Ⅲ 東岸英吾(5)
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十六時。英吾は沈みゆく夕陽の光で、はっと我に返った。
英吾は、結局一日をこの公園で過ごした。この公園は、高校からも距離があり、自宅からも相当な距離があるし、知り合いに出会う確率もかなり低かった。ましてや、家族に見つかる心配など霞程にもなかった。
ちらほらと帰宅する学生が見られる。彼らは例外なくほほ笑み、放課後という自由時間を満喫しようとしている。
彼らの中の、一体何人が英吾と同じように、人に決して言うことのできない秘密があるのだろうか。恐らく、一人としてそんな人間はいないだろう。
英吾には、あの汚れのない笑顔が憎らしかった。できることならば、今すぐにでも彼らの顔を一人一人叩き潰して、俺は人殺したんだ、と叫びたかった。英吾を抑えるものがなければ、実際そうしていただろう。衝動を抑えていたのは、あの手袋だった。
ベンチに座って、黄色い手袋を見ていると、自分の愚かさに笑いが込み上げ、涙があふれて仕方がなかった。涙を抑えるためにぎゅっと目を瞑るが、まったくの無意味だった。まぶたの隙間から熱い液体があふれ出し、止まらなかった。涙は頬を伝い、口へと侵入していく。夕陽が、視界を赤く染める。
と、その視界が急に暗くなる。
英吾は急いで涙をぬぐう。そして見上げてみると、髪を金に染め、制服をだらしなく着込んでいる男子学生が二人、英吾の目の前に立っていた。彼らは英吾のクラスの一員だった。だが彼らは、下等な生物を見下すかのような目で英吾を見ている。
「何か用かよ」
不快感を露わにして、英吾が言う。
「おい、英吾。今日が何の日だったか分かってんのか?」
「知るかよ」
「テストだよ! お前、昨日カンニングさせてやるって言ったじゃねえか! お前が来なかったせいで散々だったぜ!」
彼らの言ったことは真実だった。英吾は、昨日に答案を見せてやると、安請け合いをしていた。それを頼りとしていたのか、彼らは一切対策を講じていなかったようだ。
「そりゃあ悪かった」
「謝って許せるわけねえだろう。もう赤点は確定、留年も確定だ。どうしてくれんだ?」
「自業自得だろう」
英吾は鼻で笑い、その場を立ち去ろうとした瞬間、学生のうちの一人が英吾を細かい砂の集まった大地へと押し倒した。英吾は後頭部を大地に打ちつけ、鉄の味を味わった。そして、その拍子に手袋が落下した。
英吾に怒声を浴びせていた男が手袋を拾い上げる。
「だっせえ手袋だな。こんなの着けてんのか?」
「そんなもん、俺の勝手だろ。放っとけよ」
「おい、あんまり反抗的な態度取ってんじゃないよ?」
人一倍躰が大きいであろう男が、英吾を後ろから拘束した。あまりの圧迫感に、英吾は思わずむせ返った。内臓が徐々に押し潰されていくようだった。
「本当にだっせえ手袋……」
手袋を拾い上げた男は、まじまじとそれを眺める。
「おい……触れんなっ!」
「反抗的。これ、大事なんだろう?」
男は英吾の前にしゃがみこみ、目の前に手袋をちらつかせる。
「約束を守れなかった英吾君には、お仕置きだな」
そう言うと、男は懐から煙草を取り出し、点火した。そして、ゆっくりと煙を吐き出すと、煙草を手袋へと押し当てた。
「やめろ!」
じわじわと、手袋に火が移り、黄色い手袋が揺らめく炎と共に消え去っていき、黒い灰が音もなく崩れている。
炎が勢いを増していく。
瑛二の、麻都香の、そして英吾の手袋が燃える。
英吾の網膜に、ゆらゆら踊る炎が焼きつく。
手袋がただの灰となるまで、五分もかからなかった。
涙が、ダムが決壊したかのように流れてくる。
「おい、こいつ泣いてるぜ」
圧し掛かっていた男が英吾から降り、彼を見下してけらけらと笑った。不愉快で、殺したくなる。
「俺を裏切るとこうなるんだよ! 覚えとけ!」
二人が背を向ける。
英吾は気づかれないように立ち上がり、手近に落ちていた石を拾い上げる。
ゆっくりと男たちに近づいていく。
そして重く、凹凸の激しい石を男たちの後頭部へと――。
耳を劈く(つんざ)慟哭。
発せられない言葉。
崩れ落ちていく躰。
醜い血。
動かない四肢。
――僕は……。