Ⅲ 東岸英吾(4)
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瑛二が殺された日から、丁度五年の月日が経過した。
その日も、いつもどおりに麻都香が彼を起こしにきた。本来ならば感謝しなければならないのに、英吾は麻都香を邪険に扱い、突き放した。機嫌が悪いわけでも、何でもなかった。英吾は、今日が一年のうちで最も罪の意識が最大化される日、つまり、今日が瑛二の命日であることを覚えていた。そんな日に、麻都香の顔を直視すれば、思わず謝ってしまいそうだった。今さら洗いざらい白状したからといって、自分の罪が消えるものではないことは、重々承知していた。
躰を起こすことが億劫だったが、着替えを取りに行かなくてはならなかった。制服は大事に一階のクローゼットにしまわれている。
部屋を出て、ゆっくり階段を下っていくと、居間の方から話し声が聞こえた。
「あいつはまだ起きてこないのか?」
「ええ……。起こしはしたんだけど」
「仕方のない奴だ……。まったくあいつだけは出来損ないだよ」
気に食わなかった。再婚することができたのを自分の力だと思い込んで、お高くとまっている。小さな頃から好かなかったが、今はその時以上に嫌っている。
英吾が今に顔を出すと、何とも気まずそうな表情をして、麻都香が口を開く。
「あ、エイちゃん、朝ごはんよ」
食欲なんてなかった。
「いらないよ。もう時間ないだろ」
時間なんて関係なかった。
「朝ごはんは大事なのよ? 食べなきゃ――」
「時間がないって言ってるんだよ! さっさと着替え持ってこいよ! 遅刻しちゃうだろ!」
そんな汚い言葉を吐くつもりなんてなかった。
「お前っ! 母さんになんて口をきくんだ!」
父、敦司が英吾の胸倉を掴んだ。英吾は反抗的な目つきで父親を睨みつける。この行動だけは、彼の本心からくるものだった。
「やめて、あなた! ごめんね、エイちゃん。お母さんが悪かったから……。お願いだからやめて……」
麻都香さんは悪くない! そう言おうと彼女を見たが、言えなかった。その悲しそうな顔が、冬廣瑛二の死亡した時の彼女の顔と重なった。後数秒彼女の顔を見ていれば、きっと英吾は泣いていた。
敦司から解放された英吾は、着替えを持ってくるように麻都香に言うだけ言って、部屋へと戻った。
階段を上っている最中、また癪に障る言葉が囁かれていた。
「お前が甘やかすからこうなったんだぞ?」
「そうかもね……」
――悪いのは全部お前だ!
舌打ちをして、英吾は自室に閉じこもる。
英吾の部屋は荒れていて、高校で貰ったプリントや書類などが部屋中に散乱していた。布団も、ずっと干していない。そんな中で、唯一片付けられている物が、瑛二の手袋だった。
テレビの電源を入れて、ゲーム機を起動させる。適当なディスクを入れ、プレイデモを流す。音だけ聞けば、ゲームをプレイしているように感じるだろう。
英吾は本棚に置いてある小さな木箱の中から、あの時、瑛二と離れ離れになった孤独な手袋を取り出して、それを両手で握りしめ、泣いた。何年もこうして泣いてきたからか、涙の染み込んだ手袋の色は褪せて、毛糸もほつれてきていた。
しんしんと泣いていると、扉がノックされた。涙を見られるわけにはいかない。
「そこ、置いといてよ」
震えそうになる声を抑えながら答える。
「お母さん、手袋作ったから、これ着けていってね」
「あー、分かった分かった」
一刻も早く、麻都香には去ってもらいたかった。
もう、幾度となく彼女は手袋を作ってくれていた。その度、英吾は手袋を引き裂き、しばらくはそうしたことを黙っておき、追及されたら答えることにしていた。英吾にとっての手袋とは、瑛二の残したそれしか有り得なかった。
それからしばらく泣いた後に、家を出て行くことにした。
学校へ行くことが面倒でならなかったが、さすがに、このまま家にいるのは気不味かった。なぜなら、このまま部屋に籠っていたとすれば、麻都香と顔を合わせる危険が高まるからだ。そうなることは避けたかった。
制服を出来る限りきちんと着て、麻都香手製の手袋を無理矢理に装着する。そして、学校指定鞄を背負って、また階下へと降りて行った。
玄関へ向かう前に、麻都香の憂い顔が覗き見られた。今にも泣きだしそうで、少し触れただけで壊れそうな気さえした。英吾は、彼女が心配でならなかったが、敢えて無視をして出て行くことにした。
家を出ると、英吾は手袋を外し、それを引き裂いた。手袋は瑛二の物以外に有り得ないとは言ったが、手袋を引き裂く理由は何もそれだけではなかった。
あの手袋は、サイズが瑛二の物と一緒だった。
高校生である英吾に、小学生が着けるような手袋が合うはずもない。そのことは麻都香も理解しているだろう。しかし、麻都香はそのことをまるで知らないかのように、毎回同じ型の物を作り続けている。
麻都香は無意識に瑛二のサイズに合わせて手袋を作っていた。
忘れられないのだ。あの愛しい息子のことが。
今でも、彼女は栂池によって奪われたと思っているだろう。それに、英吾が関わっていることを知れば、彼女の気は狂ってしまうだろう。
英吾は、手袋を引き裂いた罪悪感と、騙しとおしている今に絶望しながら、当てもなくぶらついた。
部屋から持ってきた瑛二の手袋を握りしめながら、ふらふらと。