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      お役目と幸せ 其の二

証拠の品、それは地蔵だった。

この石造りの地蔵を江戸まで運べるのは怪力のお鳥しかいなかったのだ。


元也はこの日、勤めていた武家に地蔵が数体運ばれてくるところを見たのだ。

武家の主人は満足そうにそれらを眺めた後、裏庭に安置した。


今まで集めてきた情報や、その主人の様子に確信をもった元也は、そのうちの一体を姉の家まで運んだ。


「これで、俺はこの地にいられなくなった。このまま江戸に帰る。姉さんはこの地蔵をどこかへ隠して何食わぬ顔をしておいてくれ。目付け役には俺の替わりに誰かが来るだろうが子供が産まれてしまえばすぐに帰れるんだ。厳しい人が来ても耐えるんだぞ」

ずっしりと重い地蔵を畳に転がし、急いで旅支度を始めた。


そうして、元也が長屋を出て行った直後のことである。


元也が、表で話す声がした。

「あ、喜助兄さん。どうも。俺、この藩を出ることになって・・・」


親しげに話していた元也の声がだんだんと強張っていった。

不安を覚えたお鳥は、外の様子を伺いにでる。


「お前さん」

お鳥は外に立っているであろう夫に声をかけながら戸口から顔を出した。


途端に驚くべきものを見たのだ。


元也は匕首を構えていた。


喜助も、匕首を構えていた。


どちらも、ごろつきや渡世人のようなただ見せびらかすだけのような構えではない。

殺気漂う忍びのものの構えであった。


喜助は、お鳥も元也も全く気付かないくらいに熟練された藩方の隠密だったのだ。


「姉さん、逃げろ!」


お鳥は反射的に家に飛び込み、先ほど元也から譲り受けた地蔵を背中に背負うと、裏の障子を開けて逃げ出した。


逃げる背中で匕首の渡り合う音を二、三合聞いた。

その後、男の悲鳴が聞こえたが、そのときにはお鳥の駿足は随分遠くまで逃げることが出来ていたのだ。


罠だった、お鳥は思った。

この地蔵はわざとつかまされたのだ。

そして、功をあせっていた元也は若さゆえからか地蔵を無警戒に運んでしまった。


それを追っていたのは喜助だ。

喜助も意外だったに違いない。

まさか、自分の妻と義弟が公儀の犬とは思いもしなかったろうに。


お鳥は、町外れの森の中へ逃げ込んだ。

そして藪の中に倒れこむようにして身を沈める。


肩を激しく上下させながら喜助との生活を思い返す。

喜助も隠密であるならば、一緒に暮らした一年と少しの日々はお鳥のように仮面のようなものだったのだろうか。


だとしたら、滑稽だ。

愛し合っていない夫婦が大層愛し合っている振りをして、挙句に子供を作ってしまう。

幸せなんて一つもない。



突然、お鳥は激しい腹痛に襲われた。

気が遠くなりそうな痛みに、ただ事ではないと察する。


後悔が頭をよぎる。

身重だというのに思い切り走ってしまった。

弟か夫が死んだ、その悲しみのせいかもしれない。


いいえ、違う。

お鳥は痛みで朦朧とする頭でぼんやり思った。


私が。


私が、この子を任務の邪魔だと、考えてしまったからだ。

愛し合っていない夫婦の滑稽な子供だと思ってしまったからだ。


ごめんなさい。


ごめんなさい。


本心から思ったんじゃないのよ。


お願い。


生きていて頂戴。



お鳥は呻き声を上げて土を掻き毟った。


やがて血の匂いが漂い、小さな塊がお鳥の手の中に納まった。


「さようなら。私の寿限無」



お鳥は数日間、森の中で暮らした。

しばらく使われていないマタギ小屋があり、そこで流産の処置を行うととっぷりと疲れきってしまいしばらくは動けなかった。


動けるほどの気力と体力を回復したのは、江戸に帰る期日の間際であった。


お鳥は少しだけ金を持ち出していた。

こういうときに備えて、手形や金子は手離さない習慣ができている。

その金を使って旅支度を整えるとお鳥は地蔵を担いで急ぎ江戸へと向かった。


それは最初の関所を通過した直後であった。


道をふさぐように、二本差しの男が現れた。

喜助だった。


「あんたが、生きているということは、元也は死んだのね」

お鳥は、静かに言った。


「察しがいいな。お前も、隠密なんだろう。その背中の地蔵を返してもらおう。我が藩の秘事を幕府に漏らすわけには行かない」

そういって、お鳥に近づいてくる。


「あんたのせいで、子供が死んだ」


喜助は歩みを止めた。


恨みをこめた目を向けながら、お鳥は振り絞るような低い声を出した。

「あんたのおかげでもう失うものは何にもなくなった。残されたものは任務だけよ。だからこの地蔵は渡せない」


お鳥は素早く匕首を懐から取り出し、喜助の脇腹を襲った。


かろうじて、喜助はかわした。

喜助も身を翻すと刀を抜いて、お鳥を襲いにかかった。


しかし、お鳥の足は既に街道を逃げるように走っていた。


その足は重い地蔵を抱えているとは到底思えないほどのものである。

見る見るうちに喜助を引き離した。


遠目に喜助が数人の男と追ってくるのが見えたが、力も十分に戻っていたお鳥には逃げ切れる自信があった。



再び喜助の影が近づいたのは、江戸に差し掛かってからである。


お鳥は再びそれを撒こうとして、失敗した。

そして、兵庫の長屋の裏堀で喜助と向かい打つ。


短い匕首のみが頼りの戦いではあったが、お鳥の怪力もあわさり喜助の刀は圧されつつあった。

勝てる、そう思った矢先に草むらから別の討手が現われた。


お鳥は、現われた二本目の刀を匕首で受ける。


「江戸詰めの者か。かたじけない」

喜助は、安堵したように声を上げた。


おそらく藩の江戸屋敷にも敵方の隠密がいたのだろう。

お鳥に撒かれずにすんだのも、江戸に詳しい案内役がいたからと考えられる。


二人を相手にして、お鳥はがぜん不利になった。

足も体も疲れが見えていうことを聞かなくなっている。


喜助は、そんなお鳥の体に対して上段に構えた。

「お鳥、許せよ」

そういうなり、正面からお鳥に斬りかかった。


お鳥はそのまま堀に落ちたが、斬られた際にとっさに身を引いて致命傷は免れた。


地蔵の重みで水底に落ちるように着地すると、喜助達が去るまで、息を潜めた。


喜助達は、下流を見に行きその場をすぐ離れたが、お鳥には長く長く感じた。

切れ切れになる意識の中でやっと堀を抜け出し、傍にあった長屋の中へ入り込んだのである。




「兵庫さんの家に入ったのは疲れと痛みから朦朧として、昔住んでいた長屋の家と間違えたんでしょうね。木戸から二番目、向かって右側。私と喜助もそこに住んでいたの」


重い話に兵庫は言葉も出なかった。

お鳥は家族をいっぺんになくしてしまったのだ。


夫は今しがた晒し首として対面している。

大事にしていた子供も、弟も、もう、戻らない。


一真が、お鳥は過酷な人生を抱えているといっていた。

まさに、そのとおりである。


「兵庫さんに命を救ってもらえてよかったわ。私はこれで任務を遂行できるから」

くすくすとお鳥が笑ったが、それは兵庫と一緒に過ごした時よりも随分と乾いた笑い方であった。


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