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Who killed him ?  作者: 要徹
2/16

Ⅰ 冬廣瑛二(2)

 

     2


電車が通っていた橋のあたりまで来て、やっと瑛二は足をとめた。息が切れて、気持ちが悪かった。嘔吐しそうな気分になりながらも、瑛二は冷静になろうとした。


 口から白く色づいた吐息が吐きだされる。


 時刻は何時だろうか。すっかり日は落ちて、やかましく啼き続けていた烏たちの声も聞こえない。それどころか、人の気配すらも消え去り、電灯も存在しない河原はひどく気味が悪かった。気温も下がってきており、瑛二の体温を奪っていく。

 手を口の前に持ってきて息を吐き、わずかな暖をとる。


 と、その時。瑛二は何かが足りないことに気がついた。


「あれ?」


 思わず口に出してしまうほどだった。瑛二は暗闇の中でリュックを下ろして中を探ってみたが、水筒と懐中電灯しか入っていなかった。瑛二は、黄色い手袋の右手側を失くしてしまっていた。あの男に怒鳴られたあの時だろうか――。


 あの手袋は、多忙な母親の愛情が詰まった大切なものだ。それを失くしてしまうなんて、僕は馬鹿だ、などと思いつつ後悔の海に沈んだ。手袋は取り返したい。だが、あの男にもう一度顔を合わせれば一体何をされるか分かったものではなかった。それに、あの男のいた場所で手袋を失くしたとも限らない。走ってきている最中に落としたかもしれないのだ。


 瑛二の額に汗がにじみ出してくる。寒いはずなのに汗をかくだなんて、人間という生物は本当に面白いと思う。


 リュックの中に入っていた懐中電灯を手にして、瑛二は通った道の捜索を始めた。


 まず枯れ果てた草むらに入り、丸い光をくまなく当てていった。スポットライトのように照らされた部分は、誰も楽しませる気のないステージのように殺風景だった。そのステージに、黄色い手袋の姿はない。あっちこっちに視線をやっては、部分、部分を凝視していく。しかし、どこにも落ちてなどいなかった。


 寒さは夕方よりもさらに厳しくなり、瑛二の運動機能を徐々に奪っていく。手袋を着けていない右手がじんじんとする。

 懐中電灯を持っている右手にほとんど感覚はなく、牡丹色にかじかんでいた。――そういえば、手袋を買ってもらう狐の話を学校で習ったな。確か『手袋を買いに』だったっけ。


 そんなことを頭の片隅で考えると、少しだけ笑いが込み上げてきた。何が楽しいのか、何が笑いを起こさせるのかはまったく理解できなかったが、ただただ愉快に感じた。


 北風が瑛二の頬を打ちつけるので、瑛二はコートの襟を立てて手袋を探すことにした。こうすると、幾分か頬に刺さる風はましになった気がした。けれども、鼻の奥に鋭い風が入り込むと、皮膚に棘が突き刺さったように不快になった。あまりその風を吸い込まないように、ゆっくりと息をする。


 しばらくの間草むらを探し続けたが、やはり手袋は姿を現さなかった。黄色という配色から目立つことは確かだが、この暗闇のせいか、中々見つからない。


 徐々に、徐々にあの男のいた橋が近づいてくる。瑛二はそれが嫌で嫌で仕方がなかった。だからか、あの男に近づくまい、絶対にこっちに落ちているはずだと、根拠ないことを考えて近づかないようにした。だが、瑛二の苦労は無駄だった。瑛二の願いに反して、愛しい手袋は姿を現さなかった。

 瑛二は、小さくため息をついて決心した。男の元まで、捜索範囲を拡大するのだ。そこで見つからなければ、母親に泣いて謝ろうと思った。それほどまでに、あの手袋は大事なものなのだ。


 ゆっくり、それでいて着実に橋が近づいてくる。大きく威圧感を覚えるその風貌は、まるで巨人のようだった。大きく開いた橋の下は口に見える。巨人の口へと辿りつくと、瑛二は明かりを小屋の方に移したが、何の反応もなかった。そこに男が佇んでいなかっただけで、瑛二の心は幾分か安定した。今まで怯えていた自分が馬鹿みたいだった。


 橋の下には数個の街灯が取り付けられていたので、懐中電灯は不要だった。

 電源を切り、気を取り直して、手袋の捜索を始める。座っていたベンチから、小屋の近く、そして行ってもいない橋の向こう。ありとあらゆる場所を探し、残すところはベンチの目の前にある草むらだけとなった。もうここに存在しなければ、手袋はあの世にでも旅立っていることだろう。


 草むらに入ろうと、気合を入れ直した時だった。背後に重い気配を感じた。


「おや? おじさんが恋しくなったのかな?」


 あの男だった。大きく口元を歪ませて瑛二を見下ろしている。ここで怯んでは元も子もないと感じた瑛二は、意を決して訊ねてみることにした。


「あの……。僕の手袋知りませんか?」

「どんなのなんだい?」


 どうやらさっきのことは気にしてはいないらしく、にこやかな表情で瑛二の話を聞いていた。しかし、裏で何を企んでいるかなんて分かりはしない。


「これくらいの大きさで、色は黄色なんです」

 ジェスチャーで大きさを示すが、実物を差し出した方が早いと思い、左手にはめていた手袋を男に見せた。

「これか」

「はい。さっきここで落としたと思うんですけど」

 まじまじと黄色い手袋を見つめて、男はしきりにうなずいている。決して、それは意味のある行動とは思えない。それでも男はそれをやめなかった。


「どこかで見た気がするなあ」

「どこで! どこで見たんですか!」

「思い出すから黙ってろ」

 また男は考えるふりを始めた。だが、瑛二は純粋な気持ちで男の回答を待った。寒さと恐怖、そして焦燥感から、震えが止まらなかった。一刻も早く帰宅して、きっと心配しているであろう母親を安心させてやりたかった。


