Ⅱ 冬廣麻都香(1)
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瑛二が川原のホームレス……いや、冬廣麻都香の元夫である、栂池宏忠に暴行を受け死亡した事件から、五年が経過していた。今日は、あの日のように酷い寒さで、外の世界は雪化粧をしていた。家で飼っている猫も外には出ようとせず、床暖房の上でぬくぬくと過ごしている。
冬廣麻都香は、どたどたと階段を上っていく。
「英吾! いい加減起きなさい」
部屋で眠っている東岸英吾の部屋の前で、麻都香が叫ぶ。
「起きなさいって!」
「うるさいなあ!」
ごそごそと、布団が擦れる音がする。恐らく、また布団へもぐり、夢の中へと落ちていったのだろう。
一体、いつから彼はこんなにも怠け者になってしまったのだろう、私の教育が間違っていたのだろうか、彼に対する愛が足りないのだろうか、などと朝から思考を巡らせる。
東岸英吾は、小さい頃は素直で、行儀の良い子だったはずなのに。人間という生き物はどう成長するか分からないということを、麻都香は身をもって味わっていた。
彼の部屋を後にして、麻都香はキッチンで朝食の準備を始めた。
卵をフライパンに割り、レタスをちぎり、コーヒーの粉末をカップに入れ、トースターに食パンを入れる。毎日変わらない動作。
目玉焼きが完成すると同時に、新しい父親の東岸敦司が寝ぼけ眼をこすりながら起きてきた。青い、縦じまの寝巻を着たままで、髭が顔中を覆っている。
麻都香は、あの事件の時に親切にしてもらった敦司と再婚した。
瑛二が死に、生きる希望などすべてを失った時、敦司が慰めの言葉をかけてくれた。乾ききった心に、敦司の潤いをもたらす言葉がじわりと染み込んだ。
麻都香も、敦司も離婚歴があったために、互いの傷を舐めあうには最適の組み合わせだった。それに、家庭内暴力で悩んでいたという点もまったくもって同じだった。それに加えて、結婚する前からある程度の交友関係があったからか、結婚までの道のりはいたってスムーズだった。もちろん、敦司に子供がいることも知っていたし、以前住んでいた我が家に遊びに来たこともあった。
「おはよう、麻都香。あいつはまだ起きてこないのか?」
「ええ……。起こしはしたんだけど」
「仕方のない奴だ……。まったくあいつだけは出来損ないだよ」
敦司は椅子に腰かけ、テーブルに置いてあった朝刊を手に取って読みはじめた。麻都香は「あなたからも言ってよ」と言おうとしたが、気分を害されるのも嫌なので、その言葉は呑み込んでおいた。もう、離婚というつまらない理由で子供を巻き込みたくはなかったし、英吾への愛がその制止をより強くした。
トーストが出来上がり、芳醇な香りがキッチンに満ちている時、英吾は起きてきた。彼もまた、父親の敦司と同じように目をこすりながら、それでいて不機嫌そうな顔で起きてきた。やはり、子供は父親の背中を見て育つのだろう。
「あ、英吾、朝ごはんよ」
「いらない。もう時間ないだろ」
とてもではないが、親にきく口ではない。苛立つ気持ちを抑えながら、あくまで温厚な口調で言う。
「朝ごはんは大事なのよ? 食べなきゃ――」
「時間がないって言ってるんだよ! さっさと着替え持ってこいよ! 遅刻しちゃうだろ!」
「お前っ! 母さんになんて口をきくんだ!」
朝刊を投げ捨て、敦司が襟元を掴み、ものすごい剣幕で怒鳴りつける。だが、決して殴りかかろうとはしなかった。それは、敦司の信念でもあった。
英吾は反抗的な目つきで敦司を睨みつけている。
麻都香は、慌てて止めに入る。
「やめて、あなた! ごめんね、英吾。お母さんが悪かったから……。お願いだからやめて……」
お互いが舌打ちをしてから、英吾は解放された。彼は、鋭い目で両親をさらに睨みつけ、去って行った。
「お前が甘やかすからこうなったんだぞ?」
「そうかもね……。ねえ、あなた?」
「なんだ?」
新聞から目を離さずに、敦司が答える。
「今度の休日にでも、家族で遊びに行かない? ずっと、家族で一緒にいたことなんてないし、それに――」
「馬鹿。俺が忙しいことくらい知ってるだろう。お前らに構ってやっている暇なんてないんだ。まったく、朝から気分の悪い……」
「ごめんなさい、敦司さん……」
