その手は、小さく感じた。それが、悲しかった。
その手は、オトナだった。
エスカレーターの先で中年の男女が寄り添い、固く手を繋いで立っていた。お互いの指と指を絡めあう、大人なシェイク・ハンド。師走の曇天を振り払うかのような、熱く、柔らかい愛の形がホームの上で結ばれていた。
その手は、分厚かった。
中学時代。所属していた剣道部は公立校であったのだが、朝練・昼練・夕練と激しい稽古を重ねていた。太鼓の音が鳴り響く道場の中心には、まさしく熊のような容貌の顧問の教諭が仁王立ちしている。休日などすべて返上、師弟関係、上下関係、同期との争い……凡そ運動部ならではの一通りの経験ができたこと、何よりも苦しい環境で「同じ釜の飯を食った」仲間を得られたのは後々の人生にとって十分な糧となったと今更ながら感じている。
そして、卒業の日。あろうことか顧問の教諭が式場の一角で、仁王立ちしていた。門番さながら、卒業生の列を待ち構えており部員一人一人と握手を交わしているのが見えた。
熊のようではあるのだが、その顧問教諭の名誉のために断言する。練習は文字通り血の小便が出るほどに激しかったが、一度も暴力を振るわれたことはなかった。熱血教諭という文字を、剣道という世界にだけ当てはめたような純粋なる熱量を、十代はじめのニキビの出だした頬でもしっかりと感じ取ることができた。
先行する剣道部員が握手とともに言葉を交わしているのが見える。無常にも列は進んでゆく。とうとう熊の右手が目の前に差し出された。
俺は視線を熊の両目に固定した。最後の戦い。逸らせば、負けである。中学時代最後の意地を見せながら、視界の端にある熊の右手を握った。分厚く固い皮やな、と感じた次の瞬間、ものすごい力で俺の手が握り返される。ぎゅうと締め付けられ、危機を感じるほどの圧迫が右手の骨全体を襲った。
その時、どのような言葉を掛けられたのか覚えていない。ただ、こちらも意地で目を逸らさず、痛いと思われるような表情は一切出さなかった。それは、力ですべてを拒絶するような冷たさと力によるが故の虚勢を、その握手で感じてしまったからかも知れない。
その手は、小さく感じた。それが、悲しかった。だがあれが、もし優しい握手だったら……三十年を経て記憶に残ったかといえばノーであろう。皮肉としかいえないような思い出は俺の胸の奥に刻み付けられている。
その手は、柔らかかった。
小学五年。昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く校舎の四階の廊下。優しい陽光がガラス越しに降り注ぎ、お下げの少女を包み込んでいる。
俺は何らかの委員会に属していた。次の時間はその委員会の時間だったのだが、教室がどこだか分からない。クライメイトたちはすでに移動を済ませていて、廊下には彼女と二人きり。
俺がまごついていると、
「もう、こっちだよ。早く行きましょう」
と言うなり、彼女は俺の右手を握って駆け出した。ふわりと白雪をつかんでいるような、感覚だった。雪のように透き通った彼女の肌は指先まで真白に透明で、不思議さと安心感が入り混じったような、柔らかな温かさが俺の右手を包んでいた。
大学生になって、一度だけ地元の駅のホームで彼女と出会った。言葉は交わせなかった。相変わらずのお下げ姿で、変わらぬブラウンの大きな瞳はあのころの優しさを湛えつつも、少しだけ哀しみを重ねたような色合いを見せてから、阪急電車の車内へと消えた。
その手は、ざらついている。
台所で忙しなく動き続ける彼女に指先を絡めたら、どんな顔をするのだろうか。
師走にしては幾分柔らかい風が吹く中、温かき男女に一瞥をくれて通り過ぎ、ホームの先端で電車を待ちながら、ふいににやける中年男の姿があった。