お役目と幸せ 其の三
やがて、お鳥と兵庫は長屋の前に戻ってきた。
兵庫は、一真と安次郎の身が心配でたまらなかった。
相手はかなりの手練れであり、安次郎もてこずっていた。
人数も二、三人ではなかった。
ひょっとしたら斬られているかもしれない。
兵庫は不安な思いを押し殺すように震える体を抑えながら木戸をくぐった。
激しい斬り合いがあったことは破れた障子や、戸口付近の土の荒れ方をみれば一目瞭然だが、そこには襲ってきた男達も、一真や安次郎たちの躯も転がっていなかった。
まずは安心した。
「お気を緩めますな」
お鳥は、兵庫の家の戸の前で構えている。
家の中はひっそりと静まり返り、戸は締め切ってある。
それだけではなく行灯の火が点っている。
一真達がいるとも、男達が待ち伏せをしているとも取れた。
お鳥は警戒心をさらに強めながら、戸口の前から中の様子を探った。
ふいに身をかがめ、匕首を構えながらタン、と勢いよく戸を開ける。
「お、びっくりしたあ!」
中から安次郎が驚いた声が聞こえた。
「安次郎、無事だったのか。よかったあ」
兵庫は涙を目にためながら、部屋の中へ飛び込んだ。
安次郎と一真は無事だった。
しかし、安次郎が怪我をしていた。
丁度、一真がその手当てをしてやっているところであった。
安次郎は、小さな刃物を手でもてあそびながら言った。
「無事じゃないよ。なんなんだよ、あいつら。小柄なんて投げてきやがった。腕を掠めただけだからよかったものの、当たり所が悪ければ死んでたぞ」
「俺がいなかったら、今頃死んでいた。小柄を投げる瞬間に気付いて刀で防いでやったんだ。これだけの傷ですんで儲けものだ」
そういいながら、一真はさらしの端をぎゅっと力をこめて結んだ。
その強さに安次郎は思わず「うっ」と顔をしかめた。
「だが、何とか連中を追い払うことは出来たぞ。何人かは覆面もはがしたから人相書きも描ける。人相書きが出たら奴らもおおっぴらに外を出歩くことは出来ないだろ」
ニイッと安次郎が得意げに笑った。
お鳥が二人の前に立った。
「怪我をさせてしまい申し訳ございません。あとから詫びを必ずいたしますゆえ」
きょとんとする二人を見て兵庫が付け加えた。
「お鳥さん、記憶が戻ったんだよ。公儀方の隠密だったんだ」
「そうか、よかったな」
一真は表情を変えずに言った。
しかし、兵庫には一真がいつもよりぴりぴりとしていることが分かった。
「一真、どうしたのさ」
兵庫は安次郎の傍に座って耳打ちをした。
「刀が折れたんだよ。小柄をかばった時にさ。ここのところ、なまくら刀に無理をさせすぎていたんだよ」
安次郎はこっそりと言ったつもりであったが、一真はギロリと安次郎を睨んだ。
「なまくらじゃない。そこそこ高かったんだ。俺は毎日の手入れは怠らないし、刀に無理させるような下手でもない。争いの後は必ず研ぎにも出す。お前たちなんかよりずっと刀を大事にしているんだ。小柄の小さい刃先が、運悪く刀の弱い部分に当たったからいけないんだ。大体、武士同士の争いの中で小柄を投げてくるなんて卑怯で汚いやり口だ。投げてくるなら最初からそのつもりで戦うさ」
うわあ、何かねちっこいぞ、と兵庫は思った。
安次郎も慌てて機嫌を繕う。
「で、でもさ。その後の脇差の腕がすごかったのな。俺、びっくりしたよ。一真が刀の使い手だって事は分かっていたけど、脇差のほうこそ名手だな。どこで習ったんだよ」
一真はまあな、と言った。
しかし一真は突然、戸口を振り返り声をかけた。
「挨拶もなしか」
その視線の先にはお鳥が今にも出て行きそうな格好で立っている。
「お鳥さん」
兵庫は、立ち上がった。
「お世話になりました。どうぞ、体を大事になさってください」
お鳥は兵庫を見ると少し微笑みながらそういい、頭を下げた。
背中の地蔵がちらりと見える。
「その中身は金か?」
一真が鋭い視線をお鳥に向けた。
お鳥は険しい顔になった。
「密命はけして人には言えません。中身を知ってしまえば、あなた方も無事ではいられませんよ。命は大事になさいませ」
「ふん。人を死ぬ目にあわせておいて答えられないとはな。義理も人情もお前たちにはもちあわせがないのか」
刀を折られて機嫌が悪いだけではない。
一真はお鳥を蔑むように見た。
「ええ。それが、公儀隠密の生き方ですから」
お鳥もまた鋭い目線を投げかけて外へ出て行った。