言わぬが花?ちがう。言えないだけだよ…
―視界が黒く閉ざされている。
意識ははっきりしているのだが、瞼をあけるためにどこに力を入れていいかが判らない。
妙なのはそれだけではない。常に体が浮いている感覚があり、気持ち悪くなる。
全身、どこに力を入れてもまったく動く気配がない。
自由と感覚を奪い去られた状態。
聴覚だけは確立しており、先ほどから機械の無機質な起動音が頭の中を響いていた。
「……今日も変化なし、か…」
紛れて女の声が聞こえた。残念そうな声色で、後にぱさっ、と紙を置く音がした。
「調子はどうだ?」
扉が重く開く音がして、しわがれた男の声が聞こえた。そこそこの年だと予想する。
「ぜんぜんだめですね…。一ヶ月ですが反応がありません」
言い終わりに苦笑いをうかべる。
聞いた男はとがめるような口調でこう言った。
「まだ諦めんなよ?これは特異体でオリジナルから―」
*
―やっと目が開いた。
といっても一センチぐらいで完全には開ききっていない。
この体の操作にも慣れ、コツのようなものを掴めた。
初めて暗闇に光が差し込む。視力は極端に低く、部屋の中であることを認識できるだけにとどまった。
「……おっ!?」
静止していた景色の中央で何かが動いた。それは人間で、あの女の声を所有していた。
スリッパの裏がこすれる音を立てながら、こちらに寄ってくる。
「おいおいおい!まじかよ!」
歓喜の声だった。無邪気に心底から喜んでいる。
こんなにも人間は驚くものなのか。視力のない現状では程度を確かめることも出来ない。
「あ…そうだそうだ……変化したら連絡を入れるんだった…」
我に帰り、元の場所に戻っていく。
「…もしもし?今、すごいこと起きたんですよ!彼に顔が―」
*
―ここは研究室だった。
視力はみるみる回復し、肉眼で人の顔を識別できる程度になった。
自分は透明の液体が入った器にずっと入っている。感じていた浮力はこのせいだった。
全身の感覚も神経が届き始め、指先ぐらいなら微かに動かせる程度だった。
「様になってきたな」
白髪かかった中年が自分を見上げ、こう述べた。
背後にはこの研究室に寝泊りしていると思しき、あの女が書類片手に立っている。
「最初の変化からはスムーズに来ています。きっと予定された日付には間に合います」
「そうか…」
感慨深そうなため息を男はつく。
報告をいったん止め、女は砂糖を入れていないコーヒーを一思いに飲み干す。
「もちろん、予定された機能は継承され、実用もか―」
*
―自分は何なんだろう。
疑念は日増しに自分の心を蝕み、確実に繁殖していった。
特異体。機能。継承。自分の立ち位置は実験台だというところだろう。
そんなの考えればわかる。
真夜中の中で明かりのつかないここはまさにモルモットと同じだ。
いつから入ってるか判らない器。自分を押さえつける牢獄にしては脆すぎる。
完全に能力を取り戻した今は、簡単に破壊できると予想つく。
弓のごとく右手を引き絞り、一思いに解き放った。その衝撃に当然器は耐え切れずに、ひびが一瞬にして自分を囲い込んだ。
「っ!」
氾濫した水流に体は飲まれ、鈍い音を立てたたきつけられた。
割れたガラスの破片が降り注ぎ、激しい鋭痛が身を貫く。
「…はぁ…はぁ……」
意識が飛びかねない痛みを耐え、初めての外気を吸い込む。
冷たくて重い空気が肺に染みていく。
衝撃で配線の一部が切れたらしく、黄色い発光がまばらに照らしている。
「……っ」
重力が引っ張る力に逆らいよろめきながら二足で立ち上がる。
地面を踏みつける足の裏の皮膚がはがされる。
痛みに耐えながら、一歩一歩出入り口である扉に近づく。
進むたび湿った音が付き纏い、足の裏から温かい液体が染み出す。
自分は何なんだ…。
その思いで、扉のドアノブを掴み、全体重を掛ける。
「………」
自分は扉にガラスが嵌めてられてるのに気付く。
そして、暗闇の中のガラスは鏡のごとく、黄色い発光に照らされている自分を映し出した。
「!!!!」
ゆっくりとなめるように映った全身を見ていく。
顔面の半分がない自分の姿を見た。
左腕と右足、胴体がない自分の姿を見た。
その全てが、黒いゲル状のもので代用されていた。
腕も、足も、左目も、両耳も、胸も、口も、血も、黒いゲル状の肉塊で人間の物ではなかった。
「………」
自分は何を見ているのか理解できなかった。
非現実の光景に思考は停止した。
そして、閃光の速度で理解した。
―自分が、人間ではないことを知った。
「ああああああああああああああああああああ!!!!」
絶叫し、体を抱え込んだまま崩れ落ちる。
皮膚に残された小さなガラスの破片がぐいっと深く押し込まれる。
完全に存在理由が喪失した。
一番大切な柱が音を立て崩れ去った。
残ったのは自己否定とぬぐいきれない恐怖。
なぜだ。なぜ自分は人間じゃない!
誰が…僕をこうした?
誰が誰が誰が誰がだれがだれがダレガ誰ガだれガだれだれがだれがががダレガがガ―!
「……!」
ぎぃ、と目前の扉が開かれた。
黒い液を散らし、半分無い面を上げる。
黒くよどみ光を失った左目が捉えたのは恐れおののくあの女の科学者だった。
…全部…こいつのせいだ……。
心での呟きは刹那の間に心を漆黒に塗りつぶした。
……殺せ……。
立ち上がった自分を見て、一目散に逃げ始める。
殺せ。
黒い左手が扉のガラスを叩き割る。
殺せ殺せ殺せ!
