今日だった
黒ずんでいた障子が随分と白んできた気がする。この両手がかすかだが見える様子からも朝が近づいているのだろう。締め切ったはずなのに光がこの部屋にも入ってきている。
私には…。
三度していた体育座りを腕できつく締め上げる。爪が彼女の肩に食い込む。特に長い中指の爪の先は肉を少し剥ぎ取り、皮膚からは血が滲み出していた。痛いだろうが不思議と感じてはいなかった。そんなことよりも必死で思考を張り巡らせる意識の方がはっきりしていた。いや、はっきりというよりは既に麻酔じみていた。
私が藤野ちゃんを…!
ぎゅっと目を瞑り心を闇に投じた。
『ねえ……』
「…!」
瞼の中には藤野がいた。はっとして目を開ける。ちょうど目の前で藤野はこちらを見て立っていた。いつもの制服を着て、立っていた。
『困っている人は放って置けないんじゃないの?』
藤野は笑顔で問いかける。生気の無い薄っぺらい笑顔で問いかけた。未稀は逃れるようにベッドの上で後退する。
『じゃあもっと早く私を迎えに来てほしかったな』
詰め寄る藤野。こつんこつんと靴の音が室内に響く。
「…あれは……」
『私が…悪いって言いたいの?』
「!」
彼女の脳裏に藤野が飛び降りた映像が重なる。あの悲しそうな顔が憎しみに歪む今の彼女と重なる。もう一度私は藤野ちゃんを殺してしまうのか。
途端、身を襲う恐怖でまったく体が動かなくなった。目が睨む藤野の目から離れなくなる。ばくばくと心臓の鼓動が頭でこだまする。
藤野がベッドに昇る直前で立ち止まった。そして―。
『…ま、私が悪いんだよね』
照れたような笑い声が頭の中で反響した。
『感情に流された私が未稀を殺そうとして…、あそこで理心副長が飛び込まなかったら私殺してたよ』
「……」
まるで別人だ。目からは殺意が微塵にも感じられない。未稀が知っている優しい藤野だ。
あっけに取られる未稀。藤野は音なくベッドに乗る。
『私は今でも未稀のこと好きだよ』
藤野がすっと手を伸ばす。未稀はびくっとしたが本能的に逃げようとは思わなかった。ぴたりと藤野の手が頬に触れる。
『だから…気をつけて、私みたいにならないように…』
「…え?」
『今回の事件……ゆ……いが…んにん……』
「…藤野…ちゃん…?」
藤野の声が電波の悪いラジオのように消えていく。
「藤野ちゃん!?」
*
―暗い部屋の風景が目に飛び込んできた。
黒ずんでいた障子は随分と白んできていた。自分の両手がかすかに見える様子から朝が近づいているのだろう。ということは締め切ったはずのこの部屋にも光が入り込んでいるということだ。
…どうやら寝てしまったみたいだった。寝起きの怠惰感もある。
だとすればさっきの出来事も夢。無情な切なさが胸にこみ上げる。
「未稀…」
扉の方から姉に声をかけられる。いつから立っていたか分からないが一部始終は見ていたようだ。心配そうな目をしている。
未稀は咄嗟に笑った。すると直ぐに姉も近寄りながら微笑んだ。
「…未稀。無理しなくていいんだよ」
「!?」
心情を見抜いたような物言いに未稀は驚く。
「未稀の癖だよ。相手が自分を心配してると思ったら直ぐに笑うところ」
有稀はベッドに座る。ベッドが少し揺れる。
「でも私たちは姉妹なんだから…気を使わなくていいんだよ」
未稀の中で切なさがあふれていく。現実として涙目となり、頬を伝った。
「…私…」
「何?」
首だけを向ける姉。その顔を認識すると決壊したように涙がこぼれ出た。言葉にならない涙声を上げ、姉の胸で大泣きする。つかえていたものがどっと流れ出るようだった。有稀は妹の肩を包むように抱き、優しく撫で始めた。
「…大丈夫。未稀は何も悪くない。未稀のせいじゃないから」
そのような言葉が何度も繰り返された。その度に心の奥底から安らぐ。張り詰めていた精神がほぐれる。
「…って言っても気にしちゃうよね」
切なく苦しく笑う有稀。ああそうだ。このひとは私の辛さを分かってくれる。気を使わなくてもいいのかな?
