Ⅲ 東岸英吾(3)
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東岸英吾が川原へと向かう時には、周囲はかなり暗かった。住宅街では電灯が灯りはじめ、ちらほらと帰宅してきているサラリーマンが見られる。子供たちも、暖かな我が家へと帰っていく。
そんな中、英吾は急ぎ足で川原へと歩を進めた。目的地へと近づくにつれて胸が躍り、人が死ぬかも知れないというのに気分は高まっていく一方だった。友人の死よりも、己の欲望が満たされることの方が強かった。
川原へと辿りつくと、英吾は瑛二の辿ったであろう道を、堤防の上から辿って行った。
列車の通る橋を抜け、しばらく行ったところにある橋の下で、二つの人影を確認することができた。
目を凝らしてみると、小さい方が冬廣瑛二で、もう片方が例の男であることを認知できた。
二人は何やらもめており、瑛二が一歩、また一歩と後ずさっていた。男の方はというと、怒声を飛ばして、小さな子供を威嚇していた。
ここまで都合よくいっているとは、予想していなかった。確かに、英吾はすべての事柄がうまく運ぶことを渇望していたが、いざうまく事が運んでいると、思わず戸惑ってしまう。しかし、英吾にもうまくいく保証がなかったわけではない。なぜなら、英吾は、あのホームレスの男が瑛二の父親であることを知っていたからだ。
冬廣瑛二の父親、栂池宏忠は八年前、妻と離婚した。彼は、離婚調停から人生が崩れ始めた。
妻がいなくなった途端に、彼のリミッタが外れ、以前にも増して女遊びやギャンブルに手を染めるようになった。それらは一度はまりこめば容易く抜け出せるものではなかった。
貯金が有り余るほどあった最初は良かった。しかし、時が経つにつれて、砂の山が崩れるかのごとく貯金はなくなり、それに伴って女も彼から遠ざかっていった。その腹いせにギャンブルに打ち込むが、結果として借金だけが残ってしまった。そうして首が回らなくなり、今に至るわけである。
ではなぜ、それで息子である瑛二を恨まなくてはならないか。その理由は、ただの逆恨みであろうと英吾は考えている。歪曲して物事を考えるならば、麻都香さえ家庭環境に満足していれば離婚せずに、今まで通りリミッタが取り付けられた状態でいることができたのだ。当然、その離婚の原因となった息子へも、憎しみの矛先が向くわけである。
その情報源もまた、東岸敦司だった。
英吾がのんびりと言い争う光景を眺めていると、瑛二が走り去って行った。思わず目を見開き、計画の失敗を悟った。本来ならば、ここで瑛二は何らかの形で傷を負うはずだった。だが、瑛二は傷一つ負わずに去っていってしまった。栂池も、黙って小屋へと戻ってしまった。
英吾は斜面を下っていき、二人が言い争っていた場に、血の一つも流れていないことを確認した。
――やっぱり駄目か……。
ふと足元に目をやると、黄色い手袋が無造作に放り投げられていた。これは、窓から覗き見ていた時、瑛二が麻都香から手渡された手袋に違いなかった。
欲しくて仕方がなかった手袋が、今目の前にある。
英吾は、それを黙ってコートのポケットに押し込むと、また急な斜面を一気に駆け上った。
麻都香の作った手袋を手に入れられただけで満足を得た英吾は、元来た道を辿った。すると、何やら川原の方に細長い光と、丸い光の二つが輝いていた。暗闇の中で目を細めて見ていると、瑛二がまた戻ってきていた。手袋を探しにきていることは容易に察することができた。
英吾は、またそこでしゃがみこむ。
瑛二が草むらの方を探索していると、栂池が小屋から出てきた。
瑛二が栂池の存在に気づく。
何やら話しているが、川の流れる音が邪魔して聞きとれない。
瑛二が栂池に殴りかかった。
殺してやる! という声が微かに聞こえる。
英吾は戦慄した。自分が奪ったこの手袋が、瑛二を狂気へと駆り立てたのだ。ポケットに押し込まれた手袋をぎゅっと握りしめ、ただただ獣のように荒れ狂う瑛二を見つめた。瑛二が攻撃していたのはほんの数秒だったが、英吾には数時間にも感じられた。
今度は、瑛二が殴られている。
自分の思っていた展開。
寸分違わぬ展開。
自分が望んでいたはずなのに、その光景はおぞましかった。
見ているだけなのに血が引いていくような感覚に襲われ、躰が震えて仕方なかった。決して寒いからではなく、声も出せずに、人一人の命が消えようとしている今に恐怖していたからだった。ぬいぐるみのようにただ為されるがままで、もう死んでいるのではないかと思うほどだった。
もうやめてくれ! そう叫ぼうとした時、あの愛しい麻都香が、敦司を連れて瑛二を救い出した。栂池は敦司に羽交い絞めにされ、身動きが取れないようだった。
英吾はそれを見て胸を撫で下ろしたが、ぴくりとも動かぬ瑛二を目にして、また鼓動が速くなった。
麻都香が瑛二の手を握りしめている。
がっくりと左手が垂れ下がり、動く気配すら感じられなかった。
麻都香は、赤ん坊のような大声を出して泣き叫んでいる。
英吾は、胸が張り裂けそうな思いに駆られた。
ただ、母親の愛が欲しかっただけだったのに。
ただ、瑛二のように手を握ってほしかっただけなのに。
たったこれだけのことで、こんな思いをするくらいなら、始めからやらなければ良かった。そう思うが、すべては手遅れだった。
冬廣瑛二は、搬送先の病院で死亡が確認され、東岸英吾に残ったのは、悔恨の念と、小さな黄色い手袋だけだった。
それから数年後、東岸敦司と冬廣麻都香は結婚した。
これも、英吾の想像していたことだったし、望んでいたことだった。結婚してくれれば、麻都香は自分の母親となるのだから。これで、英吾が欲していた母親も、そして愛も、両方を手に入れた。
しかし、英吾の心は満たされないでいた。麻都香から注がれる愛情は偽りであることを英吾は悟った。それに気づいた英吾は、日に日に非行にはしるようになった。
だが、どれだけ暴れても、どれだけ両親に当たり散らしても、ただ麻都香の愛が遠のくだけで、何の意味もなかった。時が経過すればするほど、英吾は愛を感じられなくなっていった。
あれだけ欲しかったはずのものが、いざ手に入ってみると、ただの塵と化すとは、あの時は思いもしなかった。遠くから眺めている時は眩く輝く宝石だったのに、触れてみれば、それはただのまやかしに過ぎなかった。英吾は、幻のために瑛二を殺してしまった。
後悔の海に沈む度に、英吾はあの時拾った手袋を握りしめて、謝った。
親友だと偽って、騙して殺してしまって、麻都香を奪って、手袋を拾ってしまって……。
思えば、あの手袋さえ英吾が拾っていなければ、瑛二は無事に帰宅できたのだ。あの日の英吾の行動すべてが瑛二を殺した凶器だった。
英吾は、年を取るにつれて子供の頃の純粋な心、嫉妬、欲望などの感情が剥がれ落ち、ただの罪、後悔、絶望、恐怖を包含する心になってしまっていた。あの時の純粋な心でいられたら、どれだけ気が楽だっただろうか。
今では、麻都香の顔を見ることすら辛い。
楽になりたい。英吾は本心からそう思った。