1 僕とハイド
「はじめまして」
その腕に抱きしめられた時、決めたのだ。
僕が一生、この子を守ると。
――*――*――*――*――*――
「なぁなぁ」
一緒に住んでいる女の子は、こちらを振り返ってくれなかった。
「ちょっと聞いてる? 昨日さ……」
相づちも打ってくれない。
「ねぇってば」
一瞥もくれないとは、まさにこのことだろう。
「僕、なんかした?」
忙しそうに歩き回り、時間がないと呟きながらも、新聞のテレビ欄はちゃんとチェック。あとテレビの占いは歯磨きの手を止めてしっかり見ている。ならば、僕と話す時間の余裕だってあるじゃないか。ほら、今日やぎ座一位じゃん。もう自分の星座終わったじゃん。残りを見ているくらいなら、さっさと歯ブラシを洗って一言ぐらい話してくれてもいいのに。
「なんかしたなら、あやま」
「いってきます!」
彼女は家を出て行ってしまった。
……別に泣かない。ちょっと前までべたべたとまとわりつくようだった僕の彼女が、最近冷たいからって、別に泣かない。一言も口を聞いてくれなくて、挨拶すら返してくれないからって、別に。
「……なんでだよぉ」
悲しみのあまり、僕は座りこんだまま一歩も動けなかった。いつも以上に体が重く感じられる。
「また泣いているんだね、おまえ」
下の方から声が聞こえてきた。知的に光る蒼の目が、こちらを見ている。
「泣いてなんか……なん、か……」
泣きたくても泣けない。だが結局漏れてしまう嗚咽を抑え切れない僕の上に、そいつは乗っかってきた。
ハイド。彼女がずっと飼っている灰色の猫だ。昔から、僕と彼女とハイドの三人(という言い方が正しいのかは分からないが)で遊ぶことが多かったのだが、何故かこいつは喋ることができる。しかも僕の前でだけ。
彼女が側にいると、ハイドは甘えるように鳴く。どんなに彼女が慌ただしくしていても、ハイドが鳴けば彼女は、それはもう可愛らしい笑みを浮かべて、ハイドに頬をすり寄せる。さすがに同じようにはできない自分の立場が悔しい。
「いったいいつからなんだろうねえ」
「うっ……どうせまた、ぜんぶ……全部分かってるくせに」
「おや、何のことだい?」
「そうやって、高みの見物してるんだろおおっ」
最初は単に賢い猫だと思っていた。だが、どうもそれだけではないらしい。ハイドには不思議な力がある。僕や彼女が知らずにそれに助けられたのも、一度や二度ではない。僕は、奴を妖怪か、もしくは神様の化身なのではないかと本気で疑っている。
僕はにらみつけることとすがることを天秤にかけ、いかにあっさりとそれが後者に傾くのを見届けた。
「なぁハイド、教えてくれよ。なんであの子は僕にこんなに冷たいんだろう?」
「そうだねえ、辛いだろうね」
「うん、最近急に始まったことだし……でもみーちゃんに他に変わったところはないし……うぅ」
「そうだねえ、急にだったね」
「もう僕、どうしたら……――って、女子の悩み相談じゃないんだぞ! 相づち以外に寄越すものがあるだろ!」
ハイドは優雅に毛づくろいをしている。
「よく知ってるじゃないか。女性の悩み相談が、同意の要求のすり替えだと」
「みーちゃんが言ってたんだもん」
「そうか。じゃあアドバイスを寄越してやるとね、その妙に可愛い言葉遣いやめた方がいいよ。男なんだから」
「このしゃべり方が原因ってこと!?」
「さあ、そうとは言っていないけれど」
「この化け猫め……」
「何か言ったかい?」
「いーえ! なあんにも! だぜ!」
とりあえず語尾につけてみた男らしい言葉に違和感を感じながらも、僕はため息をついた。僕とハイド以外いない部屋を見渡す。
彼女はいつも通りだった。
いつものように起き、朝食を済ませ、身支度を整えて出ていった。
ずっとそうだ。彼女は、いつも通り。
まるで、こんなに取り乱して騒いでいる僕だけが、おかしな具合に浮いているみたいだ。
だが、さすがにここまでくると寂しくて耐えられない。彼女だって、以前得意げに言っていた。愛情の反対は憎しみではない、無関心なのだと。まあ、誰かの受け売りらしいが。
きっと無意識のうちに、彼女をものすごく怒らせるようなことをしてしまったのだ。それを示すために彼女は、これほどまでの完璧な存在無視を決め込んでいるのだろう。
「ハイド」
「なんだい?」
「頼みがある」
「断っとこうかねえ」
「うん、実は……って話も聞いてくれないの!?」
「冗談だよ。言ってみな、とりあえず聞いてやるから」
たいていの人が愛らしいと見る猫の仕草をしながら、ハイドは言った。
「実は、前々からのささやかな望みがあるんだ。みーちゃんに気づかれないように、みーちゃんの側にいることはできないだろうか」
ハイドは一瞬ぽかんとした後、盛大にふき出した。
「こっちは真剣なんだぞ……!」
「わ、悪い。だけどどうしても……ふ……おまえの顔、笑っているし……」
「笑ってない! よく言われるけど、これは元からこういう顔つきなんだから仕方ないだろ!」
「しかも何を言い出すかと思えば、ストーカーの真似事……くくっ……」
「ストーカーじゃない! 家にいない時の様子が知りたいんだ。例えば誰かに僕のことを愚痴ってたりとか……。それに第一、今はケンカ中でも、僕達は相思相愛だっ」
「ストーカーは皆そう言うんだよ」
それからも数分、似たようなやりとりが続いた。十分に僕をからかって満足したのか、ハイドは目元の涙をぬぐいながら座りなおした。泣きたいのはこっちだというのに。
「あーおもしろかった。いいよ、正体がバレずに今日一日、彼女の側にいられればいいんだね?」
「そうだ」
「――分かった。じゃあ、ちょいと失礼するよ」
蒼い眼が不気味に揺らめく。ぎょっとした次の瞬間、ハイドは口を大きく開けて飛びかかってきた。肉食獣そのものの様子に、恐怖で動けなくなる。
あまりにめちゃくちゃな願いを言う僕に呆れて、ついに食べてしまうことにしたのだと思った。ところがハイドはくるりと身をひるがえし、視界から消えた。またもや腰を抜かしたのも束の間、首根っこを強く引っ張られた。どうやらくわえられているらしい。
「え? ちょ、ハイド、何を――」
「ちょいと乱暴だが、このままおまえを引きずっていくことにするよ。しっかりつかまってな」
その言葉を、僕は理解することができなかった。
このまま、引きずっていく?
いや、さすがにそれは異様な光景ではないか。猫に引っ張られていく自分の姿など、無残すぎて想像したくもない。
「それに、そもそもつかまる場所なん」
ぐいっ
――僕の叫び声は意識とともに、ハイドの恐るべき走行スピードにかき消された。