いや、ちょっと落ち着こうよ……
ひいいいいいっ、と神崎は悲鳴を上げる。
見ようによっては、風に巻き上げられた水草が足に張り付いているだけなのだが、神崎は異様に怯えている。
彼だけに見えているものがあるのかもしれない、と思っていると、
「すまんっ。
許してくれっ!」
と神崎は叫び出す。
「なにを?」
と思わず訊いた飛鳥に神崎は、
「なにをか知らんっ」
と叫ぶ。
思い当たることがありすぎるようだ。
「悪事を重ねていると、こういうとき大変ね」
とまださっきのことを根に持っているらしいまゆは冷ややかに言っていたが。
まだ水際近くに見えている、あのこんもりした黒い頭を飛鳥は見ていた。
そこからはみ出して地面にある水草も。
由真も羽田も同じように黙ってそれを見ている。
「あのさ、神崎くん」
と飛鳥は声をかけた。
「なにが見えてるの?」
「なにって……湖から出ててるいっぱいの手が俺を引きずり込もうとしてるんだよっ!」
見えてねえのかっ、と叫ぶ神崎は、必死の形相で地面に爪を立て、逃げようとしている。
「きっと、この間、ボコった奴らの霊だっ」
と言い出す神崎に、飛鳥は、いやいや、と言った。
「それ、幻覚だと思うよ」
え? と神崎は言う。
「そのボコった相手、死んだの?
死んでないよね?
じゃあ、こんな廃れた遊園地の湖の底から出てきたりしないんじゃないの?
っていうか、私たちには見えてないし」
そう言うと、神崎は、え? という顔をした。
その瞬間、理性が恐怖に勝ったらしい。
神崎の足をつかんでいた人間たちは彼の視界から消えたようだ。
水草を振り払い、立ち上がった神崎は、さっきまで死にそうな声で叫んでいたくせに、いきなり、勝ち誇ったように言い出した。
「そうか。
そうだよなっ。
俺、いつも、半殺しまでしかしないからっ」
いっそ爽やかにも見える笑顔だな、と思いながら、
「まあ、神崎くん、一般の人にインネンつけたりしないもんね」
と飛鳥は言う。
いつもヤンキー同士で揉めているだけだ。
一般生徒に迷惑をかけているのを見たことはない。
と言っても、高校は違うので、道端で、ああ、今日もやってんなーと遠目に見るだけなのだが。
「まあ、悪い人ではない気がするから」
と飛鳥が呟くと、
「いや、悪い人でしょ」
と素っ気なく言ったまゆは、ぼそりと付け足していた。
「前、自販機の側にたむろっていたヤンキーたちにからまれたとき、助けてはくれたけど……」
それを聞きつけた神崎が、
「おっ、覚えててくれたのか」
とまゆに言う。
「あのとき、お前、さっさと逃げやがって。
俺、軽く腕骨折したんだぞー」
と何故か笑顔だ。
「……そうだったんだ。
ごめん。
あのとき、逃げちゃって。
だって、ちょっと――」
と言いかけたまゆの言葉にかぶせるように、神崎が言ってくる。
「いいってことよ。
俺と知り合いだと思われるのが恥ずかしかったんだろ?」
「ちょっと恥ずかしくて。
久しぶりに会ったから……」
ん? 会話が噛み合ってるようで、噛み合ってないぞ。
まゆは、水の近くなので、そう暑くもないのに、忙しげにうちわで顔を仰ぎながら、次行こう、次、とさっさと歩き出す。
「なあなあ、椎名。
ちょっとは感謝してくれてんの?」
後を追う神崎は、いまいち話を聞いていなかったしく、笑いながら、そう突っ込んでいる。
……彼女居なさそう、と出発前にみんなに言われていたが。
なるほど、これは居なさそうだと飛鳥も思ってしまった。
神崎……、せっかくのチャンスを……。
ちょっとは人の話を聞け、と思いながら、飛鳥は遠ざかっていく二人を見送る。
「感謝?
してるよ」
このぐらいかな、とまゆは、人差し指と親指の間に小さな隙間を作って見せている。
「こんくらいか」
とまゆの前に回り込み、後ろ向きに歩きながら、神崎は自分の両手を大きく広げて見せる。
「このぐらいだってばーっ」
と叫ぶまゆの浴衣の後ろ姿と二人の声が闇に呑まれていった。
……平和だな、と思い、それを見送る。
ほんと、平和だよ。
横にこんなものが居るのに、と飛鳥はチラとあの湖を見る。
まだあの黒い濡れた頭がこんもり、そこから覗いていた。
さっき、まゆが言っていた。
『此処ってさ。
謎のイキモノが住んでるって言われてるけど。
それって、見た人がなにを見たのか語りたくないから、そう言われてるんだって話聞いたんだけど』
ボコった相手ねえ、と思ったとき、
「行こう」
と由真が言った。
羽田も沈黙したまま、由真について行く。
足早に湖を離れようとするように。
二人とも、なにが見えてる?
私……
私はね。
包丁を地面に突き刺し、這い上がってこようとしている男が見えたけど。
でも、これは、
誰にも言わない。
由真にでも――。
「さーて、次は何処に行くかなー」
そこから少し離れると、ようやく、いつもの口調で羽田がしゃべり出した。
「近いのはどっちですかねー?」
と飛鳥は、とっぷり日も暮れてきた園内に浮かぶ遊具のシルエットをぐるりと眺める。
そのとき、羽田が、ふと、といった感じでしゃべり出した。
「さっきの、ゆーま、ゆーまってなんだったんだろうな?」
いや、その言い方だと、もう、『ゆうま』になっちゃってますけど、と思いながら、
「さあ?
羽田さんはなんだと思います?」
と訊くと、
「俺は、UMAかと思った」
ユー、エム、エーのUMAだ、と言う。
「自分でUMA、UMA言いながら出て来る未確認生物ってどうなんですかね……?」
そう言いながら、飛鳥は振り返った。
あの暗くよどんだ水は美しい月明かりを映していたが、止まっている乗り物の横に、まだあの頭が見えていた。
微かに声も聞こえてくる気がする。
……ま
ゆー
……ま
……駄目だ、羽田さんのせいで、UMAにしか聞こえなくなってきた。
そのとき、由真が、
「花火、上がったら、此処に来たらどうだ?
水面に映って綺麗なんじゃないか?」
と平然とそんなことを言ってくる。
いや、ほんと相変わらずだな。
神経太いな、と思いながら、飛鳥は分かれ道で足を止める。
此処から近いのは、ドリームキャッスルか、観覧車か。
花のない丸い花壇の前に園内の看板があったが、此処のもやはり、腐食し、色褪せていて、見えづらかった。
他より明るいけど。
ん? 明るい?
と思って、飛鳥は看板の横を見る。
すると、看板の側のベンチの横に、明かりのついた自動販売機が見えた。