2 僕と彼女
「おい、君……おい、大丈夫か?」
気がつくと、誰かに呼ばれていた。何処か分からないここに着いてから、しばらく経っていたらしい。
ぼんやりと見上げると、ワイシャツ姿の男がこちらを覗き込んでいた。心配というよりは、呆れたような顔をしている。
あたりを見渡そうとして、やけに首が重いことに気づく。腕も。足も。頭が一番ぐらぐらしている。音もこもった感じで、視界も見えにくい。
一体、僕はどういう状態に……
おまえ、よく聞くんだよ。
はっとした。ハイドの声だ。だが、近くにいる訳ではないらしい。
頭の中に反響するこの声は、僕が気を失っている間に語りかけたものなのだろうか。とりあえず、意識を集中させてみることにする。
……よく聞くんだよ。おまえは今、着ぐるみ姿でとある事務所に座り込んでいる。あの子は今日、ここのでイベントのバイトなんだよ。おまえは今日単発の新人で、おそらくあの子と組まされるはずだ。夕方ぐらいには不自然なく連れ出してやるから、それまで上手くやりな。じゃあね……
僕はよろよろと立ち上がった。確かに重いが、いつもの体質的な倦怠感はどこにもない。彼女の側に一日中いられるというだけで、身の軽さまで変わるとは。ゲンキンなヤツ。
「だいぶふらふらしてるけど、そんなんで今日一日大丈夫?」
さっきの男は僕の全身を眺めた。腕を引っ張ったり、頭をずらしたりと僕の周りをくるくると動く。調整してくれているのはわかるのだが、なんとなくくすぐったかった。
着ぐるみなんて、初めてだ。新鮮。
「あ、準備できたの?」
奥のドアが開く。入ってきたのは、彼女だった。一気にテンションが上がるのが分かった。
本当に目の前にいる! しかも、これなら絶対に僕だと気づかれない。
ありがとう、ハイド。何故ここまでセッティングできたのかは分からないけど、本当にありがとう。化け猫とか言ってごめん。
ポニーテールに帽子、会社名の入ったコスチュームといった姿の彼女は、言わずもがな世界中の誰よりも可愛かった。あのマリリン・モンローだって顔負けだ。
正面から顔を見ることができたのは、何日ぶりだろう。
「多分慣れてないからだと思うんだけど、ちょっとよろよろしてる」
「あー、重いもんねぇ」
「桐田さんじゃ途中で代わってあげられないし、やっぱり他の男性陣と組ませた方が――」
いやいやいや僕超元気だから! めちゃくちゃ体力ありあまってるし、アクロバットも華麗に決めてみせるから!
そんな叫びを腕の先にこめて、他の人を呼びに行きそうな男の方へ伸ばす。が、不慣れな体の動きに足がついていかず、バランスを崩し転倒してしまった。ぎょっとして男が振り向く。
「わああ、大丈夫?」
彼女が後ろから支えてくれるのが分かって、胸が締め付けられた。触れるのも、本当に久々だ。こんな距離にいるのも。ああ、いよいよ考えていることがストーカーじみてきた。もう、それでもいいか。
そんなバカなことを考えているばかりで立ち上がれずにいると、彼女が前から回り込んで引き上げてくれた。よいしょ、そう言って立たせると、僕の方を見る。
彼女はなかなか視線を外さなかった。
まさかもうバレたのか。絶対ありえないと分かりつつも冷汗をかく。どこにも気づかれるような要素は、ないはずなのに。
言葉通り、僕にくぎづけになること十数秒、不意に彼女は微笑んだ。
「この子で大丈夫だと思いますよー。やる気はあるみたいだし、逆にこのどんくさい感じがそれっぽくて可愛い! それに、今回は設計がいいから、転んだぐらいで頭も取れちゃわないですし」
ね、と意味ありげな笑みを向けられた男は照れたように頬をかいた。この着ぐるみの設計者らしい。
でれでれしやがって。万が一僕の彼女に手を出してみろ、お前を一生着ぐるみ人間にしてやる。もちろん僕にそんなことはできないからハイドに頼むけど。
「でも、さっきから一言もしゃべらないけど、本当に大丈夫か?」
ひとしきり照れた後、男はまた僕の方を向いた。無言でノロマな新入りを心配半分不審にも思っているのか、僕と視線が合わない。
彼女のぽやっとした顔を見て、しまったと思った。
マズい。声は出せない。だが、黙っていればますますアヤシイ奴である。
僕は、どんどんと喉のあたりを叩いてみせた。
「え、頭痛いのか!? それじゃますますやらせられな……」
首を振り、もう少し下の方を叩く。ああ、と男はほっとしたようにうなずいた。
「喉が痛いのか。分かった、声は出さなくていいし、くれぐれも無理はしないでくれよ」
ずぼっと腰のあたりに手を突っ込まれ、僕は飛びのきそうになった。横を見ると、彼女が何かを押し込んでいた。
「ここ、お腹の脇にポケットがあるから、メモと鉛筆入れとくね。何か言いたかったら筆談でよろしく!
