Ⅰ 冬廣瑛二(1)
一作目『黒い咆哮』、二作目『君へ「ありがとう」』に続く三作目となります。今回までが書きためていた作品で、次回連載作品より書き下ろしとなります。
前作でもお伝えしましたが、作者の僅かながらの成長を感じてもらえればな、と思います。
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身を貫き、脳の機能をも停止させてしまうような酷寒の中、張りつめた空気を身にまとって、冬廣瑛二は川原を探索していた。ある親友から、綺麗な石が川原に落ちているという情報を聞き、その場を目指してひたすらに歩く。
だが、その場所は担任から近づかないように、との忠告を受けている。けれども、それを無視してでもそこへ向かう価値はあった。
本当ならば、情報提供してくれた親友も一緒に来るはずだったが、待ち合わせ場所にいつまで経っても現れないので、一人で先に目的地へと向かうことにした。
枯れたススキ、褐色の大地、セピア色の風景、薄く氷の張った川、夏はあれだけ生い茂っていた雑草たちも、今では寒さで小さく背を縮めている。夏と冬の自然が見せるギャップが瑛二は好きだった。
時刻は十六時。まだまだ遊べる時間だ。しかし、夕陽は赤く燃え、烏たちは家路に着こうとしている。もうしばらくすれば、世界は闇に支配されるだろう。
瑛二は道端で拾った棒きれを振り回して、枯れた草をびしびしと叩いていった。もちろん、これに意味はない。無意味な行動をするというのは、人間特有のものだ。
つい最近、音楽の授業で習ったばかりの『翼をください』を陽気に口ずさみながら、どんどんと下流にある目的地を目指していく。
川にかかる橋の上を電車が通過する。ごうごうと不快な音をたて、奴隷たちを家へと送り届けている。僕は立派な大人になろう、などと思いながら歩き続ける。そこから更に進んでいくと、大きな橋が緩い弧を描いてかけられていた。橋の下にはブルーシートのかけられた小屋のようなものがあり、ただならぬ気配を感じた。恐怖とも、不安とも似たような何かの。
周囲に階段はなく、堤防を歩いていくことはできないし、さっき通過した橋は車道で、歩行者のためのものではなかった。まるで、ここは密室のようだった。瑛二は早くそこから立ち去りたかったが、そこが目的地であることに気づくと、少し戸惑いながらも捜索を始めた。
しかし、あまり時間がなかった。あまり遅く帰宅すれば、母親の雷が降ってくる。それだけは避けたかった。いくらプレゼントを用意したとしても、きっと埋めきれないだろう。けれども、そんなことはお構いなしに瑛二は周囲を散策した。石がよく落ちているという草むらに入り込み、棒で草をかき分ける。瑛二は宝探しをしているようで、胸がわくわくした。
しばらくの間、草むらの捜索を続けたが、見つかったのは空き缶と、古ぼけた雑誌だけだった。唯一、その雑誌に興味が湧いたが、持ち帰るわけにはいかないので、その場に捨てた。
「場所、間違えたのかなあ? あいつがいれば、分かるのに」
ぶつぶつと独り言を言いながら、橋の下のベンチに腰掛けた。
知らぬ間に、闇が空を侵食してきている。そろそろ帰らねばならなかったが、そこでしばらく休憩することにした。決して母親が恐ろしくないわけではなく、ただ純粋に疲れていたのだ。腹も少し空いてきている。さっきから、腹の虫がうるさくてかなわない。
瑛二は黄色い手袋を取り、小さなリュックの中から水筒を取り出した。そして熱い液体を注いで、ゆっくりと飲んだ。ほうじ茶だった。これは瑛二が出掛ける前に母親が用意してくれたものだ。
瑛二の母親、冬廣麻都香は、確かに怒れば鬼のごとく恐ろしいが、普段の彼女は本当に暖かい優しさをもった母親だ。さっき瑛二が外した黄色い手袋も彼女の手製のものだったし、それどころか着るものまで手作りだ。彼の母親が作るものは、既製品と比べても遜色のないほどに、クラスで自慢してしまうほどによくできていた。クラスの一部の人間からは、自分も欲しい、というような声も出てきている。
しかし、何も好き好んで手作りのものを着けているわけではなかった。既製品を買う金が存在せず、やむを得ずに手作りするしかなかった、というのが正直なところだ。
瑛二には、収入の要である父親がいなかった。
