引っ越し前夜
少しベランダに出たくなって、窓を開ける。
この小さな湊町にはビルはほぼなく、3階でも駅前の辺りまで見える。
駅前商店街の、ぼうとした灯り、白灯台と赤灯台の明かり、頬を撫でる乾いた陸風。
この長年見慣れた情景も、明日からは暫く見られないとなると、少し寂しい。
「戻って風呂入ろ…」
だが、冬の寒さには勝てず、両手を擦り合わせながら部屋に戻る。
風呂ではいつも綺麗にしてるつもりだが、明日からは要人と同居だ。いつもよりさらに念入りに。
湯船に浸かると、ゆらゆらと明かりを反射する湯面のように、色々な想いが去来してきた。
ここで過ごした日々はそれほど濃密で大事なものだった。
少し家出をするだけでもやっぱり寂しさは拭えないだろう。
風呂上がりに荷物を詰めた。
数少ないと思っていた荷物も、かき集めると、少し大きめのスーツケースとバックパックを占領した。
自分のものでは無くなってしまった部屋から目を背けるように電気を消し、ベッドに潜り込んだ。
なんだか、今日は夢を見そうだ。
微睡み始めた意識に身を任せ、そのまま落ちていった。
目を覚ます。時刻は6:30。いつも決まって目が覚めてしまう時間だ。
昨晩の直感通り、夢を見た。
それは、僕がこの部屋で住み始めた日のことだ。
「真尋、ここが今日からお前の部屋だ」
「うぉ!でっか!これが、オレの部屋!」
「そうだ、ほれ、カギをやる。隣は私の部屋だから、何かあったら来いよ」
そう言って、友恵さんから部屋のカギをもらった。
今もまだガキだが、ずっと幼かったあの時は、自分の城をもらったような感覚でとてもはしゃいだ。
そんな思い出を夢に見た後だと、自分の部屋が一層浮き上がって見えた。
備え付けの家具しかなかった部屋が知らず知らずのうちに自分色に染め上がっていたらしい。
こうして僕のものが何も無くなった部屋は無機質に僕を拒絶する。
軽く身支度を済ませ、鏡で自分の姿を見る。
昨日、色々思い出して泣いたけれど、幸い目は腫れていなかった。
長期間護衛、いつまで続くかはわからないけど、やるしかない。
ヨシ、と気合を入れ僕はこの部屋から出て行くことにした。
全ての電気を消したことを確認し、ガスの元栓を確認し、玄関で靴を履く。
「じゃあな、しばらくだ」
玄関の戸は嫌がるような音も出さず、大人しく閉まった。
フロントへ行くと、ブラウン支部長が僕を待っていた。
「おはよう、マヒロ、よく眠れたかい?」
「仕事が特殊すぎて逆に何も考えずに寝ましたよ」
「てっきり腫れぼったい目をしてるかと思ったがな!ハハハ」
それほど泣き虫でもないんですけど……
「そんなことより、荷物はこれで全部です」
支部長にスーツケースを預けると、ニヤりとしながら、
「やっぱり自転車で行くんだな?ヘンタイだなぁ、マヒロは」
と言い、ケタケタ笑われてしまった。
実際、自転車は荷物運搬に使われる車には積めないし、自転車で行きたいと昨晩お願いした。
バックパックには失くしたくないものしか入ってないので、幾ら組織の人間でも迂闊に触ってほしくない。背負って走る予定だ。
支部長はバックパックを背負い35kmほどの道のりを自転車で行くのをヘンタイと言っているようだが、僕の見込みでは3時間もあればゆうに着いてしまう。
まぁ、寒空の下でわざわざ自転車で行くより、組織の車で送って行って貰えば良いわけだが…………
けれど僕としては少し胸躍る小旅行感覚。寒くても自転車は心地良い。
「それじゃあ、行ってきます、昼すぎには着いていると思うので連絡します」
「わかった、気をつけるんだぞ。もし、解雇されたらすぐに戻ってこい、マヒロの部屋はそのままにしておくよ」
いつものように、ハハハと笑いながら、僕を送り出してくれた。
————
遠ざかる青年の背中に、ロバート・ブラウンは小声でつぶやく。
「マヒロ、君は強いな。私だってまだ心の整理がついていないさ…」
マヒロはそれを隠し、気丈に振る舞っている。
親代りで絶対的に信頼していたトモエが死んでから、まだひと月しか経ってないのに。
「ハハ…」乾いた笑いが漏れる。
私はまだ君が死んでしまったことすら信じられていないのにな…
トモエ、君は見てるか?君の育てた彼は、ずいぶんしっかりしたもんだよ……
————