……じゃあ、改めまして。桐田美里といいます。今日一日、よろしくどうぞです!」
彼女は歯を見せて笑った。
ああ、もう、どうして。
事務所を出る彼女の後をついていきながら、うつむかずにはいられなかった。
こんなに可愛く笑うのに、どうして、僕の前だとそれを見せてくれなくなったの?
*
「イベントの内容知らない!? もー、橋さんちゃんと説明しとかないとー……」
歩きながら彼女が教えてくれたことによると。
ある会社の動物キャラクターのアニメ化イベントで、監督や声優達のトークや、着ぐるみキャラクター達のショーが行われるらしい。ショーに出るのは着ぐるみのベテランだそうなので、僕の仕事は、イベント会場側でグッズの販売を手伝うこと。正確には、グッズの横でぴょこぴょこ立っていればいいそうだ。
自分で姿を見ていないから何の動物かはわからないが、名前は「テディ・テディ」というらしい。このシリーズの主人公で、たまに泣き虫だが真面目な性格をした三人兄弟の真ん中。しっかり者だがたまにテンションの壊れる姉と、可愛くおちゃめだが若干腹黒な妹、そのほか個性豊かなキャラクター達に囲まれて生活する話。
ここまで聞いた時点でも、他のキャラクターもちょっとばかし首をかしげたくなるような設定があるのだろうと予測できてしまう。まあ、その妹とやらにそっくりな性格の持ち主である彼女の物言いのせいもあると思うが。
「まあ、設定は覚えなくてもいいよ。でも、真面目な性格だから派手な応答はしなくてオッケー。ガキんちょがぶつかってきたらちょっと動いてやる程度で、十分喜ぶはずだから」
例の強烈な可愛さのスマイルで、そんなことを言う。声を出せないし、出せたとしてもなんと返していいのか困るような反応の代わりとして、軽くうなずいておいた。
思えば、彼女は幼い頃からちょっとズレていた。
よく子供が、夜中まで起きてサンタの姿を見たいと言う。結局は耐え切れずに寝てしまうのが普通だが、彼女は両親にバレないようにずっと起きていて、五歳時に既にその真実の姿を目撃していた。
着ぐるみの中に人間が入っているのを知っていて、わざと人間の目があるだろう位置を見て話しかけるのもいつものことだった。もっと上方――着ぐるみとしての目がある場所――に向くべき視線を受けて、中の人はさぞかし困ったと思う。
ほかにも彼女のおちゃめさ――正確には腹黒さだがここは彼女を立てておこう――を示すエピソードは諸々ある。あのハイドも「あの子はなかなか見どころのある子だよねえ」と言うほどだ。
ちらりと隣を歩く彼女を見る。が、三秒も見つめないうちに腕の付け根を何かに強打して、こてんと転倒してしまった。
「そうそう、私もこのキャラクター好きで……ってどうしたの!? なんで何もないところで転んでるの!?」
僕は意外に大きかった衝撃にこらえながら、ぷるぷると震える腕を持ち上げて後方を指した。
「ん? ああ、電柱にぶつかったんだ……。よそ見でもしてたのー? ほら、立つよっ」
さっきと全く同じ体勢で起こしてもらった。彼女に見惚れてずっこけるなど、本来なら半日は悶えていたい羞恥である。何もしゃべらなくていいのが、かえってありがたかった。
しかし立たせてもらった後どういう反応をするべきか分からず、少し視線を下げ動かずにいると、不意に彼女が目を合わせてきた。
「だいじょーぶ! 転んでも痛くないでしょ?
ほら、泣かない泣かない」
僕は大きく首を振った。痛いから黙っている訳ではないしましてや泣いてもいない。
というか何なのだ、この子供扱いは。
と、急に頭が動かなくなった。彼女につかまれたのだと分かるまで数秒かかった。
「ウソだ。絶対半泣きになってた」
目だけでそちらを見ると、彼女は嫌味ったらしくにやりと笑っていた。
うわ、こんなバリエーションの笑顔すら久しぶ……
「自信なくしてイベント中に『おかあさーん』とか泣き出さないでよ? あと、あんまり頭振ると取れちゃうからね。さすがに」
頭が取れてしまったら大問題である。いじわるそうな彼女の笑みに何故か恐怖を感じて、僕は両手でもって彼女から自分の頭を奪い返した。
にしし、と彼女は歯を見せて笑う。
「よーし、がんばれるね!」
今度はぽんぽんと頭をなでられた。
本当にこっぱずかしい。完璧に子どもじゃないか。
不貞腐れながらも、彼女と普通に会話ができることに喜びを感じないと言えば、それは、嘘だった。