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Who killed him ?  作者: 要徹
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Ⅲ 東岸英吾(2)


    2


 川原へ一緒に行く気など、英吾には最初から微塵もなかった。


 英吾は帰宅すると同時に、隣家である冬廣家を窺った。ちょうど、英吾の自室から瑛二の部屋が少し覗き見られるのだ。瑛二は嬉しそうな面持ちでリュックに道具を詰め込んでいた。その少し奥では、敦司が愛してやまない麻都香が、台所に立って何か作業をしていた。その姿をじっと見つめていると、水筒に液体を入れ始めたので、ようやく作業の意味が分かった。愛する我が子が、外で凍えないようにという配慮だ。それを受け取り、リュックに詰め込む瑛二の笑顔に、英吾は嫉妬の炎を燃やした。


 しばらくすると、瑛二がリュックを背負って出ていこうとしたが、麻都香が呼びとめたようで、何やら口を動かしている。麻都香は箪笥から黄色い手袋を取り出して、瑛二に手渡していた。あれは、手作りなのだろうか、と英吾は反射的に思った。そして、英吾は手に持っていた市販の手袋を握りしめ、嫉妬を強めた。


 瑛二が家を飛び出していった後、英吾は物思いにふけった。ちらりと見える麻都香を見てはため息をつき、息子のために夕食の下ごしらえをする彼女に想いを集中させた。


 ぼうっと麻都香を見つめていると、英吾の下半身は自然と硬直した。


 滑らかに流れる髪、程良くついた肉、化粧気のほとんどない細い顔、小さく膨らんでいる乳房。


 そのすべてが英吾を魅了した。敦司の話によると、麻都香は現在三五歳であるようだが、そんなものはどうでも良かった。恋に年齢なんて関係ないのだ。英吾は、この感情が何なのか分からなかったが、少しでも麻都香のそばに近寄りたかった。そして、甘い体臭を嗅ぎたかった。


 まだ記憶もほとんどない年齢の時に母親と引きはがされた英吾は、女性というものを何も知らなかったし、母親がいることによる幸せというものも知らなかった。しかし、瑛二はそれを知っているのだ。英吾は、それが知りたくてならなかった。


 瑛二は、小学校の中でも最貧の家庭である。なのに、瑛二はいつも笑顔だった。服、靴、文房具はぼろぼろで、漫画やゲームになんて一度も触れたことがないのに、常に楽しそうだった。それと対を為すように、英吾の家庭は母親こそいないものの裕福だった。しかし、心に大きく開いた空洞は、金というただの紙切れでは埋まらなかったし、漫画やゲームの幻想に浸れば虚しいだけだった。


 心の空洞を埋めるために、英吾は幾度となく麻都香の元を訪ねた。その度に、麻都香は英吾に対して優しく接してくれたし、軽く抱きしめてくれたこともあった。だが、空洞は埋まらなかった。やはり、麻都香という女性を手に入れなくてはならないのだ。


 英吾は、時計を確認し、誰もいない部屋から飛び出した。


 向かった先は、冬廣家だった。

 恐らく、今日冬廣瑛二は川原にいる気狂いに暴力を振るわれ、あわよくば殺され、麻都香からあの眩しいまでの笑顔は消え失せるだろう。今日は、その見納めというわけである。もちろん、暴力を振るわれる保証も、ましてや殺される保証もない。しかし、瑛二から麻都香を奪い取るには、これ以外に方法が思いつかなかった。


 古ぼけたアパートの二階に、愛しい彼女は住んでいる。階段を構成するコンクリートは(ひび)が入っており、所々にゴミが散乱していた。ここに一家が揃って住んでいたのかと思うと、英吾は冬廣家に同情せざるを得なかった。何でも、瑛二の父親は女癖が悪く、ギャンブルに深くのめり込んでいたらしい。だとすれば、父親がいてこの住居というのにも頷ける。


 赤い錆の浮いた扉には、インターフォンはついていなかったので、英吾は扉をノックする。扉の右上にある換気扇から、生ぬるい風が流れてくる。そして、あたかも友達を呼びに来た、という風な声色を使う。乾いた音の後に、ハープのように澄んだ声が聞こえてきた。英吾は、その声を聞くたびに心癒された。