新たにえぐりこむこと気にせず、ひび入ったガラスから手ごろな大きさを取り出す。
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せころせころせころせころせコロセコロセこロセ殺せ!
追いつくのに時間はかからなかった。
女は恐怖に満ちた表情で自分を見た。
「ひぃ…!」
―呆気ない音がし、鮮血が噴き付けられた。
………。
暫くし、肉塊になった。
見る見るうちに白衣が紅色の液体を吸い、染色していく。
喉元から泉のごとくとめどなく溢れ出し、自分の足元にまで迫っている。
「…俺が……やったのか…?」
わなわなと口を震わせ、搾り出すように呟いた。
両手を見れば、自分の黒い液体とは別の黒っぽい紅色の液体が付着している。
時に、手の平についたガラスの破片を飲み込み、ぼたっと垂れ落ちる。
心の本質を見失ったように、ぽっかりと虚ろな虚無が生まれた。
善か悪か。今でも何も判らない。
ただ激しい緊張が自分を縛り付けた。
汚れた心臓は激しく脈打ち、痙攣のような震えが止まらない。
誰が殺した?
僕が殺した。
この汚い手で殺した!
いつしか罪悪感へと摩り替わり孤独に自分を追い詰めていった。
支えきれなくなった体を壁にぶつけ、悲痛な嗚咽を繰り返す。
「……」
狂った視界に女の血が染みた一枚の資料があるのに気付いた。
勝手に目が羅列された文字を追い、情報が理解される。
『別世界への到達についての報告』
意味を理解した自分は、白色の壁に黒い線を引きながら、一歩ずつ歩を進める。
もうこの世界に居場所はない。
化け物にあるわけがない。
僕はきっと、この世の全てを憎んでしまう。
人間を殺したくなってしまっている。
けど、もう殺したくはない。
ここではないどこかに逃げなければ…。逃げなければ―。
*
―間もなくうずくまった京を理心は見つけた。
「京!」
大声で名を呼ぶが、顔を上げる素振りはない。
足元には京の武器と思しき大剣が投げ捨てられ、おびえるように体を小さく抱え込んでいる。
「…っ!?」
近づこうとする理心の体がせき止められる。
「特注の糸です。無理するとばらばらになるよ?」
そこに少女が立っていることに気付かされる。
見えぬ糸は進もうとするほどに深く肉に食い込んでいく。
「なら!」
左手に握っていた木刀を蒼い長剣に変えていく。
狭められた腕の範囲を最大限に振りかぶる。
「おっとと」
慌てたような少女の一振りでどこからともなく現れた糸が、安易に理心の長剣を粉砕した。
声にならぬ驚きが理心を包み込む。
「だめだよ……?」
「っ!」
少女が真横にもう一振りすると、理心の肌に食い込んでいた糸の張力がさらに強まり、砂利に体が叩きつけられる。
「邪魔しちゃ、ね?」
血が滲んだ視界で、少女は首を傾げ、微笑した。
「それに助けていいの?」
「……」
「!」
少女の発言に京の体がびくっ、と反応した。
がちがちとかみ合ってない奥歯を鳴らし、両肩が震えている。
「浮刃京は影の中で唯一人格を持った。いわば影の指揮官型だよ?」
洞窟の中が一瞬のうちに静まり返る。
「京…が……」
呟いたはずの言葉はやけに大きく広がった。
「………」
振り向かずとも理心の表情はわかる。絶句し、異端者を見る目で自分を見ている。
今まで一緒にいたから判る。
馬鹿なことも散々やってきたから分かる。
だからこそ、ここで最後の居場所が綺麗に崩落していった。
「ああ…ああああ!」
何度も頭を地面に打ちつけ、狂乱に満ちた行為を繰り返す。
どうしようもない。生きる場所なんてどこにもない。
「なら…死んだら?」
「!」
やさしく少女は語りかけた。単純で最も簡単な答えだ。
そうだ…死ぬべきだ。
右手がしっかりと大剣の柄を掴んだ。
生きていく場所も理由もどこにもない。むしろ、影は死ぬべきなのだ。
自分は存在を初めから拒絶されていたのだから。
徐々に、刃が首元に近づく。少女が不敵に笑ったが今となってはどうでもいい。
自分は生きてはいけなかったんだ。
「…影だったらどうしたんだよ……。どうでもいいんだよ、そんなこと」
理心の隣にはもう居れない。
「俺がそんなの気にするわけねぇんだよ!」
笑いあった日にはもう戻れない。
「助けていいのか?はっ、てめえが決めるもんじゃねぇ!俺が決めるんだよ!」
「な…!体がばらばらになるぞ!」
「…俺は馬鹿だから他人の言うことなんて信じられねぇんだわ」
「そう、僕は死ぬべきだ……」
「そいつはただの親友だ!過去なんてどうでもいい!今は…俺の親友なんだよぉ!!!」
まだ…死にたくなかったなぁ……。
「京!」
『……しかし、俺はもう死んでいる』
低音の言葉が深く体に震えわたった。
読んでいただきありがとうございました。
コーヒー―女の好物。砂糖を入れないブラックが好きで、京もその影響を受けている。
透明の液体―生命維持装置。
特注の糸―ワイヤーほど細くなった糸。強度に優れている。
指揮官型―京のこと。唯一人格を持った影。
女―京の管理者。死亡。
白髪の男―女の上官。
浮刃京―本来は影。来葉が殺す存在。自分の存在理由を探し、下界に。
香理心―ただの馬鹿。けどいい味出すんだよねぇ。
フードを着けた少女―糸を操れることが判明。性格は……見ての通りです。