自嘲気味に麻都香は笑い、着替えを取りに行くことにした。
檜で出来たクローゼットの中から制服を取り出し、引きこもっているだろう、憎たらしく成長した息子の元へと持っていく。途中の廊下がやけに軋み、我が家の老朽化を、身をもって感じた。
再婚すれば、きっと私は幸せになれる。麻都香はそう確信していたのだが、現実は決して甘いものではなかった。真の姿はというとただただ残酷なだけで、ちっとも幸せではなかった。
経済状況こそ改善され、麻都香は専業主婦でいることができたが、息子が非行にはしることにより、その尻拭いに追われてしまうことになった。
敦司はというと、仕事人間で夜遅くまで勤務しているし、休みの日も、彼には一切かかわらなかった。そんな日々に、麻都香は嫌気がさしていたが、また離婚という決断をすれば、今度は更に生活的に困窮することだろう。
こんな境遇に耐えられるのは、これも、それも英吾への愛があってこそのものだった。麻都香は、敦司の心遣いに惹かれて結婚したのではなく、その子供である英吾のために結婚したのだった。瑛二に味わわせた寂しさを二度と繰り返させない為に。
仮に、敦司に英吾がいなかったとすれば、間違いなく再婚はしていないし、したとしても即離婚するという末路を辿ったことだろう。もしかすれば、自殺という道を選択していたかもしれない。今までの生きる目的は、瑛二の死という形で終わっていたのだから。
麻都香は、過去のトラウマの疼きを抑えながら、息子の部屋の扉をノックする。右手には綺麗に畳まれた黒い制服と、黄色い手袋が持たれている。
「そこ、置いといてよ」
扉すら開けずに答えている。
「お母さん、手袋作ったから、これ着けていってね」
「あー、分かったよ」
言葉からも分かるほどに面倒臭そうだ。時間がないと言いつつも、きっと部屋の中で新しいゲームをプレイしているのだろう。その証拠に、中から電子音が絶え間なく聞こえてきている。遅刻せずに学校へ行く気など、初めからないことを麻都香は知っている。
「行ってくるぞ!」
階下から敦司の声が聞こえたので、返事をする。
「行ってらっしゃい。今日も遅くなるの?」
声なんて聞こえていない。
都合の悪いことからは目を逸らし、自分の作りだした心地好い世界に陶酔する。それは夫の悪い癖だ。
彼と再婚して、初めのうちはとても良くしてくれたことを、麻都香は鮮明に記憶していた。しかし、ここ何年かの間に愛は冷めきってしまったのか、最近では性交渉すらない。会社が忙しいということは重々承知しているが、こんな生活には耐えられなかった。
キッチンへと戻り、朝食の続きをとる。ゆっくりと咀嚼しながら食べていると、朝のワイドショーで八時が知らされた。もう今から学校へ行こうとも遅刻することは確定だ。しかし、英吾は今も階上から降りてこない。
いい加減にしなければ、と椅子から立ち上がった時、階上から彼は降りてきた。制服をきっちりと着込み、しっかりと手袋をしていた。さすがに、そこまで薄情には育っていなかったようだ。
そして、英吾は無言で出ていった。
――あの時瑛二が着けていたものと同じ、黄色い手袋。
懐かしい過去の記憶に浸り、あの時の貧しいながらも幸せだった、瑛二に愛されていた季節を思い出す。
たった一つの手袋のために血まみれになった瑛二。麻都香は、彼が愛おしくてならなかった。同時に、瑛二の方も麻都香を愛していたのだろう。様々なことを思い起こすと、ほろりと涙が零れ落ちてきた。麻都香はそれを人差し指で拭って、朝食の片付けを始めた。
かちゃかちゃと、皿同士が擦れ合う音だけが響く。
ぼうっとしながら、瑛二のことを思い返す。
――あの時、誰と川原へ行くつもりだったんだろう。
それは、麻都香の五年前からの疑問だった。それに、瑛二が危険だと言われ続けていた川原へ足を運んだ理由も分からない。分かっていることといえば、彼の手袋が片方無くなっていたことだけだった。
瑛二は手袋が燃やされたと言っていたが、どうにも釈然としなかった。なぜ、わざわざ燃やす必要があったのだろうか。放り投げれば済む話ではないか。そこまでして手袋の存在を消したかったのはなぜなのだろう。元夫の性格は、麻都香が一番よく知っている。そこまで深く考えて行動するタイプではない。