 扉が開かれると、当然のことながら、さっき覗き見た麻都香その人が現れた。どうやら英吾がここへ向かうまでの間に水仕事をしていたらしく、布のエプロンで手を拭いていた。

「あら、英吾君。いらっしゃい」

「瑛二君はいますか?」

 いないことなんて知っているのに、英吾は訊いた。

 英吾は、こうやって嘘がぽろぽろと出てくることに感心していた。

「瑛二なら、一足先に出て行ったわよ? なんでも、探検に行くんですって。誰と行くの? って訊いても、秘密って言っちゃって。ふふ、お年頃なのかしらね」

 口元に手を当て、上品に笑った。


 こんなに美しい存在が、こんな汚らわしい場所にいる。美しい女性と、崩れゆく廃屋。あまりにも不釣り合いなその光景に、英吾は少しだけ笑った。それは、ある意味、究極の美への同意なのかもしれない。もしかすると、敦司もこの美しさに気づいているのかもしれない、と英吾は思った。

「そうですか、残念です……」

 落ち込むふりをして、麻都香の同情を買う。こうすれば、いつも彼女は必ず家の中へあげてくれた。英吾は、少しでも麻都香の笑顔を心に焼き付け、母親というものの温かさを感じていたかった。

「ちょっと、あがっていく? お茶がさっき湧いたから、飲んでいって」

 案の定、麻都香は英吾を家に招き入れてくれた。


 六畳二間の小さな部屋で、入口の近くに台所があった。居間兼瑛二の勉強スペースと見られる部屋は整理整頓が行き届いており、一つ一つの物自体は汚らしいが、それでも見苦しくは見えなかった。


 逆に、英吾の住んでいる家はといえば、最新の家具や、綺麗なフローリングが張り巡らされてはいるものの、敦司は掃除が嫌いなためにそれらすべてが霞んで見える。整理されている物といえば、麻都香の私物くらいのものだった。


 英吾が居間でそわそわとしていると、麻都香が茶を持ってきた。

「ほうじ茶だけど、どうぞ」

「ありがとうございます」

 英吾は、早速ほうじ茶に口をつけた。


「熱っ」


 苦さよりも何よりも、熱さが英吾の舌を襲った。さすがに、ここまでは予想していなかった。

「あら、大丈夫?」

 麻都香は英吾の隣に座り、様子を窺っている。


 英吾は、自分の体に、微弱な電流のようなものが流れたことを感じた。憧れの母親の体がすぐそばにあり、やろうと思えば、今すぐにでも彼女に抱きつくことのできる距離まで近寄っている。想像とまったく同じ、首筋から香る甘い匂いに、英吾は深い感慨を覚えた。しかし、今まで、丸い座卓を挟んでしか接近したことのなかった英吾は、緊張で体が硬直してしまった。こんなチャンスは滅多にないのに。


「あ、大丈夫です。ちょっと舌を火傷しただけです」

 慌ててその場を取り繕う。

「ふふ。そういうおっちょこちょいなところ、瑛二とそっくり。あの子もね、つい最近お茶で舌を火傷したの」

「そうなんですか?」

 麻都香は小さく頷き、ころころと笑った。


 こんな他愛のないことで笑える家庭とは、どんなに素晴らしいことなのだろうか、と英吾は思った。いや、これは一般的な家庭であれば当たり前のことなのだ。しかし、英吾にはその当たり前がない。これは、どれだけ悲しいことだろうか。


 その当たり前が、自分だけのものになる時を想像すると、嬉しさで身が震えた。もちろん、それを手に入れるためには冬廣瑛二が死ぬだけでは不十分だ。もう一段階上へ進ませなければならない。何もかもが不確定なこの計画は、子供ならではだ。


 しばらくの間、英吾は母親の優しさと温かさに触れ続けたが、その間、瑛二が今どうなっているのか、知りたくて仕方がなかった。もうあの男に襲われているだろうか。彼が襲われてからが、英吾の計画の始まりなのだから。


「すみません、そろそろ塾があるので帰りますね」


「あら、そう? またいつでも遊びに来てね」


 名残惜しい母の愛を残して、英吾は瑛二の様子を窺いに、川原へと繰り出すことにした。


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