「思い出したぞ!」ぽんと手を叩き、男はうんうんとうなずいた。「あの黄色い手袋は、あそこで見かけた」


「え?」


 男が小屋の方を指さす。そこでは、一斗缶が暖かな光を放ち、ごうごうと炎が燃え盛っていた。暖房代わりだろう。それを見ても意味の解らなかった瑛二は、さらに問いかける。


「どういうことですか?」


「頭の悪い子供に育ったもんだ。あの一斗缶の中だよ。ほら、よく燃えてるだろう? 感謝してるぜ」けらけらと男が笑う。「本当によく燃えてやがる」


 体中の血液が沸騰し、そのすべてが頭に昇ってくるような錯覚に瑛二は襲われ、冷たかったはずの体が異常なまでに熱く感じられ、その時、間違いなく、瑛二は怒りと強い憎悪に染められていた。


「殺してやる!」


 そう叫んだ次の瞬間には、その小さな拳で男を殴りつけていた。


 何度も、何度も、何度も。


 小さな体にあるすべての力で、男を憎しみと怒りに身を任せて殴り続けた。その姿はまるで猛り(たけ)狂う(くる)獣のようだった。しかし、子供の力というものは程度が知れている。次は男が瑛二に馬乗りになっての反撃が始まった。今度は瑛二が一方的に殴られる側となり、何度も意識が飛びそうな感覚に襲われた。


 固く、重い拳が頬骨に打ちつけられ、息をすることがやっとだった。瑛二の体から、徐々に力が抜けていった。視界がかすみ、この世の終わりが見えた。


 ――お母さん、お父さんからこんなことされてたんだ……。


 と、その時。小屋の付近に円形の光があてられた。


 涙と血液でぼやけた風景の中には、紛れもない母親、麻都香の姿があった。そして、その傍にはニット帽を被った男がいた。男と麻都香が何やら叫んでいるように見えるが、意識の薄れている瑛二には聞きとることができなかった。


 ――きっと、僕のことを怒ってるんだ……。


 ニット帽の男は、瑛二の上に乗っている男を引きはがし、数発殴った後に彼を羽交(はが)()めにした。瑛二を殴っていた男が何やらこちらを向いて叫んでいる。

 羽交い絞めにしている男は、隣家に住む東岸(とうがん)敦司(あつし)であると気づいた。どうやら、麻都香が瑛二のことを心配して協力してもらったらしい。


 麻都香が大粒の涙を流しながら瑛二の元へ駆けつけた。


「エイちゃん!」


 瑛二の視界にくしゃくしゃになった母親の顔が映る。普段見ている明るい笑顔でなかったことに、瑛二は少しの戸惑いを覚えた。薄い紅色をしているはずの頬も、綺麗に整えられているはずの髪も、すべてが瑛二の知っている麻都香ではなかった。


「エイちゃん。何でこんなことに……」


 片手で瑛二の頭を持ち上げ、膝の上に置いた。そして両手で口を覆い、大きな声で泣き始めた。

「……お母さん」

 やっとのことで、瑛二は口を開くことができた。上手く声を発することができないので、ゆっくり、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「ご、めんね。手袋……失くしちゃった」


 力なく、鯉のようにぱくぱくと口を動かしている。口元にはどす黒い血液が付着していて、その周囲は青紫色をしていた。相当な力で殴られ続けたのだ。


「そんなの、どうでもいいじゃない……」


「どうでも良くなんてない――母さんの作ってくれた大事な――」


 視界が前にも増してぼやけてくる。


「大事な手袋を燃やされたんだっ……」

 瑛二はもうあまり残っていない力を振り絞り、麻都香の手を握った。


 麻都香の頬に付着した涙が凍りはじめていた。鼻水を垂れ流し、必死に瑛二を慰めようとしている。


「エイちゃん……こんなに手、冷たくして……」

 麻都香は瑛二の右手をそっと両手で包みこみ、額をあてた。冷たく冷え切った瑛二の手は、死人かと間違ってしまいそうになるほどに体温が存在しなかった。


「手袋なんて、お母さんがまた作るから。だから、早く病院行って、元気になろうね」

 麻都香は、瑛二の手をより一層強く握った。


「うん……ありがとう、お母さん――」


 その言葉を最後に、瑛二の意識は途切れた。


 羽毛のように優しく、シルクのようになめらかな手で握られた右手は、毛糸の手袋をしている左手よりも暖かかく、彼女に手を握られていると、それだけ救われる気がした。


 雪が、二人の頭上で乱舞している。


 瑛二は、麻都香の温かな手をぎゅっと握り続けた。


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