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序章 雨の中で

 空は曇天と化していた。

 見渡す限り、鉛色をした雲の群れが広がっている。

 それは見る者を不安にさせるような、暗く、そして重い灰色の空だった。

 それだけではない。

 どんよりした曇り空から、ザーザーと小さな水滴の束――いわゆる雨――が強く降り注いでいる。

 雨を好まない者から見れば、うんざりするような光景であろう。

 基本、雨が降ると人や動物は滅多な事で表には出てこない事が多い。

 濡れたりすると、それだけで不快感を得るからだ。

 それは専ら人間に見られる行動であるが、ずっと中に居る訳にもいかない場合がある。

 外に出て何か用事をしないといけない時、人間は大まかに分けて2つの行動パターンが見られる。

 1つは傘を差す等、道具を使って雨を凌いだ状態で外に出て行く場合。

 もう1つは傘や雨を凌ぐ物が無いため、濡れる事を覚悟して速足で用事を済ませる場合。

 前者は傘が大きければ濡れる場所も最小限で済み、後者は濡れたとしても用事を速めに終わらせる事が出来れば濡れた服を乾かしたり、身体を拭く事によって風邪を拗らせる事は少ないはず。

 それが比較的、常人が取る行動であろう。

 しかし、ある者は違った。

 その男の手には傘は持ってない。

 かと言って、濡れるのがイヤという事から急いでいるという様子もない。

 ついさっき述べた2つの行動パターンとは明らかに違う反応だ。

 男の目に若干の生気は感じられず、背中を丸め、力無く首を前に垂れ、重い足取りで山道を歩いている。

 その姿は惨めとも、哀れとも、痛ましく思えた。

 歩いている間にも雨は男の身体全体に容赦なく浴びせかける。

 だが、男はそれを意に介さなく歩き続ける。

 正確には意に介さないのではなく、何も感じていない、と言うべきだろう。

 その身体に叩き付ける滝のような雨も。

 肌に纏わりつく濡れた赤装束の不快感も。

 身体の芯に、じわじわと浸食してくる寒さも。

 ただそこにあるのは虚ろな目、虚ろな心、虚ろな気配。

 男は、ふと立ち止まって空を見上げる。

 どこまでも晴れる事のない暗雲の世界。

 それはまるで、自分の心を映し出したような虚ろな空だった。

 何処を探そうとも亀裂や小さな孔はなく、一筋の光も通さない灰色の雲の群れ。


「…………」


 男は途方に暮れたかのように再び歩き出した。

 

 ☆


 雨は尚も降り続いている。

 今はあまり使用されていないのか、人気が無く、ややボロい感じのする山小屋の中に男は居た。

 山小屋の中も酷く荒れており、もう何十年も使われていないのか壁はボロボロで室内も落書きされた形跡があり、おまけに部屋の中央に設置されている小さな木製の食卓が倒されている。

 廃墟というより何処か墓場めいて見える。

 そんな光景を気にすることなく、今にも崩れそうな木製の腰掛けに座っている人影。

 つい先程まで山の中を歩き回っていた男の悲惨な姿だった。

 その瞳は何も映さず、その耳はどんな音も捉えず、その肌は何も感じず、その心はひび割れ、半ば砕け散っていた。


「何故……」


 男はか細く、そして絞り出すように声を出す。


「何故、こうなってしまったのだ……」


 男は、ひたすら呟くも誰も居ない小屋の中で答える者は居ない。

 風の唸りや、遠雷の轟きだけが遠くに響き渡るだけだった。

 

 どれだけ時間が経っただろうか?

 いつまでも埃っぽい小屋の中に居続けても仕方ないと判断したのか、男はゆっくりと立ち上がって山小屋を後にする。

 とは言え、当てのない旅をしても仕方がない。

 もっとも旅というには、あまりにも荷物は少ない。

身に付けているのは、袖の中にしまっている小さな勾玉、そして腰に差してる1本の刀くらいだ。

 と言っても男から見れば、その2つの道具は最早持つ意味すら無いと思っていた。

 男は奪われたのだ。

 自分の誇りを。

 自分の道を。

 そして……自分の生きる意味を。

 喪失や失意といった目に見えない、そのくせ重く圧し掛かる気配が全身に纏わりついている。

 故に視界に入れど認識しない瞳、自分の身を容赦なく打つ雨の粒、それに伴う冷感、そこから生じる痛覚というものが麻痺していた。

 その結果、自分が今歩いている地肌剥き出しの道が泥土と化しており、状態が不安定だという事に気付かなかった。

 普段は乾いた土壌から形成される道も、水分を吸い込めばたちまち、土の表面に水の膜が出来て潤滑しやすくなる。

 気が付けば、男は自分の身体が一瞬、宙に浮いた感覚がした。

 重心が明らかに傾き、それに従うように身体の向きも自然と傾いた重臣の方に向けられる。

 男は、ふと自分の平衡感覚が狂ったのかと思ったが、それはすぐに訂正した。

 無意識に遠くから微かにだが、足下から河の水音が耳に入ってきたからだ。


「あぁ、これは……」


 男は、そこでようやく自分は今、足を滑らせて山道から転落しているのだと認識した。

 恐らく下は川なのだろう。

 激流というわけではないが、川までの高低差が激しければ以前まで身体を鍛えていたとは言え、高ければ高いほど落下すれば無傷では済まない。

 最悪、水深が浅ければ打ち所が悪いだけで、あの世行きは確実だ。

 仮に死ななくても骨折はするだろうが、今の自分の体力で岸に這い上がる程の体力は無いだろう。

いや、むしろ男は抗うという気持ちすら無かった。

 河に落下すると、鈍い衝撃と水の冷たさが身体を包む。

 その冷たさは雨に打たれたまま風に吹かれる感じとはまた違い、文字通り身も心も凍りつくような冷たさだ。

 だが男は抵抗する素振りすら見せず、むしろ安堵な気分になった。


(これで……俺は…………)


 冷たい流水に体温を奪われつつあるにも関わらず、男はそのまま目をゆっくりと閉じ、川の流れに身を任せるように流されていく。

 やがて男の身体は動かなくなり、意識は、そのまま闇の中に飲み込まれていった。


(続く)

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