数年前に、家庭は父親によって崩壊させられた。父親は女癖が悪く、いつも麻都香と瑛二を泣かせてばかりいたし、浮気だけにはとどまらずにギャンブル、DV、つまり家庭内暴力も絶えなかったと、瑛二は母親から聞いていた。瑛二には、父親の記憶はない。
それに耐えかねた麻都香が離婚届にサインするように父親に迫るが、夫は受け入れなかったため、裁判にかけた。そして、結果として離婚が成立した。
だが、麻都香の苦労はそこでは終わらなかったし、むしろ以前よりも酷くなった。今まで父親頼りだった収入もなければ、今まで受けられていた保険も、何もかも失ってしまった。三十を過ぎた彼女に就職先などあるはずもなく、パートタイマーとして日々をしのぐ生活を送ることとなってしまった。これならば、暴力を受けていた時期の方が安定感はあった。子を守るためには、それは耐えるべきだったのかもしれない。
瑛二は、そんな母親の後ろ姿をずっと見てきた。そのために、瑛二は一切我が儘を言わなかったし、何かを買ってくれとねだることもなかった。現代の子供の娯楽といえば、ゲームだとか、パソコンを用いたものが主流となっているが、瑛二にはそんなものは無縁だったし、そんなものをやってみたいなんて考えたこともなかった。やはり、外でこうやって遊んでいる方が――たとえ孤独であったとしても――楽しかった。その点では、とても手間のかからない少年だった。
それに、この生活が始まる前には暴力を受け、今は朝早くから仕事に向かい、夜遅くまで馬車馬のように働いている麻都香に、口が裂けてもゲームを買ってくれだなんて、そんなことは言えなかった。
このように働き続けることが人間の生きる意味なのだとすれば、本当に無駄な存在だと思う。生きるために死ぬようなものなのだから。
少し苦めのほうじ茶を飲み終え、水筒をリュックの中にしまいこんだ。瑛二が目を細めて遠方を眺めると、ゆっくり夕陽の沈んでいく姿を見ることができた。根元の方がゆらゆらと動き、とても幻想的な雰囲気だった。結局発見することのできなかった綺麗な石の代わりに、帰ったらこの光景を教えてあげよう、と心に留める。
夕陽の半分以上が恥ずかしそうに隠れてしまった頃、後ろに気配を感じた。
重く、鈍く、どす黒い何かの。
瑛二の目の前に長い影が伸びてきている。瑛二の肩に皮の厚い手が置かれる。
「こんな時間まで遊んでちゃ駄目じゃないか……」
振り向くと、そこにはぼろぼろの布をまとった男が立っていた。恐らく、橋の下の小屋に住んでいるのだろう。男は髭を夏の川原に生える雑草のように生やし、肌は浅黒かった。その体から放出されている臭いもひどい。彼は恐怖感を覚えるような出で立ちで、ずっと見ていると泣きそうになるが瑛二はぐっと堪える。瑛二の中にある記憶が、彼を拒んでいるようだった。
「ごめんなさい、僕もう帰りますから」
リュックを背負って、大切な手袋を着けて足早にそこを去ろうとする。しかし、またも男に肩を掴まれ、その場に倒されてしまった。背負っていたリュックのおかげで、あまり衝撃はなかったが、冬場のコンクリートは冷たく、瑛二に更なる恐怖を抱かせた。
瑛二は小動物が猛獣に怯えているかのような目で男を見やると、男は笑って、犬歯を鋭く光らせた。
「誰も帰りなさいなんて言ってないだろう? どうだい、少し遊んでいかないか?」
男の笑みは、紛れもない偽物だと瑛二は勘付いた。子供というのは純粋な心を持っているがゆえに、真実を見抜く力を持っている。
今、男の笑顔の裏に明らかな悪意を感じた。
「お母さんに怒られちゃうんで、ごめんなさい」
服に付着した土ぼこりを払い、小さく頭を下げる。しかし、男は納得する様子もなく、誘い続ける。
「いいじゃないか、ちょっとくらい。一人で寂しいんだよ。ね?」
リュックに手を引っかけ、瑛二を逃がすまいとしている。
「離してよ! 門限過ぎちゃう」
瑛二は男の手を払いのけ、睨みつけた。その目が気に食わなかったのか、敬語を使うことをやめたことが不愉快だったのは分からないが、男の表情が豹変した。悪意を内包した笑顔から、殺気をまとった形相へと。
「おい、俺が寂しいって言ってるんだよ。ちょっとくらい一緒にいてくれてもいいじゃねえか。そんなに麻都香が好きか! なら、とっとと帰りやがれ!」
今までの温和な口調とはうってかわって、ものすごい剣幕で瑛二を怒鳴りつけた。今日まで母親くらいにしか怒鳴られたことのなかった瑛二は、その迫力の違いに驚愕し、急いでリュックを背負って無言で走り去った。
――なんで母さんの名前を知っていたんだろう。