皿の割れる甲高い音で、麻都香ははっと我にかえる。
足元を見ると、フローリングに割れた皿の破片が飛び散っていた。
もやもやとした気持ちを抑え、破片を拾う。
――そういえば……。
今日は短縮授業だったということを麻都香は思い出した。昼ごろには帰宅するはずなので、昼食を用意しておかなければならない。きっと、朝食を食べていないのでよく食べることだろう。
麻都香は冷蔵庫の中を確認して、買い出しをする必要がないことを確認した。
時刻は十時。彼が帰ってくるまでに掃除を済ませたかった。その後には、ついて来るかは分からないが、彼を連れて瑛二の墓参りに行こうと計画していた。
麻都香は、居間中の埃をはたきで落として回り、手際よく掃除機をかけ始めた。すると、ぬくぬくと過ごしていた猫が驚いて跳ね上がり、開け放していた窓から飛び出していった。その、あまりの慌てぶりに麻都香は微かにほほ笑んだ。
掃除機は旧式で、未だに紙パックを装着して使用するものだった。麻都香は、紙パックの中身に注意しながら掃除を続ける。フローリングを雑巾で丁寧に磨くことも忘れない。
「そういえば、英吾、最近部屋を掃除していないわね」
掃除機を担ぎ上げ、麻都香は英吾の部屋へと向かう。
彼の部屋の前に立った時、麻都香は不思議と胸が痛んだ。勝手に掃除をしても良いものだろうか、と。今まで、英吾自身から入室を禁じられていたために、麻都香は一度も彼の部屋に入ったことはなかった。
このまま去った方が良いのだろうか。
麻都香の心の中で葛藤が始まる。天使はプライバシーを守れと言い、悪魔は息子の健康のためだと誘惑した。
結局、葛藤は悪魔が勝利した。
麻都香は今まで触れることのなかったノブに手をかけ、ゆっくりとそれを下におろした。
中に入った瞬間、麻都香の顔は歪んだ。
部屋の中は、ひどい臭いだった。男性特有の皮脂と汗の匂い、そして精液の匂い。それらが混ざり合ったこの臭いは、何とも形容しがたかった。それだけではなく、英吾は見られないと分かっているからなのか、成人雑誌も放り出していた。普通、然るべき場所に隠しておくものだろう。
布団も黄ばみ、至る所に埃が溜まっていた。テレビも、ゲーム機の電源もつけっぱなしだ。麻都香はそれの電源を切り、まずは布団を干すことにした。
窓を開き、新鮮な空気を部屋中に満たす。それから、布団を持ち上げると、多量の埃が舞い上がり、麻都香の肺を汚していった。麻都香は力一杯にそれを担ぎ、窓の方へと持っていった。
ベランダに布団を干して、それをはたいていると、道路に小さな子供を連れた女性がいた。仲良く手を繋ぎ、昼食について語り合っている。二人はとても幸せそうで、麻都香は、瑛二がいた頃の生活を思い出した。
――あの頃は、本当に幸せだったなあ……。
目をこすり、麻都香は掃除を再開する。
と、布団のあった場所を見てみると、何やら手帳のようなものが五冊放置されていた。どうやら、布団の下に敷かれていたようである。麻都香はそれを手に取り、中身を覗いた。
日付は二〇〇五年の一月二四日から始まっている。
日記帳か。
――この日は、瑛二が死んだ日?
ゆっくりと頁を捲って(めく)いた手が、どんどん早くなる。
読み進めていくと、嫌な汗が止まらなくなった。
麻都香は、日記を一通り読み終えると、掃除を中断して居間へと戻った。
それどころではなかった。
心臓が高鳴り、息が荒くなっていた。
見てはいけないものを、麻都香は見てしまった。
時刻は十三時前。そろそろ英吾が帰宅する時間だ。もはや、この後のことなんて、頭の片隅にもなかった。麻都香は、心臓が飛び出しそうになるのを抑えつつ、何とかして気を紛らわせるために、昼食の準備を行った。だが、昼食の支度をしている間も、気分は落ち着かなかった。
直に帰宅すると思っていた英吾は、昼の二時を過ぎても帰宅しなかった。どこかで遊んでいるのだろうが、麻都香は心配でならなかった。
あの時の瑛二も、こうやって中々帰ってこなかった。それで、重い腰を上げ、やっと見つけたと思ったらあの結果だった。なぜ自分はもっと早くに警察へ連絡して、瑛二を救い出すことができなかったのか、悔やんでも悔やみきれなかった。けれども、今さらそんなことを考えても遅い。
麻都香は、小さくため息をつき、料理にラップを被せた。