ふと有稀の視線が確認するようになった気がした。しかし未稀はなぜかその時気に出来なかった。
「…藤野ちゃんのために何かしたい?」
「藤野ちゃんの…ため……」
未稀はゆっくりと有稀の胸で頷いた。有紀が笑う。
「じゃあ…生徒長室の机の上にある紙を燃やしてこれる? アレがあると藤野ちゃんが苦しんだままだから……。楽にしたいよね…?」
優しい言葉に未稀が目を見て頷く。そしてクローゼットから無感情に制服を取り出す。
直後、開いていた廊下から差し込む光が徐々に細くなり、消えた。
*
朝。理心は生徒長室の前まで来るとおもむろに背中に手を突っ込んだ。暫く蠢き顔をしかめて右手を取り出した。
右手には赤褐色の糸。理心は糸をつまんだまま、生徒長室のドアに手をかけた。途端勢い良くドアが迫ってきた。
「ーっ!?」
必然、痛みが鼻に駆け巡った。少し涙目で鼻を押さえる理心。
直後、どん、と何かが胴にぶつかった。未稀だ。
「おい、どこいくんだ?」
理心が声をかけても彼女は振り向かず、急いで廊下を走り去っていた。
「なんだ…?」
廊下で一人鼻を撫でる自分。何か持っているようだったがよく見えなかった。理心は不審に思いながらも後姿見送り、生徒長室に足を踏み入れた。
「…災難だったな…」
ピクリと全身の毛が逆立った。一言で誰か理解し、ふつふつと嫌な感情が高ぶっていく。理心は声のした方へ向き顔を捉える。
忘れること無い。あの無感情な瞳をした少年を見た瞬間に、理心の右手は長剣を生み出し握っていた。
「…何のまねだ」
無感情な彼―来葉は抑揚無く問いかける。
「…京はどうした…」
理心の一言は対照的な押し殺す声だった。
言葉と長剣の小刻みな震えを見て、来葉は腕組む。
「俺も探している」
「探してる…? お前が京を連れて行ったんだろうが!」
怒号を放つ。蒼い長剣が鈍く来葉の顔を反射した。
「少なくとも向こうの世界は探しつくした。何らかの方法でこちらに戻ってきてると踏んだのだがな…」
「…お前…」
生徒長の机を挟んでいながら理心の感情がひしひしと伝わってくる。風船のように怒りと憎しみが膨れ上がりこちらを睨みつけている。
殺気までも匂わせている。来葉は気づかれないように制服の懐で二丁拳銃を作り出す。最悪の事態を想定する。
静まり返った生徒長室。ぎゅっという小さな音が聞こえた。次いで理心。
「…いや、なんでもない…」
それだけ言うと俯き長剣を消した。殺気は既に消失し、微塵も残っていない。
静かに来葉も呼応して拳銃を失った。
妙な距離感になったものだ。
「…どうした?」
暫くしてドアを開けるなり、綾平が中の雰囲気に疑問を持った。後ろの澪羅もきょとんとしている。
「何でもない」
理心と来葉が声を合わせ言う。
「…そう…」
それ以上言わないので、綾平もそれ以上聞くことは無かった。理心は手にしていた赤い糸をゴミ箱に捨て、来葉の向かいに座った。
「…あれ?」
澪羅が生徒長の机を見て言った。
「ここにあった紙は?」
紙とは昨日来葉が持って来たおまじないの紙のことである。来葉が抑揚無く答える。
「…未稀が持って行ったが? 理心に頼まれてと…」
「はあ? 俺知らねぇよ」
理心は食い気味に反応する。
沈黙。来葉はふと顎に手を当て、抑揚の無い声で呟いた。
「…そうか…今日なんだな…」
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