な理由ではなかったが。
女の中では、そういうことになっていた。
その後、店は繁盛し、家族仲も良好だったが、半年ほど前に女は不治の病に倒れた。
必死の看護も虚しく、アカシアの花が咲く頃に儚くなったという。
少年が夫に似ていることは、不問にしようか。
義父母も、私の両親も存命だ。出生を明かさないことで、守られる命がある。
封筒には、あの日渡したブローチが入っていた。
夫の目の色によく似たエメラルドのブローチが、大切に大切に包まれていた。
『大恩ある奥様にお返しします。生涯を通じて、このブローチは私の支えでありました』
あの女は、最後まで愚かだった。
母としても、あまり褒められた女ではない。
「他に遺言は?」
「奥様に許可されたなら、『酸っぱいベリーの甘いパイ』を焼いて差し上げなさいと」
少年の中で私は、父を奪った貴族の女ではなく、母の亡命を助けた大恩ある奥様になっているらしい。
あの女のことだ、本気でそう思って生きて、そう信じたまま死んだのだろう。
「懐かしいわね。あなたの養母のパイは、本当に美味しかったわ」
「はい。いまや店の看板商品です。どのレシピよりも、厳しく仕込まれました」
少年の目が、夏の海の水面の様に輝いた。
あの女と同じプルシアンブルーの瞳。
夫と同じ亜麻色の髪。右側が跳ねる癖毛。肩のあたりの骨格も、義父や夫と似ている。
少年は、パイを焼きあげると、颯爽と帰っていった。
どこまで事情を知っているのか、夫に会おうとはしなかった。それとなく仕向けても、興味がないというか。留守にした店の方が気になるというか。
恨んでいるのかもしれないし、知らないのかもしれないし、「自分の父は、育ててくれた騎士だけ」という表明かもしれない。
とにかく、あの女は短命ではあったが、不幸ではなかったようだ。
夫と女の面影を残す少年が去り、侍女が用意してくれたアフタヌーンティーのセットを目の当たりにした瞬間、15年前の記憶が蘇った。
『ごめんなさい! ごめんなさい! この方がこんな目にあったのは、私のせいです!』
思えば、あの女はたった16歳の少女だった。
たった16歳と17歳が勢いだけで駆け落ちすれば、破綻して当然だろう。
そして、私も子どもだった。
不貞を知らなかった頃の私は、彼女の作る甘味を愛していた。中でも、この『酸っぱいベリーの甘いパイ』が絶品だった。
時を経て、母から子に受け継がれたパイは、懐かしくも美しい色をしている。
赤や紫色の宝石の様な木の実。草の実。ブルーベリー、クランベリー、ラズベリーにストロベリー、ブラックベリー。
銀のフォークをさせば、サクッと心地よい音がした。
甘酸っぱいベリーと、バターの香りが鼻をくすぐる。
切り分けた先端を口に含めば、15年ぶりの甘さが口の中に広がった。
婚約者の不貞を知った日から、一度もあふれなかった涙が、頬を伝わりこぼれ落ちた。
愛の対義語は、無関心。
無関心になりきれなかった私は―――今日も夫の手からフロックコートを受け取り、家族で夕食をとり、子どもたちと語り合うだろう。
あの少年のことは、聞かれるまで報告しないだろう。
乞われるままに共寝をし、馴染んだ腕に狂わされるのだろう。「愛している」なんて信頼に値しない睦言を、うんざりするほど聞かされるのだろう。
「もう二度と、私をひとりにしないで」と、心の底から祈りながら。